さて、ナカヤマ博士は、前回の導入に続き、いよいよ学説の検討に入る。
従来の学説は周知のものであり、読者の多くが知っていると思われるが、
ナカヤマ博士の批判は、参考になるのではないだろうか。
第2章 従来の我慢のゴルフ論
我慢のゴルフについての学説はさまざまあるが、ここでは代表的な説を2つ取り上げ、それぞれについて検討していく。
作戦変更説
1つめは、「我慢のゴルフとは、バーディーを狙うのをやめて、パーを狙いにいこうとすることである」という説である 。
作戦変更説と呼ばれる。この説はつまり、「本当は積極的に攻めてスコアを伸ばしていきたいけど、
今日は調子が悪いから、それを我慢する」ということである。
これは、一見するとわかりやすい理論ではある。
事実、検索サイトの質問コーナーなどで、最も多い回答がこの説によるものなのである。
ゴルフを生業とする人間が、バーディー狙いを控えざるを得ない状況になったとき、
さぞかし残念だろうということは想像に難くない。
そうしたことが多くの人の同情を集め、この説が強く支持されている理由になっているのではないかと思われる
(Petrucci, J.,Six Degrees of Inner Golf, DT Books [2002] p.74)。
しかし、バーディー狙いをやめてパーを狙いにいくということは、言い換えれば、
「プレーが思い通りにいかないから、作戦を変える」ということであって、
この程度の作戦変更はゴルフに限らずあらゆるスポーツ競技についてまわるものである。
作戦変更説は、ゴルフ特有のことがらを示したものではないのである。
したがって、第1章に挙げた我慢のゴルフ論の前提に照らすなら、この説は妥当ではないということになる。
途中棄権説
2つめの説は、「本当はプレー中に家に帰りたいのだけれども、
帰るのを我慢してプレーを続けるのが我慢のゴルフである」というものである。
いわゆる途中棄権説である。この説は、「帰りたいけど、帰れない」という状況に置かれているということを指して、
それを我慢だといっているのだと説明されることがあるが、それは少々ミスリーディングである
(そうした状況が現れるのは、ゴルフはおろかスポーツに限ったことではない。
授業中の学生も、仕事中のサラリーマンも、刑務所にいる在監者も、皆帰りたいけど帰れないのだ。)。
「帰りたいけど、帰れない」という状況ではなく、「帰れるのに、あえて帰ろうとしない」という心理状態を指して、
我慢だといっているのである(三輪美和 『ゴルフバカ一代』(ゴルフ通信社)[2005] p.425)。
ゴルフは、競技としての性質上、誰かが途中で棄権しても他の選手には大きな支障をきたさないので、
途中棄権が可能であるといえる。可能であるのに、ゴルファー達はその誘惑をはねのけ、
最終ホールまでプレーする、したがってゴルフとは忍耐のスポーツである、というのが、
この途中棄権説を支える根拠である。
多くのスポーツ競技、特にテニスなどの個人競技は、相手がいなければ試合が成り立たないので、
選手の途中棄権は、ケガなどの場合を除いて、原則として許されるものではない。
その点、ゴルフはそれが許されるので、この説は、
ゴルフ特有のことがらについて述べているようにも見える。
しかし、マラソンなどに代表されるように、その性質上、
任意の途中棄権が許される競技というのは、陸上競技には多い。
したがって、この途中棄権説も、決してゴルフ特有の我慢すべきことがらを示したものではないので、妥当ではない。
両説の妥当性
以上に見てきたように、我慢のゴルフ論の前提からすると、作戦変更説・途中棄権説ともに採り得ないことがわかる。
こうしたことをふまえて、次章では、筆者の提唱する新しい学説を述べることにしたい。