カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イタリア・ピエモンテ(その3)

2013-04-25 | イタリア(ピエモンテ)
こちらは、ピエモンテ州ノヴァレーザ(Novalesa)にある「ノヴァレーザ修道院」(Novalesa Abbey)である。ノヴァレーザは、モン スニ峠の南麓にあるフランスとの国境の村モンチェニージオから、更に南東側のヘアピンカーブの斜面を一気に下った(高低差約600メートル)、チェニスキア川が流れる渓谷沿いの人口500人ほどの小さな村である。そして、その修道院は、ノヴァレーザの中心部から1キロメートルほど南西方面に離れた山間部に位置している。
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フランス・ランスヴィラール(Lanslevillard)から修道院まで約40キロメートル(約1時間)の距離だった。ノヴァレーザに着いてからは、修道院の場所が分からず、インフォメーションなどを求めて村の中心部を走ったが、一方通行の狭い石畳道沿いに人家が密集しているだけだった。修道院の見学は、ガイド ツアーのみと、1日2回と時間が決まっており少し焦ったが、チェニスキア川に架かる橋の袂あった案内地図に従って、ツアー開始時間までに無事到着した。

ノヴァレーザ修道院は、726年に設立されたベネディクト会修道院で、聖ペテロと聖アンドリューに捧げられている。この日のガイド ツアー参加者は7名で、最初に、修道院内のアバシアル(Abbatial)の会衆席に座り、スタッフから概要説明(イタリア語のみ)を受ける。英語による説明を希望する場合は、こちらの解説(修道院の概要(表)修道院のプラン(裏))が貸し出される。


その後、丘を思わせる起伏のある広い修道院の敷地を歩きながら見学した。修道院の南側の敷地には、「サン ミケーレ礼拝堂」(S.Michael)、「サン サルバトーレ」(The Holy Saviour)、「エルドラド礼拝堂」(S.Eldrade)の3つの礼拝堂が点在している(北側に「サンタ マリア礼拝堂」(S.Mary)がある)。前方の高台に建つサン ミケーレ礼拝堂は、8~9世紀に建設され、中世のフレスコ画が残されているとのことだが、見学はできない。一時期、厩舎と道具小屋としても使われていた。


続いて11世紀後半に造られたロンバルディア様式のサン サルバトーレ沿いの通路を進んで行く。この礼拝堂は、修道士たちの祈りや食事の場所としても使われた。近年、無名戦士のための礼拝堂になったという。


丘を登った先は展望台で、正面(東側)には山々が連なり、眼下には、モン スニ峠を源流とし、ノヴァレーザを経由して南に流れるチェニスキア川が織りなす渓谷が見渡せる。向かい側の山麓にはヴィラレット(Villaretto)(ノヴァレーザの南側の村)の人家が点在している。


そして、その展望台の手前に建つ建物が、本日のガイドツアーの最大の見どころ「エルドラド礼拝堂」となる。もともとの建設は9世紀に遡るが、現在の建物は11世紀に建てられたロマネスク様式の礼拝堂である。


白い漆喰で塗装されたファサードは17世紀に建築されたもので、内側を日差しが届きにくい深いバレル ヴォールトで覆われている。そして、その内側奥の扉(ポーチ)には、ティンパヌムだけでなく、左右の柱も含め全て鮮やかな色彩のフレスコ画で覆われている。
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扉を入ると、礼拝堂内は単身廊にアプスだけの狭い空間だが、眩いばかりのフレスコ画で覆われている。その正面突き当りのアプスには、左右に大天使ミカエルと大天使ガブリエルを配した全能者ハリストス(Pantocrator)(キリスト)が描かれているが、眼光鋭い表情に、巧みな衣皺線、玉座の装飾、円座の濃淡など大変精緻に表現されている。そして、横断アーチに施された、アカンサス・幾何学文様などの重厚な多色の縁取り装飾が、登場する人物像を一層引き立てている。
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11世紀後半に描かれたにも関わらず、今まで大きな修復を受けず、近年に描かれたかの様な鮮やかな彩色が保たれていることは大変驚かされる。これは人里離れた場所と、その場所における適度な温度と湿度なども関係していると言われているが、何よりも歴代の修道院関係者の保存への努力など先人たちの苦労が偲ばれる。

