カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イングランド南東部(バトル~ストーンヘンジ)

2015-07-20 | イギリス
ヘイスティングス(Hastings)と言えば、1066年、イングランド王ハロルド2世とノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム1世)との天下分け目の決戦(ヘイスティングズの戦い)で知られているが、現在のヘイスティングス(港町)には、戦後ウィリアム1世がイングランドで最初に築いた城の遺構が僅かに残るだけである。戦いが行われた場所は、海岸線から内陸(北西)に約10キロメートル行ったイースト・サセックス州バトル(Battle)の丘である。

ということで、ドーバーからヘイスティングスを素通りして、ここバトル・アビー(Battle Abbey)にやってきた。ドーバーから距離にして約90キロメートルの道程である。古戦場には、左側のロータリー南側にあるゲート・ハウス(Gate House)からの入場となる。なお、ロータリーから北側にはバトルの町並みが続いている。
クリックで別ウインドウ開く

それでは、ゲート・ハウスから古戦場に入場する。ちなみにこの巨大な建造物は14世紀頃のもので、当時は修道院の職員や訪問者用の宿泊施設として使用された。バトル・アビーの入場料は11ポンド(一人当たり)だが、ドーバー城と同様にヘリテージ・オーバーシーズ・ビジター・パスがあればフリーパスで入場することができる上、日本語オーディオガイドの貸し出しがあり有難い。しかし今日は天気が悪く小雨が降り続いているので見学には困ったものだ。
クリックで別ウインドウ開く

改札を通り右側に進むと資料館(Exhibition)の建物が現れる。館内にはヘイスティングズの戦いに関する展示を中心にして、それを遡るアルフレッド大王(在位:871~899)時代からの展示もされていた。

アルフレッド大王は、デーン人(ヴァイキング)の侵攻が繰り返されていた頃、ウェセックス(イングランド七王国の一つ)エゼルレッド王の後継者として王位を継いだ。886年にはデーン人からロンドンを奪回、復興事業に従事し、法典(アルフレッド法典)を含め統治機構の整備に尽力した。更に宮廷学校を設立など学問や教育分野にも力を注いだことから、イギリス歴史上唯一、大王(グレート)の異名で知られている。
クリックで別ウインドウ開く

展示は体験が出来るようになっている。こちらはイングランド軍が使用した円形の盾と槍で、直接手触れることができる。盾は上下に動かすことが出来るが、かなり重いため相当な力が必要なことがわかる。
クリックで別ウインドウ開く

そして、こちらはノルマン軍で使用したカイト・シールドと名付けられた盾と槍である。三角を伸ばしたような形の盾は身体の広い範囲を防御できたため、ノルマン騎兵にとっては最適な防具であった。下部分は騎乗の際、邪魔にならないように細くなっており、更に盾の裏側の革ひもに左腕を通して手綱を握ることが出来たため機動力に優れていた。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、バイユーのタペストリー(ノルマン・コンクエスト物語の刺繍画で、ノルマンディー地方のバイユー大聖堂に長く保管されていた。)からのカットで、イングランド王(アングロ・サクソン系)ハロルド2世(在位:1066年)が紹介されている。彼は、大貴族の一人ウェセックス伯ゴドウィン家の次男で、ウェセックス朝(サクソン系)のエドワード懺悔王(在位:1042~1066)の妃エディスの兄にあたる。
クリックで別ウインドウ開く

そして、こちらが、ノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム1世、後のイングランド王(在位:1066~1087))で、エドワード懺悔王の母エマ(ノルマンディー王女)の甥にあたる。彼はエドワード懺悔王が継嗣のないまま亡くなったことから王位継承権を主張し約6000の兵力を持って海峡を越えヘイスティングズに上陸した(ノルマン・コンクエスト)。
クリックで別ウインドウ開く
当時、ヘイスティングズは岬の先端にあり、ロンドンまでは尾根筋の一本道が続いていた。

