馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

黄泉の国 入門

2010-09-30 11:49:35 | 日記



9月29日(水)昼飯は浦賀沖で釣った鯖を味噌煮した。
3尾を味噌煮したが2枚に下したので6人前出来た。
2枚私が食べ女性が2枚自宅へ持ち帰ることにした。
やはり、定食屋で食べるより断然おいしい。
3人で食事代は納豆と漬物買っただけで約300円

夕方、時間があるので16時 隅田川と神田川合流点で釣りをした。
船橋海老川で釣りした時の青イソメを餌にした。
当然、釣れるはずもなく17時過ぎに友人が新橋から
徒歩で勝どきを通ってやってくるので
殆ど使用しなかった餌を隅田川に落とし
しまいかけた。最後に護岸に置いたままにした釣り竿を引き上げた。
竿がしなるのでゴミがひかかったと思い竿を左右に揺らしゆっくりと
持ち上げた。 何と水面に細長い魚が浮いてきた。
架かっていたのだ。あわてて引き上げるが護岸近くまで
釣り糸を手繰り寄せたところで、魚は針から離れ水中に消えた。
やはり、私は隅田川の魚には馬鹿にされているのだ。
しかし、以前 カラスが捕った魚を横取りするような
姑息なことせず正々堂々と隅田の魚と相対して釣り上げよう。
しかし人間には姑息な奴が東京には、うじゃうじゃいるなー
17時過ぎ 友人はやって来た。
既に寒くなっていたがワイシャツは汗がまとわりついている。
妻から携帯に電話が入る。
介護の89歳の母親が便秘と熱で入院させる。
生命の危機は無いと連絡
新橋から来た元気過ぎる大学時代の友人と
亡くなった友の納骨の件で相談。
10月24日に納骨が決まった。
それから、当然のごとき浅草橋で2軒の居酒屋へ行く
10時半 浅草橋で散会。
総武線に乗車中、友人からメールが来た。
特急料金500円払って上野から茨城佐貫まで帰る。
楽しかった、又な!
数年前に心筋梗塞で倒れたとは思えない元気
冗談で「お前先に黄泉の国へ行ってくれ、うるさいのと道理が通らないと
納得しないから、俺が黄泉の国の門に来た時
入門審査官として
なぜ黄泉の国に来たか問い質すはずだ。
そして俺の回答が納得しなければ下界に戻される」
仲間は皆それを望んでいる。



本日

2010-09-28 15:00:37 | 日記



9月28日(火)今日の昼飯は 鯛焼き
昨日、取引先の方が魚を持ってきてくれた。
前にも書いたが事務所を住まいである横須賀に移転して
電話だけは弊社事務所に置き転送させる。
浦賀沖、ヨットで釣った魚、鯛2尾鯖3尾
当人曰く 少し小ぶりだそうだ。
本日は鯛焼きにした。
既に下ごしらえは済んでいて魚焼き器で焼くだけ
いやー!感激 白身で柔らかく、熱々で炊き上げたばかりの
ご飯で頂きました。
明日は鯖の味噌煮する。



