ロンドン・ガトウィック空港に午後12時半に到着した。これから車でM25モーターウェイ(環状高速道路)を経由し、M20モーターウェイ終点のドーバー(Dover)城を見学した後、宿泊先のライ(Rye)に向かう予定だ。ところが、交通事故の影響を受け道路が渋滞し大幅に遅れてしまったため、ドーバー手前のアシュフォード(Ashford)から直接ライに向かうことにした。
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アシュフォードからA2070号線を走行しA259号線に入ると、サザン鉄道の踏切が現れる。その先のロザー川(River Rother)を渡ると、まもなくライに到着だ。視線をやや左前方に移すとライの町並みが見え始めた。
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ライは、ロンドンから約85キロメートル南東にあるイースト・サセックス州に属する人口約9,000人の小さな町である。三方を川で囲まれた小高い丘の上にあり、西側のストランド・キーが中心部への入口となる。東からA259号を通って来た場合は、北東側から一旦、丘の南側に沿って町を迂回し、西側まで進むことになる。
ストランド・キーから更に車で中心部へ向かうのは進入禁止になるため、やや面倒だが時計回りに町を迂回して北東側から入場しなければならない。それではストランド・キーから北側にあるライ駅の前を通って東方面に向かう。
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次に左側にあるポリス・ステーションを過ぎ、その先の左側にあるフィッシュ・カフェ(人気のシーフード・レストラン)から道路は上り坂になり、
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坂を上りきった右側にランド・ゲート(Land Gate)が現れる。ここが、中心部への北東側入口になる。道は鋭角な三叉路になっており大きく右に曲がり込み、ランド・ゲートをくぐる。
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この門は、1329年、イングランド王エドワード3世(在位:1327年~1377年)により、ライの防衛を強化させる目的で造られた。当時はライに合計4つの門が造られたが、この門が唯一現存する門となった。門には落とし格子や跳ね橋が設置されていたという。
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すぐ左側のガードレールの向こうは、断崖になっている。真下には、先ほど通ったA259号線が南に向けて丘を取り巻くように走っているのが見える。
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ランド・ゲートをくぐって100メートルほどで通りは大きく右に曲がり、町の東西を横断するハイ・ストリート(High St.)となる。左側のライ・アート・ギャラリー(Rye Art Gallery)は、1960年初頭にオープンした美術館で550以上の作品を所蔵している。
なお、20世紀前半のイギリスを代表する具象画家ポール・ナッシュ(Paul Nash, 1889-1946)は、ここライに住んでいたという。ギャラリーには彼の作品も所蔵されている。
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通りは、ゆるやかな下り坂となり、100メートルほど進んだ右側には1636年に建設されたグラマー・スクール(grammar school)があり、
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左側には細い路地(ライオン・ストリート)がある。覗き込むと、突き当たりにライのシンボルと言われるセント・メアリー教会(Saint Mary's Church)が見える。
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この辺りがライの中心部で、周りには雑貨店・インテリアショップなどが軒を連ねている。目的のホテルへは、右側に見えるライ・デリ(Rye Deli)先の路地を左折(写真は、進行方向と逆に撮影)する。そして、石畳の道を80メートルほど進み、その先を大きく左(※)・右へと曲がり、
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※曲がり角の右側にある赤レンガの古い建物は、小説家ヘンリー・ジェームス(Henry James、1843-1916)が晩年暮らしたラム・ハウス(Lamb House)。
先の丁字路を右折すると、町の南端を走るウォッチベル・ストリートになり、100メートルほど下った先で大きく右に曲がり広場となる。角地にあり広場に面して建つ建物が目的地のザ・ホープ・アンカー・ホテル(The Hope Anchor Hotel)である。
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現在、午後6時だがこの時期はまだ明るくホテルに当たる西日が眩い。
ホテルで無事チェックインを済ませて町を散策する。最初に広場の西端から北側に伸びる小道を歩いて行く。
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左側の手摺の向こうには、ライの西側を流れるティリンガム川(Tillingharm)が見える。川にはヨットも停泊しており港が近いと感じさせてくれる。
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小道は下りながら大きく右に曲がり、すぐにライの町への西側入口、ストランド・キーそばのマーメード・ストリートに合流する。
マーメード・ストリートは、町のメイン通り(ハイ・ストリート)に並行する一本南側の石畳の路地だが、中世時代はメイン通りであった。左側には、1420年に建てられたライを代表するパブ兼ホテル、マーメード・イン(The Mermaid Inn)がある。漆喰壁の黒い木枠を配した(チューダー様式)造りが歴史を感じさせてくれる。この宿にはイギリス王室一家や、各界のセレブたちも訪れているが、かつては密輸業者たちの溜まり場でもあったと言う。鉄製の看板にはマーメードの姿がデザインされている。
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マーメード・ストリートからハイ・ストリートに出て、先ほど通り過ぎたセント・メアリー教会への通り(ライオン・ストリート)を歩いていく。教会は、1561年に建造されたが、最も古い部分は1150年頃のものと言う。正面上部に見える時計は、イングランドの教会では最古の機械で動いているらしい。そして教会に向かって右側にある建物はシェークスピアとの共著で知られるジョン・フレッチャー(John Fletcher(1579–1625))の生家で現在はカフェとなっている。
