カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ロシア・サンクトペテルブルク(その2)

2017-07-13 | ロシア
次に、国立ロシア美術館に向かう。美術館は、もともと第9代ロシア皇帝(ロマノフ朝)パーヴェル1世(在位:1796~1801)が皇子ミハイル大公のために建てたミハイロフスキー宮殿だが、美術館としては、1895年、第14代ロシア皇帝ニコライ2世(在位;1894~1917)が父帝アレクサンドル3世(在位:1881~1894)を記念して開館したもの。美術館へは「血の上の救世主教会」が建つグリボエードフ運河沿いの西口から入館が可能だが、宮殿は南側に面していることから、ここからは建物の全容を望むことはできない。


今日(木曜)の開館は午後9時までである。現在、午後6時なので3時間ほどの鑑賞時間があるが、世界有数の約37万点ものコレクション数を踏まえると、まったく時間は足りないわけだ。急ぎ、円柱の並ぶ宮殿の威容を感じるエントランスホールから展示室に向かうことにする。


入場料450ルーブル(一人当たり)を支払い、最初にイコンの展示室から鑑賞する。こちらは、ロシア美術館を代表する作品の一つで、ノヴゴロド公国の聖ゲオルギーと竜(15世紀後半、レニングラード州マニヒノ教会)である。聖ゲオルギーは、古代ギリシア語で聖ゲオルギオス(英語でジョージ、イタリア語でジョルジョ)のことで、古代ローマ末期の殉教者でドラゴン退治の伝説で良く知られている。
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イコンが制作されたノヴゴロド公国とは、古代ロシアの主要な都市国家の一つで文化レベルも高く、多くの芸術作品が制作された。そして、そのノヴゴロド公国からは、他にも、聖ゲオルギーの生涯(14世紀前半)リンボ界(地獄と天国との中間)への降下(14世紀後半、チフヴィン)や、エルサレムのヤコブ、アンティオキアのイグナティオス、抱神者シメオン(15世紀後半、オネガ湖の生神女就寝聖堂)など芸術性豊かなイコン作品が展示されている。

そして、15世紀ロシア・モスクワ派(ルブリョフ派)のイコン画家の巨匠アンドレイ・ルブリョフの作品があるが、こちらは工房(ワークショップ)による作品、聖ペテロと聖パウロ(1408頃)と、洗礼(1408頃)とが展示されている。

他にも、近世ロシアの代表的画家(宮廷画家)で知られるシモン・ウシャコフ(Simon Ushakov)の至聖三者(1671)などが展示されていた。至聖三者は、1551年、モスクワでの百章会議に於いてアンドレイ・ルブリョフ作品を手本とすることが決まったことから同じ構図で描かれた。


こちらの展示室の中央には、海の風景画で知られるイヴァン・アイヴァゾフスキー(1817~1900)の、波(1889)が展示されている。画面一杯にうねり打つ迫力の画面を見ていると、今にも吸い込まれてしまいそうだ。そしてその右隣には、九番目の波(1850)が展示されている。九番目の波とは、先頭の波から数えて9番目の波が最も高くなるとされ大荒波の表現として使われる。


展示室には18世紀から19世紀にかけてロシアを代表する画家の作品が続いている。こちらは、ロシア最大の画家イワン・クラムスコイ(1837~1887)の作品で、農夫をモデルに描いたミーナ・モイセーエフの肖像(1882)と、ロシアの風景画家であるイヴァン・シーシキンの肖像(1880)。そして、そのイヴァン・シーシキン(1832~1898)が描いた作品では、オーク(楢)(1887)などが展示されていた。

そして、モスクワ美術学校で学び、後に同校の教授になったロシアの画家ヴァシリー・ペロフ(1834~1882)の休息する狩猟家(1877)と、19世紀ロシア文学を代表する文豪ツルゲーネフを描いたイワン・ツルゲーネフの肖像(1872)。そして、移動派に属したロシアの画家コンスタンチン・マコフスキー(1839~1915)の家族の肖像(1882)。ヴァシーリー・ポレーノフ(1844~1927)の蓊鬱たる樹木池(1879)である。