ホールインワン記念品

2010-09-27 16:26:19 | 日記
9月27日(月) ホールインワン達成記念品 荷造り梱包

グリーンフォーク付マーカー 裏に個人名彫刻
ダンロップゼクシオタオル のし包装

私の古くからの友人が成し遂げた。

北海道 アロハカントリー 早来(ハヤキタ)コース
17番ホール PAR3 135YARD
使用クラブ 9番アイアン
2010年 7月3日

この方とは15年前初心者同士で千葉の練習ショートコースを
たびたび回った。
互いに 1ホール12打 グリーン周りを行ったり来たり
あがってみれば 155打も叩いていた。
私も40代の頃、文化センターの室内ゴルフ教室で
1年間習ったが上手にはならなかった。
コーチは始めての開校日に生徒に向かって
「ゴルフをしたこと無い人はいますか」と聞いてきた。
20数名いた生徒の中でゴルフをしたことが無い人は
私を含め二人だけだった。
コーチは「した事の無い人がうまくなります。
くせが無く素直にコーチの教えを守り
基本のスイングを学べるから」と言った。
スクールは自宅前の文化センターで午前10時に
60分間レッスンを受けた。
基本は覚えたが実戦は一年に2回程行くのが精一杯
上達はしなかった。
最近 行ったのは 3年前台湾でゴルフした。
その前は今から8年前で当日朝
ゴルフシューズが腐りかけていて、ゴルフ場で急遽買った。
今ではホールインワンをした友人は100以下で
楽々周ると言う。
継続は力なり、うまさは金なり

記念ボールを飾るトロフィーも受けた。

ちなみにこの方 ホールインワン保険は義理で入っていた。




船橋港 ハゼ釣り 日曜画家

2010-09-26 21:38:55 | 日記


9月26日(日) 昨年9月16日、あいつは柏の癌センターで食道癌の手術を 10時間かけて行った。そして声帯切除して声を失った日だ。午前10時 あいつのマンション郵便受けの整理をする。通常郵便物は妹さんに転送されるが広告チラシが溜まると留守が分かり郵便箱に放火される恐れもある。チラシ類を始末してウオーキングでもしようかと思ったが船橋港海老川河口でハゼ釣りを見て久しぶりにすることにした。 10時半、あいつの住む?マンション隣の釣具店前でハゼ釣り昨夏はここで何度かあいつとハゼ釣りしたのだ。釣具屋で青イソメを買う。店主に昨年「ハゼは馬鹿でも釣れる」と言っていたが「ハゼ釣りはなかなか難しい」と言うと店主怪訝な表情する。「違う!子供でも釣れると言った」何!子供でも 私は黙ってしまった。心の中で「やはり俺は馬鹿か」 9月末なので 割合大型のハゼが9尾釣れた。時間にして約1時間。妻に持ち帰りはダメと言われているので又河口に戻す。帰り際 護岸で水彩画を書かれている方がいて画を覘いて見る。河口の風景を画いていた。私の父は日曜画家で休日は水彩画を画いていた。私が小学生の頃、小学校は川の土手沿いに在り教室の窓から父が休日を使って土手沿いを絵を画きに歩くのを見た事がある。私は男3人兄弟だが3人とも絵を描く才能は受け継がなかった。今船橋港を描いている方を見ると旅先の越後湯沢で26年前客死した父を思い出す。栃木の田舎から出て来て無学であったが懸命に働き横浜郊外に小さな戸建を買い息子3人を育て遊ぶこともせず趣味は庭の花を育て雨の日は絵を画く寡黙な親父だった。絵を画かれている方に失礼ではありましたが了解の下に写真を撮らして頂きました。又、作品集をHPに掲載されているとききましたので URLを記す許可を頂きました。

