カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イタリア・ピエモンテ(その4)

2013-04-25 | イタリア(ピエモンテ)
スーザから東へ35キロメートル離れたサンタン ブロージョ ディ トリーノ(Sant'Ambrogio di Torino)にやってきた。これから、街の西側に見える
ピルキリアーノ山頂(Monte Pirchiriano)(標高962メートル)に建つ「サクラ ディ サン ミケーレ修道院」(Sacra San Michele)に向かうことにしている。


午後4時半頃にピルキリアーノ山の中腹にある駐車場に到着した。こちらから望む姿は、修道院と言うより岩山に築かれた要塞といった雰囲気。10世紀頃にベネディクト修道会の修道院として建てられ、モン サン ミッシェルを手掛けたグリエルモ ダ ヴォルピアーノ(Guglielmo da Volpiano、962~1031)による設計ともされるがはっきりしない。サクラ ディ サン ミケーレ修道院の佇まいはウンベルト エーコの歴史小説「薔薇の名前」にも大きな影響を与えている。
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麓に広がるサンタン ブロージョ ディ トリーノは、イングランド・カンタベリーからフランス、スイスのアルプス山脈を抜けローマとの約2千キロメートルを結ぶ「巡礼路フランシジェナ」のイタリア側の入口にある街で、巡礼地の一つでもあった。特に11世紀半ばには多くの巡礼者が訪れたこともあり、サクラ ディ サン ミケーレ修道院は、12世紀から17世紀にわたり増改築が繰り返された。その結果、現在ではロマネスク様式とゴシック様式とが混在した建物となっている(夏季営業時間9:30~12:30、14:30~18:00、料金5ユーロ)。

多くの巡礼者で栄えた修道院だったが、1622年以降は経済的理由により閉鎖され、約200年の間、廃墟になってしまう。1836年に、サヴォイア家でサルデーニャ王国の第7代国王カルロ アルベルト(在位:1831~1849)が、イタリアの哲学者・神学者で司祭のアントニオ ロスミニ(1797~1855)を招いたことで、ロスミニアンの修道院として再開される。そして、これをきっかけに、トリノ大聖堂からサヴォイア王族の墓が移葬されている。階段を上りながら建物を見上げると、垂直にそそり立つ外壁の威圧感に圧倒される。
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修道院名のサン ミケーレとは、大天使ミカエルに因んでおり、階段途中に、ファッションショーに登場するモデルの様に優雅なポーズを取るミカエル像が飾られている。こちらの像は、2005年、南チロルの彫刻家ポール モロダーによって制作された新しい作品である。
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建物の構造がわかりにくいのでgoogle掲載のFabio Poggi氏の写真を借りて確認してみる。こちらは東側から後陣側を撮った鳥瞰図である。ミカエル像の横に階段があり、中央に修道院への入口が見える。上部を見ると、平地に建つ教会堂建築と同じ構造だが、その下は、教会堂を支える基壇と複合施設とを併せ持っている。そして、やや離れて北側に12世紀に増築された「新しい修道院」の遺構がある。
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ミカエル像の立つ外階段を上り詰めると広めの踊り場となり、右側からは東側のトリノ方面が見渡せる展望台となる。左側が建物の扉口で、すぐに折り返し階段となり「死者の階段」へと続いている。階段の曲がり角に置かれた柱頭には、訪問者を見つめる様に天使(?)が刻まれている。当時は階段沿いに墓が並んでいたとのこと。また、階段の壁面壁からは所々大きく岩肌が露出し、修道院が岩山を利用して建てられているのが分かる。


死者の階段の後半の勾配が急な直線階段を上り詰めると「ゾディアコ門」(干支の門)に到着する。ここまで階段は243段ある。そして門をくぐった南側から東側の展望台にかけてテラスが広がり、西側には更に上りの外階段が続いている。こちらは、その外階段を少し上った場所からゾディアコ門を振り返った様子である。
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ゾディアコ門は、左右両脇の複数の側柱とエンタブラチュアにより支えられたアーチ門で、1120年から1130年にかけて、ロマネスク時代のイタリア彫刻の巨匠ニッコロ(ニコロ)により制作されている。

