カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インドへの旅(その13)クシナーガル

2013-03-22 | インド(仏跡)(その2)
深夜、2階の我々の部屋の外で大声で騒ぐ声が聞こえてきた。うるさいので耳栓をして寝ようとするが、今度は部屋のドアをドンドンとたたく音がする。他の部屋のドアの開閉音が何度も聞こえ、男性の大きな声が聞こえる。しばらくすると女性や子供の声も聞こえてきた。数十人規模ではないだろうか。となりのベッドでは、ドライバーのヴィージェイが毛布をかぶって寝ているが、動かない。これだけの音にも関わらず寝ているのか。大した男だと思った。

そのうち、静かになったが、しばらくすると部屋の小さな電球の光が突然消え、窓の外に見えていた唯一の光も消え、辺り一面暗闇に包まれた。今度は停電か。。そのうちホテルの外から数人の声が聞こえ、グオーングオーンと何やら発電機らしき機械を回転させる音が聞こえてきた。しかし、そのうち寝入ってしまう。

時計を見ると7時になっていた。部屋のドアを開けると辺り一面に洗濯物が干してある。ヴィージェイがホテルのスタッフに事情を確認したところ、昨夜、スリランカからの巡礼者たちが、宿泊する場所がなく、このホテルに押し寄せたのだと言う。もし部屋の鍵を開けていたら、なだれ込まれていたのだろうか。。危ないところであった。

昨夜は辺り一面暗闇に包まれて外観がよく見えなかったが、新しいホテルであることがわかった。外に出て、駐車場からホテルを眺めてみる。
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リンゴやバナナなどの果物を食べチェックアウトして車で大涅槃寺に向かった。ホテル前から細い道を少し走ると正面に広い通りになりすぐ大涅槃寺が見えた。ホテルはメイン道路から西側に入った所だったのである。入口で車を降り1人で大涅槃寺に向かう。
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ここクシーナガルは、古代インド十六大国の一つ、マッラ国(末羅国)の西の中心地であった。40年以上に渡って説法の旅を続けてきた仏陀は、この地で入滅された。仏教四大聖地の一つである。既に8時にもかかわらず、辺りは朝もやでかすんでその奥にストゥーパが見える。
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しばらく歩道に沿って歩くが、前方で左右に分かれている。左側に進み北方面から回り込む。すると、ストゥーパの前にもう1つ建物があるのが見えた。「涅槃堂」である。現在の涅槃堂は、1876年に再建され、1956年にインド政府により改修されたものである。
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周りには、祠堂や僧院の遺跡が広がっている。5世紀から12世紀までのものである。歩道は、さらに左右に分かれている。右に向かい、涅槃堂の入口に向かう。しばらく歩くと、涅槃堂の正面に着いた。
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クシーナガルに着いた仏陀は、アーナンダに向かって「この一対のサーラ樹の間に、頭が北になるようにして床を用意してくれ。私は疲れたので、横になって休みたい。」と言われた。

アーナンダは、言われたとおり床を用意すると、仏陀は、右脇を下にして足を重ね、獅子が横臥するような姿勢で横になられた。その時、沙羅双樹が、時ならぬのに花が咲き満開となり、それらの花は、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ散り注いだ。天の楽器は、修行完成者を供養するために、虚空に奏でられた。
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涅槃堂に向かって進み、靴を脱いで堂内に入る。
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堂内には、6メートルはあるであろう巨大な涅槃像が祀られている。涅槃像が作られた時期は、はっきりしないが、5世紀のグプタ朝時代のものと推定されている。周りには、僧侶や各国からの巡礼者で一杯である。この日は韓国からの巡礼者のグループが涅槃像を取り囲んでいた。
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涅槃像の台座には涅槃を悲しむ信者の姿が彫られている。アーナンダは、扉のかんぬきにとりすがり、声をしのんで泣き崩れたと言われている。
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仏陀は、「アーナンダよ。汝は私の入滅を嘆いたり悲しんだりしてはならない。どれほど愛しい、心に適った者にも、やがては異なった状態、別離の状態が訪れるのである。それを逃れることがどうしてできようか。アーナンダよ。生まれ、生じ、作られた壊れゆくもの、その壊れゆくものに対して、「壊れることなかれ」とおしとどめようとしても、それは所詮道理に合わないことである。」と言われた。
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仏陀は周りの比丘たちに「苦しみと、その原因と、原因をなくすことと、そのための修行という四つの真理について疑問があったら、今すぐ質問しなさい。疑問を残して答えを出さないのはいけない。尊師を目の当たりにしてお尋ねすることができなかったと後悔することがないようにせよ。」と、三度問いかけを繰り返えされたが、誰一人質問をしなかった。
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そして最後に仏陀は「さあ修行僧たちよ。お前たちに告げよう。もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。」と言われた。
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足元には、お花やお賽銭が供えられていた。
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人をかき分け、堂内から退出すると、入口には、次の信者たちが順番を待っている。
