HAYASHI-NO-KO

雑草三昧、時々独り言

ロマンチストの独り言-25 【コンコード】

2004-12-31 | 【独り言】

ロマンチストの独り言-25 

【コンコード】

何年もむかし 僕たちは コンコードの扉を開け 狭い あの階段を昇った。

グレープジュースもおいしいんだヨ 
でも コンコードでは コーヒー....ネ
あなたは きょうも ブラック?

その おさとう くれる?

そうなの あまくしないと のめないの....

星の王子さまって
きっと バラのはなと さいかいしたんだよネ
そうじゃないと かわいそう

にんげんって ほんとうにしんでしまうの?

そうネ....
そのひとが しんでも いきつづけるんよネ

きのうネ 吉岡さんのてがみが
また あなたのと いっしょにきたのョ
  だから きゅうにあいたくなってしまったの....

    何年か経ってしまっても 僕はまた 
    思い出を追って コンコードの扉を開け 
    狭いあの階段を昇ってゆく

* * *

こんな文章が残されていた。
僕が、多くの友との語らいに利用した場所の中で、喫茶店というのはさほど多くない。

只、「コンコード」と「らんぶる」だけは当然のことなのだが、大学生活の中では、重要な位置を占めていた気がする。

「コンコード」は三ノ宮センター街を、元町方面に歩き、途中生田筋を左折、
ミュンヘン神戸大使館の手前の道を入って初めての路地(とんかつ「呂地」の西側)をもう一度左折した場所にあった。
2階から突き出た、薄茶の地に黄色で「コンコード」と書かれた看板は、知らなければ見付けられないほどに小さかった。
 
 木の扉を手前に引き開ける。1階は、5~6人で一杯になってしまう程の、J型のカウンターと、4人掛のテーブルが二つ。
とにかく、狭い。
僕が、一番最初にそこを訪れたのは、暮れの第九を聞いた帰り、柳本と一緒だった。
 彼は、直ぐ近くの銀行に就職していたし、「労音」の帰りは決まって「コンコード」だった。

  久々の感動と、耳に残る大合唱の余韻に浸っていた僕たちは、「こんばんわ。」の声に迎えられた。
入り口に近いカウンターに腰掛け、僕は暫く友と店の人の会話を聞いていた。
普通、喫茶店では席に着くと、ウエイトレスがやって来て、コップに入った水と灰皿なんかを置きながら、
お客に対して、「ご注文は?」とか、「何になさいますか?」と言う声が掛けられるのだが、10分近く話し込んでいる間も、一言も注文を聞かない(聞いてくれない)。
 柳本は、「今日、大阪フィルの第九だったんだけど、伊藤京子さんのソプラノは、実にいい。」とか、
「この間貰ったレモンは、一寸皮が厚かった。」等と話し込んでいる。

 「柳本、コーヒ飲みたいんやけど。」
 「あっ、めんご!!  彼にコーヒー、僕も。」(めんごは、彼の口癖。ゴメンの意味である。)
 「ホット二つ、今日は飲まないのかと思ってた。」
 「彼は、神戸商大。高校が同じで、クラシック音楽が好きで、詩人。最近は、山に行っている。」と、紹介し始める。 
 「狭いですけど、ごゆっくり。お手洗いはお二階です。」
 と、聞きもしないのにトイレの説明。
全く不思議な喫茶店。

 最初の出会いから、僕は、山小屋風の部屋自体のぬくもりや、お店の人(女の人が三人)夫々の個性に、
「コンコード」の持つ暖かい雰囲気を感じ、一度で気に入ってしまった。
柳本との待ち合わせに、「1時半、コンコード」が暫く続くことになる。

  その後、僕は一人でそこを訪れるようになる。
柳川さんは、神戸市のスキー連盟だったかの役員で、「コンコード」の常連にもスキー仲間が多く、当然山の話しも多く聞けた。
コーヒーの入れ方はネル・ドリップ式で、何とも言えない濃厚さが気に入っていたし、
黙っていれば、一人でカウンターに座っていると何時間でも、そっとしておいてくれた。
その雰囲気の良さを、多くの友人・知人に紹介したのだが、一緒にそこでコーヒーを飲んだ人は、意外に少ない気がする。 
その中で、最も多く(と言っても、大学時代に3度だけなのだが)、最も長い時間語り合った人との、冬の日の記憶を辿ろう。

