カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イタリア・ピエモンテ(その5)

2013-04-25 | イタリア(ピエモンテ)
「パシフィック ホテル フォルティノ(Pacific Hotel Fortino)」でトリノ3日目の朝を迎える。やや古いホテルだが、部屋は清潔でリラックスできる。トリノ中心部から北西に2キロメートルと、少し離れているが、ドーラ リパリア川右岸(南側)に位置しており、川のせせらぎが感じられる居心地の良い場所にある。


昨夜は、帰りが遅かったので、今朝は遅めの朝である。朝食は、さまざまな種類のハムやベーコン、チーズに加え、スクランブルエッグやゆで卵など充実しており有難い。食後は、昨日に引き続きトリノ観光で過ごす予定にしている。


最初に「カリニャーノ宮殿(Palazzo Carignano)」に向かった。トリノ中心部の歴史的中心地区「カステッロ広場」からアカデミア デッレ シェンツェ通りを100メートルほど南に下った左側にある。なお、右前方には昨日訪れたエジプト博物館がある。


こちらは、カリニャーノ宮殿の西側ファサードにあるポータル門から建物をくぐり、中庭から建物を振り返った様子になる。重量感のある円柱が埋め込まれた様なボディに、八芒星をモチーフとした装飾縁取り、エンタブラチュア(コルニーチェ)の繰形装飾など、華麗で個性的なバロック様式の外観となっている。


正面入口となる西側ファサードも華麗バロック装飾で、レンガ造に波打つような楕円状の曲面に、中央に鮮やかな白いポータル門がある。対する中庭を挟んだ東側ファサードは、優美な白亜のファサードとそれぞれ個性的なデザインとなっている。

カリニャーノ宮殿は、サヴォイア家の分家カリニャーノ家(1620~1831)のエマヌエーレ フィリベルト(在位:1656~1709)が、トリノを代表するバロックの建築家グァリーノ グァリーニ(1624~1683)に依頼し1679~85年に建設された。こちらの宮殿では、サルデーニャ王国の第7代国王(カリニャーノ公)カルロ アルベルト(1798~1849)の長男で、後のイタリア初代国王のヴィットリオ エマヌエーレ2世(1820~1878)が誕生している。その後、宮殿は国会議事堂として使われ、現在は王立リソルジメント博物館となっている。

次に、カステッロ広場に戻り「マダマ宮殿」にある「トリノ市立古典美術館」を見学する。美術館は、1934年に開設し、現在35の展示室と、4つのフロア、パノラマ フロアから構成されている。地下には中世美術品、1階にゴシック、ルネサンス、バロック時代とそれぞれの作品があり、2階は装飾芸術のフロアとなっている。収蔵コレクション数は、絵画、彫刻作品を始め、陶器、磁器、マジョリカ、象牙、金、銀、家具、布地など7万点を超えている。
クリックで別ウインドウ開く
(トリノ市立古典美術館のパンフレットはこちら→おもて面うら面

館内では、美術館の代表作品、アントネロ ダ メッシーナの「トリヴルツィオの肖像(1476年)」から鑑賞する。メッシーナは、15世紀ルネサンス期に活動したシチリア出身の画家で、肖像画や宗教題材の絵画作品を得意とした。こちらはフィレンツェのリヌッチーニ家のコレクションだったが、手放されミラノで発見されたものを、美術館が1935年に購入している。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、パルマの画家で宝石職人、彫刻家フランチェスコ マルミッタ(Francesco Marmitta、1490~1492)による「ドメニコ デッラ ローヴェレのミサ典書」の写本である。ドメニコ デッラ ローヴェレ(1442~1501)は、システィーナ礼拝堂を建設した教皇シクストゥス4世(1414~1484)の甥で枢機卿。トリノの大司教を務め、1490年にはトリノ大聖堂の再築に着手し、費用の大部分を負担している。
クリックで別ウインドウ開く

ミサ典書とは、司祭がミサの挙行のために祈祷文や聖書からの引用など必要な事項を収録した書物で祭壇上で用いるものである。挿し絵は一つの絵画と言っても良いほど細かく描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

