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城郭探訪

yamaziro

探訪【俊乗坊重の足跡を訪ねて~敏満寺と多賀大社(御田植祭)】 2013.6.2

2013年06月03日 | 探訪「大地の遺産」

平重衡の焼き討ちによって焼亡した東大寺の再建のため、全国を勧進してまわった重源ゆかりの寺社、多賀大社と敏満寺を探訪します。

多賀大社は戦国武将の信仰が厚い神社で、豊臣秀吉の寄進米によって造られた太閤橋(県指定文化財)や浅井猿夜叉(後の長政)が寄進者に名を連ねる梵鐘などが境内に残ります。

多賀道(高宮道とも)道標。中仙道高宮宿から多賀大社へ(高宮~小幡まで中山道、小幡~八日市~日野~土山まで御代参街道、土山」~東海道)・・・伊勢神宮と多賀大社を(東海道と中仙道の近道)結ぶ「親子街道」とし参詣者に利用されました。

敏満寺城跡(現在は名神高速多賀SA)

敏満寺は現在胡宮神社が建つあたりにかつて存在した大寺院で、織田信長によって焼かれたといわれています。名神高速道路多賀サービスエリア上り線北端の公園付近からは、虎口や土塁、石垣などの城郭遺構が発見されました。枡形状の虎口は戦国末期のものと思われ、織田信長あるいはその前の浅井長政との戦いに備えて築かれたものともいわれています。敏満寺についてはこちら

 

・銅製五輪塔(どうせいごりんとう)(国指定重要文化財)多賀町敏満寺
重源上人が、東大寺修復に感謝して敏満寺に贈った銅製五輪塔(鎌倉建久九年)
附紙本墨書寄進状(国指定重要文化財)

平重衡の焼き討ちによって焼亡した東大寺の再建のため、全国を勧進してまわった重源ゆかりの寺社。

太閤橋(たいこうばし)
太閤秀吉が寄進した米一万石により築造。祭礼の折、神輿が渡る。
高くなっているのは、表通りから拝殿が見えないように目隠しのためである。

 

この探訪ではこうした戦国武将たちともゆかりの深い寺社とその周辺の文化財を地元ボランティアガイドの案内で探訪します。

1.日時 平成25年6月2日(日) A班  9:30~15:00 B班 10:30~16:00
    近江鉄道多賀大社前駅集合・解散
2.行程
 多賀大社前駅集合→(敏満寺集落)→敏満寺遺跡・胡宮神社→エクサパーサ多賀(昼食)→多賀大社→真如寺→延命地蔵尊→多賀大社前駅解散
  歩行距離 約5km(平地 一部坂道あり)

協力
 多賀町教育委員会 多賀町産業環境課 多賀観光協会 多賀観光ボランティアガイド 敏満寺史跡文化保存会 

近江敏満寺跡(近江胡宮明神)

参考文献:「敏満寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006:(当ページの大部は左記参考文献による。)

近江敏満寺塔婆の概要

古代・中世には敏満寺三重塔(五重塔)、南谷西福院多宝塔西谷西迎院多宝塔の3塔があったことが文献で確認できる。

敏満寺の創建

聖徳太子、あるいは慈証上人、あるいは敏満童子などと云われるが、東大寺水沼荘と関係する敏満童子説が有力と云う。
しかし、確たる資料が無く不明とするしかない。
 ※敏満童子:三修上人の弟子、三修上人は9~10世紀初頭に、伊吹山寺を開基する。

中世の敏満寺

●「平等院坊下史」
敏満寺の確実な文献上の初見は天治2年(1125)「平等院坊下史」(「長史坊政所下文案」)と云う。

・「坊政所下文案」(『敏満寺目録』所収)
             大治二年(1125)三月
 坊政所下  平等院領
    敏満寺 限東山道、限南薦辻越、限西鳥居下相木大道、限北寺登路
 右件四至内在家敷地山林荒野等、依為 霊験之聖跡、 国衛之時不勤 公役 厳免己畢、成 平等院領 之後、
 任 旧例 同雖被 奉免 未賜 政所御下文 仍住僧 等任 申請 所 仰定 如件 座宜承知、依伴行之、故 下、
   大治二年三月 日公文大法師在判
                別当法眼和尚位在判
                   法橋上人 在判
                   大法師   在判

上記の「坊政所下文案」に敏満寺の四至が示されている。
「敏満寺小字図」で云えば、東は青龍山東麓、南は南谷・原田、西は大門池・現在の敏満寺集落、北は西谷・多賀道の広大な範囲であったと知れる。また当時は宇治平等院支配であったと推定される。
 敏満寺小字図:これは近世の小字図であるが、この小字から凡その古代末・中世の敏満寺の寺域を 知ることが出来る。
        この図のほぼ中央を南北に走る道路は名神高速道で、南は原田から北は西谷・高宮池(この池は近世のものと思われる)に至る
        高速道の左右(東西)敏満寺堂宇が立ち並んでいたものと推定される。
 胡宮神社境内絵図:近世のもの と云うも、現在行方不明と云う。
        但し、画像は不鮮明、図書の掲載の絵では全く解読不能。

●東大寺・俊乗坊重源
 ※東大寺再興大勧進重源とかなりの関係があったと推定される。
治承2年(1178)・治承3年及び寿永2年(1183)兵火で敏満寺焼亡。
文治3年(1187)本堂再建落慶、重源は再興本堂に藤原伊経の手書き額を掲げるなど、長期に関係があったとされる。
その関係の一つの例証として重源による「舎利」の寄進がある。
 建久元年舎利寄進状:重文・胡宮神社蔵

・「重源仏舎利寄進状」
         建久九年(1198)十二月十九日
 奉送    敏満寺
  東寺御舎利一粒 弘法大師請来
   金銅一尺三寸五輪塔内方二寸水精玉中奉納 以両面赤地錦裏之
  金銅蓮台之左羅一口
  同加比一支
  織物打敷一帖
 右以件仏舎利相具以前舎利可被安置当寺候、是真実之仏舎利也、不可有疑殆、若加偽言者必可堕妄語罪候、
 早重賢察可被致恭敬供養候之由可令伝申衆徒御中給候、恐惶頓首敬白、
   建久九年十二月十九日大和尚(花押)
 謹上 木幡執行御房

 金銅一尺三寸五輪塔:重文・胡宮神社蔵
  ※上記「金銅一尺三寸五輪塔」は京都国立博物館に寄託、多賀町立博物館に複製品があると云う。

●白河院舎利
 ※上記俊乗坊重源寄進の舎利とは別の舎利も伝わる。
「仏舎利相承図」(胡宮神社文書)が残る。
 仏舎利相承図
 仏舎利相承図テクスト
以上によれば白河院舎利は愛妾祇園女御、その妹の子平清盛(清盛は白河院の落胤とする)に伝えられ、その内の一粒は文永元年(1264)敏満寺に施入されたとされる。

●「敏満寺堂塔鎮守目録」(「敏満寺縁起」<元徳3年(1132)と云われる。>所収)
 ※中世には以下のように多くの堂塔鎮守があったと伝える。
敏満寺本堂は7間で、三重塔一基を具える。また塔婆として南谷西福寺多宝塔西谷西迎院多宝塔があったと知れる。
また鎮守 木宮両社(拝殿九間)もあったと知れる。

