カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イングランド・コッツウォルズ(その3)

2015-07-23 | イギリス
サイレンセスターから、A429を北東に23キロメートルほど走行し、右折してハイストリートを800メートル進むと、ボートン・オン・ザ・ウォーター(Bourton-on-the-Water)に到着する。ハイストリートとウインドラッシュ川(River Windrush)とが接近するこの辺りから町の中心になる。清流が穏やかに流れる川には柵や堤防もなく容易に川面に触れることができ気持ちが良い。
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緑に覆われた建物は、1748年に建てられた歴史的なオールド・マンズ・ホテル(Old Manse Hotel)で、その左隣にローズ・ツリー・レストラン(Rose Tree Restaurant)が建っている。手前のテラスではのんびりくつろぐ人々の姿が見える。それではハイストリート側の川沿いを下流(南)に向けて歩いてみよう。

ウインドラッシュ川はテムズ川の支流の一つで、20キロメートル上流に位置するスノーヒル(Snowshill)(コッツウォルズ丘陵)の南に源を発し、下流にある毛織物の一大産地として栄えたウィットニー(Witney)を過ぎオックスフォード(Oxford)近郊でテムズ川に注ぎ込む56キロメートルの川である。Windrushとは「突進して様々なコースに曲がる」を意味するが、この辺りの穏やかな流れは突進のイメージとは程遠い。

川には数十メートル間隔で5つの石橋が架けられているが、この山なりの石橋が一番風景にマッチしている印象だ。穏やかな川に架かるこれらの石橋と町並みからボートン・オン・ザ・ウォーターは「コッツウォルズのヴェネツィア」と呼ばれている。
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護岸はストーンが小端積みされており景観的にも誠に趣を感じるが、水面までの距離が近いため、増水するとすぐ氾濫するのではないかとやや心配になる。背後に建つ屋敷風の建物はヴィクトリア・ホール(The Victoria Hall)と言い、ヴィクトリア女王在位60周年を記念して1897年に建てられた。
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次に、石橋を渡って対岸のヴィクトリア・ホール側から川沿いを下流に向け歩いてみる。ハイストリートと川の間は、芝生の公園となっており、シートに座ってくつろぐ人たちや、川遊びをする子供たちが見える。ハイストリート沿いに見えるショップやショッピング・モールの建物はコッツウォルズ・ストーン(ハニーストーン)で統一されており、こちらからの眺めも美しい。
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すぐに次の石橋が見えてきた。日中は多くの観光客で溢れかえるとのことだが、この時間(17時半)の人通りは少なく心地よいせせらぎの音も聞こえ、散策していると気持ちが癒される。しかし一番のお勧め散策タイムは、早朝(特に霧深い朝)らしいが確かにそう思う。
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この辺りまでが、ボートン・オン・ザ・ウォーターの中心部にあたる。石橋を渡りすぐ右側のリヴァーサイド・カフェでジェラードを買って再びハイストリート側の川沿いを歩いて出発した。

次にスローター(TheSlaughter)に向かった。このスローターにはアッパーとロワーの2つの村があるが、最初にロワースローター(Lower Slaughter)から見学する。小川(スローターとは小川を表す)のせせらぎと鳥の鳴き声しか聞こえない村と言われコッツウォルズ地方を代表する小さな村と言われている。ボートン・オン・ザ・ウォーターからは、直線距離で北に2キロメートルほどと近い。川に架かる橋の先がロワースローターの中心になる。
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なお、橋の手前を右折したすぐ右側の木立の中には、13世紀に建てられ1866年に改築されたセント・メアリー教会(St. Mary the Virgin) がある。教会前の通りは道路幅が広いためか多くの車が縦列駐車している。

さて、橋から眺めると川沿いに古い町並みが続いている。中央を流れる長閑な小川はアイ川と言い、7.6キロメートルの短い川で、アッパースローター(Upper Slaughter)とロワースローターとの間を流れボートン・オン・ザ・ウォーターの3キロメートル下流でウインドラッシュ川に注ぎ込んでいる。このアイ川左岸の通りはベッキー・ヒル(Becky Hill)と言い、1.5キロメートルほどでアッパースローターに到着する。それでは右岸の歩行者専用通りを上流に向けて歩いてみる。
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左端の三角屋根に時計の付いた趣のある建物はヴィレッジ・ホール(village hall)と言いイベントや絵画展などが開かれる。

