城郭探訪

yamaziro

後藤氏館  近江国(八日市)

2016年03月07日 | 居館

ウッデイパル城郭フオーラム 講師:長谷川博美氏

  後藤但馬舘 佐生日吉城 北向観音 伊庭山城 北須田山城 石馬山城 見学会参加しました

門跡石垣 

お城のデータ

所在地:東近江市(旧八日市市)中羽田町   map:http://yahoo.jp/XBTctB

区 分:居館

現 状:田地・宅地

遺 構:土塁・堀・石垣・説明板

築城期:鎌倉期

築城者:後藤氏

標 高:111m 比高差:-

目標地:雪野山トンネル東側出口

駐車場:児童公園(神社御旅所)

訪問日:2016.2.20

後藤館跡

Ⅼ型の土塁 詰め城「雪野山城」・・・遠景

お城の概要

後藤館跡(滋賀県東近江市中羽田町)は、近江守護・佐々木六角氏の重臣・後藤氏の在地居館。
後藤氏の名は室町時代前期にあらわれ、六角氏の宿家の位置にあった。

後藤氏館跡は、周囲に基底幅約11m、高さ約3mの土塁を築き、その外に堀を穿った単郭構造の館跡で、東西幅、東辺の長さ約100m、西辺の長さ約120mの変形四辺形プランを呈し、西辺土塁の中央部に正門が存した(『現地案内板』)。

当時の在地領主の館は、非常時に備えて土塁、板塀などの防御施設が設けられ、敷地内には主屋、納屋、蔵、厩などの建物が存した。当館跡の建物配置は定かでないが、昭和56年の発掘調査で井戸跡、厠跡、柵跡などが検出され、その位置から主要な建物は敷地内北部中央付近に存したと推定される(『現地案内板』)。

六角重臣の居館跡ということだが、水田にぽつんと石垣と土塁が残る。しかし、大規模な遺構で、観音寺城と類似する貴重な史跡である。

歴 史

後藤 賢豊 は、戦国時代の武将。佐々木六角氏の重家。

生涯

主君である佐々木六角義賢の(「賢」の字)を受け、賢豊と名乗った。

賢豊の後藤氏と進藤貞治・新藤道賢盛の進藤氏は「六角氏の両籐」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。

永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務める。

永禄5年(1562年)、佐々木六角義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。

永禄6年(1563年)、佐々木六角義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。(後藤但馬守賢豊は六角義賢の信望を受けて権勢をふるったが、永禄六年(1563)義賢の子・義弼に謀殺された。)

これが観音寺騒動の発端となり、六角氏は家臣団の信望を失い、やがて織田信長に滅ぼされる。『現地案内板』

後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。

後藤高治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
後藤 高治(生年不明 - 17年天正(1589))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。別名に定豊、高安。通称は喜三郎。兄に後藤壱岐守。子に千世寿(後に蒲生三郎左衛門)。

生涯

 佐々木六角氏の重臣・後藤賢豊の次男として生まれる。永禄6年(1563)の観音寺騒動で父・賢豊と長兄・壱岐守が主君・六角義治によって討たれたため、後藤家の家督を相続する。その後は父・兄の仇として六角氏と敵対したが、永禄10年(1567)に和睦し、同時に六角氏式目に連署して義治の専制に歯止めをかけた。しかし永禄11年(1568)に織田信長の上洛で六角氏が滅亡すると、信長に降伏して臣従する。

信長のもとでは近江衆の1人として仕えた。天正6年(1578)に信長が安土で相撲大会を開くと、その奉行を務めた。天正10年(1582)6月に本能寺の変が起こると、明智光秀に与したために所領を追われている。後に蒲生氏郷に仕えた。

この蒲生氏仕官時代に「戸賀十兵衛尉」と名を改め(氏郷記)、九州征伐にも参陣している。天正17年(1589)、京にて死去。知行3000石は11歳の子・千世寿が継いだという(氏郷記)。

後藤氏

 藤原秀郷流の後藤氏(佐々木六角氏家臣の一族、後藤但馬守など)、伊達氏家臣の後藤氏(後藤信康、ただし信康は湯目氏からの養子)、土佐藩重臣の後藤氏(後藤象二郎)などが存在する。

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『ウィキペディア(Wikipedia)』、見学会資料 

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


最新の画像もっと見る