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教会内の見学時間は既に終了しているため、取りあえず周りを歩いてみる。東側のフライング・バットレスの下をくぐり、
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教会の南側に出る。
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教会の南側にはフランス軍の侵攻に備えて、1249年に建てられたイプラ・タワー(Ypres Tower)(要塞跡)がある。一時期、住居や牢獄として利用されたこともあるが、現在はライ・キャッスル博物館(Rye Castle Museum)になっている。しかしこの時間、博物館内の見学は既に終了している。なお、イプラはこの要塞を買い取った人物の名前にちなんでいるとのこと。
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イプラ・タワーの前から階段を降りると周りは広場になっており、多くの大砲が置かれている。
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広場からは見晴の良い景観を楽しむことができる。左側(東)にはロザー川(River Rother)が挑め、正面の建物のすぐ向こう側には、ブリード川(Brede)が流れており、ヨットのマストが何本か見える。現在のライの町は、木造やレンガ造りの可愛らしい建物や石畳の路地など、イギリスで最も美しい町の一つに挙げられ多くの観光客が訪れるが、中世のころは、丘のすぐ近くまで海岸線があったことから、戦いのために装備された港町であった。
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ライは、かつてイギリス東南部の海防を目的に11世紀に作られた五港同盟に参加したことから、かなり栄えた港町だったのだろう。大砲越しに丘の向こうを眺めていると、タイムスリップして辺りが本当に海に見えてくるようだ。
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この辺りは、チャーチスクエア(Church Sq.)と呼ばれ、歴史を感じさせる遺構が多い。教会の北東側の角には16世紀から続くレンガ造りの古い給水塔(Ancient Water Supply)などもある。ライオン・ストリートに並行する一本東側を通るイースト・ストリートを進み、左側のイプラ・タワーの分館、ライ・キャッスル博物館(Rye Castle Museum)を過ぎると、再びハイ・ストリートにぶつかる。右折したところが、ライ・アート・ギャラリーで、そのままハイ・ストリートを遡りランド・ゲートをくぐって駅前まで行き、午後8時前にホテルに戻ってきた。
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今夜の夕食はホテルのレストランでいただいた。最初に、シーフード・アンティパストを注文する。燻製や酢漬けなどバラエティに富んでおり、デリ・マヨネーズに付けても、そのまま食べても美味しい。
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こちらは、エビ、アンコウ、ホタテの入ったホープアンカー・シーフード・メロディ。
ワインはイタリア産のピノ・グリ(Pinot Grio)を頼んだ。メインはボリュームたっぷりの本日の魚。付け合せの野菜もボリュームたっぷりであった。
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こちらは、ドーバー・シタヒラメのグリル。ちなみに料理はツー・コースで19.95ポンドとコスパが高かった。なおスリーコースだと24.95ポンドであった。
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さて翌朝。白を基調とした部屋は清潔感もあり気持ち良かったが、作りが多少変わっていて面白い。ベッドのある部屋と洗面所との間は段差がある廊下となっており、その廊下の途中に鏡台スペースがあり、上に斜めの出窓がある。そして廊下の奥が、ユニット式の洗面所なのだが、左壁が斜めになっている。おそらく部屋に洗面所がなかったため、廊下を作り屋根裏を拡張して設置したのだろう。
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部屋を出て階段を降りて行くと、壁にはイングランド王室伝統の「スリー・ライオンズ」の紋章などが並んでいる。
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レストランでは、たまごに、ベーコン、ソーセージなどを頂いたが、丁寧に調理されており美味しかった。窓から外を眺めると雨が降っているのか、霧で良く見えない。今日は昨日行けなかったドーバー城に行くつもりだが、この天気なのでどうするか。。
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やはりドーバー城に行くことにして急ぎ出発した。ライのホテルからは概ね1時間の距離である。ドーバー城は、ドーバー市内から東に約1.2キロメートル行ったキャッスルヒルの上にある。市内を抜けA258(キャッスルヒル・ロード)を上っていくと、すぐにDover Castleと書かれた案内板が現れる。右折し城門をくぐり、19世紀に建設された兵舎兼軍事務所の南側を通って東側から裏側に回り込んだ高台にチケット・センターはある。
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入場料は17ポンド(一人当たり)とかなり高いが、イングリッシュ・ヘリテージ・オーバーシーズ・ビジター・パスがあれば30ポンド(一人当たり)で、イングランドの歴史的建造物の100か所以上(9日間有効)にフリーで入場できる。ただし、事前に、Eメールバウチャーをネットで取得しておき、当日、最初のチケット・センターでビジター・パスと交換することになるので事前に準備が必要だ。
無事入場もでき辺りを散策する。城内の地図(北は右側)を見ると、キャッスルヒルは、断崖絶壁のある海岸から北西に行くほど徐々に標高が高くなって行き、城郭のあるところで頂点に達しているのがわかる。とは言え、雨は止んだが霧がかかっていて周りは良く見えない。。
