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城郭探訪

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信長公記 五、景清あざ丸刀の事

2012年11月11日 | 探訪「大地の遺産」

 信長公記

五、景清あざ丸刀の事

 

先年、尾張国から美濃国の大柿上へ織田播磨守がお入りになられた。
去る九月二十二日、齋藤道三は合戦に勝利して「尾張の者が足も腰も立たないであろう間に大柿城をとりつめ、攻めてしまおう」と言った。道三は近江国から加勢をしてもらい、十一月上旬、大柿城の近くに取り寄せた。
この時珍しい事がおきた。去る九月二十二日の合戦の時に亡くなった千秋紀伊守は平景清が持っていたというあざ丸を最期に差していた。その刀を陰山掃部助が手に入れ、差して西美濃の大柿城の近くの牛屋山大日寺に陣を張っていた。戦に参じ、床木に腰掛け、幕内にいたところ、とてつもなく出来の悪い弓で、矢を城内から陣の方へ射かけると陰山掃部助の左目に当たった。その矢を引き脱いだが今度は右目に命中し、失明してしまった。
その後、このあざ丸は丹羽長秀のところへ廻って来た。すると長秀は眼病を患ってしまった。この刀を持てば必ず目を患ってしまうといううわさが流れた。熱田へ進納するべきだとみな意見した。それで熱田大明神へ進納すると、たちどころに長秀の眼病は治ってしまった。

黶丸太刀<無銘無そ(金偏に且)府志に備前国鍛冶助平作之。謹按助平一条院人、備前国鍛工なり。
この太刀悪七兵衛景清所持なりといへり。

名刀【あざ丸】という刀をご存知でしょうか? この【あざ丸】は、持つ人に災いをもたらす、なんとも恐ろしい刀。この刀は【眼】に因縁を持ち、所有したものには、怪奇な現象が起きるとされる呪われた刀なのです。

 戦国時代、千秋季光という武将が、この【あざ丸】を差して討死しました。その後、この刀を手に入れたのは、美濃の武将・陰山一景。この刀を持って出陣した一景は、牛屋山大日寺の寺内に陣を構えて、床机に腰を掛けていたところ、敵方の城内から矢が飛んできて、その矢が一景の左眼に刺さりました。それを引き抜いたら、鋭い矢がまた飛んできて、今度は右眼を射つぶされたという、なんとも怪奇な事件が起こりました。

 それからこの【あざ丸】は、めぐりめぐって丹羽長秀が所有することになりましたが、今度は長秀が眼病を患ってしまったのです。そんな中ある人が、「この刀は眼に因縁がありますので、熱田神宮へ奉納なさった方がよいですよ」と忠告してくれたのです。すぐさま熱田神宮に奉納したところ、眼もすぐによくなったそうです。

 そもそもこの【あざ丸】は、平景清という武将が一番最初に所有していた刀ですが、平景清はどういう人物だったのでしょうか? 調べてみると、平安末期の源平合戦で活躍した悪七兵衛と異名を持つほど勇猛な武将。合戦に負けてからどうなったかは、謎だらけの人物でもあります。歌舞伎などで脚色されてしまったせいか、その後は、僧になって断食して亡くなったとか、悔しさのあまり、自分の眼をくりぬいてしまったとか、盲目になってしまったなど、さまざまな伝説が日本各地で残っています。景清寺(新潟県)に景清神社(愛知県)、景清道(滋賀県)に景清塚(茨城県)などたくさんの伝説地があります。ところで、この平景清の屋敷とされる場所は、全国で数箇所残っていますが、あまり知られていない景清屋敷が、愛知県大府市にあります。その景清屋敷跡と伝わる場所は、現在神社になっていて、【芦沢ノ井】という井戸が残されています。地元の伝承では、この井戸で目を洗うと眼病に効くと言われています。屋敷の井戸跡の水は、眼病に効く。しかし、彼の所有していた【あざ丸】は、持つものに眼の災いを招く。良くも悪くも眼に因縁を持った武将・平景清。

 そんな平景清が所有していた名刀【あざ丸】は現在、災いを起こすことなく、熱田神宮で大切に保管されていますので、平景清も安らかに眠っていることでしょうね。


淡海観光ボランティアカイド交流研修会 (現地研修会 F.甲南コース)2012.10.24

2012年11月11日 | 探訪「大地の遺産」

午後・・・・現地研修会 

  参加者 403名 スタッフ38名

A 水口①コース   「水口宿と大池寺・曳山の館を訪ねろ」

B 水口②コース   「水口城と菅原・美濃部氏ゆかりの地を訪ねる」

C 土山①コース   「田村神社と土山宿の街並みを巡る」

D 土山②コース  「東海道松並木と垂水頓宮跡を訪ねる」

E 甲賀コース    「白洲正子の歩いた、かくれ里を訪ねる」

F 江南コース    「甲賀忍者と中世城郭跡を訪ねる」

G 信楽①コース  「伝統産業の信楽焼を訪ねて」

H 信楽②コース  「天平ロマン・紫香楽宮遺跡を訪ねる」

 