こちらの展示室には、ロシア美術館を代表する作品の一つ、ロシア写実主義の画家イリヤ・レーピン(1844~1930)のヴォルガの船引き(1870~1873)が展示されている。ところで漫画家池田理代子氏がこの作品に魅了されロシアが舞台の作品を描いたことは良く知られている。なお、同一作品として、先頭の農民を正面からとらえたバージョンも展示されていた。

イリヤ・レーピンの作品は、数多く展示されている。こちらは、囚人を救う聖ニコライ・ミルリキスキー(1888)。聖ニコライは、3~4世紀キリスト教の司教、神学者で、海運の守護聖人やサンタクロースで知られている聖ニコラスで、死刑執行人が振りかざす剣を囚人の背後で制止する聖人の力強い姿を正面に捉えている。他にもトルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック(1880~1891)など、こちらは、服従を迫るスルタンに対し、ふんぞり返り嘲弄するコサック兵の坊主頭を背後から正面に捉えるなんとも大胆な構図である。

ロシア帝国末期の画家で、大作の歴史画を得意としたワシーリー・スリコフ(1848~1916)のイェルマークのシベリア征服(1895)と、雪砦の奪取(1891)。ミハイル・ネステロフ(1862~1942)の聖なるルーシ(1905)。彼はロシア象徴主義運動の代表者の一人で、ロシアがかつてルーシーと呼ばれていた中世を舞台に宗教的な題材を求めた作品を描いた。

ヴァレンティン・セローフ( 1865~1911)のイダ・ルビンシュタインの肖像(1910)。トレチャコフ美術館で見たセローフの初期の明るい色彩作品と異なり、グラフィック技法が用いられた晩年の作品。モデルのイダ・ルビンシュタイン(1885~1960)は、ロシア出身のフランスのバレリーナで、エキゾチックで両性具有的な容姿が人気を集めた。なお、ラヴェルの「ボレロ」初演は、1928年、パリ・オペラ座において彼女のバレエ・カンパニーによって行われた。

最後に、ロシア・アヴァンギャルドの作品群を見ていく。ソ連(ソビエト連邦)誕生前後から1930年初頭にかけて、キュビスムや未来派などモダニズム芸術運動が開花した。抽象性を徹底して抽象絵画の到達点に達したとされる最大の画家が、ウクライナ・ロシア・ソ連の芸術家カジミール・マレーヴィチ(1879~1935)であり、彼の代表作の黒の正方形(1915年)などが展示されている。


マレーヴィチの作品では、やや具象表現された人物作品があるが、こちらの3作品の方が個人的にはお気に入りである。左から男の子(1928~1929)百姓女(1930)、そして黄色いシャツのタルソー(1932)と色鮮やかな作品が並んでいる。
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他にも明るく華やかな色調の風俗画や風景画で知られるボリス・クストーディエフ(1878~1927)のお茶の飲む商人の妻(1918)や、ミハイル・ラリオーノフ(1881~1964)のヴィーナス(1912)など愛らしい作品もあり、ロシア・アヴァンギャルドには魅了されてしまった。


さて、閉館時間の午後9時まで見学した後、レストランに向かう。再び「血の上の救世主教会」まで戻り、北側にある教会入口側に回り込んで、運河に架かる橋を渡り、
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左側の建物の一階にあるレストラン・ミートヘッド(Meat Head)に行く。建物壁面に美味しそうな肉の部位を掲げたパネルが決め手になり、予め国立ロシア美術館見学前に予約しておいた。店の前にはテラス席もあり、黒服姿の大柄なスタッフが案内するなど、やや高級感を感じる店構えである。