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涅槃堂の周りにも、僧侶や信者たちが、取り囲んで経を唱えている。
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反対側にも、多くの信者がいた。
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涅槃堂の南側から下を覗き込むと、一面に遺跡が広がっている。
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涅槃堂から、堂内に向かう通路を眺めると、信者たちの列が伸びている。
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公園内を散策してみる。東側からストゥーパを眺める。ここにもストゥーパの基壇らしき遺構がある。
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北東方面から、ストゥーパと涅槃堂を眺める。あちこちに遺構がある。涅槃堂の人の多さに比べてこのあたりは人がいない。静寂に満ちている。時計を見ると8時50分であった。
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次にラマバール・ストゥーパに向かう。大涅槃寺を出て、南に向かうとすぐ左に道が伸びている。道なりに東方向へ1キロメートルほど進む。
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左手に入口が見えてきた。
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ラマバール・ストゥーパである。この地で仏陀は荼毘に付されたのである。
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ストゥーパの周りには、僧侶と信者が座っていた。
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信者たちは、僧侶を先頭に右繞を始めた。
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クシナーガルに住んでいたマッラ族は、従僕たちに「クシナーガルのうちにある香と花輪と楽器をすべて集めよ。」と命じた。彼らは6日間にわたり仏陀の遺体を敬い、重んじ供養した。そして7日目に、都市の南において、「われわれは、尊師の遺体を火葬に付そう。」と言い、マッラ族の4人の首長は、薪に火を付けようとしたが、何故か火を付けることができなかった。
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そのころ、弟子のマハー・カーシャパ(大迦葉)は、500人の修行僧とともにパーヴァー村からクシナーガルに向かって進んでいた。クシナーガルに到着したマハー・カーシャパは、仏陀の火葬の前の薪のところに赴き、仏陀の足に頭を付けて礼拝した。500人の修行僧も同様に礼拝が終わると、薪はおのずから燃え上がったという。
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瞑想している若い僧侶が見える。
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ストゥーパの敷地内から外に出て北方面に足を延ばすと、ヒンドゥーの祠や、
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こちらには、地元のヒンドゥー教のお墓がある。
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その向こうには仏陀が最後に沐浴をされた「ヒラニヤヴァティー川」が流れている。
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大涅槃寺方面に戻る。前方で道が右方向に向かっている。このまま道なりに進めば、200メートルほどで右手に大涅槃寺が現れる。カーブの手前左手に何やら遺構らしきものが見える。マタ・クアール寺院である。仏陀最後の説法地跡とされる。
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入口を進むと左手が遺構である。
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右手の祠に人が集まっている。順番をまって格子戸から覗くと、中には10~11世紀頃に地元の領主が寄進した黄金仏が見える。すばらしい像である。
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祠の両側面にも小さな格子戸が見える。左側の格子戸から覗いてみるとここからも黄金仏がはっきりと見える。この位置から見た像もすばらしい。
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しばらく眺めて満足した、車に乗り込み北方面に進む。巨大なゲートが見える。クシナーガラのゲートである。通り越すと左右に28号線が通っている。28号線側に車を停めてクシナーガル方面を眺める。
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ゲートの上部に仏陀の像が見える。
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左に目を移すと、黄金の仏陀坐像があった。さて、そろそろ出発である。滞在時間が短かったわりに充実感が広がっていた。次は、仏陀の生まれ故郷ルンビニーに向かう。ルンビニーはネパールに位置するため国境越えになる。
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(2012.11.24)
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インドへの旅(その12)ケッサリア

2013-03-22 | インド(仏跡)(その2)
12時半、ヴァイシャーリーを出発しガンダク川に沿って北上する。ガンダク川は、ヒマラヤ山脈に源を発し、ネパール中部からインドのビハール州北西部を流れパトナー対岸でガンジス川に合流する支流の一つである。