ハロルド2世は、イングランドを手中に収めんとしていたハーラル3世(ノルウェー軍)を北部ヨーク近郊で討ち(スタンフォード・ブリッジの戦い)、返す刀で7000の兵力と共に南下し、ヘイスティングズ岬の付け根に当たる「バトルの丘」で陣立てを整えギヨーム2世と対峙しようとした。これを知ったギヨーム2世はバトルの丘に急行して丘の麓に布陣した。

両軍の配置図を見てみよう。ハロルド2世は、馬を棄て、長大な戦斧を装備した重装歩兵で丘に密集陣形を築いた。対するギヨーム2世の本陣は、中央に自らが指揮するノルマン騎兵で固め、背後に短弓やクロスボウを装備した弓兵を配置した。そして、左翼には、ブルターニュ地方の部隊を、右翼にはフランス騎士団と外人傭兵の混成部隊を配置した。
クリックで別ウインドウ開く

それでは、オーディオ・ガイドに従い、古戦場に設けられた小道を進んでみよう。バトルの丘を中心に北側から丘を中心にして内回りで進んでいく。
クリックで別ウインドウ開く

辺りには、たくさんの羊が放牧されているため、あちらこちらに糞が落ちている。。他に見学者がいないためか、やたらと羊から注目され少し怖い。。
クリックで別ウインドウ開く

天下分け目の決戦は1066年10月14日の朝に始まった。ギヨーム2世のノルマン軍は弓兵に援護させながら騎兵による突撃を繰り返したが、丘上に布陣したイングランド軍の重装歩兵の陣形を打ち崩すことは難しく戦闘は膠着状態に陥った。
クリックで別ウインドウ開く

その時、イングランド軍からの矢を受けてギヨーム2世が落馬したため、ノルマン兵士達はギヨーム2世が戦死したと思い一斉に総退却を始めた。しかし、ギヨーム2世は、再び馬に跳び乗り鉄兜を脱ぎ捨て、素顔を軍団に見せながら大声で軍を叱咤激励した。
クリックで別ウインドウ開く
見学コースには、この様に所々に案内板が立てられている。立ち止まりオーディオ・ガイドを聞きながら、当時の合戦の様子に思いを馳せる。

さて、ギヨーム2世の叱咤により、再びノルマン軍に活気が溢れたがイングランド軍の重装歩兵による密集陣形を崩すことは容易ではなかったようだ。午前中は、イングランド軍が優勢だった。その後、ギヨーム2世は、騎兵を中心とした攻撃から、弓兵によるイングランド軍の後方への攻撃に切り替えた。この天空からの矢の攻撃にイングランド軍の密集陣形に綻びが現れ始めた。
クリックで別ウインドウ開く

ノルマン軍はこの気を逃さず、すかさず騎兵による攻撃をかけたため、イングランド軍の陣形が混乱状態になった。特に、右翼(イングランド軍から見て)の丘に大きな隙間ができたようだ。ハロルド2世は右翼に移動して前線に出たため、そこにノルマン軍の弓兵による攻撃が集中した。バイユーのタペストリーによると、ハロルド2世はノルマン軍の弓兵の放った一矢により、目を射抜かれて落命したとされる。
クリックで別ウインドウ開く

古戦場を一周すると丘の上にバトル・アビーの遺跡が現れた。こちらは、1070年、ローマ教皇アレクサンデル2世(在位:1061~1073)が、ウィリアム1世に対して、ハロルド2世をはじめ、両軍の戦死者の霊を弔うよう指示して建設された教会の跡である。

教会は、ウィリアム1世の息子ルーファス(ウィリアム2世)(在位:1087~1100)治世の1094年に完成した。その後、13世紀後半に改築されたが、ヘンリー8世(在位:1509~1547)治世の1538年、政治家トマス・クロムウェル(1485~1540)による修道院解散令により荒廃してしまう。現在は、Dormitory rangeと名付けられた遺跡が残っている。
クリックで別ウインドウ開く
1階(Ground floor)にはThe Novice's Chamber(初心の間)と名付けられた修道士のための修業場所やThe Common Room(控室)と名付けられた連続するアーチが見事な空間が残されている