店内は煉瓦造りに囲まれた中にカウンターと、テーブル席がゆとりをもって配置され、カジュアルな雰囲気だ。奥にもテーブルはあるようだが、この場所からは見えない。

ビール(390ルーブル)やグラス・ワイン(690ルーブル)を頼むと、最初にアミューズが出てきた。メニューは英語メニューがあり、料理はアラカルトでグリーン・ミックスサラダ(430ルーブル)、焼きミドリイガイ(680ルーブル)ゆでたジャガイモと酢漬けのニシン(390ルーブル)ボルシチ1/2(210ルーブル)トップブレード(ミスジ)(1100ルーブル)などを頼んだ。ボリュームもそれなりにあり、値段も高くなく味もまあまあといったところ。概ね満足できた。

レストランを午後11時前に出たが、まだ空は明るい。緯度が高いためだが、流石にこの時間まで明るいのには驚いた。この時期のサンクトペテルブルクの日の入り時間はだいたい午後10時半頃とのこと(モスクワより1時間以上遅い)。道路が濡れていることから食事中に雨が降ったようだ。運河沿いをネフスキー大通り方面に歩き、


ネフスキー大通りを左折し、カザン聖堂前からバスに乗ってアパートメントに帰った。


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翌朝、天気は曇りだが、今にも降りそうな雰囲気である。これから、市場ボリショイ・ゴスチーヌイ・ドヴォール(大商店街)東側のサドヴァヤ通りから、北方面へのトラムに乗り、ペトロパヴロフスク要塞に向かう。乗車後、マルス広場を過ぎ、ネヴァ川に架かるトロイツキー橋を渡ると、左窓(西側)に目的地ペトロパヴロフスク要塞に建つペトロパヴロフスキー大聖堂の尖塔が見えてきた。
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ところで、17世紀後半のネヴァ川河口のこの地(当時はイングリアと呼ばれた)は、スウェーデンの支配下にあり、ロシアの港は、イングリア北東の白海に面したアルハンゲリスクのみ(黒海はオスマン帝国の勢力下)であった。つまりロシアの大国化政策にとってバルト海への勢力拡大は、欠かせないものであった。

モスクワ・ロシアのツァーリ、ピョートル1世(1672~1725)は、バルト海への出口を求め、海軍を創設しスウェーデンとの覇権争いを開始する。1702年には、スウェーデンから奪ったシュリュッセルブルクのオレシェク要塞(イングリアから東に35キロメートルのラドガ湖)を拠点にネヴァ川を下ってイングリアを攻撃する(大北方戦争(1700~1721))。

トロイツキー橋を渡り終えた最初の停留所でトラムを降りて、要塞に向かう歩行者専用の桟橋を歩いていく。左前方には、トラムで渡ったトロイツキー橋やネヴァ川の対岸にはエルミタージュ美術館(冬宮殿)が見える。
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最初の門を抜けて、左側にあるインフォメーションでチケット(一人当たり600ルーブル)を購入し更に進むと、正面にピョートル門が現れる。中央を飾るロシア帝国の紋章(双頭の鷲)の上には長方形のレリーフがあるが、ここには、聖ペテロに対し自らの魔術で空中浮揚して挑んだシモン・マグスが、神に祈りを捧げたペテロにより墜落させられ落命したとされる場面が描かれている。これは、ロシアとスウェーデンとの間に繰り広げられた大北方戦争でのロシアの勝利を象徴しており、ペテロはピョートル1世で、シモンはスウェーデン王カール12世(1682~1718)を表しているそうだ。
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ピョートル門の手前(右)には、大きな案内図があり、こちらを見ると要塞全体が良くわかる。

ピョートル門を抜け、最初に入場した歴史資料館(要塞の城郭を改装)には、ピョートル1世の絵画が飾られている。ピョートル1世は、自ら行ったヨーロッパ各国の視察(1697年3月から1698年8月)に刺激を受けロシアの西欧化・産業の近代化に邁進していった。各地で皇帝の身分を隠し、自ら砲術を習い、造船所で職工として働き技術を習得したことで、最新レベルの海軍を(ロシアで初めて)創設する。


