goo blog サービス終了のお知らせ 

カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ロシア・サンクトペテルブルク(その1)

2017-07-12 | ロシア
これから、サプサン号(ロシア版新幹線はやぶさ)に乗りサンクトペテルブルク(モスクワから北に直線距離で約600キロメートル)に向かう。ところで、ロシアを旅行する際はビザが必要だが、7営業日以上滞在した場合には更に滞在証明(レギストレーション)の申請をホテルが行う必要がある。今回は短期間滞在のため不要のはずだが、ホテル(メルキュール モスクワ)からの要請で申請した。

滞在証明書をもらいチェックアウトした後、ホテル前の50番トラムに乗り10分ほどでコムソモーリスカヤ駅(メトロ5号線)に到着した。サンクトペテルブルクへは、階段を降り地下道を通ってすぐ北側にあるレニングラーツキー駅からの乗車になる。なお、他に郊外への鉄道路線は、近くにヤロスラフスキー駅とカザンスキー駅があるため間違えないよう注意が必要だ。
クリックで別ウインドウ開く

駅舎内でセキュリティチェックを終え、ホームで係員にEチケットとパスポートを提示して予定の列車に乗り込んだ。なお、チケットは往路の午前7時半モスクワ発~午前11時32分サンクトペテルブルク着(2,581ルーブル)を、復路は4日後の午前7時サンクトペテルブルク発~午前10時58分モスクワ着(2,013ルーブル)を1か月前にロシア鉄道サイトから購入したが、運行本数が少ないことから、事前の予約・購入は必須かも。

列車はモスクワ市内を過ぎ、ぐんぐん加速(時速250キロメートル以上)するが、乗り心地は良かった。とは言え低地走行のためか、より速度を感じ窓から外の景色(大半は森林や湖などの自然の風景)を眺めていると、少し気分が悪くなった。車内販売が来たが、食堂車に行ってサンドイッチを買った。しかし値段が高い上、美味しくなかった。
サンクトペテルブルクに近づくにつれ、雨が降り出し、市内に入ると土砂降りの雨になったが、無事定刻の午前11時32分に到着した。


サンクトペテルブルクは、ヨーロッパ大陸とスカンディナビア半島に囲まれたバルト海の最東部に面したロシア西部の都市(ロシア第二の都市)で、ロシア帝国(ロマノフ朝)ピョートル大帝(在位:1682~1725)によって1703年に築かれ1917年まで首都だった。その後はペトログラード、ソ連時代はレニングラードと呼ばれた。
クリックで別ウインドウ開く

今日は、エルミタージュ美術館(新館)で過ごす予定にしている。宿泊先は東西に伸びるネフスキー大通り(サンクトペテルブルクの目抜き通り)と交差するリチェイニ通りを200メートルほど南に下ったアパートメントで、オーナーとは夕方のチェックインを約束していたので、荷物を駅か美術館で預ける必要がある。駅地下に預かり所があった(1H160ルーブル~24H340ルーブル)が、昼休みで係員がいなく、希望者が列をなしていた。このため、バスで美術館まで行ったが、荷物のサイズで断られ、結局、アパートメント内のメールボックス横に持参のワイヤーで縛り付けた。このころ雨は上がり、身軽になり、ネフスキー大通り沿いのバス停横にあった中華料理店昼食を食べ、再びバスに乗りエルミタージュ美術館(新館)に向かった。

「宮殿広場バス停」を降りて、東側にある広場に向かう。中央に立つ塔はアレクサンドル1世柱(台座から搭上まで32メートル)で、1812年の祖国戦争(対ナポレオン戦争)における第10代ロシア皇帝アレクサンドル1世(在位:1801~1825)の勝利を称え、1834年に第11代ロシア皇帝ニコライ1世(在位:1825~1855)が建立したもの。
クリックで別ウインドウ開く

左側(北側)の淡青色に白色の円柱が並ぶロシア・バロック様式の建物は、1762年イタリア人建築家バルトロメオ・ラストレッリによりロシア皇帝のための冬季の王宮(冬宮殿)として建てられた。帝政時代には、皇帝一家が2階部分に居住しておりバルコニーから広場に集まる市民に挨拶をする姿がしばしば見られたという。

冬宮殿は、現在、エルミタージュ美術館(本館)となっており、その他の建築物とその周辺とを併せて「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」として、1990年に世界遺産に登録されている。
クリックで別ウインドウ開く