反対側から見ると2階(First floor)には、雨ざらしの床部分だけが残されている。ここには修道僧たちのDomitory(宿泊所)があったが、修道院解散令後は、馬小屋や納屋として利用された。
クリックで別ウインドウ開く
イングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)のバトル・アビーの詳細図によると、初期の教会はDormitory rangeの北側に隣接しているが、現在は、広い敷地に主祭壇の址だけが残されており、11世紀当時の教会の様子が書かれた案内板だけが寂しく立っている。

遺跡の西側には、1912 年に設立されたバトル・アビー・スクール(Battle Abbey School)がある。かつて修道院の図書館と大広間や食堂があった。
クリックで別ウインドウ開く
合計1時間半ほど見学して午後6時頃にバトルを後にした。

途中、ルイス近郊のグラインドボーン音楽祭(Glyndebourne Festival Opera)の会場(カントリー・ハウス)に寄った。ここでは、1934年、資産家ジョン・クリスティによって創設以来、毎年オペラ音楽祭が開かれている。特にモーツァルト・オペラが人気で、ロンドン市民の夏の風物詩となっている。幕間が長いこともあり、芝生でのピクニックやレストランでのランチ、更にはディナーもゆっくり楽しめるそうだ。
クリックで別ウインドウ開く

さて、これからセブン・シスターズに行く予定だが、午前中ドーバーに出かけた(昨日渋滞で行けなかった)ため、時間が押せ押せになった。現在、時刻は午後7時で雨も降り続いているが、悩みながらも17キロメートル先のセブン・シスターズに向かった。

セブン・シスターズの見学は、多くのガイドブックではカックミア川(Cuckmere)東側のビーチーヘッド(Beachy Head)のバーリング・ギャップ(Birling Gap)からの眺めが紹介されているが、カックミア川の西側のカックミア・ヘヴン(Cuckmere Haven)から眺めたいと考えていた。理由は、観光客が殆ど訪れないため、落ち着いて見られる上、カックミア川河口から大きく迫り上がるチョークの景観がすばらしいこと、ジョー・ライト監督の映画「つぐない(Atonement)(2007年)」で美しく取り上げられたことなどによる。

しかしその場所は、公共交通機関もなく案内表示もないため、行くには困難なようだ。個人で行くには、まず、シーフォード(Seaford)市内から住宅地を抜け、牧草地に伸びる小道を終点まで1キロメートルほど進む。終点には、進入禁止のゲートがあり、そこからは、歩いてゲートを乗り越え800メートルほどのあぜ道を歩いて行く。すると視界が広がるはずだった。。
クリックで別ウインドウ開く
時刻は午後8時になり、日の入りも近い上、再び雨も降って霧も出て良く見えない。昨日からどうも予定通りにいかない。。

シーサイド・リゾートで知られるブライトン(Brighton)(イースト・サセックス州西端)に到着した。まず海岸線のキングスロード(King's Road)を西に3キロメートル行ったベスト・ウエスタン・プリンス・マリーン(Best Western Princes Marine)にチェックインし、再び3キロメートルをUターンしてレストランに向かった。今夜のレストランは、1930年創業のシーフードが有名な「リージェンシー・レストラン(The Regency Restaurant)」である。時刻は午後9時、スムーズに到着したものだ。
クリックで別ウインドウ開く

店内は明るくカジュアルな雰囲気。注文はムール貝(Mouls Appetizer 6.50)シーフード・フライ(Deep Fried Seafood Platter with salad 8.95)そしてシーフード・リゾット(Seafood risotto 8.95)を、飲み物はロゼ・ワイン(Pinot Rose 16.50)とビール(Pint Lager 3.95)を頼んだ。料理は新鮮で美味いし値段も手ごろで満足であった。食後、海岸通りに出てキングスロード(King's Road)を歩くと、まだ道路は濡れていた。
クリックで別ウインドウ開く
明日の天候の回復を願いつつ、ホテルに戻った