村の大部分の建物は、縦仕切りの格子窓(mullioned windows)が特徴で16~17世紀にコッツウォルズ・ストーンを用いて建てられた。何人かの観光客に出会ったが、人通りがなくなると、川の流れる音だけが聞こえ、時が止まったかのような静寂な雰囲気に包まれる。
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橋から150メートルほど川沿いを進むと赤煉瓦の煙突が見えてくる。こちらは19世紀に建設されたミル(水車小屋)で、蒸気機関を動力としていたことから、巨大な煙突が添えられている。実際40~50年前まで粉ひき小屋として使われていたが、現在はオールド・ミル・ミュージアム(兼土産屋)になっている。
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煙突手前から右側に回り込んだ所がオールド・ミル・ミュージアムの正面入口になるが、本日の営業は終了のようだ。
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オールド・ミル・ミュージアムの正面に向かって右側には、ダイアナ妃とチャールズ皇太子が歩いたフットパスがある。入口には成婚日が記載された小さなパネルが掲げられている。
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この嫋やかな牧草地が広がるフットパスを30分ほど歩けば、アッパースローター至る。ゆっくり散策したいのだが、日の入りも近いので少し歩いてユーターンする。
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やはりここでも羊さんに注目される。
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アイ川左岸のベッキー・ヒルを1キロメートルほど進むと、右側に牧草地が広がり、奥にアッパースローター・マナー(Upper Slaughter Manor)が見えてくる。マナー(屋敷)の後方には、アイ川が右側の木々に沿って流れており、フットパスは屋敷の裏手に見えるペーンズヒルの丘まで続いている。
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外壁を含めた屋敷と牧草地の境界は全てコッツウォルズ・ストーンで統一されている。外壁と境界石のコッツウォルズ・ストーンは、小端積みにして頂上部を立て積みにしているが、これがコッツウォルズ地方の石積み工法の特色である。綺麗に刈りこまれた広大な牧草地に建つ夕日に照らされた屋敷はこの上なく美しい風景だ。
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通りのすぐ先の三叉路を右折するとアッパースローターの中心になり、小さなロータリー(バックショット広場)がある。北側と北西側に道が続いており、北西方向の路地を進むと門がありその先は上り坂になっている。路地は100メートルほどで聖ペーター教会(St Peter's Church)の時計塔のある南身廊側の入口に到着する。門から教会まで続く路地は芝生(所々に傾いた墓石が建つ)から1メートルほど低く掘り下げられ、両側にはコッツウォルズ・ストーンが小端積みされている。この教会が建つ辺りがアッパースローターの一番高い場所になるようだ。扉は閉まっていたので、身廊に沿って東側に回り込む。
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北身廊側は崖になっており石壁が設置されている。石壁から身を乗り出し覗き込むと、窓の形が印象的なオールド・スクール・ハウス(The Old School House)が建ち、そのすぐ左下(北側)には、アイ川が右側に回り込み流れている。
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石壁の右端は、直角に左側に曲がっており、その石壁に沿って細い抜け道となっている。その先でバックショット広場から北方向に伸びる通りに合流する。正面に立つ赤い電話ボックスを見ながら左折すると下りになりすぐにアイ川のせせらぎが現れる。こちらは、そのアイ川から、オールド・スクール・ハウス(坂上右側の最初の建物)側を眺めた様子で、右端の建物が聖ペーター教会。

アッパースローターでは、観光客にも出会わず、確かに鳥の鳴き声しか聞こえなかった。

次に、車一台がやっと通れるような道を北に1.5キロメートル進み、東西に伸びるB4068を左折し1キロメートルでノーントン(Naunton)と書かれた小さな標識に沿って右折する。通りの南側には、ウインドラッシュ川が流れており、ボートン・オン・ザ・ウォーターから8キロメートルほど上流(北西)に位置している。しばらくすると集落が現れたがノーントンは人口352人(2011年)の小さな村のため数百メートルほどの間だけだ。集落を西に進むと、小さな看板があり、右がvillage hall、左がHistoric Dovecoteと書かれている。
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左の路地を進むと、歴史を感じる古びた小屋が建っている。Dovecoteとはハト小屋の意味で、屋根の上にハトの出入り口らしき造りが見える。小屋の内側には903の巣箱が並べられているが、見学が可能な際は自己責任が条件とのこと。残念ながら(良かったのか。。)小屋は鍵が掛けられており内部を覘くことはできなかった。
入口手前の境界の立て積みのコッツウォルズ・ストーンは不揃いでかなり大ぶりな印象を受ける。

集落のある通りは、やがて狭い下り坂になり左側にバプテスト教会が現れるが、閉まっていたので諦め再び来た道を戻って行く。集落の中心にあったパブ(The Black Horse Inn)は、ノーントン村唯一のガストロ・パブなのだろう。
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集落を通り過ぎると、周りに建物はなくなり牧草地や丘が広がる。東西に伸びるB4068を今度は東方向に進む。
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ノーントンからB4068を7キロメートルほど進んだ所にストウ・オン・ザ・ウォルド(stow on the wold)がある。まもなく午後7時半になるので、今日はここで終わりになりそうだ。
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ストウ・オン・ザ・ウォルドは、コッツウォルズ丘陵で最も標高が高い場所であることから「丘の上の町」と呼ばれている。町の中心部がこのマーケットスクエアになる。西側には、セント・エドワード教会が建っており、北側にはストウ・オン・ザ・ウォールド図書館(聖エドワード・ホール)が聳えている。
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マーケットスクエアの中央にはマーケット・クロス(十字架)が立っており、中世時代は羊毛取引の公正さを示す象徴だった。11世紀から12世紀頃は多くの羊の取引が盛んでコッツウォルズ地方で最も栄えた町の一つだったという。

十字架の台座下には、English Civil Warと書かれた20センチメートル角の小さなプレートが設置されている。これは17世紀の半ば、清教徒革命においてイングランドで行われた、国王派と議会派の軍事衝突である。1646年3月21日、マーケットスクエアから1.6キロメートル北のドニントン丘で、両派間で戦闘が繰り広げられた。当初、国王派が優勢だったが、議会派の攻勢により、国王派はマーケットスクエアまで追い詰められ降伏した。捕虜となった国王派の人々は、臨時の捕虜収容所(セント・エドワード教会)に収容された。
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両派の戦いは各地で繰り広げられ、この間の戦いを第一次イングランド内戦(1642年~1646年)と呼んでいる。最終的に議会派が勝利して内戦は終わるが、その後チャールズ1世の処遇を廻り議会派内の対立などが起こり第二次イングランド内戦(1648年~1649年)、第三次イングランド内戦(1649年~1651年)と国内の混乱は続く。チャールズ1世の処刑後、イングランド共和国(1649年~1660年)が樹立されオリバー・クロムウェルが護国卿となるが、護国卿政は5年で破綻し、王政に復したことから、清教徒革命は失敗に終わった。