スーザ渓谷の大理石から作られたピエモンテの彫刻家による柱頭彫刻「天国への門で信者を歓迎する聖ペテロ」(1130~1140頃)で、1883年にノヴァレーザ修道院からもたらされた。天国への門は、雲の中にある白もしくは錬鉄の門とされ、門前で守る天国の鍵の番人ペテロが死者を調べ、受け入れに相応しいかを判断している。もし入場を拒否された場合は地獄に落ちることとなる。
クリックで別ウインドウ開く

イタリアのルネサンス彫刻家アゴスティーノ ブスティ(Agostino Busti、1483頃~1548)による墓碑彫刻の一部で、フランス将軍ガストン ド フォワ(ヌムール公)(1489~1512)の墓として、当時ミラノを支配したフランスより制作を依頼されたもの。完成後は、ミラノのサンタ マリア デッレ グラツィエ教会に設置する予定だったが、フランスのミラノ支配が放棄され政治的混乱などの理由により1522年に未完成のまま終わっている。
クリックで別ウインドウ開く

現在、ガストン将軍の横臥像はミラノのスフォルツェスコ城にあり、他にも、レリーフ彫刻などが、アンブロジアーナ図書館、ヴィクトリア アルバート美術館、マドリードのプラド美術館に保管されている。ガストン将軍は、国王ルイ12世の甥で、王妃アンヌ ド ブルターニュの従弟でもあり、1511年に21歳の若さでフランス軍の総司令官となり、カンブレー同盟戦争(イタリア戦争)で活躍した。勇猛果敢な戦いぶりから”イタリアの雷” とも称されフランス軍に数々の戦勝をもたらしたが、1512年にラヴェンナの戦いで戦死している。

こちらは、ヴァッレ ダオスタ特別自治州の州都アオスタの「サントルソ教会」の回廊を飾っていた柱頭彫刻の一部。現在、回廊東側の柱頭は失われ、18世紀後半の装飾的な柱頭に置き換わっているが、こちらは、置き換わる前のもの(1132年)で、トリノ市立古典美術館に4つ保管されている(こちらも、そのうちの一つ)
クリックで別ウインドウ開く

ピエモンテのモザイク(1120年頃)。
クリックで別ウインドウ開く

ロンバルドの画家によるサンタ マリア アド アクゥイ大聖堂のフレスコ画の断片(1067年)。
クリックで別ウインドウ開く

1時間半ほど鑑賞した後、カステッロ広場から南側の大通りを横断し、アーケード(ポルティコ)に沿って、街の対角に延びるピエトロミッカ通りを西に進み、トリノ大聖堂前から南に続く"9月20日通り"(via XX Settembre)を左折したすぐ左手にある中華レストラン(Ristorante cinese du cheng)で昼食にする。今夜は、昨夜と同様にピエモンテ料理を予定しているので、昼は中華料理にしてみる。


パーナ貝やエビとキノコの炒め物、ビーフンなどを注文する。


更にチャーハンなどを頼んだ。味は普通だったが、久しぶりの中華料理なので美味しく頂けた。


次に、ピエトロミッカ通りを東に、カステッロ広場を正面に一望できる場所まで戻り、トリノ人気のジェラート店「La Gelateria Menodiciotto」(1986年開業)で、エスプレッソを飲み、ジェラードを食べながら休憩する。店舗から上を見上げると、切妻と円弧のペディメントを交互に配置された窓が整然と並び、ベランダにはイタリア国旗がかけられている。バロックの統一感ある美しい外観に感心させられる。
クリックで別ウインドウ開く

ジェラート店のテラス席からは大通りを挟んで向かい側にはカステッロ広場に建つ「マダマ宮殿」(トリノ市立古典美術館)を望むことができる。側面となる南側からは、建築家フィリッポ ユヴァッラによるバロック様式の西ファサードと、14世紀にサヴォイア家の分家アカイヤ家により改築されたレンガ造の要塞とが同時に見渡せる。手前には、イタリア騎士団の騎馬像が飾られている。
クリックで別ウインドウ開く

これからトリノ中心地から約5キロメートル北に位置する「ヴェナリア レアーレ宮殿」(Reggia di Venaria Reale)に向かうことにする。

ヴェナリア レアーレ宮殿は、サヴォイア家が、トリノの郊外に、防衛網として楕円状に配置した城と宮殿の一つで、他に、ボルゴ城、ヴァレンティーノ城、モンカリエーリ城、リヴォリ城、アリエ公爵城、ラッコニージ城、ゴヴォネ城、ポレンツォ城、狩猟館であるカッチャ ディ ストゥピニージ宮殿、ヴィッラ(別邸・別荘)レジーナ邸を含めた計11棟が、カステッロ広場周辺の建築群と共に「サヴォイア王家の王宮群」として世界遺産に登録されている。

