ごっとさんのブログ

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「ら抜き言葉」で抜けているのは「ら」ではない?

2017-12-01 10:31:46 | その他
こういった方面はこのブログでは取り上げたことはなかったのですが、「ら抜き言葉」の面白い解説記事を見ました。

見れる、食べれるといった「ら抜き言葉」は一部の人にはあまり評判が良くないのですが、文化庁の2015年度の調査では、ら抜き言葉を使う人が、使わない人の割合を上回りました。

最近ら抜き言葉について抜けているのは「ら」ではないということが話題になっているようです。これはある教授の講座の中で出てきたようですが、ら抜き言葉をローマ字で書いて比較すると、抜けているのは「ar」であるというのです。(mirareruとmireru)

このこと自体は単なる表記の問題で、それほど面白いことでは無いのですが、この「ar」抜きの現象が可能表現全般に起こっているといいます。例えば、行く、歩くの可能形として「行かれる」「歩かれる」というのがあり、かしこまった状況などで使われといいますが、現在では「行ける」「歩ける」が一般的と思います。

この表現はなんと室町時代に「行ける」などが生まれ、併用されるようになったようです。これもローマ字で書いて比較すると、「ar」が抜けているということになるようです。このように大きな枠組みの中で可能表現全体の歴史的な動向として捉えようとするのが、「ar」抜きという見方などです。

これが抜けるメカニズムについては、「動詞+助動詞」という組み合わせで可能を表現していた時代から、一語化した「可能動詞」が成立したと説明できますが、なぜ「ar」が抜けるのかは説明は難しいようです。

こういった言葉の変化には、言葉自体に仕組まれたメカニズムや社会の変化など色々な要因が関係しているとしています。

長い時間をかけて生じた言葉の時代差と、祖父母世代と孫世代が共存する中で起こる世代差とは、実質的に同じものとしています。「行かれる→行ける」の変化が出だしたのは、室町時代ごろで、「見られる→見れる」のら抜き言葉が登場したのが大正・昭和時代からだそうです。

ですからら抜き言葉を言葉の乱れとしてにらむ傾向がありますが、長い目で見れば昔から起こっていることとして捉えられるようです。現代では「行かれる」という言葉は丁寧語的な意味合いで、行くことができるという意味で使うことは無いような気がします。つまり行かれるから行けるへの移行が完了していると考えるようです。

私もこういった文章を書くときは「ら抜き言葉」は多分使っていませんし、話し言葉としてもあまり使わないような気がします。しかし新しい動詞が生まれてきたと考えれば、正式な日本語として認めても良いような気がしました。