特に、側柱、柱頭、エンタブラチュアの浮彫彫刻が、サクラ ディ サン ミケーレ修道院での最大の見どころとなる。こちらは、死者の階段に向かって右側側柱の中央角柱で、花や動物の装飾が施された星座のシンボルが、絡み合う枝で円を形成した黄道帯の内側に表現されている。そして、両縁にニッコロの署名が記録されている。
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中央角柱の柱頭には、劣化が激しいがグリーンマンの浮彫が残されている。その右隣(テラス側)には、美しい姿の竜頭を持つ獅子像と、更に右隣に独特な風貌が印象的な双尾人魚(セイレーン)が、精緻な花弁文様のアーキトレーブを支えている。ちなみに、セイレーン隣の柱は失われている。
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中央角柱に向かって左側(死者の階段側)の柱頭には、アカンサスの葉の文様を挟んで、リングを掴む4匹のハヤブサ、そして、大地母神像の柱頭へと続き、上部のアカンサスの葉の文様のアーキトレーブを支えている。大地母神は、蛇に授乳しており、この姿はルクスリア(淫乱)を象徴しているとも豊潤を象徴しているとも言われている。
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次に、アーチを支える左側柱の柱の彫刻を見ていく。中央角柱は、アーチの反対側となる右側柱の中央角柱と同じく、星座のシンボルの浮彫が施されている。頂部には大きな四角い柱頭があり、グリーンマンの浮彫が施されている。
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中央角柱に向かって右側(死者の階段側)の柱頭には、兄のカインが、弟アベルを襲って殺そうとする場面で、カインの後ろにはカインの心の悪魔が表されている(捻じり柱)。中央角柱に向かって左側(テラス側)の柱頭は、アカンサスの葉の文様を挟み、互いの髪の毛を掴み柱頭にしがみつく人物(捻じり柱)、更に左端には、神殿の柱を揺さぶるサムソンと、神殿内の心配そうなペリシテ人が表現されている。それぞれの柱や柱頭はバラバラで、調和が取れていないが、一つ一つの柱頭彫刻は個性的で見ごたえ十分である。
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ゾディアコ門のテラスから外階段を上り詰めた南展望台のあるテラスにかけて、真上には4本のフライング バットレスが続いている。そして、そのテラス右側には、教会堂への扉口となる灰色と緑色の石で作られたロマネスク門(11世紀制作)がある。


ロマネスク門の弧帯(アーキヴォルト)右端に設置された修道士の顔(マスク)は大変印象深い。訪問者を見下ろす場所にあり、心の奥まで見透かされている様な気持ちになる。


教会堂は、三身廊式で、ロマネスク門は身廊最後部の南側廊にある。身廊は横断アーチで4つのベイに分かれ、ゴシック建築とロマネスク建築の両方の要素が特徴となっている。身廊の横断アーチを支える柱には、1階部分と階上廊の二か所に柱頭(二重柱頭)があり、アカンサスの葉の彫刻が施されているが、内陣から3番目の複合柱の1階部分の柱頭にはロマネスク特有のユニークな浮彫が施されている(南側の柱頭北側の柱頭)。
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後陣の壁には赤煉瓦が使われている。主祭壇のアーチ窓の両側には、それぞれ個性的な側柱が帯状アーチを支えており、最も手前の側柱には、左右に3体ずつ聖人彫刻が施されている。中でも、右下の光に照らされた聖母マリアの慈愛に満ちた表情が印象的である。
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ナルテックスには、サヴォイア王族の多くの石棺が並べられ、壁面には、聖母子像を中心とした絵画や祭壇画などが飾られている。北側廊の西側にある扉を出ると、教会堂の北側テラスに出ることができる。広い展望エリアとなっており、西方面にはスーザ渓谷が見渡せるが、白いもやがかかり、遠くが霞んでいる。幅が広く蛇行しながら延びる道路は、スーザから走行してきた高速道路A32線(欧州自動車道路E70号線)である。
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東側には、グライエアルプス山脈の最南端モンテ ムジネ山が望める。ここでスーザ渓谷は終わり、その先からは平地が続いていく。中央の高速道路(A32線)を40キロメートルほど進むと、ピエモンテ州の州都でトリノ県の県都トリノに到着する。
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真下に広がる街並みは、サンタン ブロージョ ディ トリーノで、国道と鉄道(トリノ近郊鉄道サービス(SFM))が並行して走っており、サンタンブロージョ駅から南側が街の中心となる。中央の大きな区画は、19世紀から20世紀にかけて街の主要産業だった繊維工場の跡地で、現在は市役所を始め、様々な店舗が入る複合施設となっている。