*   *   *

 昭和43年冬、その前年夏に、就職も早々と決まっていた僕は、しかし、大学の卒業式までの間、高校時代とは違って、余り人と語る時間を持たなかった。
 「どうせこの町を出て行くんだ。」と考えていたし、山の仲間達も、それぞれの就職先はバラバラだったし、男同士の感傷は少なかった。
ただ前年春、気まぐれに参加した、神戸女子薬科大学旅行部との合ハイで知り合えた佐野礼子との、短い交際だけが一つの感傷だった。
僕たちは、月に一度程度の語らいだったが、大事にその時間を使っていた。

  1月になっていた。別れが近い所為もあったのだろう、僕たちは三度も会った。
寒い中に、やがて来る筈の春の気配を感じながら明石公園を歩き、「桜の頃は、横浜に居るんだ。」等と感傷的に語ったこともあった。

  その1月末に、叔父さんが亡くなり急遽帰省、神戸に戻った後、僕の差し出した手紙への返事を電話でくれた。
  『きのう、手紙受け取ったワ、返事書こうと思ったけど、間に合わないと思って電話したのョ。 ごめんなさい! お会いできるのなら、会いたい。』
 早速、時間と場所を決めた。
  「1時、いつもの花屋さんの前」

  当日、冬の日差しはあるものの、風が冷たい2月の午後だった。約束の1時少し前、
三ノ宮西口、交通センタービル1階の小さな花屋さんに着いた。
だが、行き違いがあって少し遅れる事になった。
寮へ電話する。 

 彼女は、一年生だったから、下宿ではなく、如修塾という学寮に入っていた。
当然、僕たちのデートは、同室の人たちには知られていたのだろう、ちょっぴりひやかされてしまった。
 「佐野さん、一寸研究所のお手伝いがあったので遅れて出掛けました。寒い風が吹いているようですから、気を付けてあげて下さいネ。」

彼女が到着したのは、その10分位後だった。
人通りの少ない三ノ宮センター街を抜け、慌ただしかった1月から2月の出来事などを話しながら日東館へ。
「立原道造詩集」を買う。
福永武彦の「海市」、高橋和巳.... 、幾度かの語らいの中に登場した、懐かしい本が並んでいる。
「文芸春秋」に掲載された、柴田翔の「されどわれらが日々...」が、寮の中で評判になっていること等を話しながら、
喫茶店へ入るつもりで、三ノ宮方面に戻りかけて、尋ねる。

「寒くなけりゃ、海へ行ってみようと思ってたんだけど。」
『行きたいワ、とても行きたいって思ってたのョ。』

元町商店街を抜け、ポートタワーのある、中突堤まで歩く。海面がキラキラ輝いている。
  『こうして見ていると、春の様ネ。』
その数週間前、明石公園を散策した折、少し感傷的になりながら、剛ノ池のほとりで交わした会話と同じだった。
とても暖かく感じられる言葉。
しばらく岸壁で、煌く海を見ていた。
その突堤に、別府航路の客船が入ってくる。
  『私まだ、船に乗ったことないのョ。』無邪気にそう言って笑った。
船の乗客の流れに乗って、元町へ戻る。
街路に植えられた夾竹桃の花に三つの色があると話す僕に、遠い夏を見るように答える。
  『夾竹桃の木がこれだとは知ってたけど、白い花があるのは知らなかった。』

海岸通りを、少し冷たい風に吹かれながら歩き、「大丸」の前辺りで、 『久し振り、おいしいコーヒーが飲みたいね....』
という訳で、三度目の「コンコード」へ。

 カウベルがカランカランと鳴っていた木製の扉は、年開け早々、自動扉に変えられ
ていたのだが、彼女はそれを知らず、突然開いたドアに驚いた様子がおかしかった。
いつもの明るい声に迎えられ、黙って上を指差した僕に、  「暖かいですから、ごゆっくり。」の返事。
2階ヘの階段は一人がやっと通れるほどに狭く、180度回っている。
冷たい風に吹かれていた上に、暖かすぎるくらいの暖房のせいで、顔が火照って赤い。
少し薄めに落としてもらったコーヒを一口飲んで、くつろいだ気分になる。
3月の予定を話しはじめた。

