さて、長らく途絶えていた記事の後半部分です。
高校生1さまのリクエストもいただき、執筆してみました。
筆不精解消のきかっけをつくってくださった高校生1様に感謝いたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、およそ一年ほど前に、
わたくし内田光子シューベルトコンサートにいってきたというお話を書きました。
休憩の前の第20番が終わったところで、記事がおわっていたので、
休憩時間から。
すさまじい名演奏の後、休憩に入ります。
会場では、CD販売があり、前半の二曲
シューベルトピアノソナタ第19番・第20番のCDは飛ぶように売れて行きます。
(本人のサイン付)
さて、私は、ふらっとホールの中を散歩したのち、
席に戻ります。
やがて休憩時間終わりの鐘がなり、
会場は満席。
やはり、なんとなく暖かい空気が漂っております。
やがてシューベルト=内田先生が降臨されます。
内田先生は、前半でかなり気持ちも盛り上がってきたのか、
大変はつらつとした様子。
そして、第21番が始まりました。
例によって、静かに、着実に曲ははじまります。
これまた前半と同様なのですが、
私は、この曲をCDで聞いたときには、
なんかこう、気持ちよく天上の世界にのぼっていこうとすると、
急に現実に引き戻されるという感じで。
えーと、たとえますと、
材料を切って、炒めて、道具を洗い物して、
ようやくシチューを鍋にかけて煮はじめて、
ほっと一息してお茶を飲もうとしたら
急に鍋が吹きこぼれて、あわただしくなって、
おちついて、またお茶を飲もうとしたら、また
鍋が噴き始めて、みたいな、そんな感じ。
伝わっておりますでしょうか。
この喩。
とにかくシューベルトは、
鍋でぐつぐつ煮込む料理が絶対好きだったに違いない
みたいな、そんなイメージだったのですが、
演奏者の顔を見ることのできる席で
生の演奏を聞くと、音楽教育をまともに受けたことがない
いや、学校の音楽教育があまり好きではなかった
私の身分であっても、
曲想とはこういものか、というのが何となくわかってきます。
第一楽章から、この行ったり来たりする感じ。
とかくクラシック音楽というと、
日常のうだうだとは切り離された崇高な悩みを語っているような
気もしてくるのですが、
内田大先生の演奏に触れると、
結構、日常のうだうだというか、人生の日ごろの悩みみたいなものの
近くで聞こえてくる音楽なのではないか
という気がしてきます。
急に身近になるシューベルト。
やあ、フランツ。君も、鍋の吹きこぼれの件で悩んでいたのかい?
みたいな。いや、いくらなんでもそんな卑近な悩みではないか。
さて、第二楽章。重たく悩んだのちに、第三楽章。
案の定、シューベルト先生は、ふっきれたように踊り始めます。
なんなのでしょう。
ふつうに弾くと絶対、品のないばたばた感が出るところ、
気品に満ちた、しかし明るく楽しい演奏が続きます。
日々、忙しく、ばたばたとした生活の中でも、
気品を持って生きることができる。
そんなメッセージを受け取ったわたくしでした。
そして、第四楽章。
第三楽章をうけつぎながら、
気品あるばたばたメロディー
もはや、なんじゃそりゃ、しかし、そうとしか表現できない
が続く中、急に、重たく響き渡る例の箇所。
ズドーンときます。
そして、重たい思考と、気品あるばたばたメロディーが
対話を続けます。
ここまで書いてきましたように、
この後期三大ソナタから、わたくしがうけとったメッセージは、
「日頃忙しい忙しいとばたばたしているのが人生というものだけど、
そこに誠実さと気品さがないのだとすれば、
あなたには何かしら欠けているものがある」
という感じでした。
自分で書いていてもよく分かりません。
しかし、こうとしかかけない。
そして、次の日から、また、頑張ろうという強い志を持つことができました。
そして、気合の入りきった演奏は、フィナーレに向かいます。
第21番は、終わり方がすごいのです。
「だ、っだ、だーん」とあっさり、しかし力強く終わります。
曲に合わせて、内田先生も「さー、また、あしたから、がんばるわよ」
みたいな顔で、誇らしげに最後の一音を鳴らします。