これから、ヴァイシャーリーから約50キロメートル北に位置するケッサリアに向かう。この地は、かつて仏陀との別れを悲しんだヴァイシャーリーのリッチャヴィ族が、最後に仏陀を見送った場所と言われ、また、シッダールタ(仏陀)が故郷のカピラヴァストゥから出家した際、最初に剃髪した場所とも言われている。なお、ケッサリアとは、仏陀が経を説いた相手(商人ケッサリ)の名前にちなんでいる。


田舎道を1時間ほど北上すると、小さな町(シャヘブガンジー)が現れ交通量が多くなった。
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左折し北西方面に向かう。
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10分程走ると、また田舎道になる。
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前方の交差点を右折すると、すぐ右手に巨大なストゥーパが見えた。どうやら到着のようだ。
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周りに駐車場らしき所は見当たらない。車を入口近くの道路沿いに停めて歩く。入場料は無料である。
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ケッサリアのストゥーパは、2001年に発掘され現在も発掘と調査が続けられている。高さが45メートル(現在は33メートル)直径120メートル、6層からなっている。インドネシアにある世界遺産ボロブドゥール遺跡は、高さが42メートル(現在は破損して33.5メートル)なので、その巨大さがわかる。入口を過ぎると、ケッサリア・ストゥーパへのあぜ道が伸びている。辺りは見渡す限り畑が広がっており長閑な風景である。
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発掘作業は、北側から始められたが、南半分はまだ手付かずで発掘されておらず土のままで木や草が茂って小山に見える。
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北側に回ってみると、足元に発掘されたレンガが積まれている。レンガは意外な程小さく薄いのが分かる。
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ストゥーパは巨大だ。全体を見ようと少し離れるが、この時間は逆光になり見づらいのが残念である。
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再びストゥーパのそばに戻ると、手前にも遺構らしきレンガが積み重なっている。僧院の跡なのだろうか。ストゥーパを見上げると上段に龕(がん)が並んでいるのが分かる。
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龕には、壊れた仏陀像が並んでいるが、これはイスラムなどによって破壊されたためである。
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ストゥーパに沿って西に向け歩いてみる。基壇部分の下部のレンガは白く塗られた跡がある。
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左に見えるオレンジ色の塔はヒンドゥー教寺院である。
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ストゥーパと寺院との間には、巨大な菩提樹が聳えている。
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菩提樹の横には、レンガがなだらかに階段上に積まれておりストゥーパに上がることができる。
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こちらの龕の中の仏陀像は左半身が残っている。近づいてみると、ほぼ等身大サイズのようだ。右手が大地に触れ悪魔を降伏、退散させた降魔印を結んでいる。
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こちらは大きく破壊されており足だけが残っている。こちらも残された右手の位置から同じ印相のようだ。
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こちらには、像はない。。
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30分ほど見学し、次の地クシナーガルに向かう。北東方面に車を進めると右手道路沿いに菩提樹があり、黄金の仏陀像が祀られていた。
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すぐに左折し、今度は北西方面に進む。しばらくすると南西方面に伸びるハイウェイらしき道路が見えてきた。この道路はゴバルガンジ、カシアー(クシナーガル)、ゴーラクプル、ファイザーバードを通ってウッタルプラデーシュ州都のラクナウまで伸びる大動脈の28号線である。すぐに、橋が見えてきた。
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ガンダク川を渡った。時刻は現在15時、順調に走行している。クシナーガルまでは100キロメートルなので、この調子で行けばすぐ到着するはずだ。。
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前のトラックは大きく荷物が傾いたまま走行しているが危なくないのだろうか。
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やはり、二車線道路はいつまでも続かず、あちらこちらで工事が発生してすぐに対面道路になる。インドの田舎の道路は、周りの砂上と変わらない高さのアスファルト舗装をしているため、路肩にタイヤがはみ出すとすぐに砂埃が舞う。だから、特に田舎の道路沿いにある屋台の料理に抵抗を感じているのである。