"9月20日通り"(via XX Settembre)沿いの中華レストランに戻り、すぐ先にあるバス停から11番バスに乗る(乗車時間50分)。バスを降りた後、アンドレア メンサ通りを西に向けて歩くと、正面に時計が飾られた切妻屋根の門が見えてくる。
クリックで別ウインドウ開く

門の手前は、半円敷地のレプッブリカ広場で、北側となる右側の広場の先には、木々が覆い茂り、遠くに山の稜線が見渡せる。正面の時計門の先に宮殿の中庭が広がるが、向かって左側にある敷地内から続く赤レンガ色の棟の1階に宮殿の入口がある。そして、宮殿入口の手前左後方には、前庭を持つ「聖ウベルト礼拝堂」(Cappella di Sant'Uberto)が建っている。前庭の東側から礼拝堂を見上げると、正十字形(ギリシャ十字形)で中央交差部に八角形の塔が確認できる。礼拝堂内の見学は、ヴェナリア レアーレ宮殿内から向かうことになる。
クリックで別ウインドウ開く

さて、ヴェナリア レアーレ宮殿が最初に建設されたのは、カルロ エマヌエーレ2世(1634~1675)が、狩猟館として建築家アメデオ ディ カステッラモンテ(1613~1683)やミケランジェロ ガローヴェに依頼したのが始まりで、1659年から1679年頃にかけて厩舎、時計塔、劇場、広場、庭園と順次建てられた。なお、アメデオ ディ カステッラモンテは、トリノ中心部のカステッロ広場やサン カルロ広場のバロック建築群の設計に携わったカルロ ディ カステッラモンテの息子である。

しかし大同盟戦争や、1706年のトリノの戦い(スペイン継承戦争における戦闘の一つ)において多くが破壊されたため、1716年から、ヴィットーリオ アメデーオ2世(1666~1732)が、マダマ宮殿のファサードを始めサヴォイア家の多くを建築した建築家フィリッポ ユヴァッラに依頼し、現在の姿の基礎となるバロック様式や新古典主義様式で増築・改修が行われている。その後、ナポレオンのイタリア遠征などで受けるが、近年までイタリア軍の駐屯地として利用されてきた。1999年からは、大改修が始まり2007年から一部が公開されている。

こちらは、宮殿の敷地内となる南側の庭園から、宮殿のメイン棟を眺めた様子。左右東西に " マンサート "と呼ばれる屋根があり、その間の横広の二階建ての建物内部に、宮殿最大の見どころ「ガッレリア デ ディアナ(Galleria di Diana)回廊」がある。ちなみに、向かって左側のマンサートから北側には、中庭を形成する西翼棟が延び、右側のマンサートの右隣からは聖ウベルト礼拝堂に繋がっている。
クリックで別ウインドウ開く

ガッレリア デ ディアナ回廊のある宮殿メイン棟の南側には庭園が広がっている。平面幾何学式庭園で、中央には砂地の通路が300メートルほど先まで続いているが、この時間は日差しが強く、誰も庭園を散策する人はいなかった。更に、その先はイタリアの軍用空港ヴェナリア レアーレ空港となっている。


右側に見える砂地の通路までが庭園の敷地と思っていたが、西に向け約1キロメートル先のチェロンダ(Ceronda)川手前まで庭園は続いているとのこと。しかし、現在は立ち入り禁止で、当初の広大なイタリア式庭園の復元に向け修復工事が続いている。ちなみに、その先には周囲30キロメートルに及ぶ広大な森「マンドリア公園」(自然保護区)が広がり、サルデーニャ王国の最後の国王で後のイタリア初代国王ヴィットーリオ エマヌエーレ2世が1859年に狩猟小屋として建てたボルゴ城が残されている。


左側の建物群は、改築を行ったフィリッポ ユヴァッラに因んで名付けられた「ユヴァッラ厩舎」で、中央に、庭園を見下ろす大きなアトリウム、北側にスクーデリア グランデ、南側にシトロネリアから構成されている。最初に建てられた際は、柑橘系の果物の冬の貯蔵だったが、改築後は、増築され、約200頭の馬が収容される厩舎として活用された。現在は、ヴィットーリオ エマヌエーレ2世の馬車、軍服などの常設展示に加え、特設の展示会や特別展なども開催されている。


