自由権の重要なドグマとして、
給付の削減・停止は、自由権の制約にあらず
というものがある。
例えば、会計報告の義務を怠ったために、
文部省研究補助費の支給を停止された学者がいたとする。
近代国家のベースラインは、国家がなんら活動しない状態
つまり、自然状態におかれる。
研究補助費の停止は、国家の積極的活動状態(給付)から
自然状態に回帰しただけであり、
(そのことの政策的当否や、自由権以外の憲法上の権利との
関係は別にして)自由権の制約にならない。
他方、会計報告の義務を怠ったため、
刑罰を科された学者がいたとする。
刑罰は、国家の積極的行為なので、
これは自由権の制約になる。
・・・。
さて、ここまでは自由権の常識である。
それでは、公務員に懲戒処分を課すことは、
果たして、自由権の制約になるのだろうか?
懲戒処分とは、公務員の身分をはく奪(懲戒免職)したり、
給付される公務員の身分を、
「減給」された身分や、「戒告歴」付のものに縮減する措置である。
公務員の身分は、国の積極的な措置、給付措置の一種として
与えられるものであり、
それを縮減・はく奪することは、実は、
給付の縮減・停止の性質を持つ。
と、いうことは、
国歌を歌わなかったことを理由に、懲戒処分を課すことは
その政策的当否や他の法的権利との関係はともかくとして、
とにかく、自由権の制約にならない。
このことからすれば、
一連の不起立懲戒訴訟で、最高裁が
「思想良心の自由」の「直接的制約」を一切認定していないのは、
当然のことである、ことが判明する。
とすれば、一連の判決を、
「この事案は思想良心の自由侵害の事案だ」という思い込みから、
批判するのは、的外れだということになる。
そのような批判は、最高裁にとっては、
リハーサルとリサイタルを勘違いして
「練習でこんなにお金をとるのはいかがなものか」とする
的外れな批判にしか聞こえないだろう。
もちろん、だからといって最高裁判決の結論が正しい
ということにはならない。
以上の議論が示しているのは、
不起立懲戒訴訟で勝利するには、
「思想良心の自由」ではない、法律構成が必要だ、
ということである。
と、いうわけで、ここから先の話に興味のある方は、
ぜひ、
蟻川恒正「対抗を読む(3)」法学セミナー675号 2011年3月号
を読みましょう。
給付の削減・停止は、自由権の制約にあらず
というものがある。
例えば、会計報告の義務を怠ったために、
文部省研究補助費の支給を停止された学者がいたとする。
近代国家のベースラインは、国家がなんら活動しない状態
つまり、自然状態におかれる。
研究補助費の停止は、国家の積極的活動状態(給付)から
自然状態に回帰しただけであり、
(そのことの政策的当否や、自由権以外の憲法上の権利との
関係は別にして)自由権の制約にならない。
他方、会計報告の義務を怠ったため、
刑罰を科された学者がいたとする。
刑罰は、国家の積極的行為なので、
これは自由権の制約になる。
・・・。
さて、ここまでは自由権の常識である。
それでは、公務員に懲戒処分を課すことは、
果たして、自由権の制約になるのだろうか?
懲戒処分とは、公務員の身分をはく奪(懲戒免職)したり、
給付される公務員の身分を、
「減給」された身分や、「戒告歴」付のものに縮減する措置である。
公務員の身分は、国の積極的な措置、給付措置の一種として
与えられるものであり、
それを縮減・はく奪することは、実は、
給付の縮減・停止の性質を持つ。
と、いうことは、
国歌を歌わなかったことを理由に、懲戒処分を課すことは
その政策的当否や他の法的権利との関係はともかくとして、
とにかく、自由権の制約にならない。
このことからすれば、
一連の不起立懲戒訴訟で、最高裁が
「思想良心の自由」の「直接的制約」を一切認定していないのは、
当然のことである、ことが判明する。
とすれば、一連の判決を、
「この事案は思想良心の自由侵害の事案だ」という思い込みから、
批判するのは、的外れだということになる。
そのような批判は、最高裁にとっては、
リハーサルとリサイタルを勘違いして
「練習でこんなにお金をとるのはいかがなものか」とする
的外れな批判にしか聞こえないだろう。
もちろん、だからといって最高裁判決の結論が正しい
ということにはならない。
以上の議論が示しているのは、
不起立懲戒訴訟で勝利するには、
「思想良心の自由」ではない、法律構成が必要だ、
ということである。
と、いうわけで、ここから先の話に興味のある方は、
ぜひ、
蟻川恒正「対抗を読む(3)」法学セミナー675号 2011年3月号
を読みましょう。
なるほど、と思いかけて、少々疑問に思った点があります。
たしかに先生のおっしゃられたとおり、公務員に対する懲戒処分により、思想良心の自由が直接制約されるわけではない、ということは理解できました。