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16時半を過ぎた。日が陰ってきた。
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道路そばにバザールが集まっていたので、車を停めて少し休憩する。いろんな種類の豆らしきものが売っており、その中で殻つきのヒヨコ豆を買う。実はこれがビールのつまみに最高なのである。
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17時を過ぎ日が暮れた。道路沿いに大きなゲートが見えて奥に明かりが見える。ここはファジルナガル村と言い、仏陀の時代、パーヴァー村と呼ばれていた。クシナーガルまではあと17キロメートルである。
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パーヴァー村は、病み上がりの身体をおしてヴァイシャーリーを出発した仏陀が次にたどり着いた村である。仏陀は、この地で鍛冶工の子純陀(チュンダ)から食事の接待を受け重い病気に襲われた。チュンダは、スーカラ・マッダヴァという料理を差し出したと言われているが、現在ではどんな料理かよくわからない。スーカラとは「野豚」、マッダヴァとは「柔らかい」と訳されるが、病気の仏陀に対して肉料理を差し出すことは疑問であることから、豚が好む種のキノコを使った料理というのが有力と言われている。

20分ほどで、クシナーガルに着いたが、もちろん既に辺りは真っ暗である。まずはワインショップに向かい、そこでストロングビールとハーフサイズのウイスキーを一本づつ買う。しめて210ルピーであった。ちなみに、インドでは酒屋をワインショップというが、ワインを置いているお店はほとんどない。
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その後、今夜のホテルを探すが、最初に向かったホテルは満室だった。このため次のホテルに向かう。どうやらこのホテルには空きがありチェックインをする。部屋は殺風景だが、綺麗に清掃されていた。
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早々に部屋で祝杯をあげる。
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だらだら飲んでいると、20時近くになったので食事に向かうことにする。どうも毎晩同じ行動パターンになりつつある。辺は街灯が少ないため、真っ暗だが、前方に屋台が並んでいるのが見えた。
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周りにレストランはなさそうなので、結局、また道路沿いにある屋台である。。あまりいろいろ考えないことにし、適当にお店を選んで入り注文する。チキンカレー、ボイルエッグ、チャパティ、ライスを食べホテルに戻った。
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(2012.11.23)
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インドへの旅(その11)ヴァイシャーリー

2013-03-21 | インド(仏跡)(その2)
ヴァイシャーリーのホテルで朝を迎え9時に出発した。ここヴァイシャーリーは、ビハール州の首都パトナーからは約60キロメートル北上したガンダク川東岸のバサル村に位置している。
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ゲートが現れた。
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途中の屋台で朝食にする。カウンターに一斗缶が並べられ、その上に何やら油で揚げたパンらしきものが山積みされているが、お腹を壊すと怖いのでチャイだけを頼む。
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最初に、仏舎利がおさめられていたと言う「レリック・ストゥーパ」に向かう。パトナー考古学博物館で見た仏舎利容器は、ここヴァイシャーリーにあったストゥーパから発掘された。
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クシーナガルで亡くなった仏陀の遺骨は、大般涅槃経によると8つに分配され、それぞれの地でストゥーパ(舎利塔)が建てられたと記述されている。これが「八分起塔」といわれているもので、そのうちの1つがリッチャヴィ族に分配されたという。リッチャヴィ族は、マガダ国と勢力を競いながら商業都市として繁栄していたヴァッジ国(ヴリジ国)に属していた有力部族で、ヴァッジ国の首都がこのヴァイシャーリーであった。

街道から西に1キロメートルほど進むと目の前に広い池「アビシェーカ・プシュカルニー池」が現れた。東西304メートル、南北107メートルの広さがあり、ヴァッジ国王やリッチャヴィ族の沐浴場となっていたと言う。池にはガートの様に所々に階段がある。この池の対岸に停まっているバスのあたり(北側)に考古博物館があり、裏手に「レリック・ストゥーパ」がある。
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再び、車に乗り込み、池を東側から北方面に回り込むと、「レリック・ストゥーパ」への入口があった。
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周りには土産屋が並んでいる。
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中は公園になっており、目の前に、コンクリートの屋根で保護された建造物が見える。周りにはマンゴーの木が茂っている。
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覗き込むとストゥーパの基部が残されており中央部分に穴が開いている。この部分に仏舎利容器がおさめられていたのだろう。
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最後の旅、マガダ国のラージャグリハを出発した仏陀は、ナーランダー、パータリ村、ゴータマの渡しを越えて、コーティ村、ナーディカ村を過ぎ、ここ商業都市ヴァイシャーリーに到着し、多くの信者たちに歓迎された。当時、この地にアンバパーリーと言う遊女がいたが、彼女は美貌と容姿・魅力に恵まれ、踊りや歌、音楽にも巧みであり、他の町にまで名声が伝わっていた。仏陀の法話に感激したアンバパーリーは自分のマンゴー園に招待するとともに、食事の供養を申し出たという。