マーケットスクエアから東南に下るディグベス・ストリート(Digbeth St)沿いには、洋服屋、キッチン・ショップ、おもちゃ屋さんなどが並んでいるが本日の営業は終了している。他にも広場周辺にはガラス製品や家具などのアンティーク・ショップが集まっており多くの観光客が訪れるという。
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ディグベス・ストリートを下り、東西に伸びるシープ・ストリート(Sheep st)と合流する左側には、ロイヤリスト・ホテル(The Porch House)がある。947年創業でイングランドでは最も古いホテルと言われている。ロイヤリストとは、国王派を表すことからイングランド内戦の記憶を受け継ぐ象徴的な建物となった。屋根にも窓があるため屋根裏にも客室があるようだ。ちなみに部屋数は14とのこと。
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こちらは、シープ・ストリート沿いにあるグループヴァイン・ホテルのバー。建物を飾る花が美しく目を引く。こちらの屋根にも窓が取り付けられていることから、やはり屋根裏にも室室があるようだ。
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駆け足でコッツウォルズの町・村を巡って来たが、時刻は午後8時となった。ストウ・オン・ザ・ウォルドも、日中は多くの観光客で溢れかえるとのことだが、流石に、この時間では人通りがほとんどなかった。
夕食はサイレンセスター郊外にあるバーンズリー・ハウス(Barnsley House)のレストランを午後8時半に予約している。ここからサイレンセスター(30キロメートル)までは、直線道路のA429で向かうが、渋滞などなければ予定通り到着するだろう。ちなみにA429はローマン・ロードとも呼ばれるが、これは古代ローマ時代に軍用道路だったためである。

サイレンセスター近郊からA429を左折し、バイブリー(Bibury)村を通る頃に午後8時半になった。
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通りの右側にパブ(The Village Pub)が現れた。ここは、バーンズリー・ハウスの系列店なので、まもなく到着するはずだ。するとすぐ左側にバーンズリー・ハウス&スパと書かれたゲートが現れた。約5分遅刻したが、ほぼ予定通り到着した。
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レストランのある屋敷は広い庭園の中に建っている。バーンズリー・ハウスの見所は何と言ってもガーデンだろう。イングランドで最も美しい庭の一つと言われ、1950年代にローズマリー・ヴァレリー(Rosemary Verey)が、長い年月をかけて完成させた。庭園は、ラバーナム(黄色いチョウに似た花を房状に付ける)、観賞用フルーツ、菜園等で構成され現代彫刻家サイモン・ヴェリティー(Simon Verity)の手による像が建つ装飾庭園(Knot garden)となっている。日々、庭師リチャード・ゲートンビー(Richard Gatenby)と彼のチームによって手入れが続けられていると言う。しかし、お腹も減っていることから急ぎレストランに向かった。
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ディナーメニューはアラカルトだけである。飲み物は、カラフェ・ワインがあったので、レストリーユ(lestrille)(19.25ポンド)とビラ・オー(Bila Haut)(18.50ポンド)(共にフランス産)を注文した。

前菜は、バーンズリー・ハウス自家製のテーブルビートのピクルス。テーブルビートとは赤カブに似ているが大きく異なる。肥大した根で糖分が高くかなり甘いのが特徴。ヤギの凝乳を挟んでリンゴやヘーゼルナッツと一緒に頂く(9ポンド)。
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次はリゾット。グリーンピースとミントで味付けされた珍しい一品(8ポンド)。
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本日の魚は、ロースト・ツナ。かなりのボリュームだ(25ポンド)。
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肉は鳥の胸肉で、中にローストされたコーンが入っている。付け合せはトウモロコシのピューレ、ベビーコーンや菜の花など(19ポンド)。
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レストランの売りは、ハウス内の専用キッチン・ガーデンから摘み立ての季節野菜を新鮮なうちに提供するとあったが、確かに鮮度抜群の野菜は、料理全体を引き立てており非常に満足だった。食後は、ライトアップされている庭園を散策してみた。
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プロムナード沿いあるライトは、逆円錐状の植込みに照らされ、中々幻想的な雰囲気だ。しかし写真ではよく伝わらない。。サイモン・ヴェリティーの彫像なのだろうか。。今日も慌ただしくなったが充実した一日となった。
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翌朝、昨日同様に、サイレンセスターのゲストハウス(B&B)で朝食を頂き、バーンズリーを越え、バイブリー(Bibury)に9時過ぎに到着した。残念ながら今朝は雨である。。最初に村の南に位置する後期サクソン様式の聖メアリー教会を見学した。羊毛産業で栄えていたことから羊毛教会(ウール・チャーチ)とも呼ばれている。
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バイブリーは、コッツウォルズ地方で最も人気のある村だが、この時間人通りはほとんどない。通り(B4425)の正面の緑に覆われた建物は、1650年に創業した老舗ホテルでバイブリーを代表するスワン・ホテルである。B4425はスワン・ホテル前で大きく右に曲がっており、この道路の下には、チェルトナムの東のブロックハンプトンに源を発し、テムズ川の支流となるコルン川(River Coln)が流れている。
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そしてコルン川の中州(中の島)にはスワン・ホテルのガーデンが広がっており、川沿いにはラベンダーの花が美しく咲いている。ちなみに、こちらはコルン川の南側からアーチ橋を眺めた様子である。19世紀イギリスの詩人でマルクス主義者のウィリアム・モリス(1834~1896)はバイブリーを訪れた際に村を「イギリスで最も美しい村」と呼んだ。
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スワン・ホテルを背にして通り(B4425)沿いを眺めると、コルン川の水を利用した水路が小さな橋の向こうに続いている。その先の建物は中世時代、毛織物を縮絨するための水車小屋で、現在はアーリントン・ミル博物館となっている。その手前右側の東屋はバイブリー・トラウト・ファームで、右側に大きな池が広がっている(この時期は緑が覆って見えにくい)。
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B4425通り沿いからトラウト・ファームの建物を見てみる。1902年にナチュラリストのアーサー・セヴァーンによって設立され、バイブリーでは最も歴史のあるマス養殖場である。広さは80エーカーあり、40を超す池の中で数百万匹の鱒を毎年育てていると言うから驚きだ。そのトラウト・ファームの通りを挟んで南側にはアーリントン・ロウと書かれたフットパスがあり、そこを下って行く。
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フットパスの左側には、牧草地が広がり、その奥にコルン川の流れが続いている。牛たちが放牧されており、のんびりとこちらを眺めている。木の下に集まって雨宿りの最中なのだろうか。
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フットパスを抜けると左右に散策路がありその向こう(南)側に古い建物が並んでいる。
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右側の散策路は上坂になっており、その奥にも建物が見える。
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左側に向かって進み、振り返って全体を眺めてみる。ここが、バイブリーで最も有名なアーリントン・ロウのコテージ群で、1380年に修道院の羊毛貯蔵所として建てられた。その後17世紀に機織り職人が住むようになり、この際に屋根裏部屋が付け加えられコテージに改装され現在に至る。ここで作られた織物はトラウト・ファームの隣にあったアーリントン・ミル(水車小屋)に送られた。
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雨が降っていて残念だが、朝早いことと、この天候も影響してか観光客が少ないのは幸いである。