アレクサンドル1世柱を挟んで右側(南側)には、イタリア人建築家カルロ・ロッシ設計で1829年に完成した全長600メートルの弓形に連なる建物がある。中央アーチ上には、勝利の女神ニケーの馬車が飾られ、その向かって右側は参謀本部(現在はレニングラード軍管区司令部がある)で、左側がかつて大蔵省と外務省であった。そして、その外務省だった場所が、現在、エルミタージュ美術館(新館)となっており、これから向かう目的地である。
クリックで別ウインドウ開く

エルミタージュ美術館(新館)の入口は勝手口のような簡素な扉である。その扉を入った先でセキュリティチェックを受け、チケット(300ルーブル)を購入する。
クリックで別ウインドウ開く

その後建物内を右側にしばらく進むと、吹き抜けに階段のある広い空間になる。ところで、ロシアでは、多くの印象派(印象派以降含む)の作品を所蔵しているが、これはいち早くフランスの近代美術の価値を見抜き収集したロシア人コレクターで富豪のセルゲイ・シチューキン(1854~1936年)や、イワン・モロゾフ(1871~1921 )などの存在が大きい。

更に、エルミタージュ美術館(新館)では、彼らに加え、オットー・クレープス(Otto Krebs)(1873~1941)の多くのコレクションを所蔵している。彼はドイツの実業家で主に印象派や後期印象派の絵画を収集する美術品コレクターだったが、ナチス政権からの収奪を逃れるために秘匿したものを、1947年にソ連当局が発見し押収したとされ、その後行方不明になっていた。ところが1995年に、これらのコレクションが幻の名画としてエルミタージュ美術館で公開されて以降、現在も展示されているのだ。
クリックで別ウインドウ開く

展示コレクションの数は膨大で、とても紹介しきれないので、その、オットー・クレープス・コレクションから一部を紹介することとする。まず、パブロ・ピカソ(1881~1973)のアブサン(1901)。エドガー・ドガ(1834~1917)の座る踊り子(1879)2人の踊り子(1897)。ジョルジュ・ルオー(1871~1958)の腕を上げる裸婦(1906)

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841~1919)の女の肖像(1877)と、デルフト焼のバラとジャスミン(1881)。アンリドトゥールーズ=ロートレック(1864~1901)の傘を持つ女(1889)。アンリ・ファンタン=ラトゥール(1836~1904)のレモン、リンゴ、みかん、チューリップのある静物画(1865)
クリックで別ウインドウ開く

エドゥアール・マネ(1832~1883)の折り返し衿(ターンダウン・カラー)の服を着た女性(1879)。クロード・モネ(1840~1926)の庭に座る女(1876)ボルディゲーラの庭(朝)(1884)ル・アーヴル河岸(1874)。カミーユ・ピサロ(1830~1903)のディエップの大市~晴れた朝(1901)テュイルリ公園(1900)


アルフレッド・シスレー(1839~1899)のビヤンクールの艀(1877)。ポール・セザンヌ(1839~1906)の男性水浴図(1891)。ポール・ゴーギャン(1848~1903)のPiti Teina(姉妹)(1892)Taperaa mahana(夕方前)(1892)。フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)の家と農夫が見える風景(1889)朝、野良仕事へ(ミレーの模写)(1890)夜の白い家(1890)

エルミタージュ美術館(新館)では、2時間ほど鑑賞した後、午後5時前に退館した(明日以降、再訪することにした)。勝利の女神ニケーの馬車が飾られた門から出て、ネフスキー大通りからバスに乗った。

この日は、午後7時から、マリインスキー劇場で、モーツアルト歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を観て、アニチコフ橋近くのKriek(ベルギー料理)で遅い夕食を食べてアパートメントに帰った。
クリックで別ウインドウ開く

*********************

翌朝、昨日とは打って変わり雲一つない青空が広がった。これから観光ツアーに参加すべく、カザン聖堂の手前(東側)にある市場ボリショイ・ゴスチーヌイ・ドヴォール(大商店街)(宿泊場所から1.5キロメートル)に歩いて向かう。まずネフスキー大通り沿いのベロセリスキー・ベロゼルスキー宮殿を過ぎてアニチコフ橋を渡る。
クリックで別ウインドウ開く