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リッチャヴィ族の若い貴族たちもまた仏陀への食事の供養を申し出るつもりだったが、既に、アンバパーリーが仏陀との食事の約束を取り付けたことを知り、彼女に十万金を出すから明日の供養の権利は自分達に譲るように言うがあっさり断られてしまう。貴族たちは、そのまま仏陀の処に向かい明日の食事は是非自分たちのところでと申し出るものの、仏陀はアンバパーリーとの先約があり約束は守らねばならないと、穏やかに断わられたという。
隣の博物館に行ってみるが、残念ながら本日(金曜日)は、定休日であった。
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池の対岸(南方面)に白いストゥーパが見える。
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ラージギルのラトナギリ山頂のストゥーパに似ていると思ったらやはり日本山妙法寺であった。
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次はヴァイシャーリー王宮殿跡の見学に向かう。もと来た道を東方面に行き街道に出て、街道を右折し南方向に向かう。1キロメートルほど走り、更に右折し道なりに進むと、前方に起伏のある丘が広がっていた。
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前方にフェンスで囲まれた遺跡が見え、東側に入口がある。
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現在この遺跡は、「ヴィサラ王の要塞」と呼ばれており、この遺跡がかつての宮殿跡であるという。入口正面から西方面の遺跡を眺める。
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北側から南方面の遺跡を眺めると円状の遺跡が見える。
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遺跡から離れ、周りの丘を歩いてみた。南方面に歩いて北方面を眺めてみるが、このあたりには起伏はないようだ。
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東側には池がある。丘は広範囲に牧場のように広がっている。まだ発掘されていない遺跡が相当数、丘に埋もれているのではないだろうか。この丘一体が、当時のヴァッジ国の中心地だったのであろう。今となっては「兵どもが夢の跡」である。。
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時間は11時になっていた。再び、街道に戻り、街道沿いに北西方面に2キロメートル、コルファ村に向かう。街道の左側が入り口のようだ。左折し南方面に200メートルほど進むと土産屋が数件並んでいた。車を停めて歩いて行くと入口が見え、左手にチケットショップが現れた。100ルビーである。
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遺跡公園になっている。中央に大きなストゥーパが建ち、その後ろにアショーカ王柱が見える。公園内は、巡礼者、僧侶、観光客で一杯だ。最初にストゥーパを左側から回り込んでみると、ストゥーパの後ろにも僧院跡や多くの遺跡が見える。このストゥーパは、紀元前3世紀マウリア王朝時代に建立されたものであるという。
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アショーカ王柱の上の獅子像が完全な形で残っているのは大変貴重である。しかし、高すぎて獅子の表情まではよく見えない。
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ストゥーパの西側には僧院跡が広がっている。アンバパーリーのマンゴー園に滞在した仏陀は、その後ベールヴァ村に向かったが、途中で雨季を迎えたため、雨安吾を過ごすことにした。ところが、重い病にかかり倒れたという。死期が近づいていることを知った仏陀は、修行僧たちを大林重閣精舎(マハーヴァナ)に集めて、3か月後に涅槃に入ることを告げたのである。大林重閣精舎があった場所がこのコルファの僧院跡であると言われている。
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アショーカ王柱の南側には、仏陀が修行僧と逗留していた際、猿が仏陀のために掘ったと伝えられる池がある。
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池からさらに南に歩いてみる。ここにも僧院の跡がある。広範囲に遺跡が広がっているのがわかる。
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30分ほど過ぎたころ、ドライバーのヴィージェイが私に近づいてきて次の地に向かおうと言った。しかし、ここヴァイシャーリーでは、もう一か所行きたい場所があった。仏陀が、町はずれでヴァイシャーリーを振り返り眺めた場所である。そこは現在、バカラ村と呼ばれており2つのストゥーパが残されている。
仏陀は、ガンダク川を渡りクシーナガルに向かったことから、コルファから北西方面であることは間違いない。車を北西方面に進めると、途中畑への路地がいくつも現れ、更に1キロメートルほど進むと突き当たりとなり左右に道が伸びている。左折した所にいた老人に聞くが要領を得ない。次に5、6人たむろしていた地元民に聞くと、中心人物らしい男が、子ども2人を呼び出し、我々の車の後部座席に乗せた。子供の指示で、車を300メートルほど進めると、左手の路地を指さしそこに入れと言っている。
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農家らしき家が並んでいる。ゆっくり進む。
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レンガを積み上げているだけの家が多い。