建物を過ぎて左側にある穀物倉庫の壁面には、看板が掲げられている。そこには、ナショナル・トラストの資産を示すプレートと「1929年に、ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ(The Royal Society of Artsにより購入され修理された」と書かれた石版があった。どうやらアーリントン・ロウへの見学ルートはこちらからだったようだ。
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次にスワン・ホテル前からコルン川に沿って遡るように北上しA429を越えて、チェッドワース・ローマン・ヴィラ(Chedworth roman villa)に向かう。チェッドワースは、バイブリーから14キロメートル北にあるが、ローマン・ヴィラはチェッドワース北側の山を越え北東側の麓をL字状に流れるコルン川沿いにあるため、南からローマン・ヴィラに行く場合は一旦東に迂回して向かうことになる。

A429からコルン川に沿って続く田舎道をしばらく走行すると川の流れと共に大きく右に曲がって行くが、ローマン・ヴィラは前方に伸びる更に細い坂道を上って行く。左手には、赤い表示板が立てられている。
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坂道を300メートルほど進むと突き当たりにビジターセンターの建物が現れた。バイブリーからは30分ほどであった。ローマン・ヴィラは、古代ローマ人が造ったイングランドにおける最も大きな別荘の一つで、2世紀から4世紀後半にかけて段階的に整備・拡張されたが、ローマ人の撤退後の5世紀には、破壊され土砂に埋もれてしまう。その後、1864年に猟場番人が偶然、敷石や陶器類の断片を発見したことから、古物研究家で下院議員のジェームズ・ファラー(James Farrer)により2年の歳月をかけ発掘された。
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1924年にはナショナル・トラストにより管理され現在に至っている。そのナショナル・トラストによる4世紀のヴィラの復元図を見ると、ヴィラはコルン川を見渡す丘陵地の斜面を掘り下げて造られた中庭(コートヤード)を持つ長方形の建物(約80メートル×約60メートル)だったことが分かる。ヴィラには、コルン川側の東門から敷地内(ロワーコートヤード)に入り、馬車を降り中央階段を越え(アッパーコートヤード)西奥にある屋敷に向かったようだ。遺跡入口には立体模型と案内図が展示されている。
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ヴィラは、農場主の別荘か宗教的な簡易宿泊施設かで長年歴史家の間で意見が分かれてきたが、現在では、裕福な農場主の別荘だった説が有力となっている。ビジターセンターを正面に見て右側に続く通路を進み左前方に見える木造の建物に向かう。復元図や立体模型によると西奥にあった屋敷になる。
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左側に視線を移すと遺跡群が続いているが、これらは南翼の建物の跡だろう。
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西奥の木造の建物は、2011年にモザイク保護と観光を目的に新たに建てられたとのこと。中に入るとすぐに見事なモザイク床が現れる。こちらのモザイクは、主に4世紀に建てられた建物の室内に設けられたダイニング・ルームや浴場の床に敷かれたもので、少なくとも11の部屋の床がモザイクで飾られていたと言う。観光客はモザイク床より一段上に設置された真新しい通路から覗き込みながら見学する。
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こちらは、トリクリニウム(triclinium)と言う古代ローマのダイニング・ルームに残るモザイク画で一番の見所になる。
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モザイクには、女神像や、酔ったサテュロスとマイナスタンバリンを持つプット春のイメージ冬のイメージなど生き生きと躍動する神々のモチィーフや美しい幾何学模様のモザイクなどが表現されている。