アニチコフ橋の風景は、ロシア画家イワン・クラムスコイ(1837~1887)の代表作品「見知らぬ女(1883)」で描かれている。橋から望むフォンタンカ川の眺めは、陽光が川面に眩いばかり反射して美しい。欄干に飾られている彫像は、ピョートル・クロート作の「馬使い(1850)」で、その台座には、レニングラード攻防戦でドイツ軍から受けた砲撃の痕が残されている。
クリックで別ウインドウ開く

アニチコフ橋を過ぎると、左側に第6代ロシア皇帝エリザヴェータ(在位:1741~1762)が、愛人のアレクセイ・ラズモフスキー伯爵(宮廷聖歌隊員出身)に贈ったアニチコフ宮殿(現:青少年会館)があり、隣には1873年に第14代ロシア皇帝ニコライ2世(在位:1894~1917)の皇后アレクサンドラのために建てられたアレクサンドリンスキー劇場がある。劇場の前にはエリザヴェータ帝とルミャンツェフ、ポチョムキン等の寵臣たちの像が飾られている

そしてネフスキー大通りの向かい側には、1900年に造られたエリセーエフ家が運営する高級食料品店(エリセーエフスキー)がある。なお、モスクワ店はモスクワ中心部のトヴェルスカヤ通りにある。
クリックで別ウインドウ開く

ロシアの歴史的建造物を観光しながら進むと、15分ほどで市場ボリショイ・ゴスチーヌイ・ドヴォール(大商店街)に到着した。この市場は1785年に木造で造られたが、現在は、石造りで中庭を囲んで(上空から望むと三角形)アーチ門が続く2階建ての建物になっている。

この辺りに観光ツアーのための小屋が立ち並んでいる。この日は、ペテルゴフ宮殿(ピョートル大帝の夏の宮殿)か、エカテリーナ宮殿(ツァールスコエ・セロー)に行くか悩んだが、短時間(半日)で参加できるエカテリーナ宮殿を選択することにした。

エカテリーナ宮殿は、サンクトペテルブルク市内から南東約25キロメートルに位置している。募集ツアーには地名である「プーシキン」と書かれ販売されていたので最初わからなかった。交渉の末、午前10時半発のツアー(2,200ルーブル)に申し込んだが、エカテリーナ宮殿の入場料は1,500ルーブル(公園料含む。宮殿のみは1,000ルーブル)なので、往復の交通費と手間等を考えるとかなりお得と言うわけだ。ただし、ロシア語のみである。

参加者は、前方(西側)に見える塔(1852年に建築された帝政期のペテルブルグ市会の建物)の横断歩道手前でツアーバスの到着を待った。
クリックで別ウインドウ開く

参加者は30人弱だった。ツアーバスはネフスキー大通りからフォンタンカ川に沿って南西方面に向かう。運河の対岸で日差しを浴びて美しく輝く薄水色の建物は、1879年に建てられた「ゴーリキー記念国立レニングラード赤軍勲章アカデミー・ボリショイ・ドラマ劇場」である。
クリックで別ウインドウ開く

その後、左折してモスコーフスカヤ大通り(モスクワ方面へのM10幹線道路)を南に向かう。途中、露土戦争(1828~1829年)の勝利を記念して建てられたモスコーフスキー凱旋門、スターリン様式で建てられたソヴィエト・ドーム(8階部分にあたる彫刻が美しい、1941年建造)や、大祖国戦争(1941~1945の独ソ戦争)の勝利を記念するサンクトペテルブルク勝利広場などロシアらしい重厚な建物やモニュメントが続くが、日本人には馴染みが薄い。ツアーバスは50分ほどでプーシキン地区の宮殿近隣の駐車場に到着した。

駐車場を出て、土産物店が並ぶ通りで、10分間の小休憩(有料トイレを利用し、ピロシキを買った。)を取った。その後、礼拝堂の美しい黄金の塔が見える宮殿外壁に沿って右折し、その先を左折すると、鉄格子のある宮殿(北門)に到着した。
クリックで別ウインドウ開く

この場所からは許可が出た団体ごとに入場するようだ。園内は、広々とした敷地内となり宮殿は北西方面に面して建っているが、こちらは宮殿裏側にあたる。
クリックで別ウインドウ開く