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農家を抜けると、あたり一面畑となり、農道が、南東方面に延びている。正面がコルファ村であり、やや右手が宮殿跡の方向である。位置的にはこのあたりで正しいようだ。
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元来た道を振り返ると、右手にある畑の後方に木々が覆い茂っているだけである。ストゥーパらしきものは見えないが、子供たちは、木々を指さし畑のあぜ道を歩いて行く。
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近づくと丘になっている。
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上ってみる。
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この丘自体がストゥーパなのだ。そうだ、探していた場所はここであったに違いない。
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雨季の時期が過ぎ、仏陀は、病み上がりの身体をおして、パーヴァー村に歩みを進めた。そして、この場所で、象が眺めるように(身をひるがえして)ヴァイシャーリーの方向を眺めて、若き人アーナンダに言ったという。「アーナンダよ。これは修行完成者がヴァイシャーリーを見る最後の眺めとなるであろう。さあ、アーナンダよ。パンダ村に行こう。」と。そして若き人アーナンダは「かしこまりました。」と答えたという
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「アーナンダよ。ヴァイシャーリーは楽しい。。。この世界は美しく、人のいのちは甘美なものだ。。。」
(2012.11.23)
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インドへの旅(その10)パトナ―

2013-03-20 | インド(仏跡)(その2)
10時半に、ラージギルを出発、これからビハール州の州都パトナーに向かう。距離は、約100キロメートル。まずは昨日行ったナーランダーを越え北に向けてビハールシャリフまでの一本道を走行する。辺り一面に田園が続いている。
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20分ほど走ると、民家が増え交通量も多くなってきた。ビハールシャリフが近くなり、前方にパトナー方面左折の標識が見える。前方の車は、重量オーバーだ。
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標識に従い左折し北西方面に向かう。
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更に50キロメートルほど走行すると、右手(北側)にガンジス川が見えてきた。ここまで順調に走行していたが交通量が多くなり渋滞し始めた。時計を見ると間もなく12時半、パトナーはそろそろだろう。待ちきれずに反対車線に入り追い越そうとするドライバーが増大し始めたので我々も追随する。
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道路は一応舗装はされているがメンテナンスがされていないので、あちこち穴だらけで路面に白線はない。むりな追抜き走行を続けてもすぐ対向車が現れその都度走行車線に戻るため、ほとんど進んでいる感じがしない。1時間ほどすると、道が左右に分かれたため、左方向の広い道に進むと中央分離帯がある広いバイパス道路になった。
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時刻は13時半。ようやくパトナーに到着である。パトナーでは、クムラーハールとパトナー博物館の見学を予定している。閉館時間は、クムラーハールが17時、博物館が16時半である。パトナー博物館では時間をたっぷり取りたいので、どうやら昼食時間はなさそうだ。

まずは、市内東側に位置するクムラーハールから見学することにする。快適なバイパスを少し走り、すぐ右折して北方面に向い、さらに左折して市内道路に入る。ドライバーのヴィージェイが窓越しに地元民に場所を尋ねると、男はいきなり後部座席に乗り込んできて、まっすぐ行けという。300メートルほど進むと左手に公園が見えてきた。到着したようだ。
急ぎ入口でチケットを購入(100ルビー)し園内に入る。後ろを振り向くと後部座席に乗り込んだ男もチケットを購入しているではないか。我々はタクシー代わりに使われたようだ。
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ラージャグリハを首都としていたマガダ国は、アジャータシャトルの次王ウダーイン王時にパータリプトラ(現在のパトナー)へ遷都する。その後、マガダ国は周辺の国々を次々と征服・従属させ、紀元前4世紀のナンダ朝を経てマウリヤ朝アショーカ王時代にはインド亜大陸のほぼ全域を支配することになる。このクムラーハールから、古都パータリプトラの遺跡が数多く発掘された。最も大きな発見は宮殿列柱の跡だが、現在は折れた1本の柱だけが園内に展示されている。
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列柱はアショーカ王柱のようにも見える。
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列柱発掘跡に行ってみると、辺り一面雑草が多い茂っているだけであった。ここは雨季になると沼のようになるという。
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更に園内中心には、池があった。
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こちらには、僧院の跡らしい遺跡が残されている。
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小さな展示室があったので入って見るが、係員も他に観光客もいない。