**********************************

ブライトンのホテル(ベスト・ウエスタン・プリンス・マリーン)宿泊の翌朝。時刻は午前8時過ぎ。これから西に向け出発の予定だったが、天気は回復したため、約30キロメートル東に戻ることになるが、昨日の敵討ちのため再度セブン・シスターズに向かうことにした。
クリックで別ウインドウ開く

急ぎ出発しなければならないがブライトン中心部を通って行く。ブライトンドーム(Brighton Dome)(劇場)の前を通って公園を周回し、ロイヤル・パビリオン(Royal Pavilion)(ジョージ4世(1762年~1830年)が摂政皇太子時代に海辺の別荘として建てた離宮の前を通り、海岸線を東に向かう。

9時過ぎに再び、セブン・シスターズの見えるカックミア・ヘヴンに到着した。2度目なので慣れたものだ。今朝は天気が良く羊も放牧されており長閑な雰囲気だ。
クリックで別ウインドウ開く

映画「つぐない(Atonement)」(2007年)は、1935年のイングランドが舞台。官僚の娘セシーリア(キーラ・ナイトレイ)と使用人の息子ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)は、身分の壁を越えて愛し合うが、セシーリアの妹ブライオニーの誤解と嘘によって2人は引き裂かれ、戦争で離れ離れになるといったストーリー。カックミア・ヘヴンからのセブン・シスターズの景観は、愛し合う二人の拠り所として使用されている。
クリックで別ウインドウ開く

煙突のあるコテージの向こうに見える景観は、まさに映画のシーンそのままだが、残念ながら(当たり前だが)午前中は逆光になる。。
クリックで別ウインドウ開く

どうも絶景感に納得できないので、結局セブン・シスターズの東側ビーチーヘッドから眺めようと思いカックミア川を越えて東に向かう。カックミア川を渡ってすぐ右側にあるビジター・センターからは海岸まで川沿いに1キロメートルほど歩いて行くことになるのでパスして更に東に向かう。
クリックで別ウインドウ開く

東に3キロメートルほど進みフリストン(Friston)から右折して、南に2キロメートル進んだバーリング・ギャップの大型駐車場に到着した。海岸へは駐車場から徒歩2~3分先の岸壁に設置された鉄階段を下りることになる。その階段上から西側にセブン・シスターズの白いチョークが鮮やかに輝いているのが見えた。
クリックで別ウインドウ開く

少し遠いのでズームアップしてみる。前方のチョーク切れ目の先がカックミア川の河口になり、すぐ左奥に見える建物が先ほどまでいたカックミア・ヘヴンにあったコテージだ。
クリックで別ウインドウ開く

階段を下りて、白が鮮やかな場所まで歩いて行く。白色は泥質の石灰岩の一種で、以前はチョーク(白墨)の原材料に使用されていたそうだ。近年、この白亜の壁は、波が崖の根元を侵食することにより、上部が崩れ、毎年30~40センチメートルづつ後退していると言う。触って見ると、やわらかく崩れやすいのがわかる。
クリックで別ウインドウ開く

セブン・シスターズの見学には苦労したが概ね満足できたので次に向かうことにした。それにしても現在11時。今日は、これから160キロメートル先のソールズベリーを見学し、その後16キロメートル先のストーンヘンジを見学した後、更に40キロメートル先のレイコック村(Lacock Village)に向かう予定だ。ソールズベリー手前のポーツマス(Portsmouth)にも寄ろうと考えていたがほぼ無理であろう。。