エカテリーナ宮殿は、ピョートル1世大帝の妃、第2代ロシア皇帝(ロマノフ朝)エカチェリーナ1世(エカテリーナ)(在位:1725~1727年)が夏の離宮として1717年に作らせたのが最初で、その後、第4代ロシア皇帝アンナ(在位:1730~1740)時代に増築した。現在のような壮麗・壮大なロココ調様式の宮殿になったのは、第6代ロシア皇帝エリザヴェータ(在位:1741~1762)時代で、イタリア人建築家バルトロメオ・ラストレッリにより1756年に改築・完成したもの。

建築家ラストレッリは後にサンクトペテルブルクの王宮(冬宮殿)を建設するなど、アンナ帝からエリザヴェータ帝時代を通して宮廷建築家として多くの業績を残した。
クリックで別ウインドウ開く

宮殿は入場制限がなされており、園内でも20分ほど待たされ、宮殿に入場するも再び階段で10分ほど待たされた。。とは言え、装飾品をなどをゆっくり鑑賞できたのは良かった。宮殿内の壁面には美しい装飾で溢れている。装飾には、古伊万里時計・湿度計なども飾られており、一つ一つの装飾が美しい(こちらは2階から見た様子)
クリックで別ウインドウ開く

階段を上った左側の扉の先にあるのが、宮殿最大の床面積(800平方メートル)を持つ「大広間(玉座の間)」である。広間は、両側にアーチ状の窓がいくつもあることから、外光が差し込み非常に明るい雰囲気である。美しく描かれた天井画のオリジナルは1754年に、ヴェネツィアの装飾家ジュゼッペ・ヴァレリアーニ(1708~1762)と多くのロシア人アーティストとの共作で、ロシアの寓意、平和の寓意、勝利の寓意の3つのテーマで構成されている。
クリックで別ウインドウ開く

壁面には、鏡や花や貝殻の刻まれた金のバロック様式装飾で覆われ光りを浴びて鮮やかに輝いている。各国からの賓客はこの豪華絢爛な大広間へ通され、皇帝に謁見した。また仮装パーティや舞踏会なども華やかに繰り広げられたという。
クリックで別ウインドウ開く

広間には、コスチュームを着たスタッフが観光客の写真撮影の相手をしている。窓からは先ほど待機した庭園が望め、その先の宮殿正門(北西門)の向こうにはアレクサンドロフスキー・パークが広がっている。パーク内には、アレクサンドロフスキー宮殿があるが公開はされていない。
クリックで別ウインドウ開く

大広間で10分ほど見学した後、メイン階段を挟んだ反対側の「騎士の食堂の間」に向かう。こちらのインテリアも金色の装飾が覆うバロック様式である。天井には、太陽神ヘーリオスとイオスの神話にインスパイアされた作品が描かれている


次の部屋が「白の主食堂」と名付けられ、中央に金色のコンソール・テーブルと椅子が置かれている。テーブルには、ドイツのマイセン工場で作られた陶磁器が置かれている。花や果物で装飾されたバターディッシュの陶磁器も見所である。窓際に置かれたマイセンのブールドネージュ(スノーボール)の花瓶は繊細な装飾が印象的だ。


次に、金属箔で縁どられた深紅と緑のガラスが飾られた、「木いちごの食堂」と、「緑の食堂」を過ぎ「肖像画の間」に入る。壁には、ハインリッヒ・ブッフホルツ(Heinrich Buchholtz)(1735~1780)作の第6代ロシア皇帝エリザヴェータの大きな肖像画が飾られている。現在のサンクトペテルブルクの魅惑的な諸宮殿は、エリザヴェータ帝治世に築かれたものが多いが、これは、彼女がどちらかというと、国政より文化事業の西欧化に熱心に取り組んだことによる。


そして、こちらが、宮殿最大の見所の「琥珀の間」である。エリザヴェータ時代に造られたこの部屋を改築したのは、第8代ロシア皇帝(大帝)エカチェリーナ2世(在位:1762~1796)で、彼女はこの「琥珀の間」が大のお気に入りで、彼女の許しがなければ誰も入れなかったという。
クリックで別ウインドウ開く

その後、「琥珀の間」の琥珀は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツによって全て持ち去られ(宮殿にある金や美術品などの大半も含め)、移送先でイギリス軍の空爆により全て消滅したとされている。戦後、破壊されたエカテリーナ宮殿の修復が進められるものの、視覚的資料が少ないため、復元は困難を極めた。しかし1979年から11トンの琥珀が彫り出され、古写真や当時の僅かなデッサンを参考に本格的に修復作業が開始された。職人たちは24年もの歳月をかけ2003年に往時の姿を蘇らせた。壁面には様々な形と色の風合を生かした琥珀を立体的に装飾しており、薄い琥珀を使った透かし彫りの技法などは見所の一つである。