左側の幾何学模様のモザイクが見事に残っているのが高温泉のバルネウム(Balneum)で、右側が床暖房システムのカルダリウム(caldarium)。こちらにイメージ図が展示されているので分かりやすい。
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次に、北西側から北翼の遺跡群を眺める。北西角の建物には、僅かにモザイクが残る風呂跡があるが、隣の建物には、古びたレンガとひび割れた床のみが残されている
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北翼には、クビクルム(Cubiculum)と名付けられた多目的のホット・ルームがあったが、上部の床は失われ蒸気を通す床下のみが残っている。
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最後に遺跡群の中央に建つヴィクトリア朝時代に建てられた展示館を見学した。館内には、神々の像や、ローマ時代の円柱等の発掘品が展示されていたが、狭いスペースでもあり展示品は少なかった。
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時刻は11時半になった。雨は止む様子がない。今日は一日降り続くかもしれない。。次は、コッツウォルズ地方の西端に位置するチェルトナムを通ってウィンチカム(Winchcombe)に向かう。
(2015.7.23~24)
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イングランド・コッツウォルズ(その2)

2015-07-23 | イギリス
グロスターシャー州テットベリー(Tetbury)に到着した。今朝は、サイレンセスター(Cirencester)のゲストハウスで朝食後にすぐ出発したが、ここまで約40分ほど(A433沿いで20キロメートル南西に位置)の距離であった。現在朝9時半を過ぎたところ。正面に見えるクリーム色の建物は、1655年に毛織物の検量センターとして建てられたマーケット・ハウスで、現在も会議や市場として利用されている。
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なお、マーケット・ハウスの後ろに見えるのは、15世紀に建てられた老舗ホテル(the Snooty Fox)である。

中世ヨーロッパの一大産業は毛織物業であった。そのころイングランドとスペインが羊毛の生産地で、北イタリアとフランドル地方が毛織物産地であった。互いに活発な羊毛貿易が行われていたが、利益を巡って度々国家間の対立が起こり、このことが戦争の原因にもなっていた。イングランドは、14世紀中頃から毛織物製造業に転換して工業化を進め国民産業にまで成長し、16世紀後半のエリザベス1世(在位:1558~1603)治世時には、絶対王政における重商主義政策のもとで毛織物産業が保護され益々発展していく。

テットベリーは、毛織物取引の中心地として栄えた。地図を見ると、ここマーケット・ハウスを中心に放射状に道路が伸びており交通の要所であったことが分かる。21本のトスカナ様式の太い支柱で支えられたマーケット・ハウスは高床式倉庫に良く似ているが、この様式が毛織物の取引に最適だったのだろうか。なお、現在、この支柱内では、毎週水・土にマーケット、野菜、花、アンティーク販売などが行われ人気があるそうだ。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)

昨日から、レイコック、バース、カースル・クーム、サイレンセスター、テットベリーと巡ってきたが、これらの町・村は、コッツウォルズ(Cotswolds)と呼ばれる丘陵地(総面積が2038平方キロメートル(東京都とほぼ同じ)、標高300メートル以上に達し、特別自然景観地域に指定されている。)にある。コッツウォルズとは「羊の丘」の意味で、中世の頃から毛織物工場や縮絨工場が建てられ毛織物の取引が活発に行われてきた。北、中央、南の3地域に約100の村・町が点在しており、近年はイングランドの面影を残した古い石造りの建物や、美しい自然・景勝地に恵まれたカントリーサイドとして多くの観光客が訪れている。

さて、マーケット・ハウス先の交差点を左折してA433を西側に50メートル進んだ左側に、テットベリーで最も人気のあるハイ・グローブ(Highgrove)がある。ここは、チャールズ皇太子が運営するショップで、 オーガニック商品など生活に身近な商品を扱っており、連日、多くの買い物客で賑わっている。
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店内には、イングランド王家の紋章入り商品も並ぶなどワンランク・アップの気分に浸ることができる。こちらには皇太子御用達シャンパンなど、魅力ある商品で溢れている。お土産には、買い物や荷物入れに便利なジュート素材のエコ・バッグがお勧めだ。
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なお、郊外(南西)に2キロメートルほど行った所に、チャールズ皇太子のハイ・グローブ邸のガーデンがある。毎年2月からオンライン予約を受け付け、許可された場合のみ見学(シャンパン・ティー・ツアーズ)が可能だが、数年先まで予約済みだとか。。

再びマーケット・ハウスに戻り、通りを南に150メートルほど進むと、右側には観光案内所があり、向かい側には18世紀後半にゴシック・リヴァイヴァル様式で建てられた聖メアリー教会(St Mary The Virgin)が現れる。シャープな形が印象的な尖塔の高さは57メートルある。
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教会内は、イングランド独自のゴシック建築(垂直様式)で、湾曲したアプスではなく大きなステンドグラスを持つ平面的な後陣が採用されている。
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さて、引き続きA433を南西方向に進み(途中からA26バース・ロードになる)、ディラム・パーク(Dyrham Park)に到着した。昨日、閉園後に到着したため見学できなかった場所だ。テットベリーからは26キロメートル南西になる(この先、バースまでは15キロメートルの距離)。