再び、教会堂に戻り、次に、北側廊の北側の小さな扉口を進み、鉄骨の折り返し階段で階下まで向かう。階段を下りた先から振り返ると、教会堂を仰ぎ見ることができる。右側の三連のアーチ窓がある横長建物の北側テラス(屋上)や、左端の放射状祭室の屋根などが確認できる。また、下部の外壁には岩山が露出しており、修道院が山頂をそのまま取り込んで建てられているのが良くわかる。


教会堂の北側には12世紀建築の「新しい修道院」があり、当時は、僧房、図書室、食堂など、数十人の僧侶の生活のための様々な設備が備えられていた。しかし、現在は廃墟となり、テラスと外壁の一部が残る遺構になっている。

その遺構の東端には、階層のある塔「美しいアルダの塔」(Torre della Bell'Alda)が断面図のような姿で残っている。アルダとは、13~14世紀、追われていた兵士から逃れるため塔から身を投げるものの、天使に救われ奇跡的に無傷で着地した少女の名前に因んでいる。しかし、後日談として、虚栄心からか、村人の前で再び身を投げた際は、救いがなかったと伝わっている。


終了時間の午後6時まで見学した後、トリノへ向かった。移動距離も多く疲れたので、今夜の食事はテクアウトしてホテルで食べようと思い、リンゴット駅東口のショッピングモール、イータリー(Eataly Torino Lingotto)に向かった。リンゴット駅は、トリノのイタリア自動車製造所の略称で、東口前にはフィアット工場があった。屋上にはテストコースがあり、映画「ミニミニ大作戦」(1969年)では、イタリア警察のアルファロメオと、ミニのカーチェイスシーンが撮影された。現在もテストコースは健在だが、一帯は複合施設として再開発されている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

テストコースのすぐ北隣のビルにイータリー店舗が入っている。無事に食材は買えたが、地下駐車場でトラブり、宿泊ホテル(Pacific Hotel Fortino - Torino)には、遅い到着となり、疲れてしまった。

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宿泊ホテルは、ドーラ リパリア川(スーザ渓谷を流れてきた)の右岸沿いにあり、中心部から2キロメートル北西側にある。今朝は、トラムに乗り、トリノ中心部の歴史的中心地区「カステッロ広場(Piazza Castello)」にやってきた。

トリノの街は、紀元前1世紀にはローマの支配下にあり、度重なる都市変遷を経た後、1562年にサヴォイア公エマヌエーレ フィリベルト(1528~1580)がフランスのシャンベリから遷都してサヴォイア公国の首都となった。更に1861年には、イタリア統一を果たしたイタリア王国の首都となっている。

カステッロ広場の南側には、東西に多くの車が走行するトリノ市内の大動脈(東側はポー通り、西側はピエトロミッカ通り)が延び、中央にはトラムの軌道が上下線に敷かれ、カステッロ停留所がある。そして、その通りの南側には、バロック様式の建築群が建ち並んでいる。1階にはポルティコ(アーケード)が設置されているが、これは、トリノを治めたサヴォイア貴族が雨に濡れずに歩ける様に採用されたと言われている。
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トリノ中心部の街並みは、ローマ時代から続く方格設計を受け継いでいるが、西側から始まるピエトロミッカ通りは斜めに郊外へと延びている。これは、中心部へのアクセス利便性を高めることに加え、建物間への採光の取り入れや空気の循環などにも考慮して1899年に難工事の上に開通したもの。そして、そのピエトロミッカ通り沿い左側のバロック様式の建物の裏手には、バロック様式の調和を突き破る様にイタリア合理主義で建てられた高層住宅「トッレ リットリア」(1934年築)が伸びている。
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カステッロ広場は、サヴォイア公エマヌエーレ フィリベルトの一人息子で公位を継いだカルロ エマヌエーレ1世(在位:1580~1630)が建築家アスカニオ ヴィトッツィ(1539~1615)に依頼して1584年から行った都市計画が基本となっている。その後、ヴィトッツィの後を継いだ建築家カルロ ディ カステッラモンテ(1560頃~1640)や、偉大なイタリア建築家と言われたフィリッポ ユヴァッラ(1678~1736)などにより、現在に繋がる豪華絢爛なバロック建築の街並みが完成している。中でも、ユヴァッラは、1714年にトリノに招かれ首席宮廷建築家に任命され、約20年間に渡り、トリノに滞在し数多くの後期バロック様式の建物を建設したことで知られている。