 
敏満寺堂塔鎮守目録:胡宮神社蔵:上図拡大図

                     
                                                           年月日未詳
注進 当寺堂塔鎮守目録所

 本堂 七問 本尊大日並観自在号     三重塔婆一基 本尊五皆如来
 如法堂 一宇三間               観音堂 本尊十一面
 常行三昧堂 三間四面 本尊阿弥陀    法華三昧堂 本尊丈六阿弥陀
 五大尊堂 不断護摩             千三昧堂 一間四面本尊阿弥陀
 食堂 本尊文珠                楽屋 七間
 一切経蔵 一宇三間             宝蔵 一宇三間
 楼門 一宇                   大湯屋 七間
 鐘楼 一基
 木宮両社 拝殿九間             新熊野十二所 拝殿五間          白山権現
 天満天神 北野                八大龍■
   南谷
 西福院 七間 本尊阿弥陀三尊并不動沙門  同多宝塔婆 一基 本尊五智如来
 観世音堂 七問 本尊十一面           同勧請(鎮)守十二所権現
 極楽寺 三間                    地蔵堂 一問四面
 権現堂 一間四面 同廊愛染堂         往生寺 本尊阿弥陀三尊
 上林寺 本尊文珠                 来迎寺 本尊阿弥陀
 光照寺 本尊阿弥陀                釈迦堂
   西谷
 西迎院 三間四面本噂何弥陀三尊      同地蔵堂 本尊千体地蔵
 同多宝塔 本尊尺迦多宝            仏上寺 本尊阿弥陀三尊
 谷堂 三間本 尊弥陀              地蔵堂 三問
 延命寺 五間 本尊阿弥陀           浄上寺 三間四面 本尊弥陀
 同大日堂                      同薬師堂
 同鐘楼                       同光寺 五間 本尊阿弥陀
 同方丈如法堂                   光明寺 一間四面 本尊不動弥陀
   尾上谷
 丈六堂 本尊丈六阿弥陀            同如法堂 三間
 西明寺 千体地蔵                西円寺三間四面 本尊千手
 観音堂 本尊十一面               同如法堂
 地蔵堂 本尊千体地蔵             権現堂
 大円寺 本尊地蔵                円性寺 本尊阿弥陀
   敏満寺目安写
 右大吉祥院僧正 良尊御代

●多賀社参詣曼荼羅
現在3種類の参詣曼荼羅が知られる。
その内の最も古いものと推定される「参詣曼荼羅1」

多賀参詣曼荼羅1敏満寺:左図拡大図
    :多賀参詣曼荼羅1敏満寺部分図(下図の破線部)

多賀参詣曼荼羅1:全図
    :絵図の破線部が敏満寺境内

「参詣曼荼羅2」

多賀参詣曼荼羅2敏満寺:左図拡大図

多賀参詣曼荼羅2:全図(色彩図):図の下部の伽藍が敏満寺境内

上掲:多賀社参詣曼荼羅2・・・モノクロ図(全図)、多賀社参詣曼荼羅2・・・色彩図(右部分図)

 ※参詣曼荼羅:多賀参詣曼荼羅は多賀明神及び中世敏満寺を描いた貴重な絵図で、
   敏満寺には三重塔(参詣曼荼羅1)もしくは五重塔(参詣曼荼羅2)があったと推定される。

中世末期の敏満寺

●「福寿院由来記」
  ・・・天正元年(1573)頃の敏満寺を記し、近世初頭の敏満寺の様子をうかがうことが出来る。
   ・・・寛政9年(1797)当時の住職祐仙が複写した文書と云う。
  戦国末の兵火以前の敏満寺については以下のように記録される。


一当山第一座之良吏を福寿院と号す、此と云ハ、
 一山の之(ママ)頭、孰(イズレ)れの坊か越之哉(コエンヤ)、此外当山を四流に分地ス、原田 南谷 西谷 北谷と云、
  原田の執行を
 宝寿寺 本尊釈迦如来 当山兵火の後、地福院住職移之、以降院号ニ改ム、後ニハ宝寿院といふ
  南谷の執行を
 世尊寺 本尊釈迦如来 慶長年中迄堂宇有之 俗に釈迦堂と云
  西谷の執行を
 西照寺 本尊中品中生の阿弥陀如来 江北淺井家之祈願所なり
  北谷の執行を
 無量寺 本尊阿弥陀仏 元和年中迄堂宇有之 俗ニ溝坊といふ
  右四ケ寺は四谷の執行と云、
  次二四政所と云院宇有之、
 地福院 本尊地蔵菩薩 ○原田組、居寺ハ本堂の西二有之、
 金剛院 本尊金剛賢菩薩 ○文亀之炎上以降無再造営、原田宝寿院此役を勤る
 延寿院 本尊普賢菩薩 ○西谷之内、俗ニ円中坊と云是也、元和年中迄院宇有之
 地蔵院 本啓地蔵菩薩 ○北谷組之内寺辻北側ニあり、元和年中迄院宇有之、唯今当院ノ本尊これなり
  右之四院政所役といふ、請 之命ヲ行之、
一八百八坊之内院号四拾四院、坊号壱百六拾四坊、合弐百八坊、俗上方万と云、加行密教伝法ス、
 右四拾四院之内、衆徒方之頭ニケ院、西光院 地蔵院之西 西福院 上同、

※敏満寺首座は福寿院であり、この山(寺院)は原田 南谷 西谷 北谷の四谷で構成され、各々執行があり、四政所を初め合計208坊から成ると云う。 いずれにしろ、大伽藍があったと思われる。

  その後、敏満寺の兵火による荒廃を記し、その直後の再興の状況を記す。
 

一当山堂宇坊舎、文亀三紀癸亥年三月十日之夜焼失す、其後佐々木六角屋形高頼朝臣再造之、寄附之領知ハ如元也、
一元亀三壬申年、信長公為兵火当山堂塔坊舎不残焼失す、自是寄附之領知を失ふ、此時原田塔頭ハ火難を遁ル、
 仍而本尊大日を奉始、原田宝寿院エ奉移、福寿院法印徳仙茂宝寿院へ再住す、
一天正元癸酉年三月、福寿院徳仙代院宇再造之、本尊大目如来茂福寿院江奉移、法印徳仙寺役等無怠慢勤行之云々、
 此時再造する坊舎ハ
福寿院 を始メ            世尊寺 南谷、俗ニ釈迦堂と云
延寿院 西谷                正覚院 西谷組之内、寺辻南側
遣迎院 西谷組之内仁王門ノ西ノ方  地蔵完 北谷組之内、寺辻北側
光明寺 本尊甘露王如来、滅罪所   西光院 地福院之西
西福院                    来覚完 麻生(傍注「アソウ」)玄人屋敷之北也、西谷組之内
束一坊 高宮三河守祈願所       慈光坊 磯野丹波守祈願所也
勝蔵坊                    中之坊 久徳左近太夫祈願所
仙蔵坊 北谷字風呂谷、○元和年中之住持祐仙(傍注「只今之小兵衛家之事也」)代二十ニ所権現官仕之当番也、
     仍而其以来祐仙家ニ代々此社地を所持ス、後二寛永十一年、大目殿天下之御造営二なる時ニ、
     彼社地を福寿院汪祐仙より寄附すと云々、
来鳳坊                    浄敦坊
浄泉坊                    明智坊
月定坊 風呂ノ谷之下、横道より与辻北側、高野瀬殿祈願所、北坂之音福ゆずりを受ル
蓮台坊 南谷                西蓮坊 北谷之内
浄観坊 南谷                高井坊 北谷ノ内
医王院 西谷ノ内字水船         教寿坊 平ノ衆徒守
本行房 西谷                常実房
福行房                    徳満房
浄法房                    音教房
福乗房                    祐徳房
乗円房                    乗満房
福純房                    来信男
徳円房                    休宗房 西谷
教園房
右之坊宇、兵火の後自分二再造之也、雖然寄附之所領を失ひし故、僧料無之、多くハ他山へ出立す、
或ハ耕作を事とし、還俗の身に下るも有、原田方は此度之火難を遁るといへ共、領知なき故法令不正、
我々になり、他山へ出立す、又ハ還俗す、相残テ先格寺法を正しく相守ものハ、福寿院・宝寿院ニケ院のミ也

※文亀3年(1503)焼亡・六角高頼が再興、元亀3年(1572)信長により焼亡、直後の天正元年(1573)長史福寿院初め多くの坊舎が (多少信憑性に欠けるきらいもあるが)再造されるも、当時は経済的基盤を欠き、終には福寿院・宝寿院ニケ院となる。
なお敏満寺衆徒方般若院・成就院は敏満寺を離れ、多賀社の被官を頼み「札売勧進の坊主」となると云う。