車で訪問した場合は、街道(A26)に面した正面入口ではなく、少し南側にある路地を右折、しばらく進んだ所にあるゲートから入り、園内を走行して正面入口付近まで戻った駐車場に停める。チケットを販売するインフォメーション・センターは、その駐車場のすぐそばにある。
インフォメーション・センターから西側を見ると、南コッツウォルズの丘陵地帯を僅かに望むことができる。
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この時間、インフォメーション・センター横には屋敷「マナー・ハウス(manor house)」まで向かう専用バスが待機していた。歩く距離がわからなかったこともあり、乗ることにした。園内には、鹿が放たれているとのことだが、バスからは、牛か羊らしき姿しか見えない。
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屋敷に向かって少し進むと、印象派の絵画の構図を思わせる様な、丘陵地帯を背景とした美しいバロック様式の屋敷を眺めることが出来るのだが、残念にも修復工事中であった。ここでは修復前のウィキの画像をお借りし貼り付けた。
屋敷は、元々あった古い屋敷を、17世紀後半からウィリアム3世(在位:1689~1702)の秘書を務めたウィリアム・ブラスウェイ(William Blathwayt,1649~1717)の邸宅として改築されたものだが、現在はナショナル・トラストが管理している。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

なお、この屋敷は、ジェームズ・アイヴォリー監督の1993年イギリス映画「日の名残り(The Remains of the Day)」(カズオ・イシグロ原作)で、執事ジェームズ・スティーヴンス(アンソニー・ホプキンス)が仕えるダーリントン卿の屋敷(ダーリントンホール)として使われた。

インフォメーション・センターから屋敷までは、1キロメートルほどの下りだったので歩いても余裕だった。しかし屋敷が修復工事中だったのでバスに乗って良かったと無理やり納得した。バスは屋敷に隣接する建物の左端(南側)に停車した。そこから歩いて建物の間を進み左側の門からガーデンテラスのある中庭を通って外に出ると、
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目の前に綺麗に刈りこまれた芝生が広がる庭園が現れる。庭園には散策できるようにプロムナードが続いている。
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右側の修復工事中の屋敷の向こうには、聖ペテロ教会(St Peter's Church)が見える。オリジナルの部分は13世紀中頃で3階建ての塔が15世紀に加えられ、17世紀に改築されたという。
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プロムナードは、突き当たりで左右に分かれる。一段下には、長方形の池があり、更にその先に大きな苑池が見える。
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右折して、修復工事中の屋敷の正面から伸びるプロムナード方向に向かう。
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最初にこの屋敷に住んだのは、ヘンリー8世治世時にグロスタシャー州長官だったウィリアム・デニス卿(1470~1533)と言われている。その後、17世紀後半から18世紀前半にかけてウィリアム・ブラスウェイが、ウィルトシャー州出身の建築家兼ランドスケープデザイナーのウィリアム・タルマン(William Talman)に依頼し、チューダー式の屋敷をバロック様式に改築し、それまでの運河や幾何学的な花壇のあった平面幾何学式庭園(フランス式庭園)から、運河を埋め、より自然に近い風景式庭園とし馬小屋や温室を作った。

しかし屋敷や広大な庭園(敷地は274エーカー(東京ドーム約24個分)の広さがある。)は、その後相続した一族にはとても維持できるものではなくなり、家具や調度品等を手放し、屋敷も庭園も次第に荒れ果て森の中に埋もれてしまう。

第二次世界大戦中には、子供たちの疎開先として利用されたが、その後は手を加えられることもなくなり、1961年に、ナショナル・トラストに移管され一般に開放されることとなった。

修復工事中の屋敷前から伸びるプロムナードを西に進むと、ナショナル・トラストのボランティアスタッフにより、芝が刈られている最中であった。
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苑池の奥(西側)から外壁に沿って歩き庭園を一周する。この辺りが丘陵地の斜面に作られているディラム・パークの敷地端となり、一番低い場所になる。修復工事中の屋敷やガーデンテラスのある建物がかなり上に見える。
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苑池の南側は植物園で、木々のトンネルをくぐって、テラスのあった中庭まで戻ると、修復工事中の屋敷を見学できると聞いたので、ツアーに参加することにした。屋敷内の部屋で、現場のスタッフと同様の作業服とヘルメットが貸与され工事用エレベータで上って行く。エレベータを降りると屋敷の屋上で、周りは工事用の足場とフードで覆われている。
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最初に、東側(正面入口側)の屋上に飾られている石像を見に行く。欄干を飾るランプ像を過ぎて、中央まで行くと台座に備え付けられた鷲の像がある。この鷲はブラスウェイ家の紋章を表しておりバースの彫刻家ジョン・ハーヴェイ(John Harvey)により造られたもの。かなり汚れているが、修復工事中でもない限り、これほど間近で見ることはできないだろう。
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次に西側(庭園側)に向かう。中央の台座に手を挙げている天使像が見えるので、近づいて、見下ろしてみる。
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こちらも長年の雨風で、顔の汚れが酷く痛々しい。。
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西側の中央部分だけフードが取り払われており庭園を一望できる。ここから眺めると散策したルートも確認できる。庭園は、丘陵地と苑池から構成され自然の景観美を追求しており、文字通り「イングリッシュガーデン」といった印象だ。パノラマ画面はこちら
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階段を下りて行くと、観光客が屋敷内を見学している様子も見られた。屋敷内には、往年の家具や調度品などが展示されているが、次の予定もあるので、再びバスに乗りインフォメーション・センターまで戻った。