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取りあえず、ドーバー城の城郭に行くのは後ほどにして、11時20分スタートの「戦争博物館」防空壕ツアー(所要時間は約50分)に参加することにし、集合場所の防空壕入口に向かう。ツアー参加者は30人ほどであった。右側に案内板があり、この防空壕内に、第二次世界大戦時、連合軍の大規模撤退作戦(ダイナモ作戦)の海軍指揮所があったと書かれている。
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ガイドについて、防空壕内に入って行く。防空壕の壁面には、内部の見取り図が掛けられている。
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しばらくすると、広い部屋が現れた。ここが、ダイナモ作戦が実施された海軍指揮所のようだ。1940年5月、英仏連合軍は、ドイツの戦車・航空機など火力・機動力を中心とした新戦法によりドーバー海岸に面したフランス北部の港ダンケルクに追い詰められていた。当時この指揮所を任されたイギリス海軍中将バートラム・ラムゼイ(銅像の解説)は、このダイナモ・ルームにおいて、イギリスへの撤退作戦を計画した。
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バートラム・ラムゼイより作戦概要を聞いたチャーチル首相は、英仏軍あわせた約35万人を直ちに救出するように命じ、1940年5月26日から6月4日にかけてイギリス国内の海軍を始め民間の漁船やヨットに至るまであらゆる船舶を総動員し開始された。その結果、860隻の船舶に331,226名(英軍192,226名、仏軍139,000名)の兵士をダンケルクから救出することができた。
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ダンケルクの脱出を描いた映画に、アンリ・ヴェルヌイユ監督の「ダンケルク(1964)」がある。映画は、戦争による悲劇を仏軍のマイヤ曹長(ジャン・ポール・ベルモンド)の目を通して描かれていた。ダンケルクからの撤退作戦が実行され、イギリス船に乗って次々と脱出して行く兵士たち。主人公のマイヤも、ダンケルクを脱出しようとするが、イギリス兵が優先され、なかなか順番がまわってこない。ある日、兵士からレイプされそうになっていた若い女性ジャンヌ(カトリーヌ・スパーク)を助けたことから、2人は惹かれあう。しかし悲劇的な結果に終わる、といったストーリー。ベルモンドは、悲劇的な状況にも関わらず、脱出を待つ砂浜で酒を飲んで仲間と騒いだりしながらキャンプ生活をおくる姿は、どこかとぼけた雰囲気もあった。
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この広い空間は、リピーター・ステーション(Repeater stations)といい、国際電話回路の重要な中継基地となった。特に一つのケーブルで同時に最高12のメッセージを送ることができたため、1944年には、何千もの偽の電話メッセージを流すことにより、Dーデイ(ノルマンディー上陸作戦)の位置についてドイツ軍を欺き、連合軍を勝利に導いた。
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トンネルは、全長約6キロメートルもあり、当時は600人近くの軍人や労働者が常時この防空壕を利用していたと言われている。歴史的にも非常に興味深い場所である。見学を終えて防空壕を出ると、断崖を削って作られた見晴の良い広場に出た。奥には資料館がある。
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防空壕を見学している内に一面を覆っていた霧が晴れ、海が見渡せるようになった。西側の海岸線を眺めて、視線を左に移し東側を眺めるとドーバー港が見える。ドーバー港は、トラック用のフェリーと一般乗用車、旅行客用の高速船、ホバークラフトのターミナルとの2つのブロックに分かれている。ドーバー港とフランス・カレー港との距離は約34キロメートルで、定期フェリーは、ドーバー港とカレー港及びダンケルク港との間を、年間約180万人の乗客を乗せて行き交っている。
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ドーバー港は、フランスに渡る主要な港だが、近年、英仏海峡トンネル(1994年に開通)やヨーロッパ格安航空会社の旅行業界参入(1995年)など交通手段の進化・多様化の影響もあり、利用者が減少しているらしい。
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こちらには、高射砲が置かれている。ドーバー城の守りの要は、時代に応じて変化している。中世においては、海側の南東側の切り立った崖は、天然の要害であったため、低地からの攻撃を防ぐため北西側が強化された。しかし近代戦においては、海からの爆撃機や長距離兵器への対応が課題となった。
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第二次世界大戦当時、ドイツは、イギリス本土に対する爆撃機による戦果が思うように上がらなかったため、V-1(ミサイル兵器)を開発しフランスのカレー地方から発射しロンドンに決定的打撃を与えようとした。現在の巡航ミサイルの始祖とも言える兵器であるが、到達率はかなり低かったようだ。イギリスは対抗措置として、ドーバーからイーストボーンまでの海岸線に高射砲を配置し防空能力の向上に寄与した。
タイミング良く12時20分からの地下病院ツアーにも参加できそうだ。急ぎ集合場所に向かう。
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防空壕ツアーと同様に、ガイドについて地下に入る。地下には手術室、病室、キッチン、食堂、寝室などが当時のままの状態で保存されている。見学時間は、20分ほどであった。
それでは、いよいよ城郭に向かうこととし、前方に見えるコルトン門(Colton's Gate)をくぐる。
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ドーバーは、古くから「イングランドの鍵」と呼ばれ、大陸からの玄関口であった。古くは紀元1世紀、ローマの軍港として栄え、灯台を丘に築いた。その後、サクソン時代には木の柵の砦が作られたが、イングランド王(アングロ・サクソン系)ハロルド2世(在位:1066年)は、これを石造りの要害堅固な城に変えた。ノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム1世、後のイングランド王(在位:1066~1087))が、ノルマンディーから最短距離のドーバー上陸を回避して、ヘイスティングズに上陸したのは、難攻不落のドーバー城があったからと言われている。