今度は、あのあっけにとられた「間」ではなく、
会場満場一致の大拍手。
深々としたお辞儀。
そして、一度舞台そでに帰り、戻ってきたところで
会場総立ちです。
私、恥ずかしがり屋さんで、あまりコンサートで
スタンディングってやらないのですが、
その日は、立たない人が圧倒的少数派。
本当に素晴らしいコンサートでした。
はい。(1)の冒頭で書きましたように、
ことはシューベルトのピアノソナタです。
おそらく、
読者のほとんどの方がシューベルトのソナタについては
一家言お持ちで、
「貴様!シューベルトについて語るなら
その覚悟はあるのか!」とお思いでしょう。
全く文句はございません。おっしゃる通りです。
しかし、語らずにはいられないのです。どうぞお許しください。
私の両親は自慢屋さんで、しばしば、自分の世代しか体験できない体験を
自慢しておりました。
「ふーん、お前の世代は、『2001年宇宙の旅』を
テレビ画面で見るのか。みじめだなあ。」
「ふーん、お前は、古今亭志ん生を録音でしか聞けないのか。
ははは。俺は、この目で動く志ん生を見たのだ。
ざまあみろ。」(いや、これは山藤章二のセリフだ)
なんともうらやましい気分でしたが、
ついに私も、心より、次のように言えます。
「ははは。おぬしらは、内田光子のシューベルトをコンサートで
聞いたことがないのか。
私は、あの伝説のシューベルト後期三大ソナタコンサートに行ったのだ。
ざまあみろ。」
・・・・・・・・・・というわけで、みなさまも、
後の世代に自慢できる体験、ぜひ蓄積してください。
ではでは、本年中はお世話になりました。
良いお年をお迎えください。
高校生1さまのリクエストもいただき、執筆してみました。
筆不精解消のきかっけをつくってくださった高校生1様に感謝いたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、およそ一年ほど前に、
わたくし内田光子シューベルトコンサートにいってきたというお話を書きました。
休憩の前の第20番が終わったところで、記事がおわっていたので、
休憩時間から。
すさまじい名演奏の後、休憩に入ります。
会場では、CD販売があり、前半の二曲
シューベルトピアノソナタ第19番・第20番のCDは飛ぶように売れて行きます。
(本人のサイン付)
さて、私は、ふらっとホールの中を散歩したのち、
席に戻ります。
やがて休憩時間終わりの鐘がなり、
会場は満席。
やはり、なんとなく暖かい空気が漂っております。
やがてシューベルト=内田先生が降臨されます。
内田先生は、前半でかなり気持ちも盛り上がってきたのか、
大変はつらつとした様子。
そして、第21番が始まりました。
例によって、静かに、着実に曲ははじまります。
これまた前半と同様なのですが、
私は、この曲をCDで聞いたときには、
なんかこう、気持ちよく天上の世界にのぼっていこうとすると、
急に現実に引き戻されるという感じで。
えーと、たとえますと、
材料を切って、炒めて、道具を洗い物して、
ようやくシチューを鍋にかけて煮はじめて、
ほっと一息してお茶を飲もうとしたら
急に鍋が吹きこぼれて、あわただしくなって、
おちついて、またお茶を飲もうとしたら、また
鍋が噴き始めて、みたいな、そんな感じ。
伝わっておりますでしょうか。
この喩。
とにかくシューベルトは、
鍋でぐつぐつ煮込む料理が絶対好きだったに違いない
みたいな、そんなイメージだったのですが、
演奏者の顔を見ることのできる席で
生の演奏を聞くと、音楽教育をまともに受けたことがない
いや、学校の音楽教育があまり好きではなかった
私の身分であっても、
曲想とはこういものか、というのが何となくわかってきます。
第一楽章から、この行ったり来たりする感じ。
とかくクラシック音楽というと、
日常のうだうだとは切り離された崇高な悩みを語っているような
気もしてくるのですが、
内田大先生の演奏に触れると、
結構、日常のうだうだというか、人生の日ごろの悩みみたいなものの
近くで聞こえてくる音楽なのではないか
という気がしてきます。
急に身近になるシューベルト。
やあ、フランツ。君も、鍋の吹きこぼれの件で悩んでいたのかい?