こちらが、ガッレリア デ ディアナの回廊で、東西に長さ83メートルあり、周囲を豪華な漆喰装飾で覆われている。廊下の左右側面には、2連の浮彫ピラスターの間に、細縦長の長方形の格子窓とアーチ窓が交互に配され(南面11か所、北面11か所)、その上のエンタブラチュアのすぐ上には、明り取りのためのオクルス(南面11か所、北面11か所)が配されている。天井は、ドーム型で一面に装飾が施されている。
クリックで別ウインドウ開く

向かって左側が宮殿の中庭で、右側が南側の庭園となる。正面の豪華なペディメントのある扉口を抜けると聖ウベルト礼拝堂に至る。ガッレリア デ ディアナの回廊の床には、黒と白のタイル張りで構成されている。現在の回廊は、何もない空間だが、もともとは、宮廷芸術家による漆喰、彫像、絵画の大規模なコレクションが展示されていた。
クリックで別ウインドウ開く

聖ウベルト礼拝堂はガッレリア デ ディアナ回廊と同じく建築家フィリッポ ユヴァッラが1716年から5年間かけて建造したギリシア十字形の平面プランを持つバロック様式の教会堂である。南側には、空飛ぶ天使像が飾られたドームを頂く教会型の主祭壇がある。中央身廊部の四方には、レセン(ロンバルディア建築様式)と呼ばれるコリント式のピラスターがエンタブラチュアを支え、その下には、君主や宮廷の参列者がミサ出席の際に使用したベランダ付きのトリビューン(上層階)と、石像(こちらは聖アンブロジウス)が飾られている。
クリックで別ウインドウ開く

東側には、ヴェネツィアの後期バロック派のセバスティアーノリッチ(1659~1734)などにより描かれた脇祭壇がある(西側も同様)。左側の石像は、聖ヨハネス クリュソストモス像になる。石像は、他にも、聖アウグスティヌス、聖アタナシオスと四方に合計4体あり、全て、カッラーラのジョヴァンニ バラッタ(Giovanni Baratta、1670~1747)と、彼の甥ジョヴァンニ アントニオ チベイ(Giovanni Antonio Cybei、1706~1784)による作品で、1724年から1729年の間に制作されたもの。
クリックで別ウインドウ開く

礼拝堂は、構造上、ドームを建設することはできなかったことから、バロック様式の舞台美術家ジョヴァンニ アントニオ ガッリアーリ(1714~1783)によりトロンプ ルイユ(騙し絵)で飾られている。見上げる場所により、中央部がずれて見える。
クリックで別ウインドウ開く

聖ウベルト礼拝堂は、白を基調とした静謐感漂う空間で、他に見学者がいなかったこともあり、ゆっくり見学できた。この後は、宮殿内で開催されている「イタリア統一150周年を記念した特別展」を見学した。

こちらは、ローマのユニウス バッスス聖堂を飾っていたモザイク画で、現存する4点のうちの一片。モザイクは「執政官行進図」(325~350頃)、マッシモ宮(ローマ国立博物館)所蔵で、大理石や真珠層、ガラスなどの材料を使用したローマ時代に流行の「オプス セクティレ技法」でつくられており、今も鮮やかな光を放っている。
クリックで別ウインドウ開く

ユニウス バッスス聖堂は、ローマ執政官ユニウス アンニウス バッスス(Giunio Annio Basso、任期:318~331)に因んでおり、モザイク画面には、チルコ マッシモ(ローマの戦車競技場)で、中央に馬車に乗って進むバッススと、後方にそれぞれの派閥の色を表す4人の御者が表現されている。

2~3世紀頃のローマ時代の模刻大理石像「しゃがむアフロディーテ(ヴィーナス)」で、紀元前3世紀頃の古代ギリシャの彫刻家ドイダルサス(Doidalsas)の作品に基づいたもの。1760年に発見され、1779年以降、ヴァチカン美術館の所蔵となっている。