  「新谷氏伝譜系図」では永禄5年(1562)の淺井長政による兵火があったとする。
 

「新谷氏伝譜系図」
勝経 新谷伊豆守 敏満寺公文所
  神官職 家老 岡左衛門尉重元・北村三郎兵衛尉政常
永禄五年九月四日、久徳左近大輔実時叛江北京極殿御方、為江南観音寺城主六角左京太夫義実(賢カ)之味方、
依之、不移時中浅井備前守長政引卒八千余騎軍勢、押寄久徳城、数日攻戦、終突一城落去矣、仍敏満寺衆徒并神官等久徳之一味也、故浅井忽押寄敏満寺、于時衆徒等於惣大門前防禦之、及敗軍、浅井勝乗、直於院内坊合軍火、此刻味方学頭豊一坊・池之坊、
同学侶光満坊以下百弐拾之坊舎悉炎上、新谷伊豆守・同下司左衛門太夫・前公文出羽守、凡其勢八百余人皆戦死、
同九月五日、多賀大社諸伽藍倶炎上、神官坊舎悉破却、
此日新谷伊豆守負重疵、人山中自殺畢、
 法名 王台院殿公文照清禅定門
 妻 久徳左近大輔実時女 享禄元年正月十七日卒
                  智道禅定尼

勝虎 新谷越前守 
   神官 敏満寺公文所
敏満寺破却之刻、寺産宝物旧禄等散在云云、其身負重手、引退大君ケ畑村、保養疵全癒云云、浅井殿加憐愍、被召出、
如旧例神官職被申渡畢、永禄六年社頭遷宮、自浅井殿敏満寺門前・藤瀬・萱原三箇村寺領拝領、
永禄十一年九月廿日、平相公平信長公敏満寺四至封疆地除被仰渡、
天正元年九月四日、於佐和山城奉拝謁 信長公、則為社領賜旧領三箇邑、
同十七年佐和山城主堀左衛門督秀政殿之与力侍被申渡、此刻屋敷地免除、
  天正十九年正月十五日卒、法名岳照院宗観大禅定門
  妻 今村帯刀正息 法名 妙度禅定尼
  文様二年八月九日卒
(系線は省略)

※新谷氏は代々中世末期の「神官」「敏満寺公文所」であるとする。
永禄5年(1662)久徳左近大輔実時は六角氏に味方したため、淺井長政は久徳城に押し寄せ、落城させる。久徳に一味した敏満寺衆徒・神官も攻撃を受け、120の坊舎は悉く炎上、学頭以下800人が戦死、後日には多賀社も炎上、新谷勝経は自殺、子息勝虎も負傷する。
永禄6年3ヶ村の寺領受領、永禄11年信長、3ヶ村の寺領を安堵、


  「川瀬右近覚書」では元亀年中(1570-)織田信長により焼払われたとする。
     (これは多賀社にあった旧記を延享3年大神主川瀬右京が書写し、さらにこれを文化5年福寿院が写したもの)
 

(前略)
 一元亀年中織田信長公ヨリ使者長谷川大竹被参此地、社坊二万三千石御朱印有之段、
  此度織田氏公ヨリ御朱印書相改役参り申候間、別当三ケ寺江右之由被相達申候事
 一三ケ寺ヨリ坊中寄セ相談被致、坊中承知不致。織田氏江訴シヨウ申上ル事
 一織田氏大竹ヲ呼、今日胡宮三ケ寺ヨリ返事有之由可申人ル事
 一長谷川中々此度主君之蒙り(脱字アルカ)慰ニハ不被参トテ、森蘭丸江此由被申候事
 一松本伊勢丸又々使者二被参、先達長谷川使者二参リ候段承知無之故、此度織田信長公ヨリ主明(命)二付参リ申軟。
  双方坊中為方ニ相成様可被指上事弥承知不致事故、此段織田氏へ中上ルトノ事
 一社坊ニ持セ置候ハ何之ヱキ(益)有ン。此方へ取上ルト被申候事
  後ニ社坊焼被払候事
  坊中立退可申事
(後略)

※織田信長は敏満寺寺領23000石を改める動きに出るも、別当3ヶ寺(福寿院・宝寿院・神護寺)はこれを拒否する。再び信長の寺領改めの要求があったが 敏満寺は再度拒否、そこで信長は寺領を取り上げ、社坊を焼き払う処置に至る。

近世以降の敏満寺

永禄5年の戦火で本尊大日如来は西麓の宝寿院に遷座、慶長年中には礎石が彦根城普請のため運び去られると云う。
寛永年中徳川家光は胡宮明神の造営を行い、大日堂が再建・本尊は帰座する。
また元敏満寺の塔頭であり既に多賀大明神の社僧となっている般若院・成就院は、多賀明神年中行司には、両院が多賀明神に出張して執行する形態であったと云う。
近世には敏満寺長史福寿院が再興され、胡宮明神を付属させ、明治維新まで存続する。(福寿院は社務所として現存する。)
現在、大日堂および観音堂、胡宮明神、福寿院(現社務所)が現存し、境内には、天台の大寺であった時代の敏満寺金堂礎石・仁王門跡などを残す。
観音堂:寛永15年(1638)造営、元禄12年(1699)修復、寛政9年(1797)頃<福寿院別当声海代>現位置に移転 。
大日堂:寛永年間、徳川家光の大造営により再建。

 2001/10/07撮影:
 近江敏満寺金堂跡:境内には礎石と金堂跡碑が残存する。
 近江敏満寺仁王門跡:以前から礎石5個が露出していたが、発掘調査の結果12個の礎石を持つことが判明、
            瓦の出土が無く、檜皮葺等と想定される。遺跡上部の構造物は名神高速道高架橋。

敏満寺跡はその中心に名神高速道路が建設され、多くが破壊されたと云う。
青龍山の頂上付近には、「岩磐」があり、その麓には13世紀~16世紀の「石仏谷遺跡」がある。
また中世末期には、敏満寺も武装し、それを物語る敏満寺城の遺構が発掘される。
 敏満寺城遺構図

 

 

 

 


天武・持統陵「5段八角形」 天皇の支配力、視覚化?・・・毎日新聞

2013年05月27日 | 探訪「大地の遺産」

野口王墓古墳:天武・持統陵「5段八角形」 天皇の支配力、視覚化?−−宮内庁公表

毎日新聞 2013年05月25日 大阪朝刊

1961年調査の資料写真にある野口王墓古墳の切り石。八角形の角度に合わせて並べられている=牽牛子塚古墳発掘調査報告書より
1961年調査の資料写真にある野口王墓古墳の切り石。八角形の角度に合わせて並べられている=牽牛子塚古墳発掘調査報告書より

 天武・持統天皇合葬陵とされる奈良県明日香村の野口王墓古墳(7世紀後半)について、宮内庁が過去の調査を基に「5段構造の八角形墳」と結論付けた報告が、村教委が24日発表した「牽牛子塚(けんごしづか)古墳発掘調査報告書」に掲載された。天皇陵は7世紀中ごろから八角形墳が採用され、野口王墓も文献などから八角形とされていたが、宮内庁が調査結果を公表するのは初めて。【矢追健介】

 陵墓は原則として一般の研究者は調査できない。野口王墓古墳が1235年に盗掘されたと記した文献「阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)」には、「八角形」との記述があるが、全体像は分かっていなかった。近年、情報公開請求が相次ぎ、福尾正彦陵墓調査官が斉明天皇陵と確定的になった牽牛子塚古墳の発掘調査報告書に論文を寄稿した。

 福尾調査官は1959年と61年に行われた宮内庁の現況調査と、奈良県立橿原考古学研究所の所長だった故・末永雅雄氏らによる75年の立ち入り調査などを基にまとめた。

 それによると、野口王墓は、墳丘の測量結果などから5段構造の八角形と判明した。高さは全体が約7・7メートル、最上段は他の段の倍の約3メートルあり、墳丘全面に加工した凝灰岩を貼り付けてストゥーパ(仏塔)のように見せていたと分析。最下段の1辺の長さは約16メートルあり、その周囲に幅約3メートルの石敷きがあったと推測した。

 大王墓は6世紀までは前方後円墳や方墳だったが、7世紀に即位した舒明天皇(天武の父)から八角形になったとされる。中国古代思想や国土の四方八方を天皇が支配するという思想を視覚化したという説などがある。

 舒明天皇陵とされる段ノ塚古墳(奈良県桜井市)や天智天皇(天武の兄)陵とされる御廟野(ごびょうの)古墳(京都市)は墳丘の八角形部分が2段で、大型で色の異なる岩が使われている。大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長は「切り石で全面を化粧しており、それ以前にはない形式が、天武天皇から始まったことが分かる。古墳の変遷を考える上で重要だ」と評価した。報告書は1冊6300円で25日から販売される。問い合わせは明日香村地域振興公社(0744・54・4577)。