そして、スウェーデンからイングリアを獲得したピョートル1世は、バルト海覇権争い(大北方戦争)の防衛基地として、1703年、この地(ザーヤチ島)にペトロパヴロフスク要塞(ペトロとパウロの要塞の意)の造営を開始する。展示室には1706年当時の要塞設計図が展示されていた。


バルト海に面したネヴァ川の河口一帯はもともと湿地で地盤が弱く洪水も頻発したため、大量の石を敷き詰めたり、多くの杭を打ち込んだりと基礎工事が必要となった。同時に新都の造営も行われたため、年間数万人もの労働力が動員されたが、1712年に工事は完了し、ピョートル1世は、モスクワから貴族、商人、職人を移住させ、新都としての威容を整えていった。


新都サンクトペテルブルク(聖ペテロの街の意)の完成時も、「ハンゲの海戦(1714年)」など大北方戦争は続いていたが、1721年、ロシアはバルト海沿岸地域のほとんどを獲得し、スウェーデンに勝利した。同年、ピョートル1世は「全ロシアのインペラートル」の称号を得て、ロシア帝国と改称し「ピョートル大帝(在位:1721~1725)」となった。

こちらは、ドイツ人地図製作者ヨハン・ホーマン(1664~1724)による、ロシア帝国設立頃のサンクトペテルブルクの地図(1721年~1723年頃)で、左上部にはネヴァ川がラドガ湖からバルト海に注ぐ広域図も描かれている。
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展示室には要塞模型が展示されていた。こちらは東側から西側に向けて要塞を眺めた様子で、正面手前がピョートル門である。
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歴史資料館では30分ほど見学したが、要塞内には、他にも資料館がある。こちらの資料館入口には、4匹のウサギが1匹のウサギを助けようとするオブジェが飾られており、観光客が順番に記念撮影をしていた。ピョートル大帝が要塞を築く前のザーヤチ島にはウサギが生息していたとも言われ、要塞内には至る所にウサギのオブジェが飾られている。


こちらの資料館には、サンクトペテルブルクの創設期からの街の歴史に関する展示がされていた。具体的には、街のミニチュアから、住宅の模型や台所、風呂、トイレなどまでその時代の雰囲気をわかりやすく紹介していた。他にも婦人服縫製の様子や、開通した鉄道に関するもの、そして、最後のロシア皇帝となったニコラス2世とその一家に関する写真や資料などの展示もあった。


要塞内の中央プロムナードを進むと、右側の木々の間に教会が現れる。ロシア大公と侯爵夫人のための霊廟で、ネオ・バロック様式で建てられている。


そして、その先にペトロパヴロフスキー大聖堂の尖塔が見えてきた。


大聖堂の南側から伸びるプロムナードを南に進むと、城郭から要塞の外への門が開けて、外は30メートルほど先に伸びる埠頭になっている。埠頭から右側に視線を移すと、要塞中央部の南端から突端する稜堡が、そしてネヴァ川の対岸にはエルミタージュ美術館(冬宮殿)が見える。
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なお、資料館に、ロシアの画家ステファン・ガラクチオノフ(1778~1854)による「埠頭での聖霊降臨(ペンテコステ)行進(1821年)」のコピーが展示されていた。この絵は、埠頭の東側から描いたものだが、稜堡の形状やネヴァ川対岸に見える冬宮殿の風景など現在と良く似ている。

再び要塞内に戻り、城郭に沿って西に進むと、稜堡(突端部)の内側に到着する。赤い煉瓦が続く城郭の上には見晴らし塔(城郭上は有料)が建っており、やはりペンテコステが描かれた塔の形と良く似ている。一帯は広場になっており、一角には、高射砲の模型が置かれている。


次にペトロパヴロフスキー大聖堂に向かう。入口は、西の尖塔側のファサード1階扉口からで、すぐにセキュリティゲートがある。大聖堂は、初代ロシア皇帝ピョートル大帝(在位:1721~1725)の指示の下、イタリアの建築家ドメニコ・トレッツィーニにより、1712年から1733年にかけて建てられた、歴代ロシア皇帝(ロマノフ朝)の霊廟である。大聖堂の尖塔は約123メートルあり頂上には十字架を持つ天使が表されている