コルトン門を過ぎると、前方に巨大なドーバー城が聳えている。ドーバー城の城郭は、二重、三重に取り囲まれた城壁内にあり、全体で約35エーカー(東京ドーム3個分)の広さを誇り、規模もイングランド最大を誇っている。現在残る城郭と主な城壁は、ヘンリー2世(在位:1133~1189)が改築・建築したものである。
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次に城壁のパラス門(Palace Gate)をくぐると、
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正面には、グレート・タワー(Great Tower)と名付けられた四角柱の高さ約30メートルのドーバー城が現れる。タワーへのエントランスは、正面からではなく右側になる。
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グレート・タワーに向かって右側の城壁沿いには、アーサー・ホール(Arthur's Hall)があり、グレート・タワーの紹介とヘンリー2世と彼の一家に関する資料館となっている。その隣は軍事博物館でチャールズ2世(在位:1660~1685)以降のイギリスの戦争史を紹介している。
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さらさらっと資料館を見学してグレート・タワーに入る。最初に現れるグランドフロアー(Ground Floor)には、周りには壺などが並べられ、調理台の上にはパンや干し肉が吊るされるなど、ヘンリー2世時代のキッチンが再現されている。
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2階には、会議や宴、式典などに使われた宴会場、王の寝室や大広間など、こちらもヘンリー2世時代を再現する装飾がなされていた。概ね中世の城内は暗くて無機質な空間になりがちなので、カラフルなデザインの装飾の品を配置することで、明るさを演出しているのかもしれない。
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こちらはトマス・ベケット礼拝堂(Chapel of Thomas Beckett)で、カンタベリー大聖堂で殺された大司教トマス・ベケット(在任:1162~1170)にちなんで名付けられた。トマス・ベケットはヘンリー2世と激しく対立したため、王の意を受けた4人の騎士に教会の敷地内で殺害されたと言われている。その後、殉教として崇拝され聖人となった。礼拝堂内は、ステンドグラスから差し込む光で明るく照らされていた。なお、中世の頃は、戦時中に礼拝のために教会に出向くことができなくなるため、このように城内に礼拝堂があるのは一般的であった。
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それでは階段を上り、屋上に上がってみよう。
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まず、南東側のドーバー海峡を見ると、天候はかなり回復し、遠くまで見渡せるようになった。右端手前の塔が先ほどくぐったコルトン門で、その左側(中央)に見えるかなり古びた石造りの塔が、紀元1世紀に建てられたローマ時代の灯台(Roman Pharos)である。
そして左隣の赤い屋根の建物は、聖メアリー教会(Charch of St Mary-in-Castro)で、11世紀サクソン時代に建てられ、19世紀後半ヴィクトリア朝時代に軍事用の施設として利用できるように改築された。
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手前の広場では、中世の衣装を身にまといパフォーマンスを披露する人たちと彼らを取り囲む見物人が見える。青い列車風の乗り物は、城内を巡回する無料のシャトルトラムだ。
視線を少し左に移し東側を見てみる。真下の赤い屋根の建物が城壁内に入り最初に見学したアーサー・ホールと軍事博物館で、その先は、丘に沿って海岸まで城壁(外壁)が伸びているのが見える。これらの外壁はヘンリー3世(在位:1207~1272)時代のものだが、その後、歴代の王も多額の費用をかけてドーバー城を強化し続けたという。隣接する広大な丘陵地帯の先にはドーバー港が見える。ドーバー港側から見る断崖はチョーク(白亜)で構成されていることからホワイト・クリフと呼ばれている。
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そして、こちらは北西側の城壁付近の様子。真下に見える城壁の建物はゲートハウス(Gatehouse)と呼ばれ、屋上は見張り台や攻撃用の砦としての役割があった。建物の中央には、王の門(Kings Gate)があり、外壁手前には投石器が置かれている。
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こちらの城壁はルイ王子(後のルイ8世)の攻城戦の舞台になった(第一次バロン戦争)。1216年、フランスのルイ王子は王位継承を要求し、ジョン王(在位:1199~1216)のイングランドに攻め込んだ。王子は、ジョンの統治に不満を持つ貴族たちの協力も得て瞬く間にロンドン入城を果たし、造反諸侯や市民達からの歓迎を受けた。その後、ウィンチェスターを攻略、その勢いで、ドーバー城を二度に亘り攻めるものの落城は叶わなかったようだ。
こちらは、その第一回目の攻城戦図である。この図によると、外壁の向こうに突き出した緑の段壁には楼門があり、フランス軍は、その楼門を通り、外壁右側の門塔を崩し城壁の下まで迫ったが、ドーバー城内の兵士は材木などを駆使しながらフランス軍を撃退した。なお、戦後この弱点となった門は封鎖され地下道が造らた。
そして、こちらは南西側の城壁付近の様子。1815年当時の西の高台(Western Heights)図を見ると、外壁の先に見える空き地には土塁の砲台が築かれていたようだ。当時、ナポレオン戦争が勃発したことから、フランス軍の進入危機を踏まえて要塞化された跡とのこと。
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最後に、視線を上げてドーバー市内を眺めてみる。中央手前から直線に伸びる通りがキャッスル・ストリートで、200メートルほど先でカノンストリートと交差する。そのあたりがドーバー市内中心地になり、ドーバー博物館やローマ時代の宿泊所(ローマン・ペインテッド・ハウス)などの観光スポットがあり、ショッピングエリアもこの辺りにある。海岸沿いに伸びる大通りはA20号で12キロメートル先でM20モーターウェイに合流する。
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霧も晴れ、周りの景色も眺めることができたのでドーバーに来てよかった。現在、午後2時を過ぎたところ。そろそろ出発し、次はヘイスティングズの戦い(1066年)の舞台となったバトル(Battle)の丘に向かう。