穴太衆積み石垣

2013年01月30日 | 探訪「大地の遺産」

穴太衆積み石垣

あのうしゅうづみいしがき

穴太とは、大津市坂本付近に今も残る地名。室町時代の末頃、この地に居住し、延暦寺の土木営繕的な御用を勤めていた人々は「穴太衆」と呼ばれ、織田信長の安土城を始め、江戸時代初期、各地の石垣普請に従事した。大小の整形していない自然石を巧みに積み上げたもので、堅固に積むことから、城の石垣などに利用されたという。延暦寺の門前に開けた坂本の町には、同寺の里坊が点在しているが、その町並み景観を特色付けているのが、この穴太衆積み石垣である。市指定史跡。

http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/jiten/data/050.html


【探訪】 八幡堀・城下町・街道 2012.12.22

2012年12月27日 | 探訪「大地の遺産」

八幡城下町(古地図)日牟礼八幡宮楼門綺麗な、お姉さん…「近江牛うどん・そばの市」の勧誘ハンドビラを!八幡掘りの説明板白雲館(現在は観光案内所)          明治10年に八幡東学校として建築された白雲館は、当時のお金6千円で設立されたもので、貴重な擬洋風建造物です。近江商人が子どもの教育充実を図るためその費用の殆どが寄付で賄われました。
現在は観光案内所が設けられ観光情報の提供や、お土産や特産品も展示販売されています。また、2階フリースペースでは、市民ギャラリーとして各種催しが開催されています。
{白雲館の歴史}
明治10年 建築落成
明治26年 本校舎新築のため学校の役割を終える
明治28年 八幡町役場
明治33年 蒲生郡役所
大正11年 建物の一部が八幡町信用組合が使用
大正11年 蒲生郡役所新築移転
大正12年 再び八幡町役場になる
昭和26年 電報電話局、食料事務所八幡出張所、
昭和41年 民間所有
平成 4年 近江八幡市に移管
平成 5年 修理工事着工
平成 6年 修理工事完成(明治期の姿を復元)                                                                   平成10年 登録文化財

日牟礼八幡宮の大鳥居


近江商人の町(街角に沢山立ってます)八幡山城祉、左の平坦地に出丸八幡掘り赤のたにん(丼・赤コンニャク×赤い肉?)

城下町の建設・整備については秀次には自由都市構想とでも言うべきなのでしょうか、織田信長の楽市楽座に見ることのできる「定、安土山下町中」十三箇条の掟書きを模して「八幡山下町中」十三箇条の掟書きを定めました。内容はほぼ信長のものと同じです。

が、
この掟書きに合わすように秀次は全長6kmの運河「八幡堀」を建設しています。つまり水上交通を利用するものはすべて八幡の町に入ることを定め、陸路を通る者も八幡を通ることを義務付けています。八幡山城祉、左の平坦地に出丸新町浜(秀次掟書きに)夢菓子!ポン菓子!(新浜湊の正面で)

 

排水路の石積が残っています。

 

 

 

 

 

 

 

国内唯一の瓦専門の展示館。館内は八幡瓦を中心に展示紹介を行っています。建物も、瓦の魅力を生かしたもので大変好評です。また、瓦粘土を使った陶芸教室も開催されています。

空から見たかわらミュージアムの写真

~八幡瓦の起源についてみると、城郭建築に瓦の生産が大きく関与しているとするならば、豊臣秀吉の命によって豊臣秀次が天正13年(1585)に築城した「八幡山城」にその淵源を求めることができる。八幡山城の築城において、当然瓦を葺いた瓦工の存在を指摘することができるが、現在のところ瓦銘が残るなど資料的には確認できていない。「近江八幡市史」より抜粋~

  瓦と八幡を考えるとき、開祖豊臣秀次が築城した八幡山城を抜きには語れません。当館は八幡堀沿いに建つミュージアムとして、豊臣秀次居館跡より出土した金箔瓦や軒丸瓦を展示しております。

 秀次が八幡山城を築城した際、整備した八幡堀を利用して、瓦の製造も栄えました。江戸時代八幡瓦で葺かれた寺社は市域だけでなく、他所にも多く見られます。江戸時代の鬼瓦や瓦人形から当時の職人の技術、芸術性の高さをご覧いただくことができます。

 それ以降は地場産業としての瓦製造が展開されます。八幡堀沿いに数多く操業していた各工房、製作所の鬼瓦を展示しております。鬼面だけでない子孫繁栄の意味を込めた桃、商売繁盛の大黒さんなど、鬼瓦から日本人の心の豊かさ瓦職人の遊び心を感じていただくことができます。

 瓦の製品や道具、何より瓦職人の技術や思い、誇りを後世に伝えるため当館が建設されました。周囲の町なみに調和した建物も「展示品」のコンセプトのもと、新しい瓦の使い方、古瓦の再利用などを考えていただける場として、『あたらしいに出会える場所』として、八幡瓦を未来へ繋げていく展示、事業を行っています。

 又、当館周辺の旧市街地は、商家の町なみが国の「伝統的建造物群保存地区」に選定されており、古い町なみを守りつづけています。その町なみをかたちづくる重要な要素のひとつにいぶし瓦の屋根並があります。町なみだけでなくそれを形作る要素を生み出した技術も保存し、体系として町なみを捉え、これからのまちづくりに活かしてゆくことも本館の使命のひとつです。


聚楽第の石垣、東西に32メートル 自然石で勾配

2012年12月23日 | 探訪「大地の遺産」

聚楽第跡本丸南端で東西32メートルにわたって見つかった石垣(21日午後2時半、京都市上京区上長者町通裏門東入ル)

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは21日、京都市上京区の聚楽第跡で、本丸南端の石垣を東西計32メートルにわたって確認した、と発表した。徹底的に破壊されたと伝わる豊臣秀吉の聚楽第の遺構が大規模に残っていたことになる。自然石のみで積み上げた石垣の整った形からは当時の高度な技術もうかがえる。

 調査地は聚楽第本丸の南端。10月に石垣の一部(約7メートル)が見つかり、さらに東側に掘り進めていた。石は約70個あり、全て切り割りしていない自然石。墓石などの転用石はない。比叡山周辺か大津市・田上山が産地と考えられる。石垣表面は約55度の緩い傾斜できれいにそろっていた。

 石の一辺は約0・7~1・5メートルで、大手門があったとされる本丸南端の中心部へ向かって、順に大きな石が使われていた。「大手門を通るときの見栄えを意識して積んだのではないか」(同センター)という。残っていたのは3、4段分で本来の高さはわからないが、最も高い場所は約2・3メートルだった。

 石垣と背面の土の間には、水はけのために「栗石」という細かい石が敷き詰められていた。石垣に詳しい金沢城調査研究所の北垣聡一郎所長は「秀吉が築いた大坂城の石垣には転用石が使われていたが、聚楽第は自然石のみで勾配をそろえ、美しい。秀吉の権威を示したのだろう。同時代の石垣研究の基準になる」としている。

 24日午前10時~午後3時に現地説明会を行う。現地事務所携帯電話090(9613)4694。

■聚楽第(聚楽城) 安土桃山時代、関白となった豊臣秀吉が政庁兼邸宅として、大内裏跡で1586年に着工し、翌年完成。秀吉の威を示す豪華絢爛(けんらん)な造りだったとされ、後陽成天皇が行幸した。おいの秀次に譲ったが、秀次の追放と切腹後、徹底的に破壊したとされる。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121221000175


【探訪】「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」 2012.12.15

2012年12月18日 | 探訪「大地の遺産」

 瀬田唐橋は『日本書紀』にも登場する古代からの有名な橋です。歴史的には「瀬田橋」「唐橋」「長橋」などと呼ばれてきました。

琵琶湖大橋や近江大橋が出来る以前は、琵琶湖・瀬田川の東西を結ぶ唯一の橋であったことから、瀬田地域には古代近江国の政治の中心として近江国庁や近江国一ノ宮(建部大社)が営まれる一方、壬申の乱(672年)や源平合戦(1180~85年)、また本能寺の変(1582年)の後の攻防など、多くの戦いの舞台ともなりました。

 出発式

明治天皇鳥居川小休所址・・・黒の扉の中を覗いてみたい! 