ただ、一連の君が代訴訟は、職務命令が、思想良心の自由を侵害するか、というものであったと思います。職務命令は公務員の地位を剥奪するという性質のものではなかったと思います。
国家による制約行為を職務命令と設定していても、懲戒処分の場合と同じように考えることができるのか、という点で疑問を感じました。
なるほど。ええと、違反に刑罰が科される
命令だと別なのですが、
普通、職務命令違反に対しては懲戒処分が
予定されるだけです。
これを前提にすると、
公務員に命令により義務を課すことは、
給付の内容を
その義務なしの地位から、
その義務ありの地位に変更しているだけで、
自由の制約ではなく、
給付の変更(縮減)だということに、
なるのですね。
と、いうことで、
職務命令も、懲戒処分同様、
自由の制約にはならないのです
いやあ、どうしたもんでしょうねえ。
なるほど。ええと、違反に刑罰が科される
命令だと別なのですが、
普通、職務命令違反に対しては懲戒処分が
予定されるだけです。
これを前提にすると、
公務員に命令により義務を課すことは、
給付の内容を
その義務なしの地位から、
その義務ありの地位に変更しているだけで、
自由の制約ではなく、
給付の変更(縮減)だということに、
なるのですね。
と、いうことで、
職務命令も、懲戒処分同様、
自由の制約にはならないのです
いやあ、どうしたもんでしょうねえ。
君が代訴訟を思想良心の自由侵害の事案と考えると,
『急所』75頁以下のような(+義務免除構成の困難さ)問題があるほか,
本文のような根本的な問題があるということがわかりました。
さはさりながら,
教育委員会ないし校長の職務命令が「安全配慮義務」または蟻川先生のおっしゃるように「職場環境配慮義務」に反し違法であると構成すると,
憲法上の価値,有り体に言うと「憲法の話」はどこに出てくることになるのでしょうか。
このようなことを書くと,法セ3月号を未読にもかかわらずコメントしていることがばればれかもしれません(30日には読めると思います。すみません。)。
また,先生に,私の憲法センスがないと思われてしまうかもしれませんね(これは喫緊の課題です。司法試験でも公法系(間違いなく憲法のせい)の点数が低かったのです。)。
わたくしは,「君が代斉唱に精神的苦痛を感じる当該教員に職務命令を発し,斉唱を強制してはならない。」という限りにおいて,国・教育委員会(および校長)の教育権が制限されるという憲法論しか思い浮かびませんでした。
先生,私の憲法センスはいかがなものでしょうか(´・ω・`)
あとう
あくまで国家の給付内容である公務員の地位に引きつけて考えるわけですね。
筋が通った説明だと思いました。
判決で、「その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面がある」といっている意味もわかりました。
ただ、最近でた、起立斉唱行為の職務命令に関する国賠訴訟との関係で、どうしても一点よくわからないことがあります。
少し長いのですが、ご教授頂けると幸いです。
少し引用すると、判決では、直接規制でなく、間接規制だという説明として、「起立斉唱行為は、一般的、客観的にみて…儀礼的な所作としての性質を有する…外部からも認識される…従って…起立斉唱行為は、その性質の点からみて、上告人らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものとはいえず、…職務命令は…世界観それ自体を否定するものということはできない…」とし、一般的客観的に見て、という視点を示しています。
この視点は、金築補足意見や、宮川反対意見をみると、一つの争点になっているようです。
ただ、憲法の問題なのにもかかわらず、どういう意図で、多数意見が一般的客観的という基準を使ったのか、恥ずかしながら、判決文等を読んでもよく理解できないのです。
おそらく、原告側からすると、一般的に‥といわれるのは心外だろうと思います。
仮に私が原告代理人なら、ここを十分理解した上で批判して争わなければいけないと考えいたので、今回の先生の御説明はある意味でとても衝撃だったのですが‥
多数意見のいう、一般的客観的にみて、という基準と、先生の御説明との整合性が自分の中で消化しきれていません‥
一般的客観的という基準を使ったのか、という点と、先生の御説明の関連性について、ご教授頂けないでしょうか。
長くなって本当に申し訳ありません。
ごもっともな疑問だと思います。
私の理解では、ありていにって
不起立訴訟の事案では、
ストレートな「憲法の話」は出てきえません。
ただし、次のような構成が考えられます。
不起立懲戒処分や大阪府条例のようなものを
おいておきますと、
現行法上の国旗国歌にある種の評価を持つ人は
教員になれません。
これが、果たして多様な価値の共存という
憲法19条の趣旨に適合しているか?
ということで、『急所』第二問水泳受講拒否
事案の法律構成を使うことができないか?