みたいな。いや、いくらなんでもそんな卑近な悩みではないか。
さて、第二楽章。重たく悩んだのちに、第三楽章。
案の定、シューベルト先生は、ふっきれたように踊り始めます。
なんなのでしょう。
ふつうに弾くと絶対、品のないばたばた感が出るところ、
気品に満ちた、しかし明るく楽しい演奏が続きます。
日々、忙しく、ばたばたとした生活の中でも、
気品を持って生きることができる。
そんなメッセージを受け取ったわたくしでした。
そして、第四楽章。
第三楽章をうけつぎながら、
気品あるばたばたメロディー
もはや、なんじゃそりゃ、しかし、そうとしか表現できない
が続く中、急に、重たく響き渡る例の箇所。
ズドーンときます。
そして、重たい思考と、気品あるばたばたメロディーが
対話を続けます。
ここまで書いてきましたように、
この後期三大ソナタから、わたくしがうけとったメッセージは、
「日頃忙しい忙しいとばたばたしているのが人生というものだけど、
そこに誠実さと気品さがないのだとすれば、
あなたには何かしら欠けているものがある」
という感じでした。
自分で書いていてもよく分かりません。
しかし、こうとしかかけない。
そして、次の日から、また、頑張ろうという強い志を持つことができました。
そして、気合の入りきった演奏は、フィナーレに向かいます。
第21番は、終わり方がすごいのです。
「だ、っだ、だーん」とあっさり、しかし力強く終わります。
曲に合わせて、内田先生も「さー、また、あしたから、がんばるわよ」
みたいな顔で、誇らしげに最後の一音を鳴らします。
今度は、あのあっけにとられた「間」ではなく、
会場満場一致の大拍手。
深々としたお辞儀。
そして、一度舞台そでに帰り、戻ってきたところで
会場総立ちです。
私、恥ずかしがり屋さんで、あまりコンサートで
スタンディングってやらないのですが、
その日は、立たない人が圧倒的少数派。
本当に素晴らしいコンサートでした。
はい。(1)の冒頭で書きましたように、
ことはシューベルトのピアノソナタです。
おそらく、
読者のほとんどの方がシューベルトのソナタについては
一家言お持ちで、
「貴様!シューベルトについて語るなら
その覚悟はあるのか!」とお思いでしょう。
全く文句はございません。おっしゃる通りです。
しかし、語らずにはいられないのです。どうぞお許しください。
私の両親は自慢屋さんで、しばしば、自分の世代しか体験できない体験を
自慢しておりました。
「ふーん、お前の世代は、『2001年宇宙の旅』を
テレビ画面で見るのか。みじめだなあ。」
「ふーん、お前は、古今亭志ん生を録音でしか聞けないのか。
ははは。俺は、この目で動く志ん生を見たのだ。
ざまあみろ。」(いや、これは山藤章二のセリフだ)
なんともうらやましい気分でしたが、
ついに私も、心より、次のように言えます。
「ははは。おぬしらは、内田光子のシューベルトをコンサートで
聞いたことがないのか。
私は、あの伝説のシューベルト後期三大ソナタコンサートに行ったのだ。
ざまあみろ。」
・・・・・・・・・・というわけで、みなさまも、
後の世代に自慢できる体験、ぜひ蓄積してください。
ではでは、本年中はお世話になりました。
良いお年をお迎えください。
シューベルトが煮込み料理好きというのは面白い例えだと思いました。夏だとどういう例えになったのかも気になるところです。突然お邪魔して失礼しました。大学の先生と直接お話しすることができて嬉しかったです。
私も高校生の方に声が届いて、とてもうれしかったです。