聖堂内は、パステル風のピンク色と淡い若草色で彩られ、クリスタルガラスのシャンデリアで照らされ明るい雰囲気である。身廊中央部にあるシャンデリアの取付け部(天井)には十字架などを持った愛らしい4人の天使が描かれている。
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この大聖堂には、初代ロシア皇帝ピョートル大帝(在位:1721~1725)から第13代ロシア皇帝アレクサンドル3世(在位:1881~1894)までの皇帝と皇后の埋葬場所となっている。なお、第3代ピョートル2世(在位:1727~1730)と第5代イヴァン6世(在位:1740~1741)は埋葬されていない。

イコノスタシス前の右側礼拝堂前には、ピョートル大帝のお棺が置かれている。胸像が置かれているのでわかりやすい。ピョートル大帝は、大北方戦争に勝利した3年後の1724年11月、ネヴァ川河口の砂州に乗り上げた船の救出作業に参加して真冬の海に入ったことで、体調を崩して重い膀胱炎を患い翌1725年1月28日に亡くなった。53才の生涯だった。


そして、南側廊のファサード側には聖キャサリン礼拝堂があり、ここには第14代で最後のロシア皇帝ニコラス2世(在位:1894~1917)とその家族が埋葬されている。


ニコラス2世(1868~1918)は、ロシアの度重なる敗戦などを契機に、民衆の間にロマノフ家の専制政治への不満や農奴制廃止などの自由主義運動が高まったことから、1917年3月15日に退位させられ、300年続いたロマノフ朝は終焉することとなった。
(日露戦争後の1905年に第1次ロシア革命が、第一次世界大戦中の1917年に第2次ロシア革命が起こる。)

その後樹立された社会主義国家ソビエト連邦(ソ連)は、政府を主導してきたボリシェヴィキ(赤軍)と、反ボリシェヴィキ(白軍)とで内戦状態になる。政府は、白軍が退位したニコライ2世を担ぎ出すのを恐れて殺害命令を下したため、1918年7月17日未明、ニコラス2世と皇帝一家は側近らも含めて全員が銃殺された。銃殺はロシア中央部のエカテリンブルクの地で行われたが、場所の詳細はタブーとされた。そしてソ連崩壊後の1994年に遺体が確認され、80周年の1998年にこの礼拝堂に改葬された。

最後に、廊下で繋がるロシア大公と侯爵夫人のための霊廟まで行った後、再び広場に出て、次に要塞の西端にある収容所展示館の見学に向かった。

路地裏の様な場所にあるためか、見学者は少ないようだ。もともと大北方戦争の防衛基地として築かれた要塞は、1718年から政治犯の収容所となり、ロシア革命直後からソ連崩壊直前まで多くの反政府派が逮捕・収容された。ドストエフスキー、レーニンなども一時収容されていたという。展示館には、囚人服や帽子などが展示されていた


ところで、この収容所に最初に収容されたのは、皮肉にもこの要塞を築いたピョートル大帝の息子(アレクセイ・ペトロヴィチ)だった。ピョートル大帝は、多くの子供を儲けたが、男子で成人したのはアレクセイのみであった。アレクセイは、政治に興味がなく、親にも反発していたが、引いては政争に巻き込まれることとなり28才の若さで投獄され亡くなった。独房には、当時を再現して、ベッドなどが置かれており、廊下には蝋人形の看守などが置かれており少し怖い。。

こちらはロシア革命の指導者の一人でソ連政権の立役者とも言われるレフ・トロツキーの独房だった。この様に、独房入口には収容されていた人物の紹介と収容時期が書かれた案内板が展示されている。

時刻は午後2時を過ぎたところ。要塞西側から出た公園の一角にあるレストラン・コーリュシカ(Корюшка)で今夜の食事の予約をして、エルミタージュ美術館を見学するため市内に向かう。