そのカステッロ広場の中央に建つ豪華なファサード(西向き)は、1716年に建築家フィリッポ ユヴァッラにより改築された「マダマ宮殿(Palazzo Madama)」(市立古典美術館)である。もともとローマ時代の城門があった場所で、その後、都市防衛の要塞となり、14世紀の遷都後からサヴォイア家の分家アカイヤ家がレンガ造の城塞とした歴史ある建物である。
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1637年からは、サヴォイア公ヴィットリオ アメーディオ1世の公妃クリスティーヌ(1606~1663)の個人的な住居となり、その後を受け継いだサヴォイア公カルロ エマヌエーレ2世の王妃マリー ジャンヌ(1644~1724)の希望により現ファサードに改築された。宮殿の名称マダマとは、クリスティーヌとマリー ジャンヌの2人の王妃(マダマ)に因んで名付けられている。

ファサードの前には「サルデーニャ王国軍の旗手の白い大理石像」(1859年築)が飾られている。サルデーニャ王国とは、サヴォイア家が、ティレニア海にあるサルデーニャ島を支配した1720年以後に名乗った王国のこと。王国は、1796~1810年のナポレオンによるイタリア遠征で併合されるが、ウィーン体制のもと、フランスとオーストリアとの間の緩衝国家として立ち回っている。大理石像は、オーストリアの侵略からの解放の願いを込めて建てられた。

そして、その大理石像が見つめる先には、トリノの目抜き通り「ジュゼッペ ガリバルディ通り」がスタートする。その通り右隣の建物にはピエモンテ州議会があり、更にその右隣の北西側にサヴォイア家の王立教会「サン ロレンツォ教会(Chiesa di San Lorenzo)」(1680年築)の大きなドームが顔を覗かせている。1668年から1687年に建築家グアリーノ グアリーニ(1624~1683)により建設されたヨーロッパ・バロック建築の最高傑作の一つとされている。
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ピエモンテ州議会の先隣りの赤い建物はキアブレーゼ宮殿(Palazzo Chiablese)で、カステッロ広場の北側には、広い前庭を持つ「トリノ王宮(レアーレ宮殿)」(Palazzo Reale Torino)が建っている。

トリノ王宮(レアーレ宮殿)は、建築家アスカニオ ヴィトッツィの都市計画による中心建造物となった公爵宮殿で、建築家カルロ ディ カステッラモンテや、更に彼の息子で建築家のアメデオ ディ カステッラモンテ(1613~1683)などにより建設された。その後、建築家フィリッポ ユヴァッラがフランス風のバロック様式に改修し、18世紀に新古典主義様式が導入され現在の建物となっている。
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左右に飾られるブロンズ騎馬像は、ディオスクーロイ(ギリシア神話に登場するゼウスとレーダーの双子の兄弟カストールとポリュデウケース)で、イタリアの彫刻家アッボンディオ サンジョルジョ(1798~1879)(Abbondio Sangiorgio)によるもの。

トリノ王宮の見学はガイドツアーでのみ行われる。前庭を進み正面棟の入口を入ると迫力の騎馬像が迎えてくれる。騎馬像の前から、左右に続く大理石の「名誉の階段」を上って行くと、周りには歴代のサヴォイア当主の大理石像が飾られている。王宮内は、王座の間、謁見の間、サロン、中国小部屋などがあり、豪華な家具や調度品、美術品で溢れている(撮影禁止)。


ところで、カステッロ広場周辺にあるサヴォイア王家ゆかりの建築物11棟(トリノ王宮、キアブレーゼ宮殿、王立武具博物館・王立図書館、県宮殿(旧州事務局)、州立公文書館(旧裁判所公文書館)、旧陸軍士官学校、乗馬学校と厩舎、造幣局、王立劇場ファサード、マダマ宮殿、カリニャーノ宮殿)は「サヴォイア王家の王宮群」として世界遺産に登録されている。