他にも、エリザヴェータ帝の個人的な部屋で、後にエカチェリーナ2世大帝やアレクサンドル1世にも使われた「小さな白の食堂」がある。天井にはシャルル=アンドレ・ヴァン・ロー(1705~1765)のヴィーナスの誕生(コピー)が描かれている。

こちらは、中国式ダイニングルームの「アレクサンドル1世の客間」。アレクサンドル1世(在位:1801~1825)のプライベートな部屋だった。1752~56年に建築家ラストレッリのデザインをもとに制作されるが、1820年の火災後、建築家ヴァシリー・スタソフにより復元された。部屋にはピョートル1世大帝やエカチェリーナ1世などの肖像画が飾られているが、アレクサンドル1世の全身肖像画(イギリス人画家ジョージ・ダウェーによる)が一際目を引く。


こちらは「緑の食堂」で、1779年に設計され、エカチェリーナ2世の第1皇子で後の第9代ロシア皇帝パーヴェル1世(在位:1796~1801)と最初の妻ナターリア・アレクセーエヴナのために造られた。その後、大祖国戦争で破壊されたが、1957年~1959年の間に修復された。


そして約180平方メートルの床面積を有する「絵画の書斎」。外交上のレセプション、食事、音楽のために使われた。壁には、17世紀のオランダ・フランドルで活躍したアドリアーンファンオスターデ、ダフィット・テニールス、ヤン・ボト、ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム、ジャン・フェイトなどの画家による作品などが展示されている。なお、書斎は、第二次世界大戦中に消失するものの、絵画は避難させ130点の内114点は救われたという。
クリックで別ウインドウ開く

宮殿内では、待機も含め約1時間の見学時間だった。宮殿内の一番北端の部屋まで見学した後は、一階の通路を南端まで行く。通路の壁には、戦時中の荒廃した宮殿の様子琥珀の部屋の職人たちによる修復の様子などが展示されていた。


南端の出口から宮殿正面に出た後そばの宮殿右翼(ズボーフスキー棟)を抜け、次に宮殿の南(南西)側に広がる公園(キャサリン・パーク)の散策に向かう。最初に「カフ・オベリスク(Kagul Obelisk)」に向かった。このオベリスクは、「カフの戦い(1770年)※ロシア帝国とオスマン帝国との間で行われた第一次露土戦争」での戦勝記念として1772年に建立されたもの。

オベリスクには、「1770年7月21日モルドバのカグル川で勝利したことを記念して建立する。ロシア軍総司令官ピョートル・ルミャンツェフ伯爵)の下、17000人のロシア軍が、ドナウ川に逃げようとしているトルコのハリル・ベイの軍隊15万人を打ち破った。」と書かれている。なお、オベリスクはアレクサンドル・プーシキンの小説「大尉の娘」に登場する。ツアーでは時間を割いてガイドが説明していたが、どうも馴染みがない。。


周りには、花壇があり、美しい花を咲かせている。オベリスクから公園を南に歩くと、東西に伸びるプロムナードになり、正面に大きな池が見えてくる。池の中央に見えるオベリスクは、チェスマ柱(Chesme Column)と呼ばれ、スピリドフ提督率いるロシア地中海艦隊が、トルコ艦隊を全滅させたチェスマ海戦(1770年)での勝利を記念して建てられた。トルコのシンボル三日月を踏みにじるロシアのシンボル鷲の像が頂部に飾られている。


東西に伸びるプロムナードを東側のエカテリーナ宮殿方向に歩くと前方がスロープになっている。スロープは、ギリシア風のアーチ橋(パンドゥス)で造られている。


スロープを上ると、宮殿の右翼(ズボーフスキー棟)の二階になり、特別展が開催されている。正面の建物は1780年に建てられた2階建てのパビリオン(冷浴場)で床下が入浴室で、上層部は6つの瑪瑙で覆われた娯楽室となっている。


そして、右側にギリシア風の建物でキャメロン・ギャラリーがある。スコットランドの建築家チャールズ・キャメロン(1743~1812)により建設は1784年から始まった。上層部にガラス張りの大きな窓が印象的なホールで、1790年代から廊下には哲学者、神学者などの胸像が飾られている。