  『兄ちゃんのところに寄って、いずれにしても一度神戸に帰ってくるワ。』
 いずれにしても、というのは、終わったばかりの学年末試験の結果、追試の有無に拘わらずという意味だった。
彼女のお兄さんは、僕と同い年だった。
信州大学在学中だったので、彼女はスキーの後、お兄さんを尋ねる予定になっていた。
その後、直接、故郷米子に戻る予定を変更して、もう一度神戸に戻って来ることを約束してくれた。
少し浮き浮きした気分になったが、その後、数日前に亡くなった叔父さんの話題になった。
  『話しても、判ってもらえるとは思わないけど。』
と言いながら、叔父さんの死に関連して、色々な思い出話を始めた。
前年夏、始めて彼女の故郷を訪問し、長門・萩を巡った夕方、再度米子駅に降り、大谷町の実家を訪れた時、
 『ここがおじさんの家。植木が一杯あるワ。』
 そう言って教えて下さった「紫好園」のおじさんの死である。
「死」について語ることは、「わかれ」にも繋がることで、卒業を1か月後に控え、
その後東京に出ることが決まっていた僕には、つらい話題だった。
しかしその日の、コンコードでの2時間ばかりの語らいの大半は、「死」についてだった。
そしてその時、彼女は奇妙な三つの話をしてくれた。
僕たちの心が通い合っていたことを話したかったのだろう。
僕にとっても、その三つの偶然が嬉しかった。

  『昨日、電話したでしょう? あの時、もしあなたが居なかったら、1時頃、花屋さんの前、そう言おうと思っていたの。
そしたら、あなたが居て、花屋さんの前って言ってくれたでしょう。』

  『昨日の夜、日記に、海へ行きたい、海へ行きたいって書いたのョ。そしたら、今日、海に行けたでしょう!!』 
そのことを、素直な気持ちで嬉しいと思ったと話した。
(その事が余程嬉しかったのか、直後に貰った手紙にも喜びの文字が綴られていた。)

そしてもう一つの不思議な偶然。 
  『この間貰った手紙に書いてくれてたでしょう。「草の花」と「されどわれらが日々-」から感じた、「死に臨んで思い出すこと....」の文章。
あなたのその文章は、不思議なんだけど、叔父さんが亡くなった日に書かれたものなのョ。』

  不思議な糸を感じ、大学生最後の年、わずか1年足らずの関わり合いにも拘わらず、最も身近にその存在を感じ合えた佐野礼子。
丁度、高校生最後の年の、あの藤本との語らいの日々にも似て、その時々に、深い感動を覚える会話のあった日々。
たとえ、別れゆく者達の感傷と言われようとも、精一杯の真剣さで関わり合えた日々。
僕たちは、それでも結局別れてゆくことを少しずつ実感し始めていた。
この日のコンコードの2時間、僕たちの座った席は、2階の階段を昇って左、トイレに近い席だった。

  その日以降、僕たちが二人でコンコードの席を占めることはない。

  何年か経って、店の名前も変わってしまったし、先年の大震災では恐らく大きな被害があったのだろう、その後、店そのものも取り壊されてしまった。
しかし、時折僕の耳には、週に1度は足を運び、そこに幾つもの足跡を残した木の床の、歩く度軋んでいたあの音が遠くに聞こえる。

*    *     *

挿入したイラストは、彼女との邂逅の年の冬に書かれたもの。
最初の紹介者・柳本とは「労音」帰り以外は利用しなかったが、元町駅地下の雀荘帰り、ワンゲルの仲間たちとの語らいに幾度か利用していた。
妹尾河童の真似をしてよくこの種の絵を描いていた
佐野礼子とは、この日が三度目だったが僕が描いたこのイラストは知らないだろう。
何年か経って、学生時代を懐かしみながら三ノ宮・元町周辺の写真を撮ったのだが、その中に「コンコード」の写真も有ったように記憶している。
                              
Cafe de CONCORD   僕はこのコンコードの室内概略図を、やはり諫早のツーちゃんに送っている。
一年間、神戸に居たけれどまだ高校生だったし、喫茶店の存在も知らなかったから一度もこの場所で語った記憶はない。