佐々木亮さんのホームページ



葉隠れ 相討ち 捨て身

2010-09-25 16:01:28 | 日記
武士道の精神を説いた抄訳 「葉隠れ」を読み返していた。その中に「相討ち」という言葉があった。同時に打ち合うという意味ではなく、互いに打ち倒し合うという剣理であって、それには「捨て身」の境地が求められる。この言葉、非常に重い、私の心内は毎日がこの言葉をどのように解釈し決断するかの繰り返しをしている。 ずっと古い出来事に「相討ち」「捨て身」の覚悟で行動したことがある。昭和56年3月28日 労働組合書記長として春闘(現在は使われていない)を指揮していた。この夜娘が誕生した。帰宅も出来ず会社の社員クラブで組合役員とストライキ準備していた。しかし妻の出産にも立ち会えなかった。 4月も帰宅は出来ない程、労使交渉こじれ打開 妥結の道は閉ざされたまま、ついにゴールデンウイークに突入した。日夜眠れぬ日々が続いた。連休明け私は決断した。秘密裏に作戦を一人練った。公共施設を集会の為借りる手続きをした。その申請を公共施設にしたところ、消防署にも集会の届けを提出してくださいと言われた。私は最寄りの消防署に行き公共施設での借用日と集会目的と人数を申請した。消防署は何も言わず黙って届書を受理した。 連休中も労使交渉は断続的続いたが互いに合意に至らない。ついに会社側と最終回答として深夜の労使交渉に臨んだ。組合は従業員98%の支持でスト権を確立していた。 会社側労務課長が黒板に労働賃金の数字を黒板に提示した。「これが最後の回答であり一切譲歩しない」明言した。組合要求とは若干だが開きがあった。組合要求には答えてくれなかった。どの位の秒数か分からないが私は言葉が出なかった。頭の中は激しく台風のごとき揺れ動いていた。これで終わりだと思った。私はゆっくりと短いセンテンスで話した。 NOとは言わず、なぜその数字が受け入れられないかを語った。社側、人事部長、人事課長、労務課長は真一文字に口を閉め私を見つめていた。私は話を終えた。労働課長が「そうしますと会社回答はのめないということですか」と尋ねた。私は頷いた。労働課長は立ち上がり黒板に示した会社側回答を消し組合要求の数字を書いた。書記長 これでいいですね。私はぼんやりと黒板の数字を見つめていた。会社側全員立ち上がり、無言で会議室を出て行った。私は立ち上がれず「やっと終わった、生まれた娘を見ることが出来るのだ」朦朧とした気分だった。勝利した感動は無く早く帰宅して何も考えずに眠りたかった。後に労働課長となぜ組合要求通りで妥結したのか聞いた。課長は「実は警察から組合がストを打つ、そして公会堂も借りたと会社側に密告したのだ」驚いた会社側言った。「組合は政治的活動をする団体ではなく、企業内組合ですので賃金値上げ交渉です」従って協力は無用ですと断った。その話を聞いて驚いたが、確かに公共施設借用目的にストライキの為と書いた。消防署にもストライキ決行した場合の集合場所と届け出た。これらの情報が警察署に流れ、会社側への通報となった。こうした状況の中で最終交渉が行われ会社側は書記長が相討ち、捨て身で来ると感じとった。単なる恫喝ではなく本気だと思ったのだ。私は交渉中もストライキについては触れることはなかった。皮肉なことに会社側は愚かな警察の密告によりびびり、何もしない組合に折れてしまったのだ。これこそ、相討ち覚悟、捨て身の戦法になっていたのだ。警察は組合に逆に有利なる加担を結果的にしてしまった。 後に組合として勝利したが、私個人へは報復が待っていた。陰湿な人事による「ざまー見ろ」的処遇会社に恨みは沸かなかった、それより周囲の組合幹部のよそよそしい視線と寄り付かなくなった組合幹部。私は 会社を去った。 2歳の息子、生まれたばかりの娘、マンションのローンを抱えしかし、めげていられなかった。夫として父として食べさせていかなければならなかった。絶対にみんなを見返すのだいう激しい怨念のように心身を奮い立たせた。後年、当時の労務課長は順調に出世して関連会社社長になった。会社を破壊するという汚名を着せて追い出した心の重荷を背負っていた。職務上致し方なかったのだが、互いに本心は理解していた。無二の親友になったのだ。今は 伊豆城ヶ崎海岸に夫人と暮らし、私も桜を見て温泉に浸かる。上京して柳橋にも立ち寄る。 次回続く 余談、イチローが10年連続200本安打達成その思いのコメントが掲載されていた。ここまでの道のりは> 1年目の春季キャンプでマイク・ハンプトン投手(当時ロッキーズのエース)対戦したとき(メディアからヒット打てると思うか)との質問が飛んできた。あの質問は一生忘れない。 私も先週おばさんとの会食で昔の屈辱の話をしたら「そんな事 いつまでも覚えている。くだらない」とお叱りを受けたが何も言わなかった。スケールは象と蟻程の違いがあるが、その屈辱 怨念こそ苦しい戦いに勝つ原動力なのだ。実体験しない人ほど、きれい事をもっともらしくしゃべる。