要塞の桟橋から400メートルほど西にいったバスターミナルから路線バスに乗る。バスはすぐに、ビルジェヴォイ(Birzhevoy)橋(取引所の意)(ネヴァ川に沿いにエルミタージュが見える)を渡り、次の宮殿橋を渡ると、宮殿広場前バス停に到着する。ここでバスを下り、宮殿広場を横断して、美術館入口に歩いて向かう。
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※画像は翌日午後6時過ぎのもので入口は閑散としているが、訪問時は長蛇の列だった。

入口は宮殿広場に面した冬宮殿(ロマノフ朝時代の王宮)の右寄り、黄金の塔付近の下に見える扉口だが、事前にWebチケットを購入した場合は、右隣に建つ小エルミタージュと、更に右隣に建つ旧エルミタージュとの間を入った小エルミタージュ側の東口から入場する。

エルミタージュ美術館は、世界四大美術館の一つ(パリのルーヴル美術館、ロンドンの英国博物館、ワシントンのナショナル・ギャラリー)に挙げられ、年間350万人を超える来場者がある。常に込み合っており、入場にも時間がかかるが、事前に購入したWebチケット(2日券23.95ドルを購入した)を持参した場合は正面入口に並ぶ必要がなく入場できる。事前の情報どおり、すぐにセキュリティチェックも受けられ、チケットをゲートにスキャンしてあっという間に入場できた。


小エルミタージュは混雑している時間帯なので、そのままグランド・フロア(ギリシア・古代ローマ美術)を通りすぎ、冬宮殿から見学することにした。ところで、そもそもエルミタージュ美術館の始まりは、1764年にエカチェリーナ2世がドイツの画商ゴツコフスキーが売り出した美術品を買い取り、自分専用の隠れ家(エルミタージュ)展示室を建てたのが始まりである。その後は、歴代のロシア皇帝が美術品を収集し、1917年のロシア革命後は貴族から没収されたコレクションの集積所となり、冬宮殿の建物を含めて現在の巨大な美術館となった。総収蔵品は約300万点とされる。
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冬宮殿の見学は、イタリア人建築家バルトロメオ・ラストレッリの手による「ヨルダン階段」からのスタートになる。階段は、白を基準に、金の装飾が施されたロシア・バロック建築様式で造られている。階段は途中が踊り場になり、左右の周り階段のいずれかを上って行くことになる。天井にはオリンポスの神々が描かれた美しいフレスコ画が飾られている。
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「ヨルダン階段」を上って、すぐに現れる部屋が、冬宮殿の北東角に位置している「控えの間」である。中央には孔雀石の円柱の並ぶ東屋風のオブジェが飾られ、窓からはネヴァ川を望む(右側の木々がペトロパヴロフスク要塞)ことができる。冬宮殿は中庭を持つロの字の造りで、この「控えの間」からは、ネヴァ川に沿って、西側に、ニコラス・ホール、コンサートホールと続くが、この日は見学できなかった。


ということで、南側から時計回りの順で見学していくことにする。すぐ南隣にあるホールが「元帥の間」で、ロシア帝国の軍事指導者を称えるために建設された。

ところで、冬宮殿は1837年12月17日、大火に見舞われ3日間に亘って宮殿のほとんどを破壊しつくしたが、火の元はこの「元帥の間」で始まったとされる。原因の一つに、建築家オーギュスト・モンフェラン(聖イサアク大聖堂の再建や宮殿広場に建つアレクサンドル1世柱も設計)が設計に木製を多用したため、火の周りが早かったことが挙げられる。その後、ロシア建築家ヴァシリー・スタソフ(1769~1848)により再建され現在に至っている。