キャメロン・ギャラリーから、宮殿の正面側を眺めると、夏の日差しを浴びて繁茂した木々が宮殿を覆い隠している。これから剪定をするのだろう。少し右に視線を移すと鏡池に写る建築家バシリーとイリーナ・ネイロフが1779年に建設したアッパー・バースハウス・パビリオンを正面に望むことができる。園内には綺麗に刈りこまれた芝生が広がっている。


キャメロン・ギャラリーの廊下の突き当たりからは、階段を下りて再び公園(キャサリン・パーク)に出る。


階段の左右には、ヘラクレスとフローラ(ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神)の像が立っている。なお、ヘラクレス像は、一時、ナチス・ドイツにより強奪されていたという。


階段を降りた先には、建築家ラストレッリによって建てられた「グロットパビリオン(洞窟の意)」(1760年)が建っている。バロック様式のスタッコ装飾で飾られ、中央部には4つの窓を持つ大きなドームがある。海をイメージした紺碧の壁と白い柱が鮮やかで、柱頭には、海神ネプチューンやイルカなどの彫刻が施されている。特に、この時間はファサードに太陽の光を浴びて美しさが際立っていた。


グロットパビリオンの前には、広大な池が広がっている。なおキャサリン・パークとアレクサンドロフスキー・パークを含めたツァールスコエ・セローの敷地は、全体で107ヘクタール(おおよそ東京ドーム21個分に相当)もの広さを有している。


南西部の岬には、1852年、ニコライ1世(在位:1825~1855年)により露土戦争(1828~1829年)の勝利を記念して建てられた「トルコ風呂のパビリオン」を望むことができる。


キャサリン・パークから、エカテリーナ宮殿の庭園に入り、中央の参道から宮殿正面を眺めてみると、参道を取り囲む木々を立方体にする剪定作業が行われていた。


宮殿を背にして、進むと、また建物が見えてきた。


1744年に建てられた「エルミタージュ」で、1753年に白柱と青緑色に金メッキが施され現在の姿となった。宮殿からは、直線距離で550メートルほど離れた場所に立ち、休息や会食できるような施設として造られたが、18世紀頃のフランス庭園には良くある施設である。


最後に、正面の「エルミタージュ・キッチン」から園外に出た。時刻は午後2時半、入場して約2時間半が経過していた。そして駐車場まで歩いて戻り、バスに乗車して市内まで戻った。天候にも恵まれ、充実したツアーだった。バスに乗るとすぐ寝てしまった。


バスは、午後3時半に無事、市場ボリショイ・ゴスチーヌイ・ドヴォールに戻ってきた。バスを降りて、ネフスキー大通りを西に歩くと、すぐ隣には巨大なカザン聖堂が姿を現す。

カザン聖堂は、1811年、ロシアの建築家ヴォロニーヒンがローマのサン・ピエトロ大聖堂を手本に建設した。聖堂自体はラテン十字形プランの構造となっているが、ドームの周りから両側にコリント式列柱96本が半円状に弧を描き回廊を形成しているため、羽を広げた巨大な翼竜のようにもみえる。完成翌年の1812年には、祖国戦争(ナポレオン軍によるロシア遠征)の戦勝を記念する建築物となった。


聖堂に向かって左側に伸びる弧先にロシア軍総司令官ミハイル・クトゥーゾフ元帥(1745~1813)像が建っている。クトゥーゾフは、帝政ロシア3代の皇帝に仕えた軍人で、祖国戦争では総司令官に就任しロシアを勝利に導いた(首都モスクワに攻め込むナポレオン軍を無血入城をさせ、その後、糧道を立ち執拗な追撃戦で打ち破る)。トルストイ作の「戦争と平和」でも良く知られている。


聖堂内には誰でも自由に入ることができるため、多くの観光客がいるが、広い空間のためか混雑を感じない。内部には、柱頭と下部に金メッキが施された巨大な光沢のあるコリント式列柱が56本立ち並んでおり、それらはフィンランド産の赤色花崗岩から造られている。落ち着いた色調と金で統一された空間は荘厳な雰囲気を感じさせてくれる。


金銀で装飾されたイコノスタシスの王門にむかってすぐ左側には、ロシア正教会で最も有名なイコン(カザンの生神女)が奉られており、礼拝のための列が続いている。


完成後のカザン聖堂は、ロシア革命後ボリシェヴィキによって閉鎖され、ソ連政権時代には無神論博物館とされたが、現在ではロシア正教会に返還され、サンクトペテルブルクの首座教会となっている。