次に、王宮の正面棟に沿って西側に進み、王宮広場の西翼の赤い外観の複合施設(キアブレーゼ宮殿)のアーケードをくぐり、サンジョバンニ広場右側に建つ「トリノ大聖堂」(サン ジョヴァンニ バッティスタ大聖堂)(Duomo di Torino)に向かう。王宮の西棟には、聖骸布礼拝堂のドームが聳え、直結して大聖堂のドームが続いている。ファサードは大聖堂を右側に見ながら大聖堂広場を横断し、トラムの軌道が延びる"9月20日通り"(via XX Settembre)側に面している。


この場所には、6世紀後半に初期キリスト教会があったが、現在の大聖堂の基礎は、1492年に、トリノ司教ドメニコ デッラ ローヴェレ(1442~1501)からの依頼で、トスカーナ出身の建築家メオ デル カプリーノ(1430~1501)により工事が始まり1505年に完成した。その後、1694年には拡張工事でドームが加えられた。トリノ市内では、唯一のルネサンス様式の宗教建築物だが、隣の独立して建つ鐘楼(高さ60メートル)は、1720年にバロック様式で再建(1470年頃築)されている。

階段を上ったファサード前から眺めると、鐘塔の北側には、古代ローマ時代の円形競技場跡があり、 "9月20日通り"の向かい側には遺跡公園があり、その先に煉瓦色をした2つの塔(高さ約30メートル)が見える。この塔の下には、紀元前1世紀のローマ都市の城門の一つ、パラティーナ門(Porta Palatina)が残されている。
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トリノ大聖堂には、ファサードにある3つの扉の内、中央の扉口からに入る。大聖堂は、ラテン十字形の3身廊で、長径が40メートルあり、内陣の上にドームがある。こちらは、身廊を進んだ内陣手前の階段下から主祭壇を眺めた様子である。そして、左右側廊の側面には多くの芸術家と装飾家による礼拝堂がそれぞれ7つ並んでいる。


この聖堂内には、世界中で注目される聖骸布が納められている。いつもは北側廊の一番奥の聖骸布礼拝堂に納められているが、この日は、北側廊沿いに設置されたガラスケースが設置され、中に聖骸布が納められた等身大の箱が置かれていた。箱には、実物大の聖骸布の写真が飾られており、また、そばの礼拝室にも大きな聖骸布の写真が飾られている(撮影は禁止)。こちらは聖堂内で販売されている聖骸布の絵葉書(その1)絵葉書(その2)になる。

拝廊側から北側廊の3番目にある礼拝堂には、バルトロメオ カラヴォリア(1616頃~1691)(Bartolomeo Caravoglia)による聖母子と4人の聖人(1655年)が描かれている。隣と先隣りの礼拝堂の作品もカラヴォリアによるもの。礼拝堂の手前にはテレビモニターが置かれ、聖骸布についての解説がなされている。
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聖骸布とは、キリスト磔刑後の遺体を包んだとされる亜麻布のことで、33年エルサレム、544年トルコのウルファ、944年にコンスタンチノープルで確認されているが、1204年のコンスタンティノープル包囲戦で行方不明になっている。その後、1389年に法王宛ての手紙に存在の記述が見られ、紆余曲折の後、1453年にサヴォイア家に譲渡され現在に至っている。1983年には、炭素年代測定をされ中世の物と判定されるが、測定方法に異論、反論があり、信憑性は疑問視されている。真贋はさておき、500年以上もサヴォイア家により大切に守られてきた至宝であることは間違いない。

大聖堂の前のトラムの軌道が延びる"9月20日通り"を南に進み、右折した左先のポルティコ(アーケード)内にファストフード「レ カラマーロ」(Re Calamaro)(イカの王様の意味)がある。この後の予定もあるので、揚げたてのイカ、エビを注文(筒状の容器に入れて提供してくれる)し、そばにあるベンチで食べてお昼にした。