次に、豪華な王冠等が飾られたルネサンス期以降の展示を見ていく。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、フィレンツェの宮廷建築家ベルナルド ブオンタレンティ(1531~1608)がデザインした「フラスコ」(1583~1584)。制作はメディチ家のために働いていたオランダの金細工職人・宝石商ジャック ビリヴェルト(Jacques Bylivelt、1550~1603)の工房作品で、金で装飾されたラピスラズリの美しいフォルムに圧倒される。フィレンツェのピッティ宮殿内にある銀器博物館の所蔵である。
クリックで別ウインドウ開く

こちらも、同じく銀器博物館所蔵の「フラスコ」(1550~1570)で、ミラノで制作されたもの。琥珀を思わせるシチリア島出土の碧玉に、ルビーなどをあしらったカメオを中心に、周囲には、金、エナメル、真珠、ルビーなどで豪華に装飾されている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、フィレンツェ派のサンティ ディ ティート(Santi di Tito、1536~1603)の「ニッコロ マキアヴェッリの肖像(1570)」で、パラッツォ ヴェッキオ博物館所蔵作品である。マキャヴェッリ(1469~1527)は、ルネサンス期の政治思想家で、フィレンツェ共和国の外交官。著書に君主論、政略論、戦術論などがある。「隣国を援助する国は滅びる。忍耐と寛容をもってすれば、人間の敵意といえども溶解できるなどと思ってはならない。」など現代にも通じる説得力のあるマキアヴェッリ語録を残している。
クリックで別ウインドウ開く

羊皮紙写本は、フィレンツェの政治家で学者のニッコロ ヴァローリ(Niccolò Valori、1464~1530)による、「ロレンツォ デ メディチ伝」で、右頁には、ロレンツォの横顔が描かれている(フィレンツェ、ローレンシアン図書館所蔵)。ロレンツォ(1449~1492)は、メディチ家の全盛期をもたらしたコジモ デ メディチの孫で「イル マニフィコ」(偉大な人)と言われた人物で、ボッティチェリ、ミケランジェロ、レオナルド ダ ヴィンチなどの芸術家を保護するなどフィレンツェのルネサンスを開花させた。
クリックで別ウインドウ開く

壁面には、ルイジ フィアミンゴ(Luigi Fiammingo)による「ロレンツォ イル マニフィコの肖像」(1550年頃)(フィレンツェ ウフィツィ美術館(銀器博物館)所蔵)が飾られている。

ところで「ロレンツォ デ メディチ伝(羊皮紙写本)」の著者ニッコロ ヴァローリは、メディチ家嫌いのパオロ ボスコリが、メディチ家の要人を殺害しようとした陰謀事件(1513年2月に発覚のボスコリ事件)の陰謀加担者の一人として、 マキャヴェッリらと共に地下牢に繋がれるが、後に無罪放免されている。

こちらの蔵書は「画家・彫刻家・建築家列伝(1568)」(ウフィツィ美術館の所蔵)で、イタリア人画家、建築家のジョルジョ ヴァザーリ( 1511~1574)による芸術家の伝記本である。芸術文学の古典としても知られ、イタリアルネサンスを語る上でも最も影響力のある書物の一つと言われ、各国語に全訳や部分訳がなされている。日本では「芸術家列伝」の名で翻訳されている。
クリックで別ウインドウ開く

ウィンプル(ベール)を着用する女性像は「アヌンツィアータ」(Annunciata)(1445~1450)で、作品名は、ラテン語の " 告知された女性 " に基づいている。下部には、" Ave Maria gra plena "(アヴェ マリア、恵み、万歳!)とラテン語で、マリアの前で大天使ガブリエルが称えた碑文が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらの板絵は、1906年にコモ市立絵画美術館に寄贈されたことから「コモの聖母」とも呼ばれているが、当時は、作者不明で、その後、スペイン画家のジャコマール バソ(Jaime Baço、1410~1461)の作品とされ、現在は、ルネサンス期で活躍したイタリアの画家アントネロ ダ メッシーナ(1430頃~1479)の作品とされている。

ボローニャ出身でバロック初期のイタリアの画家ルドヴィコ カラッチ(Ludovico Carracci、1555~1619)による「ロザリオの聖母」(聖ドミニコと聖母子)(1588~1590)で、ボローニャ国立美術館所蔵。カラッチは、同郷の画家プロスペロー フォンターナに徒弟をした後、フィレンツェ、パルマ、ヴェネツィアに旅し、1585年にボローニャに戻っている。その後、従兄弟とともに、折衷主義の絵画学校(工房)を設立しており、こちらの作品はそのころのもの。マリアの凛とした雰囲気とスピリチュアルな光のゆらめきが感じられる素晴らしい作品。
クリックで別ウインドウ開く