カザン聖堂のすぐ東側を流れるグリボエードフ運河沿いを北に進むと前方に、鮮やかな色彩で彩られた玉ねぎ状のドームが見えてくる。通りは歩行者専用になっており、土産物を販売する特設のテントが立ち並ぶなど観光客でごった返している。


モスクワ・クレムリンに建つ聖ワシリイ大聖堂(生神女庇護大聖堂)に似ているが、少しゴツゴツとした造りになっている。教会は、1881年にテロリストにより暗殺されたロシア皇帝アレクサンドル2世(在位:1855~1881)終焉の地に建てられたことから「血の上の救世主教会」と名付けられている。


アレクサンドル2世は、ロマノフ朝第12代ロシア皇帝で、幼い頃から皇帝の地位を約束され帝王教育を受けた。皇帝は、教育改革や農奴解放など近代化・効率化のための構造改革・大改革を行ったが、ロードニキ(専制政治体制を倒し、社会主義を実現する運動)の過激派によりテロの標的となった。1881年3月1日、御料車を降りた皇帝の足下で爆弾が爆発し、瀕死の重傷を負ってその後、運河の西側にある冬季の王宮(冬宮殿)で崩御した。

まもなく午後5時になるが、高さ94メートルある教会は、正面に明るい陽射しを浴びて鮮やかに輝いている。教会への入口は建物に沿って右側を回り込んだ北側にある。


教会は、アレクサンドル2世を弔うため、次帝アレクサンドル3世(在位:1881~1894)により発願された。しかし、教会の完成は24年後の1907年、ニコライ2世(在位:1894~1917)の治世であった。

列をなすチケット・ショップに数分並び入場すると、教会内も大変混雑している。しかし、壁、天井柱を含めモザイクで覆われた空間を眺めていると、混雑を忘れさせてくれる。
クリックで別ウインドウ開く

イコノスタシスは、小ぶりな作りとなっているが、内陣からの外光を取り入れ、モザイクを引き立てる意味合いがあるのかもしれない。とは言え、深みのある色合いの大理石で造られ、中央の王門は、複雑に細工された金・銀の縁取りに色とりどりのクリスタルガラスの浮彫で構成されるなど豪華な造りとなっている。
クリックで別ウインドウ開く

イコノスタシス前からアプスを見上げると、右手を祝福の動作に左手には福音経を持つ「全能者ハリストス」(パントクラトール)が表現されている。周りには天使が舞い、四人の福音記者の象徴(鷲、人、牛、獅子)の姿も見える。
クリックで別ウインドウ開く

内陣中央の丸天井にも、大天使たちを伴う「全能者ハリストス」が表現されている。


ビザンティン建築の聖堂で良く見られるタイプである。
クリックで別ウインドウ開く

驚くことに、教会内の荘厳は、全て複雑で繊細なモザイク片により表現されており、素材もトパーズ、ラピスラズリなどの最高級のものが使用されている。この全てのモザイク面積は7,500平方メートル以上あり、世界一のモザイクを誇る北米のセントルイス大聖堂の7,700平方メートルに匹敵する規模である。

なお、モザイク画のデザインには、ヴィクトル・ヴァスネツォフ、ミハイル・ネステロフ、アンドレイ・リャブシキン、F.ツラフレフなど30人以上のロシアを代表する画家やアーティストが参加しているという。
クリックで別ウインドウ開く

教会の西側には、アレクサンドル2世が致命傷を負った場所を示すための天蓋が置かれている。天蓋は、碧玉の円柱で支えられ、頂部にはトパーズクロスが飾られている。


このロシア芸術の粋を集めたとも言える教会は、ロシア革命後、他の教会同様に略奪されるなど大きく荒廃し、ソ連政府は1932年に教会機能自体を閉鎖する。そして第二次世界大戦中のレニングラード包囲戦では、死体安置所として使われた。戦後は野菜の倉庫として使用され、ジャガイモの為の救世主教会とも呼ばれるようになった。。
教会が日の目を見るのは、1970年からで、イサク大聖堂の管理となり修復が続けられた後、1997年から、広く一般に公開されるようになり、現在では、世界遺産(サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群)の登録資産として多くの観光客が訪れる。
(2017.7.12~13)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ロシア・モスクワ(その2) | トップ | ロシア・サンクトペテルブル... »

コメントを投稿