江戸時代看板?江戸時代の石山の街道筋(選挙ポスターが!)

 

石山から、勢多の唐橋(唐茶に塗り替えで綺麗)中之島の句碑  中之島から草津方面中ノ島の唐橋から琵琶湖側に、俵籐太(藤原秀郷の「むかで退治」伝説が・・・)

唐橋を渡る(琵琶湖側、車道渋滞、歩道は無人)

唐橋の下流側から、対岸の摸細工・・・俵籐太

 

太平記巻第二「俊基朝臣再関東下向事」

落花の雪に踏み迷ふ、片野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮れ、
........中略..........
憂きをばとめぬ相坂の、関の清水に袖ぬれて、末は山路を打ち出の浜、沖を遙かに見渡せば、
塩ならぬ海にこがれ行く、身を浮き舟の浮き沈み、駒もとどろと踏み鳴らす、瀬田の長橋 打ち
渡り、行きかふ人に近江路や、世のうねの野に鳴く鶴も、子を思ふかと哀れ也。


元徳三年(1331)蔵人右少弁日野俊基卿が、幕府打倒の企てが露見して、鎌倉へ送られる時
の道行きである。
片野の春の桜狩りは大阪の交野の桜を詠んだ藤原俊成の次の歌をふまえて
いる。

明治29年9月23日・・琵琶湖大洪水の時の水位!!!(現在の湖面より5m位高い!)

明治29年(1896)は雨がたいへん多く、1月から8月までの雨量は、平年の一年分に相当する1637ミリを記録していた。

9月になると、寒冷前線が台風の接近によって活発化し、彦根では9月7日から8日までの24時間で、684ミリという未曾有の豪雨となった。

鳥居川の量水標も、平常時が83センチのところ、約4.1メートルに増水し、琵琶湖周辺の各地が冠水、甚大な被害が出た。

写真は、大橋堀の東側、現在の浜町付近の被害状況。子供の腰のあたりまで増水しているのが見える。写真は、大津市内川口町(現浜大津二、三丁目)の被害状況を撮影したもの。写真の場所は、川口町(現浜大津二、三丁目)。住民は蔵の屋根に上って避難し、舟で往来している様子が分かる。

夕照山 西光寺・・・船着場前・・・近江八景「瀬田の夕照」

織田信長が、現在の位置に瀬田(勢田)の唐橋を架けるまで、約100m上流のこの位置。唐橋が掛かっていて・・・橋本町の町名は、現在も使われている。

旧街道・・・東へ行けば建部大社へ

湖面から唐橋を

俵藤太

(別名:「田原藤太秀郷」 「藤原秀郷」)

 

 歩道に、「むかでの図柄」 

歩道に、「むかでの図柄」 

 

膳所城主、本田家(徳川の縁籍)の家紋【立ち葵】

 

瀬田城址に、マンションが!

エンコ(100m地下から湧水・・・多分湖南アルプスの伏流水)エンコ、鉄分を含んでキノコ旧東海道!

たにしあめ(飴の形がタニシに似ている)、味は昔の飴。

 

建部神社へ

 

 

今上天皇お手植えの松(大正)

 

今上天皇お手植えの3本杉(昭和56年)

 

 

宝物殿のお宝 

 

 

 

 

 

 

【滋賀県歴史探訪】:Eコース歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」探訪記 INDEX

本日の歩数 17,897歩   2時間50分    12.5km
消費カロリー 759.4kcal    脂肪消費量 108.4g
 
 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!


 佐々木六角氏の家紋考察

2012年12月11日 | 探訪「大地の遺産」

歴史研究・報告
 

 佐々木六角氏の家紋考察

 佐々木六角氏(以下六角氏)の家紋は、現在沙沙貴神社の神紋である「七ツ割・平四ツ目結」と認識していた。
しかし、平成22年度、第2回見学会において、六角氏の家紋は「隅立て四ツ目結」である、との提案がなされた。
さらに、滋賀県教育委員会事務局文化財保護課が主催されている連続講座「近江の城郭‐六角VS織田‐」の各回修了証でも「隅立て四ツ目結」が使用されているのでどちらが正しいかを考察してみた。

                
            隅立て四ツ目結                平四ツ目結
結論としては、確実な史料がないため断言はできないが、「隅立て四ツ目結」の可能性もあると思われる。

「目結」のユイはもともと「結ぶ」の意味である。また、「目結」のメは「間」のことで、タテ、ヨコの交線の間にできた空間、即ち穴である。布地をつまみ、糸を結んで絞り染めにすると回のような目ができる。このカタチを散らしたり、並べたりしたものが、「〇〇目結」と呼ばれている。
目結を家紋として用いたのは、「源平盛衰記」の義経院参の条に、佐々木高綱が三ツ目結の直垂(ヒタタレ)を着ていたとある。その後、目結紋が近江源氏の代表家紋になっていることをみると、模様から家紋に定着していたのではなかろうか。
もっとも、この模様は鎌倉時代には流行していたから家紋に採用したのは佐々木氏だけではなかった。「蒙古襲来絵詞」によると、九州の武士竹崎氏が「三ツ目結に吉文字」、少弐氏が「四ツ目結」を用いている。
室町期の『見聞諸家紋』(室町八代将軍・足利義政の頃にまとめられた家紋集で、『永正幕紋』『足利幕紋』などとも呼ばれている。)には佐々木氏は隅立て四ツ目結とある。

      
これのみを見ると、六角氏の家紋は「隅立て四ツ目結」であったといえる。
ところがこの図の傍書きに、宇多源氏、「佐々木大膳大夫」「入道生観」とある。「大膳大夫」は官位名で、六角氏の中でも「満綱」(1401~1445)、「高頼」(1462~1520)が名乗っているが、「入道生観」を名乗るのは佐々木家の中でも京極持清(1417~1470)で官位は大膳大夫である。
このことからは、京極氏の家紋が隅立て四ツ目結ということになる。『見聞諸家紋』の著された足利義政の在位期間(1449~1473)からも京極持清の家紋の可能性は高いといえる。京極持清は応仁・文明の乱では東軍に属し、その功績が認められ、文明元年に近江守護職に補任された。
一方で、佐々木京極氏は江戸時代まで続く家柄で、その家紋は「平四ツ目結」であることは明確である。
六角氏や京極氏は都におけるそれぞれの屋敷地名から起こった名称であり、京極家ではあるが、あくまでも佐々木京極家であり佐々木氏として見なされていたのではなかろうか。
そうであれば、京極持清の守護職も名目上は佐々木氏としての守護職といえる。この時点では、六角氏、京極氏ともに隅立て四ツ目結であったことも考えられる。
六角氏滅亡後に、京極家が平四ツ目結を家紋としたすれば辻褄が合う。京極家が江戸時代まで大名として存続し、家紋は平四ツ目結であることは史料や丸亀城の瓦からも証明されている。
反面、六角氏が滅びたため家紋が隅立て四ツ目結であったという結論は出せないが、可能性はゼロとは言えない。
では、なぜ沙沙貴神社の神紋が「七ツ割平四ツ目結」なのかという疑問が残る。『系譜伝承論‐佐々木六角氏系図の研究』で佐々木哲氏は、
江戸時代の天保14年(1843)丸亀藩主京極家によって再建されたときに、京極家の紋平四つ目結紋に替えられたと考えられます。
とされている。
また同誌では上杉本洛中洛外図で見られる四つ目結は、隅立てです。(下図)とも描かれている。

          
                          上杉本 洛中洛外図
これが正しいとすれば洛中洛外図が描かれたとされている永正年間から永禄年間当時は四つ目結は隅立てが使われていて、両家とも佐々木氏として隅立て四ツ目結を用いていたと推定される。
従って、この時期おいては佐々木氏両家とも家紋は「隅立て四ツ目結」であり、その後、六角氏は「隅立て」に、京極家は「平」となった可能性があるといえる。
平成22年度、第2回見学会において、佐々木六角氏の家紋は「平四ツ目結」と申しましたが、「隅立て四ツ目結」であった可能性があると訂正させていただく。なお、これに関するご意見などがあればご教示をお願いします。


参考資料
丹羽基一『家紋大図鑑』 1971 秋田書店
鈴木亨 『家紋で読み解く日本の歴史』 2003 学習研究社
佐々木哲『系譜伝承論‐佐々木六角氏系図の研究』  2004 思文閣出版