ルネサンス期の巨匠ティツィアーノ ヴェチェッリオ(1490頃~1576)の代表的肖像画の一つ「ピエトロ アレティーノの肖像」(Ritratto di Pietro Aretino、1545)で、フィレンツェのパラティーナ美術館の所蔵である。モデルは、トスカーナの作家、詩人、劇作家、風刺作家で、ティツィアーノとは親しい間柄でもあった。首にはフランス国王フランソワ1世から賜った重量感のある金のネックレスをかけ、ヴェネツィアの貴族を表す深紅の外套を羽織っている。
クリックで別ウインドウ開く

15世紀初期ルネサンス ロンバルディア派の画家ヴィンチェンツォ フォッパ(Vincenzo Foppa、1427~1515)による「聖母と幼子(1485年)」(絨毯のマドンナ)(192×173センチメートル)で、ミラノにあったサンタ マリア ディ ブレラ教会で手掛けたフレスコ画の一部である。1884年に切り取られ、現在は、ミラノのブレラ美術館所蔵となっている。
クリックで別ウインドウ開く

聖母子は、多色大理石のアーチの下で、東洋風の細工が施された絨毯が掛けられたバルコニーから外を眺めており、左右には、こちらに視線を向ける若い洗礼者聖ヨハネと福音書記者聖ヨハネが跪いている。光彩表現を巧みに用いた遠近法が素晴らしい作品である。

こちらはイタリアの盛期ルネサンスを代表する建築家ドナト ブラマンテ(1444頃~1514)のミラノ時代(1481~1499)の絵画作品「ハルバードの男」(Uomo dall'alabarda、1486~1487)。やや上向きの左腕の先に、ハルバード(長さ2メートルほどの槍で、穂先に斧頭などの突起が取り付けられた長柄武器)を持つ腕が描かれていたと思われる。もともとは、ミラノのパニガローラの家に描かれたフレスコ画だったが、現在は、ブレラ美術館の所蔵となっている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらも、ブレラ美術館所蔵の作品で、レオナルド ダ ヴィンチの「キリストの頭部」(1495年)。実際には、ロンバルディア地方の画家との共作とされる素描作品で、ミラノのサンタ マリア デッレ グラツィエ修道院(ドナト ブラマンテによる建築)に描かれた壁画「最後の晩餐」(1495~1498)と同時期のレオナルド円熟期とされる頃の作品である。
クリックで別ウインドウ開く

ミラノの代表的なロマン主義画家フランチェスコ アイエツ(1791~1882)の代表作品「キス(1859年)」(ブレラ美術館)。古城風の階段の片隅で情熱的にキスを交わす男女の姿を描いている。二人の身なりが対照的な上、男の片足を階段に置きすぐに立ち去ろうとするような姿勢から禁断的な恋愛関係が想像させられる。アイエツはこのころ登場した写真機を使用していたと言われている。
クリックで別ウインドウ開く

新古典主義を代表するアントニオ カノーヴァ(1757~1822)の「ポリュムニアー(1812~1813)」で、ポッサーニョ カノーヴァの石膏彫刻陳列館所蔵作品である。カノーヴァの作品は、躍動感のあるものや、裸体を表現した女性像が有名だが、こちらのギリシャ神話の女神ポリュムニアーは、厳格な女性であることから、全身に長い外套をまとい、肘掛けに腕を乗せ、頬に指先を添え、瞑想にふける姿として表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

イタリア各地の美術館・博物館から一級の美術作品が集結する特別展であったことから、大変見応えもあり、貴重な機会となった。2時間ほど見学し、午後6時を過ぎた頃、宮殿を後にした。

この後、予約しているレストランに路線バスで向かうことにしている。宮殿前のレプッブリカ広場からアンドレア メンサ通りを100メートルほど東に歩き、右折するとバス停があったが、目的の72番の表示はなかった。通りすがりの人に尋ねるともう少し先になると教えてくれたのでしばらく進むと72番の表示があるバス停があった。