さて、ディラム・パークを出発し30分(東へ27キロメートル)で懐かしのレイコック村に戻ってきた。村のやや南にあるカーパークに到着し、レイコック・アビーを目指し路地を歩いて行くと、案内板があった。これを見ると、レイコック・アビーが村から少し離れた東側にあることが分かる。案内図に沿ってしばらく進むと右側にナショナル・トラストと書かれた建物が現れた。
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建物に入ると、左側にウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot、1800~1877)の紹介パネルがある。ここは、レイコック・アビーに暮らし、初期写真技術(カロタイプ)を発明したフォックス・タルボットの偉業を称える博物館になっている。周りは鮮やかな照明で照らされており、イーストマン・コダック社が1888年に発売した箱型カメラのレプリカや湿板(Wet Plate)カメラなどが並んでいる。他にも、折り畳み式カメラ(フォールディングカメラ)や二眼レフカメラなども展示されている。
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タルボット写真博物館を出て、敷地内を100メートルほど歩いて行くと、目的地のレイコック・アビー(Lacock Abbey)が見えてきた。この建物は、1229年にソールズベリーのエラ伯爵夫人(Ela,1187~1261)によりアウグスチノ女子修道院として建てられたが、16世紀の修道院解散後は廷臣ウィリアム・シャリントン(Sir William Sharington)とその一族の邸宅となり、19世紀にフォックス・タルボットの邸宅となった。現在はナショナル・トラストにより管理されている。
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中庭のある建物の前から右側にあるゲートを越えると、
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レイコック・アビーの正面口に到着する。左右いずれかの階段を上ろうとしたが出口専用らしい。このため建物に沿って歩き、
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左側に回り込むと、前方に小さな立札があった。こちらが入口のようだ。
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女子修道院を設立したエラ伯爵夫人は、第2代ソールズベリー伯ウィリアム・オブ・ソールズベリーの娘として1187年に生まれた。彼女の夫は第3代ソールズベリー伯ウィリアム・ロンゲペー(ヘンリー2世の庶子)で彼の死後(墓はソールズベリー大聖堂内)、ウィルトシャー州長官を務めた後、最初の女子修道院長となった。

その後、修道院解散令に伴い1539年に、ヘンリー8世の廷臣ウィリアム・シャリントンがレイコック・アビーを783ポンドで購入し邸宅として改造し現在の姿となった。なお東南角に建つ八角形の3階建ての塔(シャリントン・タワー)も彼の時代に建設されたもの。

修道院時代には、現在の建物手前(南側)に左右に伸びる身廊があり、中央の窓付近には説教壇(pulpitum)と、その塔までがクワイヤ(quire)だった。そしてクワイヤの手前(更に南側)には聖母礼拝堂(lady chapel)があったという。現在見える南外壁は、修道院教会の北内壁だった。
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ウィリアム・シャリントンは、教会堂を破壊したが(教会の鐘は売却し収益で橋を架ける等村民の利便性の向上を図っている。)、北西側の回廊と北東側の1階部分(the medieval basement)は基礎として残し、その上に邸宅を建設した。
シャリントンの死後は、弟のヘンリー・シャリントン(Henry Sharington)が邸宅を引き継ぎ、19世紀にはヘンリーの子孫のオリーブ(Olive)が、ジョン・タルボット(John Talbot)と結婚し、タルボット家の邸宅となり、その後、近代写真技術の生みの親となったフォックス・タルボットの邸宅となった。そして1944年にマチルダ・タルボットによってナショナル・トラストに寄付され現在に至っている。

館内に入ると左側にチャプレン室(Chaplains' Room)があり、奥の壁には近づけないようにロープが張られている。
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壁には13世紀に描かれた「幼子キリストを運ぶ聖クリストファー(聖クリストフォロス)」や、「聖アンデレ(X字型の十字架で処刑され殉教した)」の壁画が残っている。その右隣には、タルボット家時代に設置された暖房設備の配管が通っている。何となく痛々しさを感じるが、床板の下に配管を通しただけの感覚だったのだろうか。
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この部屋は、ウィリアム・シャリントン時代にビール保管庫として使用された。壁画の左側にあるドアの下部が破損しているのは、ビール樽を転がし通った跡だという。
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入口のある南回廊(cloister)から北側の回廊(一辺は約24メートル)を眺めてみる。設立間もないころの回廊は、初期ゴシック様式(またはアーリー・イングリッシュ)で、パーベック(Purbeck)石の円柱で建てられ、木の屋根で覆われていた。その後、4通路あった回廊は、コの字(北、東、南)の3通路となった。
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東側の回廊に行って北方向を眺めてみる。修道院は長年の活動により富が増加したため、1300年代後期から1400年代前半にかけてイングランド・ゴシックの華飾式や垂直様式で改築を行った。修道院時代の回廊は修道女が礼拝の合間に、祈りと黙想を費やす場所だったという。
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回廊の壁面側を見ると、柱頭上からリブが扇形に伸びヴォールトを支えている(ように見える)。そして、そのまま天井を見上げると横断リブと枝リブとのジョイント部分に装飾ボス(突起)(roof boss)がはめ込まれている。キーストーンを中心に見上げるとボスは八角形状に配置され彩色も良く残っている。枝リブには、所々にひっかき傷の様な跡が見えるが、これは石工のサインで、各々の石工にいくら報酬を支払うかを手助けしたサインと言われている。
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こちらのアルファベット文字や魚などの多彩なデザインは、修道院に寄付した地元の一族の紋章である。
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おもしろボスを見つけたので紹介してみよう。人魚(その1)と、人魚(その2)で左右対称のデザインのようだ。次に、魚に食われるロバと、魚に食われる羊と共にお尻を食べられるデザイン。他にも幾何学文様など様々なデザインがありバラエティに富んでおり見ていて飽きない。