                                                   (日吉)

http://ohmikairou.org/col115.html

 


【探訪】平家終焉の地・源義経ゆかりの地を訪ねて  2012.12.8

2012年12月08日 | 探訪「大地の遺産」

 

篠原駅10:00集合で、滋賀県文化財保護課の【探訪】平家終焉の地・源義経ゆかりの地を訪ねて。

滋賀県文化財保護課の担当K氏、課長・案内の野洲市の文化財保護課の挨拶・紹介後・・・

篠原駅をスタート

善光寺川は、天井川火伏の神【愛宕山】御神灯

家紋「丸に隅立て四ツ目結」鏡山古墳

 

野洲(やす)市は平家が果てた最期(さいご)の地です

平安時代末期、壇の浦の合戦で平家一門が滅ぼされ、一門の大将・平宗盛(たいらのむねもり)と息子清宗(きよむね)が鎌倉から京都へ送り返される途中、近江篠原(おうみしのはら)で斬殺されました。


 現在、屍(しかばね)を埋めたとされる宗盛・清宗親子の墓標がひっそりと立っています。「平宗盛卿終焉之地」と刻まれた石碑と石仏は、長い間にわたる風雪の浸食でわびしい雰囲気が漂っています。

 また、墓の向かいにある池は、宗盛と清宗親子の首を洗ったという宗盛首洗池ですが、蛙が哀れを感じて鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれます。

 

 

 

 

 西光寺跡地のお堂に祀(まつ)られている石の仁王尊で、そのうちの一体は、昔、山崩れの際に地下に埋没されたといわれています。
昔から「足の病を癒してくださる」と言い伝えがあり、毎年7月に開かれる千日会(せんにちえ)には、草鞋(わらじ)をお供えする風習があって平癒(へいゆ)を願う参拝者が今も絶えません。

 

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

伝教大師(最澄)建立の西光寺跡にそっとたたずむ。

観音像の夢のお告げにより、伝教大師が鏡山十二峰の一つ星ケ峰の麓に「西光寺」を建立されました。源頼朝(みなもとのよりとも)や足利尊氏(あしかがたかうじ)も泊まったといわれている古刹です。康平(こうへい)2年(1060)の乱で一山焼亡し中興されましたが、信長の兵火(1571)で廃寺となります。
その名残をとどめているのがこの宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、記念宝塔として昭和35年2月に国の重要文化財に指定されました。塔の高さ210cmの堂々としたもので笠石の下の塔身の周囲は180cmです。2段の基壇を築き、その上に孔雀の向かい合っている格挟間を彫った基礎を置き、塔身、笠、相輪を積み重ねています。また、石の角に梟(ふくろう)の彫刻は、あまり例のない塔であるといわれています。
大正三年、東京帝室博物館(国立博物館の前身)の高橋健自(たかはしけんじ)氏に「他に類をみない逸品である」「この塔を見ずして他の宝篋印塔を語るなかれ」と言わしめたほど。鎌倉時代後期1300年頃の作。

 

珍しい背の高い灯籠

西光寺の鎮守、八柱神社(やばしらじんじゃ)の社宝で高さが2.8mもある背の高い灯篭です。
裏面に「応永(おうえい)28年8月8日(1422)願主敬白」の刻銘があり、室町時代初期の作とされます。
願主は不明。
当時の様式の多くは、丸柱の中央に周帯を有するものですが、この八角柱の灯篭は特に珍しく、また笠を持ち火袋には四仏が彫られていて誠に優美な意匠を凝らした背の高い灯籠です。重要文化財。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時は茅葺きの屋根でしたが、台風で壊れ、烏帽子屋五郎大夫の屋敷は廃絶し民家裏の竹藪になっている。

承安4年3月3日に鞍馬山から逃れ奥州下向の途中、鏡の宿に着いた牛若丸一行は、当時宿場の長であった澤弥伝の「白木屋」の旅籠に泊まり。追手の目を欺くため、急ぎ髪を切りただひとりで元服することを決意した牛若丸は、源氏の左折れ烏帽子を、烏帽子屋五郎大夫に折ってもらい、それを冠して元服し源九郎義経となった義経の誕生の地です。

 

中仙道 古地図・・・・鏡山宿~日野川~武佐宿へ

【滋賀県歴史探訪】:Aコース 「平家物語・祇王祇女と源義経のゆかりの地を訪ねて」探訪記 INDEX

本日の歩数   10,781歩   1時間39分    7.5km

消費カロリー  431.6kcal    脂肪消費量 61.9g

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白洲正子(しらすまさこ)の愛した近江

2012年12月07日 | 探訪「大地の遺産」

白洲正子(しらすまさこ)

随筆家。小林秀雄や青山二郎など一流の文化人と交流しながら、日本文化全般に関する随筆を執筆。能の世界と生涯を通じて向き合った姿勢に、様々な美を見抜く眼の根源があった。

略歴

1910(明治43)年: 0歳
1月7日 樺山愛輔の次女として生まれる。
1916(大正5 )年: 6歳
能を習い始める。
1924(大正13)年:14歳
夏、能舞台に史上初の女性として立つ。アメリカに留学。
1928(昭和3 )年:18歳
帰国後、白洲次郎と出会う。
1929(昭和4 )年:19歳
白洲次郎と結婚。
1931(昭和6 )年:21歳
長男・春正を出産。この年から数年間、毎年ヨーロッパに出かける。
1935(昭和10)年:25歳
河上徹太郎と知り合い、河上の紹介で、小林秀雄、青山二郎、今日出海らの文士と交流を持つ。
1938(昭和13)年:28歳
次男・兼正を出産。
1940(昭和15)年:30歳
長女・桂子を出産。
1943(昭和18)年:33歳
東京空襲を機に、鶴川の家(現「武相荘」)に移り住む。
1946(昭和21)年:36歳
青山二郎と出会い、骨董に没入する。
1953(昭和28)年:43歳
能面を求めて各地を旅するようになる。この旅が後年の紀行文を生むきっかけとなる。
1959(昭和34)年:49歳
秋、ペルシャ、スペイン、ハンガリーを旅行する。能の免許皆伝を授かる。
1964(昭和39)年:54歳
「能面」で第15回読売文学賞受賞。西国三十三ヶ所観音巡礼の旅に出る。
1969(昭和44)年:59歳
「かくれ里」を「芸術新潮」1月号より約2年間連載。取材のため毎月、京都を拠点として近畿一円の村里を訪ね歩く。
1972(昭和47)年:62歳
「近江山河抄」を「芸術新潮」8月号より10回連載。「かくれ里」で第24回読売文学賞受賞。
1978(昭和53)年:68歳
「魂の呼び声-能物語」で、児童福祉文化賞受賞。
1985(昭和60)年:75歳
11月28日 夫・次郎死去。
1987(昭和62)年:77歳
白内障手術のため入院。
1991(平成2)年 :80歳
日本文化の継承・発展につくした功績により、第7回東京都文化賞受賞。
1998(平成10)年:88歳
12月26日 肺炎のため入院先の病院で死去。
 

http://www.biwako-visitors.jp/shirasu/area/

広域エリア

広域エリアモデルコース<map name="Map8"> <area shape="rect" coords="51,0,73,163" href="../area/spot01_04.html" /> <area shape="rect" coords="102,0,126,163" href="../area/spot01_03.html" /> <area shape="rect" coords="205,0,228,163" href="../area/spot04_03.html" /> <area shape="rect" coords="257,0,279,163" href="../area/spot04_04.html" /> <area shape="rect" coords="306,0,332,163" href="../area/spot04_05.html" /> <area shape="rect" coords="360,0,384,163" href="../area/spot04_07.html" /> <area shape="rect" coords="412,0,434,163" href="../area/spot04_08.html" /> <area shape="rect" coords="463,0,484,163" href="../area/spot04_14.html" /> </map>