この図は、前ページのメモを基に書き直したもののようである。
ワンゲルの仲間、野瀬田と、小嶋の名前がある。
時折僕は理論家だった彼らと、コンコードで語り合っていた。
ただ、4人揃ってしまうと、元町駅地下の雀荘直行の方が多かったのだが。
日付の1967年2月は、大学3年の冬。
春合宿に九州の島歩きを計画し、三班に別れて屋久島・対馬・天草を歩いている。
丁度1年後の1968年2月、佐野礼子と語り合ったのは、図では左上に書かれているテーブル。
そこだけは他と違って椅子が背もたれの無い丸椅子だった。

【高野悦子異聞】

高野悦子。 昭和二十四年一月二日生まれ。昭和四十四年六月二十四日未明、鉄道自殺。
死後、生前書き綴られていた日記が、出身地栃木の同人誌『那須文学』
に、父君の編集で発表され、
その後新潮社から『二十歳の原点』として上梓。
『二十歳の原点序章』『二十歳の原点ノート』も以降、続編として刊行された。

* * *

小生は、昭和二十一年三月生まれ。
従って、大学時代をほんの一年間共有したに過ぎないし、会話は大学卒業後の事である。
書評等にも、自殺の要因の一つに、学生運動への挫折や失恋があるように書かれているし、『二十歳の原点』のトーンは、表面的にはそれらの書評が当たっている。

ただ、彼女の内面部分が全て吐露された「ノート」だったのかどうかは、残念ながら誰にも解らない。
時間の前後も曖昧になっているし、多少私小説的にも過ぎるのだが、三十年近く経過して薄れてしまったもの、消えてしまったものも多い、当時の状況を思い出として記そう。

小生の大学生活は、昭和三十九年から昭和四十三年春。
学生新聞を介しての学生運動との関わりと、ワンダーフォーゲル部に所属しての、山野跋渉が中心の四年間だった。
最後の年、つまり昭和四十二年初夏、就職先も早々に決まり、激化の一途を辿りつつあった学生運動の派閥・主導権争いに大いなる幻滅・失望を感じながら、益々山へのめり込んでいった。
その年の春、合ハイで、別の大学の一回生となった女性(仮称をRとする。奇しくも高野悦子と数日しか誕生日が違っていなかった)と関わりを持つ事になる。
就職は東京本社の会社だったが、運良く営業勤務となり、神戸に戻った。
山仲間も多く、卒業後も「山」との関わりは消えなかった。
毎年春、関西地方所在のワンダラーが一同に集まる「関西合同ワンデリング大会」が所属大学の幹事持ち回りで開催されていた。
京都・立命館大学も参加していたが、熱心だったのは同じ京都の同志社大学の方だった。
実行委員会は殆どが二、三年回生中心だったから、新入部員の高野悦子がそこに参加していた可能性は無いだろう。
或いは、会場設営、世話係として手伝っていたのかも知れない。
しかし、自殺の前年、二回生になった春に入部し、小柄な体に似合わない頑張りで、大学周辺の、京都・滋賀の山々、鈴鹿を精力的に歩き回った事は、その活動期間が短かった事と反比例するかのように、その後、伝説的に語られた。

昭和四十三年秋、小生はRとその友人を訪ねて京都を訪れ、「シアンクレール」で小一時間語る事になる。
紹介されたのが、その伝説の人、だった。ワンゲルの良さを話しながら、どうも「山」に逃げ場所を、都会の喧騒や煩わしさからの逃避を願っている話し振りが気がかりだった事、神戸の「コンコード」で喋ろうね、と言って地図を渡した事をぼんやりと覚えている。

この初めての会話では、残念だが、学生運動への関わりや反発に就いての話題は、全く無かった。
小生が関わった頃のRは、同じように「自分自身の固い殻に閉じ篭った、世間知らずの甘えん坊、欠点だらけで、多くの矛盾を感じながら生きていた」し、高野悦子も手記に見えるように、『孤独であること、未熟であること』を自らの原点として、自分自身を律する事にその精神エネルギーの大部分を燃焼させていた。

その、不思議なくらいの共通点が、今も鮮明である。
青春とはその様に、一途なものなのだろう。
ただ、二人に違っていたのは、Rには青春を語り合う相手が、小生を含めて数人居た。
しかし、高野悦子には、一体何人の人が日常会話の中で、青春の日々を語り合ったのだろう。
多くの、青春の真っ只中での「自殺者」が、自らの死に臨んで何を思い出すのかは、解らないのだが、そして又、例え語り合える人達が居たとしても「個人の意志としての死」を止める事が可能なのかどうかは解りはしない。
がしかし、少なくとも、残された者達にとっては、死者と語り合った事々が、唯一の接点、或いは救い、諦めになると思っている。