さてさて、ようやくウィルトシャーの州都、ソールズベリー(Salisbury)に到着した。時刻は午後2時なので約3時間かかった計算だ。南北に伸びる繁華街のハイ・ストリート(High Street)を南に向かう。
クリックで別ウインドウ開く

正面に見える門はハイ・ストリート・ゲート(hight st.gate)で、午後11時から午前6時までは閉じられるそうだ。
クリックで別ウインドウ開く

そのハイ・ストリート・ゲートを抜けると、左側の建物の奥に大聖堂の尖塔が見える。すぐ先の三叉路を右折した右側にモンペッソンハウス(Mompesson House)がある。この屋敷は、アン女王(Anne Stuart、 1665年~1714年)時代の建物で、大聖堂の司祭長や参次会により1952年まで数々の世代を通して所有されていた。アン・リー監督による1995年英・米合作映画「いつか晴れた日に(Sense and Sensibility)」では、ロンドンにある屋敷の舞台として撮影に使われた。
クリックで別ウインドウ開く

さらさらっと室内を見学する。こちらはダイニングルーム。中央に置かれたテーブルと椅子はヘプルホワイト社製(1770年)、食器はセブレー社製(1750年代)。サイドテーブル上のコーヒーセット一式は、アンゴリーム工場製(1780年代)である。奥のガラス棚には、ダービー社とボウ製の人形が飾られている。奥の飾り戸棚には、18世紀の飲用グラスが並んでいる。グラスのデザインは1700年代初期まで彫刻が施されて厚い造りだったが、1745年に重さに応じた課税制度が導入されたため、その後は薄く軽い飲用グラスが生産されたという。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、接待用に使用された大客間(The Lrge Drawing Room)。中央のシタン材製のソファテーブル上にはヴィクトリア調の銀製ティーセットが置かれている。天井のカットグラスのシャンデリアや、壁の金メッキ彫刻(チャイニーズ・チッペンデール調)の鏡は共に18世紀中頃のもの。飾り戸棚には、19世紀の英国磁器ベッセマー・ライト・コレクションの一部が納められている。マネキンに着せられている服は、映画「いつか晴れた日に」でヒュー・グラントが身に着けていた衣裳である。
クリックで別ウインドウ開く

2階にあるベッドルームには、主演のエマ・トンプソンが身に着けていた衣裳が飾られていた。他にも映画で使用された小物、スチール写真の展示や、ビデオなども流されていた

モンペッソンハウスの正面から南側を眺めるとソールズベリー大聖堂(Salisbury Cathedral)の威容が見える。
クリックで別ウインドウ開く

少し歩くとすぐに大聖堂前に到着した。中央の塔の高さは123メートルありイギリスで最高の高さを誇っている。大聖堂は1220年に建造が始まり1258年に完成したが、短期間で完成したこともあり、イングランド初期ゴシック様式で統一されている。
クリックで別ウインドウ開く

園内の通路は、聖堂の側廊に設けられた北門(North Porch)に向かっているが、扉は閉じられているため側廊に沿って歩く。西側に回り込むと70体を超える多くの聖人像が並ぶファサードになり、そのファサードを過ぎた回廊の外壁にエントランスがある。
※7.5ポンド(推奨寄付額)
クリックで別ウインドウ開く

聖堂内に入り回廊を左に進むと、すぐにファサードの内側の拝廊に到着する。内陣側を眺めてみると、尖頭アーチが整然と連なっており典型的なゴシック様式であることがわかる。
クリックで別ウインドウ開く

拝廊に近い北側郎には、ガラスケースに入った大聖堂建造中の模型が置かれている。模型は、労働者たちが、石を砕いてアーチ状に並べている姿や滑車や荷車で石を運搬する姿など実際の作業風景を表しており、非常にわかりやすい。
クリックで別ウインドウ開く

そして、模型の隣には、1386年から稼働している世界で最も古い現役時計が置かれている。なおこの時計は鐘を打つためだけのため、文字盤はない。
クリックで別ウインドウ開く