アプスの下の内陣は、身廊より一段高く、重厚な聖卓が置かれている。その聖卓の先の壁面には、左右に聖ニコラウスと聖エルドラドがマンドルラに包まれたキリストを称える様に描かれている。その聖人たちの左右には、分厚い壁に開けられたロマネスクらしい小さな窓があるが、その窓の内壁にも、美しい装飾が施されている。
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聖ニコラウスとはサンタクローズの原型となった司教で、聖エルドラドはノヴァレーザ修道院の修道院長(任:820~845)を務めている。そして、天井のバレル ヴォールトは、2つのベイに分かれ、ベイ毎に聖ニコラウスと聖エルドラドのエピソードが描かれている。まず、アプス側のベイには、緑色を背景とし神の子羊を中心として周囲に聖ニコラウスのエピソードが散りばめられている。神の子羊の下で椅子に腰かけた母親に抱かれている幼子が聖ニコラウスである。
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聖ニコラウスは、紀元270年頃、小アジアのローマ帝国リュキア属州のパタラに生まれ、同リュキアのミラで大主教を務めている。死後はミラの教会に葬られたが、聖遺物から芳膏が湧き出て、多くの信者がこれにより病を癒されたことから、1087年に南イタリア・バーリに聖遺物が移され、それをフランス人十字軍兵士が、故国への帰途の途中、ノヴァレーザの地に奉納したと伝えられている。

天井から右側に視線を下げていくと、貧しい貴族の娘が、身売りされそうになっており、聖ニコラウスが窓からその家にお金を投げ入れ(サンタクローズの原型となったエピソード)、娼婦にならずに済んだという場面が描かれている。
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更にその下となる右身廊のアーチ壁には、嵐により難破しそうになった船の船乗り達が聖ニコラウスの名前を呼ぶと、海の上に聖ニコラウスが現れ、命を救ったとされる場面が描かれている。
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再び、視線を天井に戻して、今度は左側に視線を下げていくと、聖ニコラウスを中心に3人の人物が描かれている。
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3人の人物の下の左身廊アーチ壁には、旅館の主人が3人の子供たちを切り刻ざんで食事として出そうとしているところを、聖ニコラウスが救おうとしている場面である。
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次の拝廊側の天井ベイには、鳩と草花で縁取られた交差ヴォールトで場面が区分けされ、それぞれ聖エルドラドのエピソードが描かれている(右隣が聖ニコラウスが描かれたベイで、左隣が拝廊)。聖エルドラドは、紀元781年フランスのグルノーブルとガップ間に位置するエルドラド(現アンベル村)で生まれ、裕福な家庭に育ったが、20歳頃、全てを棄てて巡礼の旅に出ている。中央右側には、聖エルドラドが、生まれ故郷のアンベル村で畑を耕す様子が描かれている。
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視線を下げていくと、聖エルドラドが巡礼カバンを捨て、修道服を与えられ、ノヴァレーザ修道院に入所する様子が描かれている。
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更にその下となる左身廊アーチ壁には、ノヴァレーザ修道院長となった聖エルドラドの姿が描かれている。対する右身廊アーチ壁には、蛇がはびこる村で、杖を持つ聖エルドラドが、蛇を集めて地中の穴に導き、二度と現れないように命じた場面(蛇の奇跡)が描かれているが、こちらは損傷が大きい。
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拝廊側のティンパヌムには、十字架を中心に、左右にラッパを吹く天使の姿が描かれていることから、最後の審判を表わしている。
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エルドラド礼拝堂の見学は10分程と短く少し物足りなかったが、保存状態の良い美しいフレスコ画には満足できた。次に、ノヴァレーザから、7キロメートルほど南へ下ったピエモンテ州トリノ県スーザ(Susa)に向かった。ヴァル ディ スーザ(スーザ渓谷)に位置するコムーネで、県都・州都トリノは、東に53キロメートルの距離になる。

スーザは、古代ローマ以前にさかのぼる古い都市で、古代ローマ時代にはセグシウムと呼ばれ、アルペス・コッティアエ属州の州都だった。フランス側からは、北西のモン スニ峠と南西のモンジュネヴル峠から伸びる街道が合流する関門にあたり、古来よりフランスからローマを訪ねる巡礼者はこのいずれかの道を通ってスーザにやってきた。