(2015.7.19~20)
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アシュフォードからA2070号線を走行しA259号線に入ると、サザン鉄道の踏切が現れる。その先のロザー川(River Rother)を渡ると、まもなくライに到着だ。視線をやや左前方に移すとライの町並みが見え始めた。
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ライは、ロンドンから約85キロメートル南東にあるイースト・サセックス州に属する人口約9,000人の小さな町である。三方を川で囲まれた小高い丘の上にあり、西側のストランド・キーが中心部への入口となる。東からA259号を通って来た場合は、北東側から一旦、丘の南側に沿って町を迂回し、西側まで進むことになる。
ストランド・キーから更に車で中心部へ向かうのは進入禁止になるため、やや面倒だが時計回りに町を迂回して北東側から入場しなければならない。それではストランド・キーから北側にあるライ駅の前を通って東方面に向かう。
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次に左側にあるポリス・ステーションを過ぎ、その先の左側にあるフィッシュ・カフェ(人気のシーフード・レストラン)から道路は上り坂になり、
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坂を上りきった右側にランド・ゲート(Land Gate)が現れる。ここが、中心部への北東側入口になる。道は鋭角な三叉路になっており大きく右に曲がり込み、ランド・ゲートをくぐる。
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この門は、1329年、イングランド王エドワード3世(在位:1327年~1377年)により、ライの防衛を強化させる目的で造られた。当時はライに合計4つの門が造られたが、この門が唯一現存する門となった。門には落とし格子や跳ね橋が設置されていたという。
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すぐ左側のガードレールの向こうは、断崖になっている。真下には、先ほど通ったA259号線が南に向けて丘を取り巻くように走っているのが見える。
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ランド・ゲートをくぐって100メートルほどで通りは大きく右に曲がり、町の東西を横断するハイ・ストリート(High St.)となる。左側のライ・アート・ギャラリー(Rye Art Gallery)は、1960年初頭にオープンした美術館で550以上の作品を所蔵している。
なお、20世紀前半のイギリスを代表する具象画家ポール・ナッシュ(Paul Nash, 1889-1946)は、ここライに住んでいたという。ギャラリーには彼の作品も所蔵されている。
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通りは、ゆるやかな下り坂となり、100メートルほど進んだ右側には1636年に建設されたグラマー・スクール(grammar school)があり、
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左側には細い路地(ライオン・ストリート)がある。覗き込むと、突き当たりにライのシンボルと言われるセント・メアリー教会(Saint Mary's Church)が見える。
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この辺りがライの中心部で、周りには雑貨店・インテリアショップなどが軒を連ねている。目的のホテルへは、右側に見えるライ・デリ(Rye Deli)先の路地を左折(写真は、進行方向と逆に撮影)する。そして、石畳の道を80メートルほど進み、その先を大きく左(※)・右へと曲がり、
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※曲がり角の右側にある赤レンガの古い建物は、小説家ヘンリー・ジェームス(Henry James、1843-1916)が晩年暮らしたラム・ハウス(Lamb House)。
先の丁字路を右折すると、町の南端を走るウォッチベル・ストリートになり、100メートルほど下った先で大きく右に曲がり広場となる。角地にあり広場に面して建つ建物が目的地のザ・ホープ・アンカー・ホテル(The Hope Anchor Hotel)である。
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現在、午後6時だがこの時期はまだ明るくホテルに当たる西日が眩い。
ホテルで無事チェックインを済ませて町を散策する。最初に広場の西端から北側に伸びる小道を歩いて行く。
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左側の手摺の向こうには、ライの西側を流れるティリンガム川(Tillingharm)が見える。川にはヨットも停泊しており港が近いと感じさせてくれる。
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小道は下りながら大きく右に曲がり、すぐにライの町への西側入口、ストランド・キーそばのマーメード・ストリートに合流する。
マーメード・ストリートは、町のメイン通り(ハイ・ストリート)に並行する一本南側の石畳の路地だが、中世時代はメイン通りであった。左側には、1420年に建てられたライを代表するパブ兼ホテル、マーメード・イン(The Mermaid Inn)がある。漆喰壁の黒い木枠を配した(チューダー様式)造りが歴史を感じさせてくれる。この宿にはイギリス王室一家や、各界のセレブたちも訪れているが、かつては密輸業者たちの溜まり場でもあったと言う。鉄製の看板にはマーメードの姿がデザインされている。
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マーメード・ストリートからハイ・ストリートに出て、先ほど通り過ぎたセント・メアリー教会への通り(ライオン・ストリート)を歩いていく。教会は、1561年に建造されたが、最も古い部分は1150年頃のものと言う。正面上部に見える時計は、イングランドの教会では最古の機械で動いているらしい。そして教会に向かって右側にある建物はシェークスピアとの共著で知られるジョン・フレッチャー(John Fletcher(1579–1625))の生家で現在はカフェとなっている。