F 江南コース    「甲賀忍者と中世城郭跡を訪ねる」に参加


探訪 【城郭寺院 敏満寺城】 2012.11.09

2012年11月09日 | 探訪「大地の遺産」

城郭寺院 敏満寺

敏満寺は、奈良時代の頃は青龍山をご神体として山岳信仰から始まったとされ、鎌倉時代には最盛期を迎えたようです。

戦国時代に浅井長政や織田信長などに攻められ衰退しました。

また、江戸時代には彦根城築城のため多くに石垣を持ち出された、記録が残っていますが、断片的な資料故、謎の多い寺院でした。

現在は、敏満寺という寺院は存在しません。が、字名として残っており寺院中心は、名神高速道路多賀サービスエリアと胡宮神社境内付近の丘陵地と推測されています。

多賀サービスアリアの説明板

敏満寺城の縄張り図

名神高速道路の多賀ザービスエリアの上り線、GS後の森が城址です。敏満寺遺跡の石碑

郭跡は、公園・ドックランとして整備されています。

土塁で廻りは保存大手道

スタバの裏は、櫓台・・・石垣の巨石は残されています。

名神高速の開通前の敏満寺地区の地図

 

下り線の説明板

下り線の建物の裏に、土塁の一部が残されています。

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


探訪 「佐々木道誉の足跡と平清盛御落胤伝説を訪ねて」2012/11/03

2012年11月05日 | 探訪「大地の遺産」

大地の遺産活用事業「遺跡に見る戦い~中世の近江」
探訪「佐々木道誉の足跡と平清盛御落胤伝説を訪ねて」

佐々木(京極)道誉は南北朝内乱期に足利尊氏を助けて室町幕府の創立に貢献し、室町時代に京極氏が発展する基礎をつくりました。この道誉が本拠を置いたのが甲良町正楽寺です。山上に城郭を築き、山麓には菩提寺となる勝楽寺を建立しました。勝楽寺には道誉の墓と伝えられる宝篋印塔があり、また道誉の筆になるとされる寺号の扁額も伝わっています。

また、平安末期に位人臣を極めた平清盛にまつわる伝説が多賀町の胡宮(このみや)神社に伝わっています。清盛の父は、院の御所を守る北面の武士として白河院に仕え、武士として初めて昇殿を許された平忠盛です。しかし、本当の父親は忠盛ではなく白河院であることを記した古文書が神社に伝わっているのです。

そして胡宮(このみや)神社が建つ場所には、中世に繁栄を誇った巨大寺院敏満寺が建っていました。寺は織田信長によって滅ばされてしまいましたが、胡宮神社周辺に広がる敏満寺遺跡からは、当時の敏満寺の威容を示す遺構が多く発見されています。

この探訪では、甲良から多賀にかけて広がるこうした先人たちの足跡を訪ねます。

日   時 平成24年11月3日(土・祝) 9:30~15:30 
日   程 【集合・受付】①JR河瀬駅東口 9:30 ②近江鉄道尼子駅 9:45 ※近江バス萱原線で正楽寺口まで移動                                          

  【行程】近江バス正楽寺口バス停→若一神社→勝楽寺→楢崎古墳群→大門池→(名神高速道路多賀SAにて昼食)→
            敏満寺城跡→敏満寺跡・胡宮神社→多賀大社 約10km

定   員 50人(事前申込、先着順) 実費負担 参加費 200円(拝観料)

近江鉄道尼子駅~正楽寺バス停

探訪 佐々木導譽の勝楽寺城跡 20120916

勝楽寺の導譽絵図(掛け軸)

勝楽寺から、古社寺街道を通り・・・樽崎古墳探訪へ

 

 

樽崎古墳

 

胡宮神社

高速道路の下の仁王門址の説明板

仁王門跡の礎石の上を名神高速道路が・・

説明に耳を傾ける参加舎50人

敏満寺集落から、多賀サービスエリアへ

 多賀サービスエリアで昼食。

 

 

多賀サービスエリアの敏満寺城跡の説明銅盤

スタバの裏の石垣。

土塁の中は(公園・ドッグラン設置)