前方のドーラ リパリア川に架かる橋の奥に見える教会は、紀元13世紀に建てられたポンテ教会(Chiesa de l Ponte)で、現在、博物館を併設している。 左手に見える山が、モン スニ峠方面で、その麓がノヴァレーザ修道院にあたる。橋から伸びるセッテンブレ通り(Via XX Settembre)を南(左側)に行くと広場(Piazza IV Novembre)があり、通り沿いには、ショップ、レストラン等が並んでいる、なお、橋を渡った右手はスーザ駅方面になる。
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セッテンブレ通りを南に歩き、すぐ左手のリストランテ メーナ(Meana)でランチをすることとした。


時刻は午後1時。店内は多くの客で賑わっていた。


ランチメニューは、プリモ ピアット、セコンド ピアット、デザートのコースで、それぞれ料理を選べる。こちらはプリモ ピアットのアニョロッティ(肉詰めパスタ)で、他に、スパゲッティ、ズッパ(食べる野菜スープ)、サラダ盛り合わせなどから選べる。


こちらはセコンド ピアットで、コントルノ(野菜や豆のつけ合わせ)付ポークソテー。他にも、鳥肉、仔牛、チーズ、ハンバーガーなどから選べる。


最期にデザートをいただいた。料理の提供が早く、30分ほどで食事が終了した。


食後は通りを南に向かい、すぐ先のトレント広場から右(西側)に延びる旧市街の「パラッツオ デイ チッタ通り(Via Palazzo di Citta)」を歩く。通り沿い右側に面した建物の1階部分は、アーケード(ポルチコ)が続いており、建物間を通り抜けできる。こちらのレストランのテラスはポルチコ内にも設置され大変賑わっている。トレント広場周辺からは、やや離れていることから、地元の人に人気のレストランかもしれない。


パラッツオ デイ チッタ通りは、スーザの町役場がある旧市街の中心で、御影石の舗装がされ、真ん中だけ丸石の石畳になった綺麗な通りである。この時間、手前のレストランは賑わっていたが、通りを歩く人は少なかった。


そのパラッツオ デイ チッタ通りを100メートルほど西に進んだ「カルロ アンドレア ラナ広場」から先は上り坂になり、7メートルほどの小高い岩山上に「スーザ城」(アデライデ伯爵夫人の城)が建っている。こちらは、旧市街を見下ろす城の東袖棟側で、すぐ右側からは、西側へ延びる長辺側の北袖棟との ” 逆L字型 ” の外観を要している。
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正面の東袖棟の上部には小さな銃眼出窓が2つ設置されている。スーザ城の別名となるアデライデ伯爵夫人とは、サヴォイア伯オッドーネ(オトン)(1010/20~1057)の妻アデライデ ディ トリノ(1020~1091)のことを指している。オッドーネは、イタリアのピエモンテとフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォワ一帯を支配していた辺境伯貴族だったが、トリノ辺境伯を継いだアデライデ ディ トリノと結婚したことにより、サヴォイア家として北イタリアに大きく飛躍する。


アデライデは、トリノ辺境伯オルデリーコ マンフレーディ2世(975/92~1041)の長女として生まれたが、三姉妹の長女であったことから、後に父の遺領の大部分を継承している。彼女は膨大な財産を守るため政略結婚するが、次々と夫に先立たれ、3度目の夫サヴォイア伯オッドーネとの間に3人の息子と2人の娘を授かっている。しかし、そのオッドーネも亡くなったことから、彼女自身が息子とともにトリノ辺境伯領とサヴォイア伯領を統治している。