東回廊の東側にある最初の部屋は、修道院時代の聖具室(sacristy)である。部屋に入り奥まで歩いて窓側から回廊方向を振り返ると、左奥に保管場所として利用されたのか2つの窪みが見える。左に視線を移して行くと窓側近くの壁には小さな窪みと大きな通路らしき跡が残っている。現在は煉瓦で塞がれているが、この通路の向こう側がクワイヤだったのだろう。それにしても周りの壁の漆喰は大きく剥がれ煉瓦がむき出しになっており、時代の流れを感じる。
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再び東回廊に出て先の部屋に入ると、一段と広い空間が現れる。こちらは参事会議場(チャプターハウス)だったようだ。
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逆光になるため、窓側から回廊方向を眺めてみよう。床にはヴィクトリア朝時代のタイルが敷き詰められている。柱の足元には1200年代当時のオリジナルのタイルが展示されているので対比すると面白い。壁面の漆喰は聖具保管室と同様にあちこち剥がれている。
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なお、この部屋は、14世紀、レイコック村の十分の一税(中世ヨーロッパで教会に対して農民が負担した税)の保管倉庫としても利用された。当時は主に現物(小麦かトウモロコシ)で支払われていたようだ。

更に北側には、暖炉の部屋(Warming Room)がある。修道院時代に正面奥の壁に大きな暖炉があったことから名付けられた。ところで、回廊とその東側の3つの部屋は、クリス・コロンバスが監督した2001年公開映画「ハリー・ポッターと賢者の石」と2002年公開の第2作「ハリー・ポッターと秘密の部屋」のホグワーツ魔法魔術学校の撮影で使われた。公開当時から数年間は、多くの観光客でひどく混雑したようだ。
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次に、2階(first floor)にある邸宅部分の見学に向かう。2階にはワインセラーや、キッチンなどがあり、フォックス・タルボットが生活していた時代を再現した書斎や、ピアノやハープのある広間などがあり、当時の調度品や書物などが飾られている。
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ここが、フォックス・タルボットが1835年8月に、最初に写真撮影に成功(史上初のネガ-ポジ法で複製が可能)した窓で、1階にある回廊入口(南側)の真上にあたる。窓の横には写真と当時の様子が詳しく解説されている。オリジナルの写真は、現在ロンドンのサイエンス・ミュージアムに保管されているようだ。
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食堂のテーブル上には、フォックス・タルボットを紹介したテーブルクロスや、写真付きのお皿が置かれている。
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邸宅の東南角に建つシャリントン・タワー(八角形の3階建の塔)の内部には、1225年版ヘンリー3世のマグナ・カルタの草稿のコピーが置かれている。元々1215年にジョン王により制定された憲章で、国王の権限を制限したことから憲法史の草分けとされたが、その後何度か改正されたうちの一つ。この1225年版はエラ伯爵夫人の夫ウィリアム・ロンゲペー宛てに送られたことから、代々レイコック・アビーの家主に受け継がれ、1946年にマチルダ・タルボットにより大英博物館に寄贈された。
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そしてこちらは、タワー天井の様子

最後に西側正面の左右階段を入った所にある大広間を見学した。室内には、壁龕があり、ややグロテスクな雰囲気の像なども飾られていた。筒型ヴォールトの天井には、一面紋章がトランプの様に散りばめられている。他にもマチルダ・タルボットにより大英博物館に寄贈された、1225年版マグナ・カルタに関する手紙や寄贈の経緯などが紹介されている。
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大広間から外に出て北隣にある中庭に向かう。周りは16世紀に建てられた切妻屋根に縦仕切り窓(mullion windows)のある古い建物だ。これらの建物は、ブリューハウス(ビール醸造所)、ベイクハウス(パン製造所)そして馬車置場などに使われた。中庭左側(北西角)の時計塔そばには、その一つ、ブリューハウスがあり当時の仕組みを見学することが出来る
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中に入り上からビール製造の様子を見てみよう。左端のタンクは、マッシュ・タン(Mash tun)と言い、麦汁(Mash)をつくるための、樽容器(Tun)とボイラー(Boiler)で、出来上がった麦汁は右側のクーラー(cooler)に注ぎ込まれて冷やされる。その冷やされた麦汁は、下の桶(発酵タンク(fermenting vessel))に溜まり、桶の下の蛇口からビールを抽出する仕組みになっている。
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さて、昨日同様にA429を20キロメートルほど北上し、今朝のスタート地点、サイレンセスター(Cirencester)に戻ってきた。時刻は午後4時過ぎ。町の中心部には、15世紀に毛織物産業で財をなした生産者の寄付で建設された「コッツウォルズの大聖堂」との異名を持つパリッシュ・チャーチ(教区教会)がある。
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サイレンセスターは、コッツウォルズの観光起点の一つで、この地方では最大の町だが、古くはローマ時代にまで遡る。地図を見るとサイレンセスターを中心として、X状に直線道路が郊外に延びているのが分かる。ローマ時代、ロンドンについで2番目に大きな町で「コリニウム・ドブンノルム(Corinium Dobunnorum)」と呼ばれており、これらの道路はローマ時代の街道の名残りである。現在、その中心部にある教会前広場では、週2回市場が開かれ多くの人が集まるそうだ。
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教会の南側にある後期ゴシック様式の3階建てのポーチ(Pogis)が教会への入口となるが入場時間は終了していた。
入口そばにはバス停があり、ここの場所からバイブリーやボートン・オン・ザ・ウォーター行きのバスが出ている。
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(2015.7.23)
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