よしの様から、さらなるご質問をいただきました。
お祝辞、御返答どうもありがとうございます。
立法裁量の定義をそのように捉えることで、先生のおっしゃることには十分納得することが出来ました。
読者に対してAの部分を勉強することに意義があるという点を示唆していることにも感服致しております。
ただ、どうしても私の感覚的に府に落ちない点がございまして、
全くロジカルではないのは自覚しているので恐縮なのですが、その点を確認をさせて下さい。
おそらく受験生的な通説(芦部説の劣化コピー)ですと、
「立法裁量が広い⇒手段については必要性は検討できず関連性しか検討しない
⇒なぜならば、必要性については立法府の判断を尊重して裁判所は審査をしないから。
仮に審査をすれば違憲ともなりうる(?)。」
という発想になるのではないかと思っているのですが、
木村先生のご理解ですと、
「立法裁量が広い⇒審査基準は緩やか⇒手段は関連性だけ検討すれば足りる
⇒なぜならば、裁判所は立法府の立場に立って必要性も審査できるが、
審査しても必要性に欠けることはほぼないので効率性の観点から関連性だけ審査すれば足りるから」
という発想になると思っております。
おいっす。ここは議論の順番が違います。
「審査しても必要性に欠けることはない類型である。
だから、合理的関連性の基準が適用される。
ということは、立法府に許される合憲的な選択肢(立法裁量)は広いということでもある。」
ですね。
これを比較すると、おそらく前者の「必要性を審査できない」
「必要性については立法府の判断を尊重して裁判所は審査をしない」
という箇所が間違っているのだと思うのですが、その理由が分かりません。
ご指摘いただけますでしょうか。
こんにちは。うーんと、ご指摘の芦部説コピーというのは、
防御権の違憲審査においては、判断代置をしなくてはならない、
というのが原則になるという点が、私というか、判例の考え方と違うわけですね。
行政法の文脈で、判断代置か、過程統制か、というのは、
行政実体法により決まります。
例えば、さしあたり要件裁量のことを考えますに、
行政実体法が「aという要件があれば、Bという処分ができる」と定めている
(と解釈できる)場合、
裁判所は、aという要件の有無について判断しなくてはなりません(判断代置)。
これに対し、
行政実体法が、
「A<aという要件があると行政機関が適正な手続の下に認定した>
という要件を充たす場合には、
Bという処分ができる」と定めている(と解釈できる)場合、
B処分の要件は、aではなく、Aになるので、
裁判所は適切な手続を踏んだかどうかだけを判断するわけです。
これが過程統制です。
というわけで、判断代置と過程統制は、裁量の在り方が違うというより、
実体法上の要件が違うだけで、実は、それほど大きな違いはないのです。
で、実はこれがとても重要なのですが、
防御権は、重要な自由だけを保護する特別の権利であり、
憲法実体法は、
「必要性があれば、○○の自由は制約してよい」
というものだと解するのが一般的で(判断代置を求める実体法)、
「必要性があると立法府が合理的な手続の下で判断した場合には
○○の自由を制約してよい」
というものではない(過程統制実体法ではない)、と解されています。
だから、防御権制約については、
過程統制的な議論は、許されず、判断代置をせにゃならん、ということになります。
ご指摘のコピーは、ここを誤解されているのでしょう。
ただ、「過程統制」とよく似ているけど、微妙に違う概念として
「違憲の推定」、「合憲の推定」というのがあるわけです。
立法府に広範な選択(裁量)を認めるべき理由がある場合には、
「合憲の推定」が置かれる、というのはご存じの通りかと思います。
これは、手法自体は判断代置的に行うのですが、
立法事実(合憲性を支える事実)があるかないかわからないノンリケット的状況では、
立法事実ありとして合憲の方向に認定するという推定ですね。
「必要性については立法府の判断を尊重して、
それがないことが明らかでない限り(=立証されない限り)、裁判所は審査しない」
という議論の趣旨は、
<本当は違憲なんだけど、合憲にしてあげる>ということではなく、
違憲かどうか分からない場合は、
合憲にするという「合憲の推定」のことを言っていることが多いですね。
また、以上の点については先生におきましては非常に手応えのない質問だと自覚しておりますので、
もしよろしければもう一点の質問として、
請求権についても、立法裁量というワードをあまり使わない理由を自由権とパラレルに補足説明して頂けませんでしょうか?
(「あまり」というのは、効果については多少言及されていることを意識しているからです。)
おそらく「立法裁量が広い=請求が認められにくい=要件が厳しい・効果が弱い」という方向であろうことは予測がつくのですが。
この点ですが、まず、自由権の場合、国家には裁量がありません。
必要性や合理性のない規制だったら、即座に停止する、ということだけが
唯一の合憲的な権利実現手段ですね。
これに対し、請求権の場合には、
①要件面では過程統制的な要件だとの解釈が成立する余地がある場合があり、
また、
②効果面でも権利実現手段に複数の選択肢がある場合(抽象的権利)があります。
①の例としては、
例えば、「最低限度の生活を下回っていること」という25条1項の要件を、
「立法府・行政機関が合理的な手続を経て
最低限未満だと認定したこと」と読む余地はあるでしょう。
ただ、私は、憲法上の請求権の要件について、
過程統制的に理解することに消極的です。
請求権の要件は、限定して解釈すべきだし、そのように条文が作られていること、
要件まで立法府・行政府に委任することは、権利主張の幅を制限しすぎること
が理由です。
ただ、ぎりぎり解釈論をやっていったとき、
過程統制にならざるをえない権利があるかもしれない、と言う可能性は認めてます。
(「最低限度の生活」の判断代置はやはり厳しいか、、、みたいな)
②の例は、それこそいくらでもあるわけで、
「最低限度以上の生活保障」、「憲法に適合する裁判制度の構築」
「憲法に適合する選挙制度の構築」などについては、
それを実現する複数の選択(バウチャーか金銭給付か、民訴と行訴を分けるかわけないか、
比例代表か、小選挙区か)はいくらでもあり、
そのうちどれを選ぶかは、立法裁量(複数の選択肢)がある、ということになります。
また、これらを「立法府が合理的な手続の下に構築した選挙制度」のように
過程統制的な条文として理解することも可能でしょう。
と言う感じです。
とまれ、立法・行政裁量が「合憲・合法な選択肢な幅」のことを言うという
通説的定義からすれば、
その場面での立法裁量の広狭は、憲法解釈と憲法判断の「結論」以外のものになりようがない
という点をしっかり理解していただければ、問題は簡単かと思います。
まとめますと、「立法裁量」は憲法判断の帰結であって、理由にはならない、ということですね。
はい。どかな?