アナモルフォーズ(歪像画)
Slavoj Zizek (Routledge Critical Thinkers)Tony Myers スラヴォイ・ジジェクの鍵となる概念の解説本で、おもしろそうなので、昨日買ってきた。1,2章をさらっと読み、中間すっとばして、6章を読んでみた。
人種差別はなぜ、つねに、幻想なのか?
109項にある要約を中心にまとめると、
○ジジェクにとって、人種差別は優越性の競合ではなく、幻想の衝突である。
○幻想は他者の自分への欲望に対する防衛反応からうまれる。
ユダヤ人は何を欲しているかわからない。だから、その防衛として、(彼等は世界征服を企んでいるのだ、彼等は金の亡者といった)幻想のシナリオを組み立てる。
○幻想を通じて実在を認識する。幻想は、アナモルフォーシスのようなものである。
意味のない模様が、ある視点からみると、あるいは、ある鏡・めがねを通してみるとようやく、意味のある姿になる。
○幻想は、私に、われわれに、特有なものであり、それによって、我々は我々になり、私は私になる。従って、幻想に対する他者からの侵害に対して極端に敏感になる。
○幻想によってわれわれは楽しみ・快楽(enjoyment)を組織立てる。
○人種差別主義者の幻想は
1)
民族的他者は特有の楽しみ・快楽をもっている。
これについては、日本人の例が挙げられている。
日本人が仕事と遊びの区別がつかない、のは、アメリカ人にとって正常ではなく、脅威である。
その他、いくつかの文化にみられるarranged marriage お見合い結婚に対する不安の例がだされている。
2)民族的他者はわれわれから楽しみ・快楽を奪おうとしている。
(この具体例はわからない。日本人がハロウィーンを楽しんでいるのを快くなく思っているアメリカ人のおばちゃんがいたが、そんな感じか?)
○どちらの場合も、人種主義者は、自分の幻想の特殊性を維持しようとしている。グローバリゼイションで普遍性のなかに特殊性が埋没しつつある。それに対する抵抗がある。
幻想に対しては、理性的な議論は無意味である。
人種主義者のドイツ人に、トルコ人について、フランス人にアルジェリア人について、イギリス人にインド人について、他者についてしっかりした知識を与えてもかわりはない。例えば、仮に隣にいいユダヤ人がいたとしても、ナチの影響下にある人は、ユダヤ人について意見を変えないで、むしろ、「ユダヤ人は表面上まともにふるまっているのはいかにもおそろしい」となるだろう、と。
(そういえば、日本人は分からないような微妙な仕方がで差別する、といっていた韓国・朝鮮の人がいたっけ。)
他者がいなければ調和社会が訪れる、ということもない。社会はつねにすでに分裂している。
では、どうすべきか?
あ)他人の幻想に介入しない。
い)国家がグループ間の緩衝役を務める。
う)幻想を横断し、幻想の向こうに何もないことを認識する。
ということで、まあ、多少ブンガク的な表現が多くて肌に合わないし、また、ご本人の本に興味がないので、これであたっているかどうかわかりません。
いずれにせよ、一部の欧米人にとっては日本人ははじめから同じ人間とみえるわけではなく、意味のない模様で、ある種の幻想を通じて日本・日本人を眺めている。それが一部の日本・日本人論であり、また、有道ブログなどにみられる欧米人によるコメントの数々なわけでしょうね。彼等が他者との議論や交流を拒むのも、それを取り払ってしまえば、ーーーブンガク的にいえばーーー彼等が彼等でなくなり、死んでしまうからのでしょう。
日本人は被害者でもあり加害者でもありますから、この点、しっかり、見極める必要がある。
韓国人や朝鮮人、中国人や欧米人に対してなにか凝り固まった観念を抱いている人がいるが、やはり、そうした観念を”横断する”必要もあるでしょう。
また、しっかりとした知識を与えることがあまり意味のないようなことを言っているようですが、ぼくはそうは思わない。有道ブログの人々のように引きこもって現実逃避している重症の人々は別ですけど、軽症の場合、知識を与えて、交流すれば違いを認めながらうまくつきあっていけるのだ、と思っています。すべてわかり合えるということはない。しかし、より深くわかりあう、ということは可能である、と。
Slavoj Zizek (Routledge Critical Thinkers)Tony Myers スラヴォイ・ジジェクの鍵となる概念の解説本で、おもしろそうなので、昨日買ってきた。1,2章をさらっと読み、中間すっとばして、6章を読んでみた。
Why is racism always a fantasy?
