お城のデータ
所在地:蒲生郡日野町村井 map:http://yahoo.jp/p6omGx
現 状:畑地・竹藪
区 分:居館
築城期:織豊期
築城者:藤岡才六
遺 構:土塁・土壇・屋敷割・堀
標 高:139m 比高差:ー
目標地:滝の宮神社・佐川印刷の寮
駐車場:佐川印刷の寮の近くに駐車
訪城日:2016.3.28
お城の概要
仁正寺庁の西約500m西、往古日野川に突き出した河川岸に位置する。
現状は畑地・梅林・竹藪をなり、基壇や廓割が残るが、詳細は不明。
お城の歴史
大永3年(1523)蒲生氏が日野の地に日野を築城した。賢秀の代に織田信長の臣下となった。天正12年(1584)蒲生氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降廃城となった。
元和6年(1620)市橋長政が越後国三条より2万石で入封し、日野城(中野城)の一部に陣屋を構えた。元和8年(1622)、長吉に2千石分知し、慶安元年(1648)、市橋政信の弟政直に1千石分知し、1万7千石となった。文久2年(1862)仁正寺を西大路藩に改称した。
以降江戸時代を通じて、市塙氏は日野を離れる事もなく10代長和の代に明治維新を迎えた。
詳細不明だが、福円畑地蔵尊は、関ケ原の合戦(1600)の頃、この地住んでいた藤岡五郎平家初代佐右衛門宋悦翁「医者」の子 才六は百姓となり、尼寺「福円庵」の屋敷跡が荒廃していたのを譲り受け開墾していたところ、石地蔵を掘り出し畑の付近お堂を建てお祀った。才六は市橋氏が仁正寺藩主となって2年後元和6年他界した。
参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査1、「日本城郭体系」11,ウィキペディア
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