その南隣には「ピョートル大帝の間」がある。この部屋は1833年から1834年にかけてフランス人モンフェランの設計でピョートル大帝の偉業を記念して造られ、両側の大理石で囲まれた壁のくぼみにはピョートル大帝と女神とが描かれた肖像画が飾られている。なお、玉座はアンナ女帝(在位:1730~1740)のためにイギリス人工芸家によって造られた。
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更に、南隣に続く巨大なホールは「紋章の間」で、漆喰に金メッキされた溝付きの眩い円柱が特徴となっている。もともとは儀式のために造られたが、現在のホールは、建築家ヴァシリー・スタソフの手によるもの。十月革命後には、ソ連初代文相に就任したアナトリー・ルナチャルスキーがコンサートホール(2,000人収容可能)として利用した。中央にはアベンチュリン製の花器が置かれている。

なお、このホールには、18世紀イタリア絵画の巨匠ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(1696~1770)の最後の審判(1730~1735)が展示されていた。

「紋章の間」の東隣にある筒型ヴォールトのホールは「1812年祖国戦争の間」で、ロシアの勝利を称えて将軍332人の肖像画で埋め尽くされている。イギリスの画家ジョージ・ダウェ(1781~1829)のグループによって描かれた。ホールは、もともと小さな部屋が並んでいたが、1826年、イタリア生まれのロシア建築家カルロ・ロッシ(1775~1849)によって現在の姿となった。なお、1837年の火災後は建築家ヴァシリー・スタソフにより再建されたが、絵画は全て事前に持ち出されて被害はなかった。
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正面(北側)突き当たりの馬上の人物は、ロマノフ朝第10代ロシア皇帝アレクサンドル1世(在位:1801~1825)で、左側のやはり馬上の人物は、神聖ローマ帝国最後のローマ皇帝フランツ2世(在位:1792~1806)、手前左右には、ロシア軍総司令官ミハイル・クトゥーゾフ元帥(1745~1813)と、イギリスのアーサー・ウェルズリー(初代ウェリントン公爵)(1769~1852)の肖像画が飾られている。

「祖国戦争の間」の東隣にあるホールは「聖ゲオルギウス(ゲオルギー)の間」で歴代ロシア皇帝の玉座がある。当初は、天井には寓話的な絵画が描かれ、多色大理石の柱が用いられた新古典主義的なインテリアデザインだったが、1837年の火災以降、建築家ヴァシリー・スタソフにより、平天井に美しい金色の装飾を施し、柱はカララ大理石と、シンプルでクラシックなスタイルとなった。東側中央には、ロマノフ家の紋章・双頭の鷲が装飾された玉座が置かれている


玉座の背後には「アポロ・ホール」があり、初期フランドル派の画家ファン・デル・ウェイデン(1399~1464)の「聖母を描く聖ルカ」が展示されている。この同作品はボストン美術館にあり、構図はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」をもとにしている。ちなみにこの「アポロ・ホール」から小エルミタージュに至ることもできる。


「祖国戦争の間」に戻り、南側の扉を出た東側には、1763年に建築家ラストレッリによりロココ調でデザインされた「大聖堂」がある。天井には、ロシア肖像画家ピョートル・バシン(1793~1877)によるキリストの昇天が、ドーム下の四隅には、福音史家の聖マルコ、聖マタイ、聖ヨハネ、聖ルカが描かれている。
なお、宮殿広場から見て、冬宮殿のやや右側に一際目立つ黄金の塔が、この大聖堂がある場所になる。


「大聖堂」を背にして、突き当たりの小部屋を通り南側に進むと、宮殿中庭と宮殿広場に面した長方形の大ホールが現れる。「アレクサンドル・ホール」で、1837年の火事の後、建築家アレクサンドル・ブリューロフ(1798~1877)によって創設された。この部屋はアレクサンドル1世と祖国戦争(対ナポレオン戦争)の勝利とを記念して建てられたもの。古典主義の珍しいゴシック・バージョンで繊細に装飾された壁には、彫刻家ヨイド・トルストイ(1782~1846)がロシアの勝利を記念して制作した24のメダルが含まれている
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「アレクサンドル・ホール」の西隣(東隣にも数部屋の展示室あり)からは、宮殿広場側と中庭側に面した小部屋が続き、15~18世紀のフランス絵画の展示室となっている。