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湖西エリア

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湖東エリア

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東近江エリア

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大津エリア南部コース

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大津エリア中部コース

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大津エリア北部コース

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湖南エリア

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甲賀エリア

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東近江エリア

東近江エリアモデルコース<map name="Map3"> <area shape="rect" coords="61,0,83,161" href="../area/spot04_04.html" /> <area shape="rect" coords="116,0,139,161" href="../area/spot04_05.html" /> <area shape="rect" coords="174,0,195,161" href="../area/spot04_07.html" /> <area shape="rect" coords="231,0,255,161" href="../area/spot04_08.html" /> <area shape="rect" coords="289,0,310,161" href="../area/spot04_10.html" /> <area shape="rect" coords="257,173,282,339" href="../area/spot04_03.html" /> </map>
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太郎坊宮 お火焚大祭(一部始終) 2012.12.2

2012年12月02日 | 探訪「大地の遺産」

 本年第55周年を迎えるお火焚大祭は、除災招福(じょさいしょうふく)の神として知られる太郎坊宮(阿賀神社)の火祭りで、毎年12月第1日曜日に行われ、当日までに、全国のご信者から10万本の護摩の奉納があり、これに火をつけます。

 護摩の木の大きさは、長さ20cm・幅2.5cm・厚さ5mmほどで、境内に高く積み上げて火を入れます。                                  護摩の木には、信者の住所・氏名とそれぞれの願い事が書かれています。                                                   点火するのは山伏の代表者2人で、正午過ぎに火がつけられ、午後4時過ぎまで燃え続けます。この火の霊力で罪汚れを払い、家内安全・無病息災なども併せて願います。

 火の勢いが弱まってくると、50人の山伏たちが裸足で次々と火渡りを披露し、山伏問答(もんどう)・法剣の儀といった神事も行われます。                                                                                         神道護摩としては、日本随一の規模を誇るといわれています。
又、神賑行事として、氏子総代会による開運厄除けの大根炊き(無料)や、甘酒接待をはじめ、勝運うどん(450円)や、おみやげ物など多数販売。

 

 

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


探訪  「景清道を訪ねて」 五個荘編 2012.11.23

2012年11月23日 | 探訪「大地の遺産」

観音正寺参道を横切って!安土 桑実寺へ・・・ブッシュです。

ブッシュを入り、教林坊の上を通って、清水鼻・・・

 

景清道(かげきよみち)

五個荘町にははば中央を南北に走る古道は、景清道と呼ばれ、源平合戦の昔                                                            平家方の勇将 悪七兵衛平(藤原)景清が盲目となった己の目の回復を祈って                                                          京の清水寺に詣でた時に通った道と言われています。「平家物語」では屋島の                                                            戦いの際、那須与一が扇を射落としたあと、景清が陸に上り、源氏の武将の兜                                                        の錣(1)をとって、「やあやあ 遠からん者には音にも聞け近くに寄って目にも見                                                                      よ」と名乗った勇者として知られています。                                                                              また、景清道は、影京道とも書かれて、中山道(当時は東山道)の間道として利                                               用されたとも言われています。

(1)【錣】しころ 兜(かぶと)・頭巾(ずきん)の左右・後方に下げて首筋をおおう部分。

 

 

また、五個荘は、近世から近代にかけて、日本にとどまらず、世界を舞台に活躍した近江商人たちのふるさとでもあります。

Img_2704_794x596 教林坊の総門を後にして、石寺を通るメインの鋪装道路を北東、五個荘の方向に歩きました。教林坊の傍を通る景清道はブックレトに記載の地図では五個荘方向に向かう道が途中で部分的に途切れているようです。

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石寺の土塁跡の傍を通過し、石寺集落の東端・清水鼻に入ります。石寺は近江八幡市ですが、この清水鼻からは東近江市になり、清水鼻は五個荘の西南端となります。
そして、このあたりから中山道と合流します。
古代の東山道を踏襲し、中世には東海道とも呼ばれていのです。そして、近世に中山道と呼ばれるようになります。この道が繖山を抜けてきた景清道とも重なっているのです。
Img_2715_794x596
この重なっている道の区間をしばらく歩きました。

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湖東三名水の一つ、「清水」の傍を通りました。

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その先で、景清道は近世中山道と分かれます。
Img_2724_794x596
その分岐点に、まだ新しさが漂う道標が建っていました。

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景清道から分岐点の道標を望む。

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景清道を進んで行くと、左折すれば近江商人町並に入っていく十字路に到りました。
目前の左手には大城神社の境内が見えます。

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境内東側面に沿って、道幅がそれまでの半分以下になった景清道が、北東方向に真っ直ぐ延びています。
我々は近江商人町並への道を進みます。北東方向にしばらく歩くことになります。
まず驚いたのはここの道幅でした。

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大城神社

ブックレットに、この神社は「明治以前は大宮神社・天満宮と称し、菅原道真を祀っていました。観音寺城の鬼門にあたる北東の位置にあることから、観音寺城の守護神として信仰されていました」と、記されています。広々とした境内です。


Img_2735_794x596通りを挟んで、大城神社の南側は日若宮神社です。

これらの神社境内の北西方向に大きな商人屋敷が続いていました。成功した近江商人の後裔が住んでいる感じです。雨振りのせいもあるでしょうが、町並みには静けさが漂っていました。

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これが、今回の探訪の最終目的地、馬場の石塔(五輪塔)です。
大城神社所蔵で、鎌倉時代の優品です。
このあたりは五個荘金堂と称し、現在では重要伝統建造物群保存地区となっています。

「金堂の歴史は古く、その名はかつてこの地に存在したといわれる聖徳太子創建の寺院の金堂が由来とされています。しかし、現在の集落の基礎ができたのは江戸時代に入ってからです。金堂が大和郡山藩の飛び地領となった際に当地を治めるため陣屋が設置されますが、この陣屋を中心に集落は発展していき、明治時代に至って現在の姿が成立しました。」(ブックレット)とのこと。

Img_2740_794x596
五輪塔のあるこの場所が「馬場」と呼ばれる広場のようです。
確認は出来ませんでしたが、水口でみた建物からの連想では、大きな木の左奥にある建物は、五個荘金堂・大城神社の曳山(類型・芸屋台)の山蔵だろうと推測します。水口町立歴史民俗資料館でいただいた「曳山祭と近江の曳山」によれば、昭和40年頃までは曳山巡行に使用されていて、今は巡行せず保管されていると状態と記されています。

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馬場の石塔の少し先を左折し、「ぷらざ三方よし」に向かいます。
この写真に見える道標の方向に右折していくと、地図では金堂のまちなみの中心地になっています。五個荘金堂の近江商人の屋敷(本宅)が軒を連ねているようです。
ここも、機会を改めて拝見に来たいと思います。

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寺々の前の通り沿いに水路が作られています。
浄栄寺と弘誓寺の前の水路にはその両端に柵が設けられ、その間を鯉が沢山放たれていました。
浄栄寺:伝聖徳太子開基。不動院建立(金堂という地名の由来)。
    宝治元年(1247)、浄栄法師が再興。浄土宗寺院。
弘誓寺:愚咄(寺伝では那須与一の孫)が犬上郡石畠に弘誓寺を建立。
    天正9年(1764)に金堂に移される。浄土真宗大谷派の寺院。

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もう一方の水路み設けられた柵近くから弘誓寺の方向を眺めて

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少し先に、こんな道標がありました。
「鯉通り」「てんびん通り」 ネーミングがいいですね。
この地にぴったりの名づけ方です。

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大城神社に到る景清道区間が、景清道を歩いた中で一番距離が長いところでした。

これで今回の探訪が終了です。
3回にまとめたこの探訪記事を、お読みいただきありがとうございます。


本日の歩数 7,785歩   1時間16分    5.4km

消費カロリー 328.6kcal    脂肪消費量 46.9g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


中山道 奥石神社の神事・老蘇の森・・・2012.11.23

2012年11月23日 | 探訪「大地の遺産」

〈重文〉奥石神社本殿

観音寺山(繖山(きぬがさやま)432.7m)の南、国道8号線と東海道新幹線が立体交差する地点にある老蘇(おいそ)の森の中にあります。                                                                                         祭神は、藤原氏の祖である天津児室根命(あまつこやねのみこと)です。創祀については明らかではありません。                     もともと、この神社は繖山山頂の磐座を遠拝する祭祀場として営まれたものであるといわれています。
 伝説では、日本武尊(やまとたけるのみこと)を危機から救うために、妃の弟橘姫命(たちばなひめのみこと)が身代わりになって荒海に身を投げましたが、そのとき懐妊していた妃は、波間に消える前に自分は老蘇の森に留まって女人安産を守ると言い残したといわれています。この話から奥石神社は安産の神といわれて、広く信仰されています。                             老樹の茂る参道が続き、本殿は三間社流造で重要文化財です。また、境内の一隅には「夜半ならば老蘇の森の郭公今もなかまし忍び音のころ」という本居宣長の歌碑も立っています。