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教会内の見学時間は既に終了しているため、取りあえず周りを歩いてみる。東側のフライング・バットレスの下をくぐり、
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教会の南側に出る。
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教会の南側にはフランス軍の侵攻に備えて、1249年に建てられたイプラ・タワー(Ypres Tower)(要塞跡)がある。一時期、住居や牢獄として利用されたこともあるが、現在はライ・キャッスル博物館(Rye Castle Museum)になっている。しかしこの時間、博物館内の見学は既に終了している。なお、イプラはこの要塞を買い取った人物の名前にちなんでいるとのこと。
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イプラ・タワーの前から階段を降りると周りは広場になっており、多くの大砲が置かれている。
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広場からは見晴の良い景観を楽しむことができる。左側(東)にはロザー川(River Rother)が挑め、正面の建物のすぐ向こう側には、ブリード川(Brede)が流れており、ヨットのマストが何本か見える。現在のライの町は、木造やレンガ造りの可愛らしい建物や石畳の路地など、イギリスで最も美しい町の一つに挙げられ多くの観光客が訪れるが、中世のころは、丘のすぐ近くまで海岸線があったことから、戦いのために装備された港町であった。
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ライは、かつてイギリス東南部の海防を目的に11世紀に作られた五港同盟に参加したことから、かなり栄えた港町だったのだろう。大砲越しに丘の向こうを眺めていると、タイムスリップして辺りが本当に海に見えてくるようだ。
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この辺りは、チャーチスクエア(Church Sq.)と呼ばれ、歴史を感じさせる遺構が多い。教会の北東側の角には16世紀から続くレンガ造りの古い給水塔(Ancient Water Supply)などもある。ライオン・ストリートに並行する一本東側を通るイースト・ストリートを進み、左側のイプラ・タワーの分館、ライ・キャッスル博物館(Rye Castle Museum)を過ぎると、再びハイ・ストリートにぶつかる。右折したところが、ライ・アート・ギャラリーで、そのままハイ・ストリートを遡りランド・ゲートをくぐって駅前まで行き、午後8時前にホテルに戻ってきた。
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今夜の夕食はホテルのレストランでいただいた。最初に、シーフード・アンティパストを注文する。燻製や酢漬けなどバラエティに富んでおり、デリ・マヨネーズに付けても、そのまま食べても美味しい。
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こちらは、エビ、アンコウ、ホタテの入ったホープアンカー・シーフード・メロディ。
ワインはイタリア産のピノ・グリ(Pinot Grio)を頼んだ。メインはボリュームたっぷりの本日の魚。付け合せの野菜もボリュームたっぷりであった。
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こちらは、ドーバー・シタヒラメのグリル。ちなみに料理はツー・コースで19.95ポンドとコスパが高かった。なおスリーコースだと24.95ポンドであった。
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さて翌朝。白を基調とした部屋は清潔感もあり気持ち良かったが、作りが多少変わっていて面白い。ベッドのある部屋と洗面所との間は段差がある廊下となっており、その廊下の途中に鏡台スペースがあり、上に斜めの出窓がある。そして廊下の奥が、ユニット式の洗面所なのだが、左壁が斜めになっている。おそらく部屋に洗面所がなかったため、廊下を作り屋根裏を拡張して設置したのだろう。
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部屋を出て階段を降りて行くと、壁にはイングランド王室伝統の「スリー・ライオンズ」の紋章などが並んでいる。
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レストランでは、たまごに、ベーコン、ソーセージなどを頂いたが、丁寧に調理されており美味しかった。窓から外を眺めると雨が降っているのか、霧で良く見えない。今日は昨日行けなかったドーバー城に行くつもりだが、この天気なのでどうするか。。
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やはりドーバー城に行くことにして急ぎ出発した。ライのホテルからは概ね1時間の距離である。ドーバー城は、ドーバー市内から東に約1.2キロメートル行ったキャッスルヒルの上にある。市内を抜けA258(キャッスルヒル・ロード)を上っていくと、すぐにDover Castleと書かれた案内板が現れる。右折し城門をくぐり、19世紀に建設された兵舎兼軍事務所の南側を通って東側から裏側に回り込んだ高台にチケット・センターはある。
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入場料は17ポンド(一人当たり)とかなり高いが、イングリッシュ・ヘリテージ・オーバーシーズ・ビジター・パスがあれば30ポンド(一人当たり)で、イングランドの歴史的建造物の100か所以上(9日間有効)にフリーで入場できる。ただし、事前に、Eメールバウチャーをネットで取得しておき、当日、最初のチケット・センターでビジター・パスと交換することになるので事前に準備が必要だ。
無事入場もでき辺りを散策する。城内の地図(北は右側)を見ると、キャッスルヒルは、断崖絶壁のある海岸から北西に行くほど徐々に標高が高くなって行き、城郭のあるところで頂点に達しているのがわかる。とは言え、雨は止んだが霧がかかっていて周りは良く見えない。。
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取りあえず、ドーバー城の城郭に行くのは後ほどにして、11時20分スタートの「戦争博物館」防空壕ツアー(所要時間は約50分)に参加することにし、集合場所の防空壕入口に向かう。ツアー参加者は30人ほどであった。右側に案内板があり、この防空壕内に、第二次世界大戦時、連合軍の大規模撤退作戦(ダイナモ作戦)の海軍指揮所があったと書かれている。