敏満寺城跡の石碑

下り線沿いに神戸方面へ

フェンスを開いて、胡宮(ものみや)神社

 胡宮とは、古いお寺、非常に気高く尊いお宮という意味である。
神社の背後には青龍山という神体山がる。その山頂近くには磐座があり、またどんな旱魃のときにも枯れない古井戸がある。
胡宮神社の祭神は日本最初の男性と女性の神様である伊邪那岐命・伊邪那美命の子である事勝国勝長狭命で、五穀豊穣を司る神様である。
胡宮神社は湖東三山と並ぶ敏満寺の遺跡でもあり、典型的な神宮寺の形を残している。

http://japan-geographic.tv/shiga/taga-konomiyajinja.html

 

胡宮神社の宝物【重源書状】

平清盛御落胤伝説

胡宮神社の宝物【仏舎利相承図】に清盛の名が・・・。

ここに【清盛】の名が!

「神の森の頂上へ570m、ここからいわくらのみち」という標識がある。ここが青竜山の登山口である。
鈴鹿山脈の琵琶湖側には南から永源寺、湖東三山といった古刹が並ぶが、青竜山はその北にある333mの小高い山である。
この山は、全体が御神体であるという古代山岳信仰の霊山である。

創祀の年代は明らかでないが、背後の青竜山の巨石信仰に起源をなすという。
古来、多賀大社の奥院として旧敏満寺境内内に所在する。
もとは桜宮といい多賀町桜町にあったものを9世紀から10世紀前半の敏満寺創立のとき、守護神として現在地に移したと伝える。
治承4年(1180)、俊乗坊重坊が多賀大社に延命を祈って霊験を得、そのお礼として建久9年(1198)、当社に舎利塔を寄せた。
鎌倉時代には敏満寺の鎮護の神として栄え、また授子・授産の神としても崇められ、古くから僧や歌人をはじめ多くの人が祈願に訪れた。

 

 

多賀サービスエリアの下り線の建物裏に、残る「敏満寺城の土塁」(白く見えるの説明標)

 

 

 

尼子駅に戻りました。

近江鉄道、尼子駅

近江尼子氏発祥の地、甲良神社(甲良町尼子)は、徒歩10分近江の甲良庄 三大偉人、佐々木道誉(1296~1373) 勝楽寺、 藤堂高虎(1555~1630) 在士、甲良豊後守宗廣(1574~1646) 法養寺・・・・!

 

本日の歩数 18,704歩   3時間02分    13.0km

消費カロリー 723.3kcal    脂肪消費量 103.3g

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


赤神山(350m)とご神体の太郎坊山 20120625

2012年06月25日 | 探訪「大地の遺産」

 

  

   

赤神山(350m)とご神体の太郎坊山

赤神山(350m)とご神体の太郎坊山 

     

      

一部過去の写真を使用

本日の歩数 5,501歩   1時間3分 3.8km
消費カロリー 6.3kcal    脂肪消費量 0.9g

ウォーキング(東海道全線開通120周年 織田信長公の夢を訪ねて)

2009年06月28日 | 探訪「大地の遺産」

久ぶりに、安土城址に登って、信長公と同じ視界が、往時は琵琶湖の内湖(大中の湖・小中の湖・須内湖)も今は干拓されて農地に)

話題の町長さんとあづち天使のお出迎え1000人~1500人大集団

 JR東海道本線開通120年記念イベント!

安土城址大手門に石段に、お地蔵さん、石仏が数十体が・・・!

信長らしく『天下布武』

 

天主近くの森 蘭丸の屋敷跡(未発掘)

(秀吉や利家の屋敷跡は大手門のすぐ一番下)

 

豊臣秀吉が、遺品で立てた『信長公の廟』(遺骨は、本能寺でも見つからず)

上の図は安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」に描かれた本能寺だが、秀吉の命により移転され再建されたものである。信長の時代の本能寺は四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域にあったのだそうだ。

 

織田信長が、天下統一の拠点として近江(滋賀県)の安土に築いた城。

1576年、信長は岐阜から琵琶湖東岸の安土に本拠を移し、城下町をつくって商人を集め、楽市・楽座の制をしいて自由に取引きできるようにした。本能寺の変のさいに明智光秀に接収され、によって焼かれた。これを攻めた織田信雄(信長の子)

天下布武

訓読すれば「(あめ)の(し)く」となる。「武力を持って天下を取る」という風に解釈されることが多いが、武家の政権を以て天下を支配する」という意味に取ること多い。信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃からこの印を用いている。

織田信長朱印「天下布武」織田信長朱印「天下布武」

天主は敷石のみ、信長も見た眺望(今は農地だが、当時は三方琵琶湖であったと・・・!)往時は琵琶湖の内湖(大中の湖・小中の湖・須内湖)も今は干拓されて農地に)

  

当時のままの、三重塔・二王門(楼門)を残すのみ

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!