身廊を内陣に向かって少し進むと水をなみなみと満たした洗礼盤(Font)がある。この洗礼盤は、大聖堂完成750周年を記念して2008年にカンタベリー大司教によって奉納されたもの。手前から洗礼盤を見ると、滑らかな水面には鏡の様に写りこんで見える。
クリックで別ウインドウ開く

内陣手前の身廊左右に聖歌隊席(Quire)がある。全部で106席あり、最も古い部分は1236年からのものと言う。
クリックで別ウインドウ開く

内陣に向かって聖歌隊席のすぐ左先には、1524年に司教エドマンド・オードリー(Edmund Audley)が造ったオードリー礼拝堂(Audley Chapel)がある。天井には細かい彫刻が施されており、当時の色彩も良く残っている。
クリックで別ウインドウ開く

主祭壇トリニティ・チャペルのステンドグラスは、良心の囚人(Prisoners of Conscience Window)と名付けられた1980年の作品
クリックで別ウインドウ開く

聖堂の南翼廊に向かう手前の身廊と側廊を隔てる柱の間には、ソールズベリー伯ウィリアム・ロンゲペー(ウィリアム・ロングソード)(William Longespee)(1226年没)の墓がある。彼はヘンリー2世の庶子で、リチャード獅子心王やジョン欠地王の異母弟であり、ソールズベリー大聖堂最初の埋葬者となった。
クリックで別ウインドウ開く

そして、南翼廊に入ったすぐ左側には、マーガレット・オブ・スコットランド(Saint Margaret of Scotland)(1045~1093)の礼拝堂がある。彼女の祖父はエドマンド剛勇王(在位:1016年)で、父エドワード・アシリングは王位継承者だったが、ハロルド2世に王位を奪われた。ウィリアム1世によるノルマン・コンクエストの際には、母弟と共に船で逃亡するが遭難し、スコットランド東海岸に打ち上げられ、その後スコットランド王マルカム3世(在位:1058~1093)の王妃となった。
クリックで別ウインドウ開く

その南翼廊に沿って右に回り込むと回廊に出る。回廊の東側にある入口を進むと、
クリックで別ウインドウ開く

広い空間に出る。こちらはチャプター・ハウス(Chapter House)といい聖堂と独立したステンドグラスに覆われた八角形のドームで非常に明るい空間となっている。中央には、フードで覆われた場所があり、中にマグナ・カルタ(Magna Carta)の現存する4つの写本の内の1つが納められている。
クリックで別ウインドウ開く

ハイ・ストリートを北に歩き、すぐ先のバーガーキングでテイクアウトしてソールズベリーを後にした。
クリックで別ウインドウ開く

ソールズベリーからキャッスル・ストリート(A345)を通り北に約3キロメートル行ったウィルトシャー(Wiltshire)州オールド・サラム(Old Sarum)に到着した。A345からは案内に従って西に(左折)200メートルほど路地を上ると駐車場がある。その100メートルほど先の木橋を渡った所の改札から有料になるが、ヘリテージ・オーバーシーズ・ビジター・パスを提示するとフリーで入場できる。
クリックで別ウインドウ開く

ここオールド・サラムには、ソールズベリーの前身で12世紀まで栄えた都市があった。当時は直径約400メートルの二重の堀を持つ円型の城壁都市で、中心には、城壁に囲まれたSearesbyrig(Seresberi)と呼ばれた城が聳えていた。現在の木橋がある堀は、城に入場するための橋があったところだ。城壁跡を歩いて中心部を眺めると、現在では、廃墟となった城郭の基壇部分を望むことができる。
クリックで別ウインドウ開く

所々石材が転がる城壁跡を歩いて外側を眺めると、円型に平地が広がっているのが見える。ここに城壁と外壁に囲まれた町があった。前方に見える遺跡群は、現在のソールズベリー大聖堂の前身となった聖堂があった場所で石材は全て新たな聖堂建築のために再利用されたという。
クリックで別ウインドウ開く