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ガイドについて、防空壕内に入って行く。防空壕の壁面には、内部の見取り図が掛けられている。
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しばらくすると、広い部屋が現れた。ここが、ダイナモ作戦が実施された海軍指揮所のようだ。1940年5月、英仏連合軍は、ドイツの戦車・航空機など火力・機動力を中心とした新戦法によりドーバー海岸に面したフランス北部の港ダンケルクに追い詰められていた。当時この指揮所を任されたイギリス海軍中将バートラム・ラムゼイ(銅像の解説)は、このダイナモ・ルームにおいて、イギリスへの撤退作戦を計画した。
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バートラム・ラムゼイより作戦概要を聞いたチャーチル首相は、英仏軍あわせた約35万人を直ちに救出するように命じ、1940年5月26日から6月4日にかけてイギリス国内の海軍を始め民間の漁船やヨットに至るまであらゆる船舶を総動員し開始された。その結果、860隻の船舶に331,226名(英軍192,226名、仏軍139,000名)の兵士をダンケルクから救出することができた。
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ダンケルクの脱出を描いた映画に、アンリ・ヴェルヌイユ監督の「ダンケルク(1964)」がある。映画は、戦争による悲劇を仏軍のマイヤ曹長(ジャン・ポール・ベルモンド)の目を通して描かれていた。ダンケルクからの撤退作戦が実行され、イギリス船に乗って次々と脱出して行く兵士たち。主人公のマイヤも、ダンケルクを脱出しようとするが、イギリス兵が優先され、なかなか順番がまわってこない。ある日、兵士からレイプされそうになっていた若い女性ジャンヌ(カトリーヌ・スパーク)を助けたことから、2人は惹かれあう。しかし悲劇的な結果に終わる、といったストーリー。ベルモンドは、悲劇的な状況にも関わらず、脱出を待つ砂浜で酒を飲んで仲間と騒いだりしながらキャンプ生活をおくる姿は、どこかとぼけた雰囲気もあった。
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この広い空間は、リピーター・ステーション(Repeater stations)といい、国際電話回路の重要な中継基地となった。特に一つのケーブルで同時に最高12のメッセージを送ることができたため、1944年には、何千もの偽の電話メッセージを流すことにより、Dーデイ(ノルマンディー上陸作戦)の位置についてドイツ軍を欺き、連合軍を勝利に導いた。
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トンネルは、全長約6キロメートルもあり、当時は600人近くの軍人や労働者が常時この防空壕を利用していたと言われている。歴史的にも非常に興味深い場所である。見学を終えて防空壕を出ると、断崖を削って作られた見晴の良い広場に出た。奥には資料館がある。
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防空壕を見学している内に一面を覆っていた霧が晴れ、海が見渡せるようになった。西側の海岸線を眺めて、視線を左に移し東側を眺めるとドーバー港が見える。ドーバー港は、トラック用のフェリーと一般乗用車、旅行客用の高速船、ホバークラフトのターミナルとの2つのブロックに分かれている。ドーバー港とフランス・カレー港との距離は約34キロメートルで、定期フェリーは、ドーバー港とカレー港及びダンケルク港との間を、年間約180万人の乗客を乗せて行き交っている。
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ドーバー港は、フランスに渡る主要な港だが、近年、英仏海峡トンネル(1994年に開通)やヨーロッパ格安航空会社の旅行業界参入(1995年)など交通手段の進化・多様化の影響もあり、利用者が減少しているらしい。
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こちらには、高射砲が置かれている。ドーバー城の守りの要は、時代に応じて変化している。中世においては、海側の南東側の切り立った崖は、天然の要害であったため、低地からの攻撃を防ぐため北西側が強化された。しかし近代戦においては、海からの爆撃機や長距離兵器への対応が課題となった。
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第二次世界大戦当時、ドイツは、イギリス本土に対する爆撃機による戦果が思うように上がらなかったため、V-1(ミサイル兵器)を開発しフランスのカレー地方から発射しロンドンに決定的打撃を与えようとした。現在の巡航ミサイルの始祖とも言える兵器であるが、到達率はかなり低かったようだ。イギリスは対抗措置として、ドーバーからイーストボーンまでの海岸線に高射砲を配置し防空能力の向上に寄与した。
タイミング良く12時20分からの地下病院ツアーにも参加できそうだ。急ぎ集合場所に向かう。
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防空壕ツアーと同様に、ガイドについて地下に入る。地下には手術室、病室、キッチン、食堂、寝室などが当時のままの状態で保存されている。見学時間は、20分ほどであった。
それでは、いよいよ城郭に向かうこととし、前方に見えるコルトン門(Colton's Gate)をくぐる。
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ドーバーは、古くから「イングランドの鍵」と呼ばれ、大陸からの玄関口であった。古くは紀元1世紀、ローマの軍港として栄え、灯台を丘に築いた。その後、サクソン時代には木の柵の砦が作られたが、イングランド王(アングロ・サクソン系)ハロルド2世(在位:1066年)は、これを石造りの要害堅固な城に変えた。ノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム1世、後のイングランド王(在位:1066~1087))が、ノルマンディーから最短距離のドーバー上陸を回避して、ヘイスティングズに上陸したのは、難攻不落のドーバー城があったからと言われている。
コルトン門を過ぎると、前方に巨大なドーバー城が聳えている。ドーバー城の城郭は、二重、三重に取り囲まれた城壁内にあり、全体で約35エーカー(東京ドーム3個分)の広さを誇り、規模もイングランド最大を誇っている。現在残る城郭と主な城壁は、ヘンリー2世(在位:1133~1189)が改築・建築したものである。