少し古すぎる話だが、昭和二十一年十月二十五日夜、神奈川・逗子海岸で入水自殺した原口統三の手記を纏めた『二十歳のエチュード』(角川文庫版)でも、原口は、多くの知人・友人との関わりを残しながら、結局は自らの意志のままに、自殺を選択している。

手記・日記・ノートに忠実すぎる事が、自殺者の共通項だろうか。

自らの生への関わりを、人との語らいの中に残す事よりも、手記・日記・ノートに残す事を選択するのは、人が生まれながらにして持っているロマンチシズムでしか無いと思っていた小生は、青春そのものと訣別する為、昭和四十七年秋、「のおと」を書き綴る事を断ち、Rはその翌年夏、小生との関わりの初めから書き綴っていた「のうと」の全てを焼却した。

そして、その後二十年近く経って、お互い二児の親となった頃、再会した。
忘却している事の多くも、もしお互いが、その関わりを深めていた当時書き綴った「のおと」「のうと」が残されていたならば、記憶を辿るよすがにもなるのだが、と話す小生に、Rは冷ややかな笑いを見せてこう話した。
……相変わらずね。
以前にも言ったと思うけど、千枝子の便りの中に「人間の心の奥深いところは、誰にも分からないのでございませう。」
と言うのがあったでしょう?  人は、誰しも自分だけの秘密を持っているものよ。その一つ一つを確かめるなんて,必要無い事じゃ無い??  学生運動への情熱も、転向も、あなただけの事情だったのよ。

学生運動の分裂・主導権争いの歴史は古いのだろうが、昭和四十年前後から始まり、学園紛争の最中にピークを迎えた分裂騒動に対して、大方は傍観者だったのだろう。
「六十年安保」以降、目標を失ってしまった学生運動に、転向も多かった。
小生自身も間違い無く転向者だった。
柴田翔の『されどわれらが日々ー』(新潮社版)に、少しばかり共感しつつも、後ろめたさが感じられたのはまさにこの体験の所為だったと思っている。
そして、その学園紛争の最中にピークを迎えた分裂騒動に、自らの青春と、精神の大半を投げ出してしまった筈の高野悦子。

小生は、自分自身では当時、山を逃げ場所にしたとは思ってもいなかった。
学生運動の転向に、些かの後ろめたさを感じながらも、時間と共に、友との語らいの中に、整理していった。
忠実な闘争者では無かったし、なれるとも思えなかった。
今にして思えば、語らいの中心は山仲間だったし、Rだったから、それらの人々との語らいの中に、逃げ場所を作っていた事になるのだが。
その後、Rとは四度会っている。
伯耆富士・大山の見える地が、彼女の生まれ故郷。
青春の一時期、神戸の街で、共通の話題としての、山を、旅を、音楽を、人生を語り合った事を覚えている友として大切にしている。
しかし、共通の話題として、高野悦子が登場する事は無い。
もう、記憶にさえも残っていないと言う。
「人は、年齢を重ねるに従って、悲しい事のみを残して、昔の楽しかったこと、美しかったことを次第に忘れてゆくのでは無いでしょうか」と言う『草の花』(新潮社版)にある言葉を引用して、でも、可能な限り楽しかった事も、美しかった事も覚えておきたいと言ったR。
小生は、時折思い出す日々に、この二人をダブらせてしまうことがある。
一人は「のうと」に忠実に青春を刻み、訣別の為にその一切を焼却してしまったし、一人は最後まで手記にのみ忠実に生き、死んでいってしまった。
三十年近く経った今も、「シアンクレール」は京都にあるのだろうか。
結局は行く事の無かった、神戸・三ノ宮にあった「コンコード」は、随分以前に店の名前が変わり、先年の大震災で潰れてしまった。
僕たちがそこで話した頃は、紛れも無く『青春』の一時期だった…。

2023.08 に再編した折、手違いで消えてしまった為に、オリジナルテキストからコピー再編し、一部を追記した。

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