コタンクルカムイのまったり生活

野山の散策、小さな旅行、テニス遊びなど、札幌生活を不定期に掲載。
'06年版は「みみずく先生の日記」で。

ないものねだり

2008年12月27日 | よろず覚え書き
貧しいのが当たり前の頃、たまーに行った町のお店の味は結構インパクトがあったものです。
昭和35年から札幌ですので、親元を離れたこと、千葉とは全く違う土地柄で生活を始めたことで、その後の10年足らずは変化に富んだ時期だった気がします。
そのころの懐かしい飲み食い処を思い出しましょう。全て無くなってしまったお店なので差し支えはないと思います。
アムール
 すすきのの南外れ、中島公園までは行かないところにテーブル四つの小さなロシア料理店がありました。路上に積もった雪を踏みしめながら、寒~い冬の6時過ぎに出向くと2回に一回は満席。あたりをぐるっと一回りしてなんとか席をいただいて・・。冷凍庫に入っているとろーっとしたウオツカを真っ先に注文。ペロシキ二つ、ペリメニひと皿、シャシリク二本にボルシチひと皿を一挙にお願い。メニューには他にもありましたが最初に連れて行ってくれた友達に教えられたままのバカの一つ覚え。二十歳か二十一歳の頃です。ウオツカ三杯飲んでお料理を平らげる頃にはすっかりいい気分。最初に行った頃はこれだけいただいて600円+程度だったって信じられます? 当時の下宿代は一万二千円くらいだったかな~。ここのペロシキはホントにうまかった!
結婚前のカミさんも連れて行った記憶があります(だったと思うのだが)。
信濃屋
 北二十三条にあったラーメン屋。大学院生の頃帰りがけにしょっちゅう寄りました。勿論晩飯のため。そして注文するのは必ずタンメン。いいスープでした。炒めた野菜とスープのマッチングがお好みでした。
まこと屋食堂
 北大病院前の定食屋。大学院時代の夕食はここと向かいの小蝶と信濃屋。中年のご夫婦とそのお母さんのやっていたお店。学生や若手の研究者を結構よく面倒を見てくれました。でも、学生を連れてここに行くと、たまに「まだ助手かい」なんて言われ、学生が「先生に対して失礼だ」などとかえってかばわれたりなんかして・・・。あ~~
阿Q
 変なそばや(?)。満州浪人上がりのオッさんがやっていた北24条のお店。そばはまあ食えるという程度のものだが、オッさんの人生訓が若い学生には新鮮。でも三度も行くと鼻についてしまって。
いろり
 北十八条のラーメン屋。何故か真っ黒けのスープにイカげその入った具。店の照明が暗いので実は何が入っているのかよくわからない。やみなべ風ラーメン。でも味は良かった(と思う。しらふで行ったことがないので)。
ちろる
 オーシャンバーだったり、スナックだったりして終わり頃は焼鳥屋。おやじ(=マスター)の知ったかぶり風の、嘘をホントに思わせる風の、論理的風ではあるが感覚的な主張で、理屈っぽい北大関係者に人気の北大正門前の店。たいしたことがない品を世界でここでしか食えないかのごとく、政治家もどきの説得力(恫喝?)で食わせるのが売り。でも厚味のタンやアニヨー(子羊の骨付き肉)の塩こしょう焼きはうまかった。
ナイーブ
 北二十三条にあったバー。学生の一時期、北二十二条の創成川沿いに巣くっていたので、先輩に連れられて銭湯帰りにお立ち寄り。「肩にぴしっと手ぬぐいを引っかけてなんて、おつだろう?」と釧路育ちの先輩の妙な粋ぶり。近くの炭屋のおっかさんが経営、鄙には稀な美人のおねーさん二人でもっていたよう。一年もしたらすすきのに引っこ抜かれたとか。ま、場末のバー通いの始まりですかな。

師は走らない

2008年12月24日 | よろず覚え書き
12月に入ってから全く更新していなかった! 忘れていたわけではないのだが・・・。
別に健康に障害があったわけではなく、肉体活動としては室内テニスしかできない季節になった、というだけのこと。
ややこしいことも書き込もうとメモ書きだけはしているのですが、思うようにまとまらない。
とこうしている内に、いつの間にか年賀状の時期になってしまいました。
今日はクリスマスイブですが、もう張り切るトシでもなし。大人しく年賀状を出して年の終わりを迎えることでしょう。

それにつけても昨今の経済環境はなんということでしょう!
働く場を奪われている方々が何とか早く再生できるような環境に戻したいものです。
石油危機を乗り越え、バブル崩壊に耐えている間に、働く人々がいつの間にか分断され、連合も自分の身さえ良ければいいという状況に矮小化してしまったようです。
新聞やテレビに派手な広告を出している企業に対してはマスコミも強いことを言えないのが情けない。
脳天気なテレビ番組ばかりに腹が立っているこの頃です。