レ カラマーロの角を左折し南に向かうと、トラムの軌道が延びており、先の交差点を左折すると、カステッロ広場から延びる「ジュゼッペ ガリバルディ通り」(Via Giuseppe Garibaldi)となる。通り沿いにはショップやカフェが並ぶ繁華街となっている。
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そのジュゼッペ ガリバルディ通りから東側を眺めると、カステッロ広場の中央に建つ「サルデーニャ王国軍の旗手の白い大理石像」と「マダマ宮殿」(市立古典美術館)を正面に捉えることができる。
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再び、カステッロ広場に戻り、大通り(東側はポー通り、西側はピエトロミッカ通り)を横断し、次に、南方向に延びるローマ通りを進む。ローマ通り沿いの建物にもポルティコ(アーケード)が続き、しばらくすると「サン カルロ広場」(南北168メートル×東西76メートル)に到着する。周囲には、カステッロ広場のバロック建築群の設計に携わった建築家カルロ ディ カステッラモンテが、1638年に建設したバロック様式の建造物が取り囲んでいる。
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広場中央には、彫刻家カルロ マロケッティによるサヴォイア公エマヌエーレ フィリベルト(1528~1580)の騎馬像が飾られ、南端には、サンタ クリスティーナ教会とサン カルロ ボッロメオ教会の双子の教会のファサードが並んで建っている。

少し歩き疲れたため、サン カルロ広場の西南側のポルティコ内にあるトリノ代表的カフェ「カフェ トリノ」に入り、エスプレッソを飲みながら休憩した。1903年創業の老舗店で、国王のウンベルト1世もケーキを食べながら市民と議論をかわしたという。カフェ入口の石畳には、トリノの象徴の牡牛が彫られており、この牡牛を踏むと幸せになると伝えられている。

次に、ローマ通りの東隣のアカデミア デッレ シェンツェ通り沿いに建つ「エジプト博物館」に向かった。入口は、通りの左側になる。こちらの博物館は、ナポレオンのエジプト遠征・美術収集に同行した収集家で外交官のベルナルディーノ ドロヴェッティ(1776~1852)が、サヴォイア家に送ったコレクションを基に、1824年に創設された。カイロにあるエジプト考古学博物館に次ぐ約33,000点規模のエジプト美術を収蔵しており、そのうち約6,500点が展示されている「エジプト博物館 英語版パンフレット(表面裏面)」。
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こちらは3メートル以上ある横長の「死者の書」である。死者の書とは、死者の霊魂が肉体を離れてから、オシリスの治める死後の楽園アアルに入るまでの過程、道しるべを、パピルスの巻き物に、絵とヒエログリフで描いた書で、エジプト博物館が収蔵する3種類の版うちの一点である
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「エジプトの踊り子」で、新王朝時代(紀元前1292~1070頃)の作品。体操選手が行うブリッジの姿勢を取っている。古代都市テーベ(現ルクソール)のナイル川西岸のデールエルメディーナ(Deir el-Medina)から出土されたフレスコ画の破片である。
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「正義の胸像(Bust of a Judge)」で、エジプト第26王朝時代(紀元前664~前525)の作品。胸元に付けられた飾り鎖は、古代エジプト神話の女神マアトで、法、真理、正義を司っている。
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彫像ギャラリーには、トトメス三世、アメンホテプ二世、ツタンカーメン、ラムセス二世等の貴重な彫像が並んでいる。展示数が多く、例えば、膨大な副葬品など、ガラスケース内に重なり合うように展示されており、ミイラや石棺などは、数段の棚に積み重ねられて収蔵倉庫の様になっていた。見るべき作品を予め厳選して見学しないと疲れてしまう。
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結局、博物館では1時間ほどさらさらっと見学して、次に、東に800メートルほど離れたモンテベッロ通り沿い(カステッロ広場からは400メートルほど南東側)にあるトリノのランドマーク「モーレ アントネッリアーナ」に向かった。こちらは国立の映画博物館で、もともとは1862年に建築家A アントネッリによりシナゴーグとして建てられたもので、高さが167メートル(概ね新宿の京王プラザホテル位の高さ)ある。
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展望台エレベーターで、85メートル地点まで上がることができるが今回はパスし、館内だけを見学することにした。館内は、巨大な吹き抜け構造になっており、周囲の螺旋回廊を下りながら見学する。
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壁面には、映画に関するポスター、写真、シナリオ、関係資料等がギャラリー形式で展示されている。こちらは、奥からエルンスト ルビッチ監督による「ニノチカ(1939年)」(グレタ ガルボ主演)と「天使 (1937年)」(マレーネ ディートリヒ主演)。そして手前が、オットー プレミンジャー監督「帰らざる河(1954年)」(ロバート ミッチャム、マリリン モンロー出演)の映画ポスターが掲げられている。全てイタリア版だが、時代を超えて世界的に愛される名作ばかりである。