 

 祈願祷::安産祈願 お宮参り 交通安全  家内安全 七・五・三 病気治癒等々

奥石神社

この森の奥深い所に「奥石(おいそ)神社」が鎮座する。 国道8号線より旧中仙道に入り石の鳥居をくぐり 両側に杉の大木が林立する参道を100mほど進むと、正面に奥石神社の社殿が立ち並ぶ。 玉砂利が敷き詰められたゆったりした境内に入ると、静寂そのものの別世界である。

 


この社、奥石神社は延喜式内社で御祭神として「天児屋根命」(あめのこやねのみこと、をお祀りしている。

 

本殿は天正9年織田信長が家臣柴田家久(勝家の一族)に命じて造営せしめたもので 国指定重要文化財である。三間社流造で、桧皮葺の豪華の中に優美な落ち着きを持った建造物である。

 

境内中央にどっしりした拝殿、本殿に向かって左には摂社諏訪明神社(市指定文化財)が鎮座する。 


探訪「景清道を訪ねて」 安土篇2012.11.17

2012年11月17日 | 探訪「大地の遺産」

信長の負けずの鍔を、ディザイン!

安土から五個荘にかけては、平安時代末期から戦国時代にかけて、多くの戦国武将たちの足跡が残っています。

平安末期、平家再興を祈願するため、京を目指した平家の家人で、悪七兵衛の異名を持つ伊藤(平)景清が通ったとされる景清道をはじめ、中世近江を守護として統治した佐々木六角氏の居城観音寺城とその城下町石寺、また、五個荘は、近世から近代にかけて、日本にとどまらず、世界を舞台に活躍した近江商人たちのふるさとでもあります。

この道は、景清が近江八幡に宿して、繖山の桑実寺に目の病の治癒の祈願に通った道です。

この橋は、現在の景清橋(東に100mほど)河川改修で移動

「はらみ」と言って、木の根が石垣や石積みを崩していきます。「上に切り株」・・・放って置くと【孕み】で石垣崩れます。・・・浄厳院楼門前です。

近世の扉を開いた織田信長が、法華宗の勢力をそぐために行った安土宗論の舞台浄厳院などがあります。

浄源院浄源院の信長公像 

 

安土問答と西光寺・聖誉住持
~信長のもとで裁かれた浄土宗VS法華宗の宗論~

http://www.geocities.jp/une_genzaburo/Saikouji.htm

景清道です景清道、正面の山が繖山(観音寺城址・中腹に桑実寺)近江の宮の天智天皇(中の大兄の皇子)が、娘の病気を治すため建てらた。景清も、自分の病の治癒を願ったのでしょう!

竹林の中の景清道

ここで、景清道と参道自動車の交差・・・石碑が目印!石寺から、箕作山・・山頂に小脇城Ⅴ字は、腰越峠

中世近江を守護として統治した佐々木六角氏の居城観音寺城とその城下町石寺、

 

 

また、五個荘は、近世から近代にかけて、日本にとどまらず、世界を舞台に活躍した近江商人たちのふるさとでもあります。

本日の歩数 15,912歩   2時間23分    11.1km

消費カロリー 639.3kcal    脂肪消費量 91.3g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 

 


信長公記に見る近江の城郭  

2012年11月11日 | 探訪「大地の遺産」

巻一 永禄十一年 (1568)

 「信長公記」は太田牛一が慶長の頃(1600年頃)に著した織田信長の伝記であり、首巻および一巻から十五巻までの、計十六巻より構成されています。著者の太田牛一(1527~1610)は織田信長(1534~1582)の側近として仕えながら、書き上げたもので、歴史書としても信憑性が高いとされています。
 この「信長公記」には永禄11年に信長が近江侵攻して以来、近江に関する記述が多く見られます。
このページでは「信長公記に見る近江の城郭」と題して、織田信長との関わりを含め近江の城を紹介します。

 また、従来より織田信長に関する読み物などで近江が紹介される場合、ほとんどが信長から見た近江の武将、あるいは歴史であり、一方的な見方しかされておりません。
「近江人から見た信長公記の世界」として、浅井三代記や滋賀県の郡志等を参考に

一乗院殿、佐々木承禎・朝倉御憑み叶わざる事

 先の将軍足利義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた覚慶(後の足利義昭)は、興福寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好修理太夫(三好長慶),松永久秀の甘言を信じ、しばらくは興福寺にいた。
ある時、覚慶は密かに南都を脱出し、
甲賀武士の和田伊賀守惟政を頼りにし、伊賀・甲賀を経て近江の矢島郷へ移った。
六角承禎義賢が頼りと、様々な意向を伝えたが、以前の恩を忘れてか、六角承禎は動こうとはせず、理由を付けて覚慶を江南から追い出しにかかった。覚慶は「頼りにしていた木の下に雨が漏る」を例えに、六角承禎に失望し、越前へ下った。
 越前の朝倉は元々、それほどの家柄ではなかったが、義景の父孝景が将軍の御相伴衆に準ずるまでに取り立てられたのであったが、領国においては思うがままに振る舞うだけで、義昭の帰洛に助力をするとまでは言い出さなかった。 

 和田家は甲賀五十三家の中でも名門で、甲賀六家のひとつに数えられている。甲賀郡甲賀町和田にある和田城の近くには公方屋敷、公方屋敷支城等、足利義昭が居住していたとされる城がある

 覚慶(足利義昭)が永禄8年から約1年間住んでいたとされる矢島御所が守山市矢島町にある。永禄9年覚慶は還俗し、名を義秋と改め、朝倉を頼って越前に移る。

信長御入洛十余日の内に、五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事

8月9日、信長自ら近江佐和山城へ赴き 、足利義昭の使者に自分の使者を添えて、佐々木左京太夫承禎(六角承禎義賢)に、「足利義昭公上洛にあたり、人質を差し出して忠誠を尽くせば、京都所司代に任ずる」との申し入れをし、7日間佐和山城にて滞在したが、受け容れられず、京へ上がるにあたり江南での一戦を覚悟した。
 9月7日、義昭公に「近江に出発しますが、平定したした後に、お迎えに上がります」と挨拶をし、尾張・美濃・伊勢・三河の4カ国の軍を引き連れ、その日のうちに平尾村(現岐阜県垂井町)に陣取った。
翌日、近江高宮に着陣。2日間逗留して人馬を休め、11日愛知川近辺に野営して、信長は馬で状況を見て廻り、12日には六角承禎父子三人が立て籠もる観音寺城,箕作城と対陣し、佐久間右衛門、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、浅井新八に命じて、申刻(午後3時~5時)より箕作城を攻めさせ、夜半に落城させた。
 美濃の国を平定して間もない時期でもあり、美濃平定後織田方についた武将達は箕作城攻めには自分たちが先鋒にさせられるだろうと考えていたところ、信長は馬廻り衆(信長譜代の家臣)だけで箕作城を攻めたため、美濃三人衆の稲葉伊予守、氏家ト全、安藤伊賀守等は意外な思いをしたという。
 箕作城を落とした信長は、その夜は箕作山に布陣し、翌日六角承禎の居城・観音寺城を攻めようとしていたところ、六角承禎父子三人は既に逃亡しており、13日には観音寺城に入り、降参してきた六角氏の残党から人質を取り、所領を安堵することで、江南を平定した。14日には兼ねての約定通り、美濃・西庄立正寺の義昭公へ不破河内守を使者として使わせられた。

① 信長公記では、信長が佐和山城から六角承禎に使者を送ったとあるが、信長がわざわざ佐和山城まで出向いたのは浅井長政と対面し、近江攻めについての善後策を打ち合わせるという目的があった。
妹のお市を娘分とした後、浅井長政に嫁がして(永禄8年前後)から、初めて佐和山城で顔を合わせることになるが、この辺りの詳細が、「浅井三代記」の "信長卿江州佐和山ニ来タリ長政ト初メテ対面之事" の中に書かれているので紹介しておく。