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展示室の壁面には発掘時の様子が、写真で展示されている。
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発掘時の列柱が模型で表されている。
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30分程見学し、その後パトナー市内を抜け、西に位置するパトナー博物館に向かう。やはり中心地は交通量が多い。
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30分程走ると博物館に着いた。14時50分である。お腹が減ったので、入館する前にバナナ2本を口にほおばる。チケットを購入しようと入館料(250ルビー)を差し出すと、係員はなにやら仏陀、仏陀と言っている。そうだ!この博物館には、ヴァイシャーリーの仏塔より出土した舎利容器が展示されており、希望する場合は、入館料とは別に追加料金が必要なのである。是非とも見たいので計600ルビーを窓口で払い、博物館の入口に向かう。
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館内に入ると正面に広場があり、その先に2階に向かう階段がある。広場の左には1階の展示室がある。
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正面にはパトナー博物館の代表的作品、ヤクシー像が展示されている。ヤクシーとは、樹下に立つ豊かな肉身の美人像として表現される。一方で人を畏怖させる異形であり、人の精気を奪い、または人を食うなど様々な性格を兼ね備えた鬼類でもある。日本では「夜叉(やしゃ)」と呼ばれている。
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ヤクシー像は、紀元前3世紀のマウリヤ王朝時代のものだが古さをまったく感じないすばらしい像である。しばらく見入っていると、後ろから、2人の男に声をかけられる。振り向くと博物館の係員で、仏陀、仏陀、ついてこい、と言っているようだ。階段を上っていくと、正面に施錠された扉がある。なんとも厳重である。
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さらに警備員も近づいてきた。その警備員は係員の指示に従いドアを開錠し、中に入るとすぐにドアを閉めた。正面のガラスの向こうに、小さなストゥーパが見える。
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ストゥーパの中には、光に照らされた舎利容器が見える。
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ストゥーパ横の壁には、舎利容器から取り出された遺骨写真が展示されている。これが、仏陀自身であったことを想像すると神々しく見えてくる。しばらく見つめていたが、背後の係員の視線を感じると落ち着かない。舎利容器に向かい、合掌・礼拝した後、この場を退出した。退出すると警備員はすぐに施錠をした。
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再び1階に戻り見学を続ける。こちらはジャイナ教徒の像、紀元前3世紀のものである。
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ライオンの頭。こちらも紀元前3世紀のもの。
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ガーゴイルである。おもしろいデザインである。口を開けている動物はワニだろうか。口が象の鼻のようである。ガーゴイルとは雨どいのことで、インドより、どちらかというと中世以降の教会の屋根に悪魔や怪物の姿として設置されていることで有名である。この像は12世紀のものである。
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柱に掘られた女性像である。LADY WITH PARROTと表示があった。女性像の足元に上を向いたオウムらしい鳥がいる。5世紀のものである。
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6世紀のビシュヌ像。ヒンドゥー教では、三大神の考え方があり、ブラフマーを宇宙の創造神、ヴィシュヌを宇宙の維持神、シヴァを宇宙の破壊神としている。そしてこの三大神が一体であるという思想がある。
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ガネーシャ像である。ガネーシャ神は、シヴァ神とパールヴァティー女神との間の子供である。
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PILLAR CAPITALと表示がある。クムラーハールでみた列柱の頭部にあたる。紀元前1世紀のものである。デザインにはギリシャ彫刻の影響が見られる。
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仏陀坐像。右手を地に付けているので、降魔坐像である。10世紀、ガヤー地方の像である。
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紀元1世紀の仏陀像である。アフガニスタンの表示がなされていた。
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他にもアフガニスタンから出土がされた仏陀像が数体展示されていた。
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ブッダ・ガヤーで発掘されたメダリオンが展示されていた。欄楯(らんじゅん)を飾っていたのだろう。紀元前2世紀のものである。
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15時40分である。まだ1階しか見ていない。閉館まで50分しかない。あせりながら、2階に上がると、ブロンズ像が展示ケース内に所狭しに並べられていた。