人種差別はなぜ、つねに、幻想なのか?
109項にある要約を中心にまとめると、
○ジジェクにとって、人種差別は優越性の競合ではなく、幻想の衝突である。
○幻想は他者の自分への欲望に対する防衛反応からうまれる。
ユダヤ人は何を欲しているかわからない。だから、その防衛として、(彼等は世界征服を企んでいるのだ、彼等は金の亡者といった)幻想のシナリオを組み立てる。
○幻想を通じて実在を認識する。幻想は、アナモルフォーシスのようなものである。
意味のない模様が、ある視点からみると、あるいは、ある鏡・めがねを通してみるとようやく、意味のある姿になる。
○幻想は、私に、われわれに、特有なものであり、それによって、我々は我々になり、私は私になる。従って、幻想に対する他者からの侵害に対して極端に敏感になる。
○幻想によってわれわれは楽しみ・快楽(enjoyment)を組織立てる。
○人種差別主義者の幻想は
1)
民族的他者は特有の楽しみ・快楽をもっている。
これについては、日本人の例が挙げられている。
A strand of American is "bothered" by the way Japanese seem to enjoy working and work at enjoyment. The Japanese, by American conventions, do not know how to separate work from play---their relationship to enjoyment is in some way distrurbed or 'not normal'. They are therefore a 'threat' to the American way of life. p106
日本人が仕事と遊びの区別がつかない、のは、アメリカ人にとって正常ではなく、脅威である。
その他、いくつかの文化にみられるarranged marriage お見合い結婚に対する不安の例がだされている。
2)民族的他者はわれわれから楽しみ・快楽を奪おうとしている。
(この具体例はわからない。日本人がハロウィーンを楽しんでいるのを快くなく思っているアメリカ人のおばちゃんがいたが、そんな感じか?)
○どちらの場合も、人種主義者は、自分の幻想の特殊性を維持しようとしている。グローバリゼイションで普遍性のなかに特殊性が埋没しつつある。それに対する抵抗がある。
幻想に対しては、理性的な議論は無意味である。
人種主義者のドイツ人に、トルコ人について、フランス人にアルジェリア人について、イギリス人にインド人について、他者についてしっかりした知識を与えてもかわりはない。例えば、仮に隣にいいユダヤ人がいたとしても、ナチの影響下にある人は、ユダヤ人について意見を変えないで、むしろ、「ユダヤ人は表面上まともにふるまっているのはいかにもおそろしい」となるだろう、と。
(そういえば、日本人は分からないような微妙な仕方がで差別する、といっていた韓国・朝鮮の人がいたっけ。)
他者がいなければ調和社会が訪れる、ということもない。社会はつねにすでに分裂している。
では、どうすべきか?
あ)他人の幻想に介入しない。
い)国家がグループ間の緩衝役を務める。
う)幻想を横断し、幻想の向こうに何もないことを認識する。
ということで、まあ、多少ブンガク的な表現が多くて肌に合わないし、また、ご本人の本に興味がないので、これであたっているかどうかわかりません。
いずれにせよ、一部の欧米人にとっては日本人ははじめから同じ人間とみえるわけではなく、意味のない模様で、ある種の幻想を通じて日本・日本人を眺めている。それが一部の日本・日本人論であり、また、有道ブログなどにみられる欧米人によるコメントの数々なわけでしょうね。彼等が他者との議論や交流を拒むのも、それを取り払ってしまえば、ーーーブンガク的にいえばーーー彼等が彼等でなくなり、死んでしまうからのでしょう。
日本人は被害者でもあり加害者でもありますから、この点、しっかり、見極める必要がある。
韓国人や朝鮮人、中国人や欧米人に対してなにか凝り固まった観念を抱いている人がいるが、やはり、そうした観念を”横断する”必要もあるでしょう。
また、しっかりとした知識を与えることがあまり意味のないようなことを言っているようですが、ぼくはそうは思わない。有道ブログの人々のように引きこもって現実逃避している重症の人々は別ですけど、軽症の場合、知識を与えて、交流すれば違いを認めながらうまくつきあっていけるのだ、と思っています。すべてわかり合えるということはない。しかし、より深くわかりあう、ということは可能である、と。