テコンドーを中心とした筋トレ、アンチエイジング

年齢に関係なく、筋肉、脳は鍛えるほどその重量、能力は増加します
テコンドーはインナーマッスルもバランスよく鍛えられます

膵癌の診断方法

2017年04月29日 14時36分15秒 | 京都第一赤十字病院

膵癌は、ダイナミックCTもしくはダイナミックMRIという検査を用いてのみ正確に診断できます。

造影剤という血管が白く染まる薬を静脈から勢いよく1秒間に3cc以上の速度で注入して、動脈が映るタイミング、静脈が映るタイミング、それより後のタイミングで、膵臓のあたりをCTあるいはMRIで撮像する検査です。

 

それにより、膵癌は染まりにくい腫瘤として認識され、周囲を走行する動脈、静脈の浸潤も同時にわかります。

 

このダイナミックという検査が確立するまでは、膵癌の精密検査は血管造影というもので、それは動脈に細い管を入れて、造影剤を注入して、膵癌周囲の動脈、静脈を写し出して、その浸潤の有無、程度により膵癌の範囲を診断するものでした。

 

この、小冊子は、平成6年に僕が京都第二赤十字病院に副部長として在籍していた時に、京都府立医大放射線科の血管造影検査グループで作成したものです。この検査自体は、この時期すでに確率されたもので、これ以上の新しい知見、テクニックはないと言っても過言でありません。

 

 

loop catheter for   、a loop catheter

 

どちらかの検索単語でグーグルで検索すると、僕がアメリカの二大放射線科雑誌の1つのAJRに載せてもらったOHNO カテーテルの論文にヒットして検索できます。

 

http://www.ajronline.org/doi/abs/10.2214/ajr.153.2.296

 

 


高橋克典さんの新アルバム

2017年04月27日 18時27分54秒 | アンチエイジング

高橋克典さんの、久しぶりのアルバム Katsunori Takahashi sings -cover thema songs-.

を購入しました。

平成8年あたりの京都府立医科大学の秋の学園祭、トリアス祭のコンサートにお呼びして、京都会館第一ホールで歌って頂きました。

最初は、歌手としてのデビューが先で、同時にテレビドラマの出演も多く、むしろ俳優としてすぐ有名になられた方です。

1993年のポケベルが鳴らなくて

で本格テレビドラマデビューされたそうです。

1995年のひと夏のラブレター

は松下由樹さんと共演されたドラマのですが、高橋克典さんの爽やかな演技が印象に残っています。

トリアス祭のコンサートに来られたのは平成8年頃つまり1996年頃なので、すでにテレビドラマスターとして地位を確立された後のコンサートなので、歌の上手い俳優さんだなあと、強く印象に残ったのを覚えています。

CDは、高橋さんの高校の一年後輩の尾崎豊のOh my little girlから始まり、シングルベッド、愛してる、starsSHE、三日月、川の流れのように、名もなき詩

などの聞き覚えのある歌が優しく続きます。

ボクシングを続けられていて、引き締まった体型を維持されています。

トリアス、元々古代ギリシャ語で、三位一体を意味しています。発音は、トリーアス。

日本の医学会では三徴候と訳されています。例えばパーキンソン病の三徴候は、①筋固縮②振戦③無動です。これが3つ揃えば診断される訳です。

転じて、僕たちが京都府立医大の学生時代の昭和50年代に、京都府立医大の秋の学園祭の名前を医学部らしい、素晴らしいネーミングにしょうと変わった記憶があります。

あとは大学のホームページからの引用です。

この「トリアス」という言葉はギリシャ語で「三位一体」  (医学の世界では三主徴、病気の3つの代表的な症状・所見を意味します)。
これは、「学生」 「教職員の方々」 「患者さんを含めた地域の人々」を意味します。
学生のみではなく、地域の皆さま・関係者の皆様との交流を深め、
 三者が共になって楽しめる文化祭にしていきたいという命名でした。

 


青蓮院 京都府立医科大学と縁の深いお寺

2017年04月04日 12時51分04秒 | 京都第一赤十字病院

青蓮院(青蓮院門跡)   京都府立医科大学とゆかりのあるお寺

 

しょうれんいん と発音します。

僕も最近まで、せいれんいんと思ってました。

 

天台宗の京都五ヶ室門跡の一つ。伝教大師以来の比叡山上の住坊「青蓮坊」が発祥で、その京都での里坊として天台座主行玄が平安後期に院の御所に準じて建立したものです。「青蓮院」と称した。平安末期からは門主に代々入道親王や法親王を迎え、明治に至ります。俗に、粟田御所と呼ばれていいます。法然や親鸞を庇護したので浄土宗や浄土真宗の聖地にもなっています。天明の大火(1788年)の際、後桜町上皇の仮御所になった。そのため境内地全域約1万坪は国の史跡に指定され、宸殿、小御所、熾盛光堂等の建物と池泉回遊式の庭園がある。日本三不動の一つ青不動明王(国宝)を有し、篤く信仰されている。門前の楠の大木は京都市の天然記念物になっています。東山山頂には飛地境内の大日堂と将軍塚があり、庭園やそこからの市街の展望もすばらしいそうです。

 

 

付記

京都府立医科大学の設立までの話

 

明治政府が成立し、天皇が東京に行かれ、首都でなくなった京都はさびれて活気を失い、人心は大きく動揺しました。この京都を衰亡から救ったのは参事(のちに知事)槇村正直、顧問山本覚馬、青年蘭方医明石博高らで、彼等は西欧文明を積極的に摂取することに全力を傾注しました。
 廃仏毀釈の風潮と戦乱の疲弊感の中で社会事業に活路を見出そうとしていた僧侶達は、明石らと相集って、発起人となり、明治4年病院建設を府に出願し、彼等は府下各分野からの資金調達に奔走し、一般府民の浄済、管内医師や薬舗からの助資金、花街に課した冥加金等による資金は5万に達したそうです。


 京都療病院はこのような気運の中から生まれた病院であり、京都における近代医療と近代医学教育の幕開けとなりました。京都療病院の名称は聖徳太子が悲田院、施薬院、療病院の三院を創設された故事にならって命名されました。

ヨーロッパ医学の導入と医学教育

 療病院設立に伴い招聘された初代外国人医師はドイツ人の名医ヨンケル(Junker von Langegg)であり、明治5年9月から木屋町の仮療病院で診療を開始し、11月12日より粟田口青蓮院内の仮療病院で解剖学の講義を開始した。2代目のオランダ人医師マンスヘルト(C.G van Mansvelt)は医学教育の系統化に努力し、又、療病院長設置の必要性を勧告した。初代病院長には半井澄が就任しました。3代目はドイツ人医師ショイベ(Heinrich Botho Scheube)で、診療研究に熱心で、脚気病、寄生虫学に大きな業績を残しました。この3人の外国人医師は、療病院に近代医学を導入し、病院の発展と医学教育に多大の貢献をしました。

 

 明治12年4月16日には医学校も併設され、初代校長に萩原三圭が就任し、以後半井澄、猪子止戈之助、加門桂太郎、島村俊一と続いた。明治32年京都帝国医科大学(現在の京都大学医学部)が設立されると優秀な人材が転出し、一時存亡の危機におちいりましたが、わ第5代島村俊一校長は医学校部の改築改良を竣功し、他日、京都府立医科大学に昇格する基礎を固めました。

そして、現代、陽子線ガン治療装置の導入へ向けての工事が進み、近畿地方では、兵庫、大阪に次いで3番目の施設になります。