ピエール・ミニャール(1612~1695)のアレクサンドロス大王の寛大さ(1689)や、ロココ様式を代表する画家アントワーヌ・ヴァトー(1684~1721)のサヴォア人と、気まぐれ少女。同じくロココ様式を代表する画家フランソワ・ブーシェ(1703~1770)のローマ神話の愛の神クピードー(キューピッド)。ニコラ・ランクレ(1690~1743)のパリ・オペラ座で人気のあったバレエダンサー、マリー・カマルゴの肖像(1710~1770)。ジャン・オノレ・フラゴナール(1732~1806)のLost Forfeit or The Captured Kissや、農夫の子供たち、ユベール・ロベール(Hubert Robert 1733~1808)の柱廊に囲まれたヴィラなどの作品が展示されている。

こちらは、宮殿左端の広場に面した場所にある「ホワイト・ホール」で、1841年に第12代ロシア皇帝アレクサンドル2世(在位:1855~1881)とマリア・アレクサンドロヴナ(1824~1880)との結婚を記念して建築家アレクサンドル・ブリューロフにより設計された。ホールは古典主義建築で、アーチ形の天井はコリント式の柱によって支えられ、芸術を代表する像が戴冠している。
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「ホワイト・ホール」の隣で、宮殿広場に面し南西角にある部屋が「黄金の間」である。建築家アレクサンドル・ブリューロフにより、火災後に再建された部屋の一つ。皇后マリア・アレクサンドロヴナの部屋として使われた。アーチ型の天井と朝顔口の窓は洞窟を思わせる様な造りが特徴である。見所として、エティエンヌ・モダニによるモザイク模様の大理石がある碧玉製暖炉がある。
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「黄金の間」の北隣は、ロマノフ王朝のプライベートルームがあった場所で、薄紫を基調にした部屋や、皇后の私室で赤を基調にした美しい小部屋赤の壁に金をロココ調にデザインした応接室などの豪華な部屋がある。

ここから、西庭園に面した小部屋と中庭(東側)に面した小部屋の展示室(ロシア文化の芸術)が北側に向けて続いている。リチャード・ブロンプトンのエカテリーナ2世の肖像(1782)や、ジョセフ・ライト(1734~1797)の鉄工場を覗き込む(1773)などが展示されている。

いくつかの小部屋の展示室を過ぎた北西翼には、新古典様式で造られた「円形大広間」がある。この広間は、建築家オーギュスト・モンフェラン(1786~1858)がニコライ1世のために建設したもので、多くの公式の部屋や、皇室のプライベートルームと繋がっており、構造上、玄関ホールの役割を担っていたようだ。なお、この日は花の展示がなされていた。天井ドーム頂部の窓からは外光が入り、ホールを明るく照らしている


「円形大広間」の北隣の部屋でも、花の展示が行われていた。こちらは新古典主義で装飾された低い樽型の丸天井が特徴の「アラビア・ドーム」で、東側の大きな中庭側ではなく、建物に囲まれた中に造られた狭い中庭に面した場所にある。皇室のプライベートルームの一つで、冬宮殿入口のヨルダンの階段を上った所からの直線(導線)で行き来できる様に設計されている。なお、ホールの由来は、当時いた黒人の皇帝警護の扮装(緋色のズボン、金色のジャケット、白いターバン、カーブした靴)から名付けられたそうだ。


さて、時計回りに見学してきた冬宮殿の最後の部屋は、ネヴァ川に面した「孔雀石の間」である。1830年代後半に建築家アレクサンドル・ブーロフによって設計され、ロシア皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラ・フヨドロフナ(1872~1918)の正式なレセプションルームとして利用された。孔雀石の美しい柱が印象的である。大きな孔雀石の壺なども見どころの一つ。

ここまでで、既に時刻は午後6時20分になっていた。閉館時間は午後9時、多少慌てて小エルミタージュの見学に向かう。
(2017.7.13~14)
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