こちらは、オーソン ウェルズ監督の「市民ケーン(1941年)」で、ウィリアム ランドルフ ハーストをモデルにした新聞王ケーンが最期に残した言葉「バラのつぼみ」の謎を探るストーリー。新聞記者が取材を通じて、ケーンの孤独で波乱な生涯が浮かび上がっていくというもの。革新的な映像表現が今見ても凄く、常に映画ランキングで上位にランキングされる。


マルクスブラザーズの最後の作品「マルクス捕物帖(1946)」で、左からチコ、ハーポ、グルーチョのマルクス3兄弟が、映画カサブランカをパロディにしてドタバタ喜劇を繰り広げる。丸メガネと書きヒゲのグルーチョのマシンガントークや、喋らずハープ演奏が得意のハーポと、ハーポの通訳的役割でしゃべるイタリア訛りのチコとの掛け合いなどナンセンスでスピーディーなギャグは今も新鮮である。


1階には、映画俳優たちの衣装やセットのデザイン、特殊効果を施したクリチャーなどが展示されている。映画のセットに入るとスクリーンに登場人物として映るコーナーなどがある。フロア中央には、足までゆったり載せられるパーソナルチェアが設置されており、リラックスしながら映画が鑑賞できる。
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時刻が午後7時半を過ぎたころ、モーレ アントネッリアーナのすぐそばのリストランテ(Sotto La Mole)に向かった。今回の旅行で今夜が一番早い夕食時間となった。


こちらのレストランは、美味しいトリノの郷土料理が頂けることで評価が高い。到着時の店内はまだ空いていた。
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食事は、テイスティングコース(37ユーロ)か、アンティパスト、プリモピアット、セコンドピアットの5品ずつからオーダーできるアラカルトメニューがある。この日は、テイスティングコースとし、最初の飲み物として、ピエモント州産のピルスナー ビール、メナブレア(G. Menabrea e Figli)と フランチャコルタ(ロンバルディア産のスパークリングワイン)を頼んだ。
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グラスに入った冷製サラダが提供される。イタリアでは、ストウッツィキーノ(Stuzzichino)と呼ばれ、日本での付け出しとか、おつまみを表わしている。

パンは、スパイスやハーブ入りのフォカッチャやトリノ名物のグリッシーニなど。グリッシーニは、細長いスティック状でクラッカーに似た食感がある。


次が、アンティパストとなる。こちらはピエモンテ州伝統料理の「子牛のロースト」で、冷やした塊をローストビーフの様にスライスし、その上に、ツナ、アンチョビ、ケッパー、マヨネーズをすりつぶした(Vitello tonnato)ソースをかけて頂く。脂分が少ない肉のため、酸味のあるマヨネーズ系ソースと相性が良い。


プリモピアットは、ピエモンテ州伝統の詰め物パスタ「アニョロッティ ピエモンテ―ゼ」(Agnolotti alla piemontese pizzicati a mano)で、アニョロッティとはラヴィオリのピエモンテ州での方言とのこと。自家製パスタの生地には卵が練り込まれ、食べた際のやや硬めでありながら絶妙なモチモチ感もあり大変美味しい。


そして、セコンドピアットは「ウサギのロール」(Rabbit roulade with olives and potatoes)で、レストランお勧めの一品。。ウサギ肉は、鶏肉に似ているがやや味がしっかりした印象。中に入ったハーブ系の野菜や付け合わせとの相性が良い。


コースには、チーズセレクション(Selection of cheese)が付いている。


そして、最後にデザートとなる。チョコレートがトッピングされた「パンナコッタ」(Lavender flavour panna cotta,chocolate topping)で、追加で、エスプレッソを頼んだ。


見た目も美しく分量もちょうど良かった。油っこくもなく食べやすく美味しく頂けた(計114.5ユーロ(レート112.385))。ワインとの相性も良かったが、残念ながら飲んだワインを撮り忘れてしまった。
(2011.8.2~8.3)

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