スタトゥート ノルドのバス停で下車し「パルラパ」(Ristorante Enoteca Parlapa)に到着したのは午後7時前である。レストランは、トラムが走る並木道の側道沿いに建つ5階建てのバロック建築のアパートメントの1階にあり、入口の両側はワインボトルが棚にぎっしり並ぶショーウインドーとなっている。


レストランの南側にはスタトゥート広場があり、東に向けショッピングストリートのジュゼッペ ガリバルディ通りがカステッロ広場まで(1.1キロメートル)続いている。なお、宿泊ホテルからは1.5キロメートルほど南に位置している。

店内は狭く4人掛けのテーブル席が10卓ほど並んでいる。壁面にはワイン棚が並び、小さなカウンターテーブルもワイン収納の一部になっている。案内されたテーブル席のすぐ横にもワイン棚があり、エノテカと言った感じ。人気店のため予約は必須である。


ワインは、デグスタツィオーネ(12~20ユーロ)から15ユーロのものを注文した。料理は、アンティパストの盛り合わせ(15ユーロ)からスタートする。アンチョビとイタリアン パセリのオイル漬け(Acciughe al Verde)を中心に、仔牛肉のサラミ(モチェッタ)(Mocetta di Vitello)、ラグナスのオムレツ(Frittata Rugnusa)、豚肉のフレッシュソーセージ(Salsiccia Fresca di Maiale)、子牛レバーのパテ(Pate di Fegato di Vitello)、丸唐辛子の詰め物(Peperoncini Piccanti Ripieni)などが並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

最初のワインはヴェネト州の「Zamuner」で、メトード クラシコ(シャンパン製法)で醸されたスプマンテになる。


次もアンティパストだが温菜になる。ハーブとニンジンのツートーンフラン、アルペッジョのクリーム添え(Sformato Bicolore di Erbette e Carote con Crema d'Alpeggio)と、赤ピーマンのオックソース添え(Peperoni alla Fiamma con Salsa Occitana)である。


ワインは、北イタリアのH. レンチュ ワイナリー(Weingut H.Lentsch)の白ワイン「マスカテル」(Muskatell)で、モスカート ジャッロ(Moscato Giallo)と呼ばれるマスカットを品種としている。一般的なモスカートほど甘みがなく爽やかでしっかりとしている。


次にプリモピアットとして、ズッキーニとベーコンのスパゲッティ アッラ キタッラ(Spaghetti alla Chitarra con Zucchine e Pancetta)(6ユーロ)。アッラ キタッラは、アブルッツォ発祥の断面が四角のロングパスタのことで、コシがしっかりとしている。


ワインは、スロベニアとの国境すぐのフリウリ=ヴェネツィア ジュリア州(北イタリア)の丘陵地で栽培されるリボッラ ジャッラ種から作る白ワインで、力強さとフレッシュさの調和が取れていて、とても爽やか。


料理は、セコンドピアットになる。ピエモンテ州を代表するピエモンテ牛フォッソーネのタルタル(Albese di Fassone Piemontese)(9ユーロ)で、鮮やかな赤身の色合いに驚かされた。生肉好きにはたまらない!


こちらもセコンドピアットで、ピエモンテを代表する郷土料理だが、大変珍しい一品。。雄牛の睾丸と仔牛(雄)の胸腺、マルサラソース(Granelle di Toro e Animelle di Sanato al Marsala)(15ユーロ)。


コントルノ(contorni)として、季節の野菜のラタトゥイユ(Ratatouille di Verdure di Stagione)(5ユーロ)を追加する。


ワインは、トリノの南東部カスタニョーレ モンフェッラート丘陵で作られるルケ(Ruche)種で造った赤ワイン。華やかで香りで高いタンニンが特徴で後味にやや苦味が残る。


ドルチェ(デザート)は、ヘーゼルナッツのパンナ コッタ(Panna Cotta alla Nocciola)(4ユーロ)をいただく。アミダクジのような、幾何学模様のキャラメルソースのデザインがお洒落!


デザートワインは、マルヴァジア(Malvasia)で、最後にエスプレッソ(1.5ユーロ)を頼んだ。ピエモンテ料理と土着ワインとのペアリングが素晴らしく大変満足だった(計95ユーロ(レート115.264))。お店のサービスも良く、ワインもなみなみとグラスに注いでくれ、少し飲み過ぎてしまった。

(2011.8.4)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イタリア・ピエモンテ(その4) | トップ | イタリア・ピエモンテ(その6) »

コメントを投稿