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次に城壁のパラス門(Palace Gate)をくぐると、
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正面には、グレート・タワー(Great Tower)と名付けられた四角柱の高さ約30メートルのドーバー城が現れる。タワーへのエントランスは、正面からではなく右側になる。
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グレート・タワーに向かって右側の城壁沿いには、アーサー・ホール(Arthur's Hall)があり、グレート・タワーの紹介とヘンリー2世と彼の一家に関する資料館となっている。その隣は軍事博物館でチャールズ2世(在位:1660~1685)以降のイギリスの戦争史を紹介している。
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さらさらっと資料館を見学してグレート・タワーに入る。最初に現れるグランドフロアー(Ground Floor)には、周りには壺などが並べられ、調理台の上にはパンや干し肉が吊るされるなど、ヘンリー2世時代のキッチンが再現されている。
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2階には、会議や宴、式典などに使われた宴会場、王の寝室や大広間など、こちらもヘンリー2世時代を再現する装飾がなされていた。概ね中世の城内は暗くて無機質な空間になりがちなので、カラフルなデザインの装飾の品を配置することで、明るさを演出しているのかもしれない。
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こちらはトマス・ベケット礼拝堂(Chapel of Thomas Beckett)で、カンタベリー大聖堂で殺された大司教トマス・ベケット(在任:1162~1170)にちなんで名付けられた。トマス・ベケットはヘンリー2世と激しく対立したため、王の意を受けた4人の騎士に教会の敷地内で殺害されたと言われている。その後、殉教として崇拝され聖人となった。礼拝堂内は、ステンドグラスから差し込む光で明るく照らされていた。なお、中世の頃は、戦時中に礼拝のために教会に出向くことができなくなるため、このように城内に礼拝堂があるのは一般的であった。
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それでは階段を上り、屋上に上がってみよう。
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まず、南東側のドーバー海峡を見ると、天候はかなり回復し、遠くまで見渡せるようになった。右端手前の塔が先ほどくぐったコルトン門で、その左側(中央)に見えるかなり古びた石造りの塔が、紀元1世紀に建てられたローマ時代の灯台(Roman Pharos)である。
そして左隣の赤い屋根の建物は、聖メアリー教会(Charch of St Mary-in-Castro)で、11世紀サクソン時代に建てられ、19世紀後半ヴィクトリア朝時代に軍事用の施設として利用できるように改築された。
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手前の広場では、中世の衣装を身にまといパフォーマンスを披露する人たちと彼らを取り囲む見物人が見える。青い列車風の乗り物は、城内を巡回する無料のシャトルトラムだ。
視線を少し左に移し東側を見てみる。真下の赤い屋根の建物が城壁内に入り最初に見学したアーサー・ホールと軍事博物館で、その先は、丘に沿って海岸まで城壁(外壁)が伸びているのが見える。これらの外壁はヘンリー3世(在位:1207~1272)時代のものだが、その後、歴代の王も多額の費用をかけてドーバー城を強化し続けたという。隣接する広大な丘陵地帯の先にはドーバー港が見える。ドーバー港側から見る断崖はチョーク(白亜)で構成されていることからホワイト・クリフと呼ばれている。
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そして、こちらは北西側の城壁付近の様子。真下に見える城壁の建物はゲートハウス(Gatehouse)と呼ばれ、屋上は見張り台や攻撃用の砦としての役割があった。建物の中央には、王の門(Kings Gate)があり、外壁手前には投石器が置かれている。
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こちらの城壁はルイ王子(後のルイ8世)の攻城戦の舞台になった(第一次バロン戦争)。1216年、フランスのルイ王子は王位継承を要求し、ジョン王(在位:1199~1216)のイングランドに攻め込んだ。王子は、ジョンの統治に不満を持つ貴族たちの協力も得て瞬く間にロンドン入城を果たし、造反諸侯や市民達からの歓迎を受けた。その後、ウィンチェスターを攻略、その勢いで、ドーバー城を二度に亘り攻めるものの落城は叶わなかったようだ。
こちらは、その第一回目の攻城戦図である。この図によると、外壁の向こうに突き出した緑の段壁には楼門があり、フランス軍は、その楼門を通り、外壁右側の門塔を崩し城壁の下まで迫ったが、ドーバー城内の兵士は材木などを駆使しながらフランス軍を撃退した。なお、戦後この弱点となった門は封鎖され地下道が造らた。
そして、こちらは南西側の城壁付近の様子。1815年当時の西の高台(Western Heights)図を見ると、外壁の先に見える空き地には土塁の砲台が築かれていたようだ。当時、ナポレオン戦争が勃発したことから、フランス軍の進入危機を踏まえて要塞化された跡とのこと。
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最後に、視線を上げてドーバー市内を眺めてみる。中央手前から直線に伸びる通りがキャッスル・ストリートで、200メートルほど先でカノンストリートと交差する。そのあたりがドーバー市内中心地になり、ドーバー博物館やローマ時代の宿泊所(ローマン・ペインテッド・ハウス)などの観光スポットがあり、ショッピングエリアもこの辺りにある。海岸沿いに伸びる大通りはA20号で12キロメートル先でM20モーターウェイに合流する。
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霧も晴れ、周りの景色も眺めることができたのでドーバーに来てよかった。現在、午後2時を過ぎたところ。そろそろ出発し、次はヘイスティングズの戦い(1066年)の舞台となったバトル(Battle)の丘に向かう。
(2015.7.19~20)