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正直、この展示の仕方は好きではない。まず、ガラスに光が反射しよく見えない。その上、無造作に並べられると、一体一体に集中できない。頑張って見ようとするが、結局流し見してしまう。。
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こちらの立像はすばらしいが表示が見当たらない。
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細密画も多く展示されている。
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コテや金槌が展示されている。
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ん?これは、インドネシア西ジャワのワヤン・ゴレ人形ではないか。
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衣服が展示されている。
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テラコッタの人形がある。
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2階から中庭が見える。あちらこちらに石像が置かれている。
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中庭に出てみる。さて、パトナーでの見学はこの博物館で終了し、この後、八大聖地のヴァイシャーリーに向かう予定だが、現在時刻は16時、日暮れまではまだ時間があるので「ゴータマの渡し」に寄ることにしたい。
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ゴータマの渡しとは、ラージギルから最後の旅に出た仏陀が、ここパトナー(当時のパータリ村)で在俗信者たちから盛大な歓迎を受けた後、次の地ヴァイシャーリーに向かう際に渡ったガンジス川の場所である。しかし具体的な場所が何処であったは現在も特定されていない。博物館からガンジス川へは北へ1キロメートルほどの距離だが、むしろ古代の中心地があったクムラーハール付近からの渡河だったのではないだろうか。

次に向かうヴァイシャーリーへは、クムラーハールから1キロ東のマハトマガンジー橋を渡るため、そこからガンジス川を見学するのが効率的かもしれない。そう考え、鉄道の上を走る高架道路を通って南に行き、市内を避け東西バイパスを東に行き、北上し渡河するルートで向かうことにした。
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さてバイパスを東に向かうと前方に通行止めのゲートが見えてきた。車は西行きの2車線を対面道路として走行すべく誘導されている。当然ながら、車はほとんど動いていない。ところが、何台かの車は、通行止めのゲートを突破し東に向かっているため我々も同様に突破する。反対車線を見ると車でぎっしりだ。
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ところが、今度は走行していた道そのものがなくなった。結局反対車線に合流せざるを得ない。車はまったく動かなくなり、ついに日が暮れた。大失敗である。こんなことなら、博物館の先でガンジス川を見るか、バイパスを通らずに、市内を通ればよかったなどと考えているうちに18時半になった。そして、たかだか6キロほどのバイパスを進むのに2時間もかかってしまった。。
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左にマハトマガンジー橋に向かう道路が見えてきた。ようやく前の車がスピードを上げ始めたが、辺りは真っ暗になり左右の街灯も無くなった。どうやらマハトマガンジー橋の上を走行しているようだ。なお、この橋は全長約7キロメートル、アジア最長の長さを誇る橋である。
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ガンジス川を渡り切ったようだ。左手にハジブル駅が見えた。ヴァイシャーリーへはここから40キロメートルほど北上した場所である。時間は19時半を過ぎていた。なんせ昼はバナナ2本だけだったので、やたらお腹がすいてきた。ようやく順調に走行し1時間過ぎた。相変わらず辺りは真っ暗である。
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さらに走行する。21時前、ようやく道路沿い(左側)にあるホテルに到着した。ドライバーのヴィージェイは、ホテルのおやじと話をするが、何やらもめている様子である。どうやら部屋があいていないようだ。
しかし、結果的にOKをとったのか、部屋に案内された。ドアを開けるとベッドが2つあり洗濯物が干してある。どうやら、予備の部屋らしい。その上、掃除されておらず床は埃だらけで汚い。するとホテルのおやじが、どこからか寝具を運んできた。時間も時間である。どうせ寝るだけなので覚悟を決める。洗面所を除くと、洗面台、シャワー、トイレがあるが、暗い、汚い、怖いである。。。
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ドライバーのヴィージェイは、今度は、別の青年と何やら話をしている。5分ほど車で走ったところにレストランがあるとのことで早速出発した。何故か青年も車の後部座席に乗り込み3人で食事に行くことになった。この辺りでは、カレーしかないだろうと思い行ってみると、真っ暗な中にポツンと一件のレストランらしきお店が見える。選択の余地はない。
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やはりカレーである。他に栄養価の高いものはないのかと思い、ボイルエッグがないか聞くと、油で揚げた卵が出てきた。味はともかくビールやなんとウイスキーがあるので、これには安心した。青年はヴァイシャーリーのガイドをすると誘いをかけてきたが丁重にお断りした。ホテルに帰り、飲んだ勢いで水をかぶり22時過ぎに寝た。
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(2012.11.22)
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