カルロ アンドレア ラナ広場からは、アル カステッロ通りとなり、右上にスーザ城の建つ岩壁下を通っていく。左右にある大きな古代ローマ時代の石壁(通り過ぎ振り返った様子)を抜けると、右側のスーザ城の城壁に沿って階段が続いていく。
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城壁の最上部には胸壁が設けられ、100メートルほど西方面まで城壁は続いている。そして、城壁の終点には、直結して石積みされた二連アーチの「ローマ水道橋の跡」(4世紀頃)が建っている。
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ローマ水道橋のアーチから北側には「アウグストゥスの凱旋門」が見える。ローマ皇帝アウグストゥスに敬意を表して紀元前13年から前8年の間にケルト リグリア部族のマルクス コツィオ王(紀元前60頃~10頃)の要請で建てられたもので、その完成時には皇帝自身が来訪したと伝わっている。1992年に修復され美しい姿を見せている。
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水道橋をくぐり、右側の城壁に沿って北方向に進み、アウグストゥスの凱旋門をくぐると、道がなだらかに右方向に下って行く。アウグストゥスの凱旋門の右側には展望台がありスーザ市内を一望できる。左側の鐘楼は11世紀に造られた「スーザ大聖堂(サン ジュスト聖堂)」(cattedrale di San Giusto)である。中央の遠方に見えるのがポンテ教会で、右側には「サンタ マリア マッジョーレ教会」(Chiesa di S.Maria Maggiore)が建っている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

アウグストゥスの凱旋門からなだらかな道を下って行き、大きく右に回り込んだ先に3世紀~4世紀、ローマ時代の城壁に造られた「サヴォイアの門」(4世紀築)前に到着する。門の向こうにスーザ大聖堂の鐘楼が見える。
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門の威容と鐘楼とに目を惹かれるが、門の左手に繋がる白い壁面はスーザ大聖堂(サン ジュスト聖堂)のファサードである。下部に小さな西ポータルがあり、上部は4つのピラスターで3つに区分され、中央の大きなアーチ窓の左右側面に2つの浮彫窓がある。赤レンガで縁取られた切妻型のコーニスで3つの尖塔が聳えている。

サヴォイア門の左右(南北)には、円形の側防塔を備えているが、西側から見た右側(南塔)の大半が手前の建物内に取り込まれて見えない。しかし門をくぐった東側からは、左右の側防塔を確認できる。塔の千鳥状に設けられたアーチ窓は3階で上部が破損しているが、東側は4階まで残っている。中央の馬車門は1750年に設けられた。


馬車門をくぐったすぐ左側は、ファサード同様に白く塗られたスーザ大聖堂の身廊壁で、側防塔の下部は壁の中に取り込まれている。すぐ先の身廊壁に小さなポーチがあり、そのポーチの上の丸窓と重なる様に、古いティンパヌム(タンパン)があり、1130年頃に描かれたフレスコ画(磔刑図)が残っている。
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フレスコ画(磔刑図)の右側にも紋章が描かれた正方形のフレスコ画があり、その先に円形の礼拝堂が張り出しているが、途中から大きな鐘楼の土台が手前に張り出している。スーザ大聖堂の鐘楼(11世紀建築、15世紀尖塔増築、18世紀土台補強)は、小さな窓が1つある土台の上に、6層に分かれ、それぞれ異なるアーチ窓を配し、尖塔を設けた高さ51メートルの威容があり、南側の小さなサヴォイア広場から何とか仰ぎ見ることができる。
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鐘楼を回り込んだ右側の後陣に近い側面に聖堂への入口があり扉が開いている。こちらにもフレスコ画(キリストのエルサレム入場)が残っているが、さきほどの磔刑図もそうだが、共に南に向いて日差しを浴びているが、劣化するのではないだろうか。。
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聖堂内は、外の明るさとは異なりかなり暗い雰囲気である。聖堂は翼廊のある3廊式バシリカ型のネオロマネスク様式で、後陣は奥行きがある。内陣は、階段の上にあり、バロック様式で飾られた多色の大理石の高い祭壇と、14世紀の貴重な木製の聖歌隊席が備え付けられている。
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スーザ大聖堂は、サン ジュスト(聖ユストゥス)に捧げられた聖堂で、彼は、ノヴァレーザ修道院の修道士だったが、サラセン人(906年スペインからプロヴァンスを襲撃しイタリア北西部へ侵攻した。)の攻撃により殉教している。1027年に遺体が奇跡的に発見され、遺物がスーザ大聖堂に運ばれている。

身廊には5つのベイがあり、それぞれ2列のアーチが支えている。壁面には真新しい幾何学文様の彩色が施されており、天井は、細かく縁取りされた文様のクロスヴォールトと星空の彩色で覆われている。
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北側廊には5つ、南側廊には2つの礼拝堂があり、その南側廊と翼廊との間のアーチ壁には、1メートルほどの台座の上に、アデライデ ディ トリノの像が飾られている。

(2011.8.2)

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