が一つの問題です。
また、平等権・差別されない権利の構成は
当然、問題になるでしょう。
さらに、教員集団の価値観が単一になってしまう事態が、
果たして、子供の教育を受ける権利の観点から
問題がないのか?という問題もあります。
ええ、私は、基本的に憲法学の「通説」とは、
読み筋が合わないことが多いので、
私が憲法のセンスというものを語るのはどうかと思うのですが、
憲法も、法律学の一種であり、
規範の趣旨、要件、効果というものを
びしっ!と理解しようとするのが大事だと思います。
要件の理解があいまいだと、
その事案でどの権利を使うべきか、
微妙になり、なんとなくの論証になってしまいますよね。
と、いうわけで「憲法の」センスを身に着けようとするよりも、
法学の常識的発想としての趣旨、要件、効果という
枠組みをさらに骨にしみこませるのが
良いのではないかと思います
「起立」=「国歌に敬意を表しておりますぞい」
という「言論」が、
誰に帰属するのか?という話なのですよ。
最高裁は、教員の起立は、
教員個人としてやってるんじゃなくて、
公務員が政府の言論を表示する機関として
やっているのであって、
その言論の責任は、一切公務員に帰属しないはずだ、
っていっているんですね。
うーん、例えば、
私がツツミ先生に「お前死ろす」っていう
手紙を書いて、封筒に入れて
郵便局員のkazooさまに届けてもらったとしますよね。
この場合、kazooさまは「お前死ろす」の言論の
お手伝いを確かにしているのですが、
ツツミ先生への脅迫の主体は、私であり、
kazooさまは責任を負わないのです。
で、最高裁は、起立っていうのは、
政府の言論であってですね、
起立をしている公務員というのは、
いわばその手先として、郵便局員のような
働きをしているだけで、
その人個人の言論はない、とこういっているのですよ。
自分に帰属しない言論である以上、
あなたの思想・良心とのずれを悩む必要はない。
そんな悩みは、郵便局員が、「俺は今、ツツミ先生を
脅迫してしまった・・・ブルブル」といっているのと
同じで、気のせいですよ。
これが最高裁のロジックです。
で、その言論がだれに帰属するか
というのは、発話者の主観というより、
社会がどうとらえるか、の問題なんで、
「一般人」基準で判断するのですよ。
というのが最高裁判決なんだと思います。
私は、最高裁判決にいろいろ言いたいことはありますが、
理論としては、非常に高い水準を持っているので、
それと戦うのは半端なことではできない
と思っているところです。
どでしょか?
ご丁寧なお答えありがとうございます。
多様な価値観を保障する19条の趣旨および先生ご指摘の憲法上の価値から,職務命令の違法性を主張する構成につき,自分で考えてみます。
憲法は他の法律に比べ,要件,効果がふわふわしているところがわかりづらく感じています。
しかし,私はその理解が不十分であると思っていますので,先生のアドバイスを心に留め,勉強したいと思います。
あとう
本当にありがとうございます。モヤモヤが大分晴れた気がします。
そうすると、公務員の起立斉唱と思想良心の自由を考えるアプローチとしては、少なくとも
そもそも、職務命令は、国の給付内容である、公務員という地位に負担を負わせるにすぎないのだから、自由権である思想良心に対する直接の制約は認められず、ただ、それによる反射的な制約としての、間接的制約が認められるにとどまる、
もしくは、公務員に起立斉唱の職務命令をだしても、一般的にみて、その起立斉唱の主体は、公務員個人ではなく、国自身なのだから、公務員個人が敬意を表明しているわけではなく、従って公務員個人が直接思想良心を制約されるわけではない、ただ、それにより反射的というか、事実上、間接的に思想良心が制約されているにすぎない、
という考え方が可能だということと理解できました。。
しかし、どうも、この一般的客観的にみて‥というのは合点がいきません。
思想良心への制約が問題なのだから、主観的に、私が敬意を表明しているのかしら?と思うかどうかを基準にするほうが、すんなりする気がするのです。。認定が難しいといわれるかもしれませんが、主観を客観的な証拠や事実から推認して証明することは可能だと思います。
間接的制約の判例法理を前提にしても、これなら直接制約で厳格基準という流れになりそうですが。
結論先取りか!?と穿った見方をついついしてしまうのですが、そうではなく何か積極的な理由があるのか疑問です。
どうせなら、国の給付内容である公務員の地位に負担を負わせるにすぎない‥といってくれたほうが、わかりやすいと思いました。
木村先生のご説明は非常に納得できるのですが、先生の筋でいくと自由に対する制約は存在しないことになり、最高裁が少なくとも思想・良心の自由に対する間接的制約を認めていることと齟齬が生じないでしょうか?
例えば、
①公務員に対して、政治的活動をするなという義務を課すこと
②官僚に対して、(自分の意見として)原発維持に賛成するよう発言する義務を課すこと
これらも給付の縮減として、自由の制約にならないのでしょうか?
給付の縮減であっても、権利に対する妨害が認定できるならば、制約があるとしてよいのではと考えました。(急所第1問も職務命令が伴奏を拒否する行為を妨害しているとして制約を認定しています。)
新たに給付を請求する場面(公民館を使わせてくれ等)と、給付の縮減・撤回を取消をもとめる場面(職務命令や懲戒処分を取り消してくれ等)とは区別でき、後者に対しては不作為請求権としての自由権を主張できるという考え方は誤っているでしょうか?
(ベースラインを勝手に設定しているのかもしれません、、、)
制約の認定って難しい、、、
ご回答お願いします。