ソールズベリー大聖堂内にあるオールド・サラムの再現模型を見ると、当時の様子がよくわかる。画像は西側から見た様子で、西門を入ったすぐ左奥に教会が建っているのが見える。
クリックで別ウインドウ開く

この地で、1075年に司教座が置かれ、1086年に、ウィリアム1世がイングランドの領主を集めて王への忠誠を誓わせた(ソールズベリーの誓い)。イングランド封建制度の始まりである。こちらは12世紀の城内の賑やかな様子。

その後、町は、手狭になったこともあり、1219年には司教リチャード・プーアが中心となり、現在のソールズベリーのある水の潤沢なエイヴォン川畔(River Avon)地域に大聖堂を建てることを決めた。町はニューサラム(New Sarum)として格子状にレイアウトされ、1220年に大聖堂建設が始まると、町の機能も住民も移って行き、オールド・サラムは徐々に衰退して行った。南を望むと、ニューサラム(現:ソールズベリー)大聖堂の見事な尖塔が聳えている。
クリックで別ウインドウ開く

次に、A345を更に10キロメートル北上し、左折してA303を7キロメートル走行し「ストーンヘンジ(Stonehenge)」に向かった。途中右側に巨石群を望むことができるが、通過して北西に回り込んだ先にあるビジターセンターまで行く必要がある。そこは、2013年イギリス政府が、毎年百万人規模で訪れる観光客への対応として新たに設置したもので、周囲の風景になじむよう木々に見立てた211本の細い鉄柱が屋根を支えたデザインが採用されている。そこからシャトル(バス)に乗り南東へ2.5キロメートルほど進む。
クリックで別ウインドウ開く

バスを降りて200メートル歩くとようやく巨石群に到着する。巨石は、馬蹄形に配置された高さ7メートルほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100メートルの円陣状に並んだ高さ4~5メートルの30個の直立巨石(メンヒル)が配置されている。考古学者はこの直立巨石が前2500年から前2000年で、それを囲む土塁と堀は前3100年頃まで遡ると考えている。しかし、この先史時代の遺跡の使用目的は未だ解決されておらず、現在では儀式などの目的で使われていた説が有力である。
クリックで別ウインドウ開く
見学は、巨石から遠く離れた位置から周遊するため、巨石の配列など距離感が掴みにくい。歴史的建築物の保存管理と観光促進とのバランスはどこも難しい課題である。配置図を見ながら石の位置を確認してみると、No.27とNo.28の後方(北側)から眺めていることが分かる。No.30の後方には、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6メートルの玄武岩がぽつんと立っており、夏至の夜明けには、その影がストーンヘンジ中心を指すそうだ。

こちらは、配置図のNo.16とNo.19の後方(南西)から眺めている。
クリックで別ウインドウ開く

ストーンヘンジから、北東約3.2キロメートルに、ウッドヘンジ(Woodhenge)がある。これらは、ストーンヘンジの地域に位置する新石器時代のクラス2ヘンジ (Class II henge) と木柱サークル(環状木柱列、timber circle)の遺跡である。
クリックで別ウインドウ開く

ウッドヘンジはストーンサークルの構築とほぼ同時代の前2470年から前2000年にかけての年代か、或いは僅かに後であるとされる。柱穴の位置は現在、その場所を表示するため、コンクリートの柱で示されており、間近で見学でき、上ることもできる。。
クリックで別ウインドウ開く
ウッドヘンジの北70メートル先のダーリントン・ウォールズ(Durrington Walls)には「スーパーヘンジ」と呼ばれる約4500年前の土塁があるが、近年、ストーンヘンジ建設に携ったと思われる人々の集落の跡が発見された。さて、そろそろ午後7時である。これから出発すると日暮れまでには今日の最終目的地、レイコック村に到着するだろう。何とか無事予定のスケジュールをこなせたようだ。
(2015.7.20~21)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする