カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

シチリア(その1)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
イタリア・シチリア島のパレルモ国際空港(ファルコーネ ボルセリーノ空港)から、ティレニア海に面した高速E90号線を、東に100キロメートルほど行ったパレルモ県チェファル(Cefalu)にやってきた。ここは、古代ギリシャ人の植民都市に起源を持つ港湾都市で、シチリアを代表するリゾート地の1つでもある。背後には、ロッカ ディ チェファル(チェファル要塞)と呼ばれる標高268メートルの岩山が聳えている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

旧市街には、左右に2つの鐘楼を持つ「チェファル大聖堂」が建ち、その前庭となるドゥオーモ広場には、南国の雰囲気を感じさせるヤシの木が植えられている。こちらの聖堂は、1131年、シチリア王ルッジェーロ2世(1095~1154)により建設(1267年に正式に奉献)されたもので、彼はイスラム勢力下にあったシチリアを征服したノルマン騎士のロベルト・イル・グイスカルド(1015~1085)の弟ルッジェーロ1世(1031~1101)の息子で、シチリア伯を経た後、1130年に初代のシチリア王となっている。


ルッジェーロ2世がチェファルに聖堂を建設するきっかけとなったのは、遠征地アマルフィからの帰還途中、嵐に遭遇した際、助かったら漂着地に神の聖堂を献じると誓ったことによる。彼は九死に一生を得たが、その後の彼の治世は、強大化を快く思わない諸侯や神聖ローマ皇帝との抗争、更には教皇と対立教皇からの指示による分裂抗争などに明け暮れる日々だった。

聖堂は、アラブ様式とビザンティン様式に加え、ノルマン建築の影響を受けたアラブ・ノルマン様式で建てられている。正面には、4つの柱と3つのクロス ヴォールトで支えられた15世紀制作の柱廊玄関(ポルチコ)があり、ファサード上部には、アラブ風のデザインによる繊細なアーチ装飾等が施されている。そして鐘楼には、二重及び単一のランセット窓が設けられているが、上部の尖塔の胸壁やピラミッド部分などは、左右で異なった形状をしており興味深い。
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時刻は午後3時半を過ぎたところ。この時間、聖堂の外壁には眩しい西日が当たり、積み重ねられた一つ一つの石材や、繊細に施された小さな装飾まではっきりと確認することができる。

今日はパレルモ国際空港を午後1時半に出発し、チェファルには、午後3時前に到着し、砂浜のビーチ近くの駐車場から旧市街を散策しながらここまでやってきた。12月は午後5時前には日の入りを迎えることから、聖堂内の見学は後ほどとし、先に、聖堂の後方に聳えるチェファル要塞の展望台へ向かうことにする。
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聖堂に向かって右側に延びる通りを進んだ先の住宅の裏から、折り返しが続く険しい石階段を上っていくと、岩肌には雑草やサボテンが茂っている。振り返ると真っ青な空と眩い光に照らされたティレニア海が見えてくる。


登山開始後、10数分で、左側への”砦の展望台”と、右側への”山頂”への三叉路となる。山頂までは時間がないので悩むことなく展望台方面に向かった。三叉路を過ぎた後は、平坦な道となり、周囲に城塞の跡が現れ始めた。


城塞跡は、13~15世紀に建てられたものを中心に広範囲に広がっている。そんな中、古いものでは紀元前9世紀頃のディアナ神殿(Tempio di Dian)(おそらく異教の神々の崇拝を目的としていた)の遺構も残されている。
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中世の城塞跡を通り過ぎると、左側に視界が開け、高さ数メートルの金属製の”十字架のある砦の展望台”が現れる(夜はライトアップされる)。展望台はやや前方に張り出した石畳の小広場で、その先には美しいティレニア海が広がっている。
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十字架のある砦の展望台の左右には胸壁が続いており、内側を歩くことができる。その胸壁沿いを北に100メートルほど歩くと、もう一つの”展望エリア”に到着する。こちらは十字架のオブジェ等は設置されていないが、展望台と同じ小広場で、股下ほどの低い石垣で囲まれ、その先は、断崖絶壁となっている。足をすくわれそうで危険なため、跪いて恐る恐る覗き込む。
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身を乗り出し、左側を見渡すと、先ほどまでいた大聖堂とその先の旧市街全体が見渡せる。聖堂はまるでミニュチュアの様で、3つの身廊に分かれたラテン十字形に、翼廊が身廊よりも高い垂直様式(イングランドに見られる)を採用するなどの外観構造が手に取る様に分かる。そして身廊と翼廊の北隣には回廊が併設され、更にその回廊の先隣りには、もう一つの新しい屋根の回廊が見える。こちらは教区教会で、ドゥオーモ広場に面している。
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大聖堂の先に広がるチェファル旧市街には、日の入り時間が近づき、差し込む夕日(やや南側)で照らされている。砂浜が広がるチェファル湾からパレルモ方面に続く海岸線は逆光で確認できないが、パレルモ北側にあるモンテペレグリーノ(Monte Pellegrino)(標高550メートル)の稜線をうっすらと望むことができる。ちなみに、こちらチェファル要塞の北側は岩礁地で、東側(プレシディアナ地区)には、チェファル港がある。
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再び、胸壁に沿って十字架のある砦の展望台まで戻ると、羊が石垣の上を歩いており、その石垣の南側に続く胸壁と崖との間の狭い場所には、数頭の羊が雑草を食んでいた。落下の危険性があるにも関わらず、牧草地の羊と変わらない行動に驚かされた。
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大聖堂に戻って来ると、日の入り間近となり、周辺が赤く染まっている。遅くなったが聖堂に入ることにする。ドゥオーモ広場から3メートルほどの高さの階段を上り、司教座像の立つ鉄格子の扉を入ると、レンガ舗装の石畳がファサード正面の扉口まで続いている。
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大聖堂内の見どころは、コンスタンティノープルから呼び寄せられた巨匠たちの手によるモザイク装飾である。概ね1145年から制作が開始され、1154年から1166年の間に完成したとされている。ビザンチン様式の金地モザイクで装飾されており、ヴォールト部分には、熾天使セラフィム、智天使ケルビムを配し、アプス部分には巨大な「万能の神キリスト」が表現されている。
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キリストの左手には、ラテン語とギリシア語で「我はこの世の光なり、我に従う者は闇の中を歩くことなく、生の光を持つであろう。」と書かれている。そして、キリストの下には、王室の座布団に立ち、両手を上げ祈りを捧げる聖母マリアと4人の大天使(ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエル)が取り囲んでいる。
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更にその下段には、窓の側面に、聖ペテロと聖パウロ、そして福音書記者のマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネが配され、最下層には、フィリポ、ゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)、アンデレ、熱心党のシモン、バルトロマイ、トマスの使徒が表現されている。それぞれの使徒の傍らには、名前の碑文がラテン語とギリシャ語で書かれているため、人物を特定することができる。すでに外は薄暗く、聖堂内の光は、ライトだけとなっているが、金地のモザイクは眩いばかりに輝いている。
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ルッジェーロ2世は、死後この大聖堂に葬られることを願って、自らの斑岩の棺をつくり、建設を続けていたが、聖堂の完成を見る前に亡くなってしまう。ただし後陣の金地モザイクが完成していたことは、救いだったかもしれない。最終的に、彼の亡骸は別の石棺に収められ、パレルモのカテドラルに葬られている。

ドゥオーモ広場には、土産物ショップ、カフェ、リストランテなどの店舗が並び、前面のテラス席では、既に飲んでいる姿も見られた。
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ドゥオーモ広場の先の路地を進むと、チェファル出身の政治家、マンドラリスカ男爵(1809~1864)のコレクションを展示する「マンドラリスカ博物館」(Museo Mandralisca)がある。こちらは、その男爵家のオリーブ オイル倉庫のコンテナ跡で、この日は、手前に、降誕祭の華やかな飾り付けがされていた。


更に路地を進むと丁字路となり、左折すると南北に延びるヴィットリオ・エマヌエーレ通り(Via Vittorio Emanuele)になる。通り右側には地下に降りる階段があり、下にはチェファリーノ川から取り込んだ綺麗な水を利用した「中世時代の洗濯場」(Lavatoio Medievale)が残っている。最近まで、地元の人に利用されていたとのこと。


ヴィットリオ・エマヌエーレ通りを更に南に進むと、視界が広がりビーチのある海岸に到着する。この時間、既に日没は過ぎたが、わずかに夕焼けの名残を見ることができた。


次に、今夜の宿泊場所となる、シチリア島中部にあるエンナ(Enna)に向かった。チェファルからは約90キロメートルの距離になる。高速E90号線で、パレルモ方面に15キロメートルほど戻り、A19号線に乗り換えて、一路南に向かう。

エンナは、東西2キロメートル、南北1.5キロメートルほどの高地にある逆三角形の形状を持つ城塞都市で、A19号線のエンナ出口からは、一般道を東に向かい、街の南側に大きく回り込んで、ペルグーサ通りを北上して向かう。この時間、既に午後8時半を過ぎていたが、市内に向かうペルグーサ通りは、クリスマスイブで帰宅しようとする車でかなり混雑していた。今夜の宿泊ホテル(Bed & Breakfast Proserpina)は、ペルグーサ通りと、市内を東西に延びるローマ通り(エンナの目抜き通り)との交差点の北隣の路地(サンタガーサ通り)を右に入った場所にある。

ホテルに到着した後、夕食のためホテル東側のサン・フランチェスコ教会があるヴィットーリオ・エマヌエーレ広場に向かったが、周辺の店舗はほとんど休業していた。しかたがないので、広場の先まで足を延ばすと、やや暗い通りの右側に「Ristorante La Fontana」(フォンタナ)の看板があり、ガラス扉からは、仄かに明るい店内が見えたので、入ることにした。
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店内は淡いピンク色とクリーム色を基調に、アール・ヌーヴォーの絵画や調度品が飾られている。10組ほどが座れるテーブル席に加え、アーチで区切られた先にも、バー・カウンターとテーブル席が並んでおり、店内はかなり広い印象。。この時間、店内には、他に客は誰もおらず、既に営業を終えているのかと思ったが、現れたスタッフは笑顔で席に案内してくれた。
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どんな料理が提供されるのか、多少不安を感じたが、ホテルの周辺では、どこも営業している店舗がないことから選択の余地はない。注文は、飲み物として、シチリア産の赤ワインを頼み、料理は、最初に、前菜の盛り合わせを頼んだ。


次にパスタを頼んだが、アンチョビ特有の香りが食欲をそそる一品だった。


こちらは、トマトとチーズの香りが際立ったラザニア風の一品。料理は、洗練されたものではなく、素朴な家庭料理といった感じで、お腹が減っていたこともあり、普通に美味しくいただけた。


午後10時頃、リストランテを後にした。扉口前の道路向かいに小さな公園がある。その公園中央に「プロセルピナの噴水」があることから、店名のフォンタナは、この噴水から名付けられているのかもしれない。その噴水と左側のパブ(この日は休業)との間には、ライトアップ・ツリーとフラワー・ツリーが飾られているが、周囲の街灯は暗く、人通りもなく真夜中のようである。。ツリーの先は、石造りの手すりがある展望台(マルコーニ・ベルヴェデーレ)になるが、前方は暗闇が広がるだけだった。
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ヴィットーリオ・エマヌエーレ広場を散策した後、ホテルに戻ってきた。イタリアのクリスマスは日本とは異なり、多くの店舗は休暇となり、中でも地方都市では食事の場所も少ないことから、エンナ到着の際は不安だったが、無事食事をすることができたのは良かった。
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翌日、午前8時半、朝食会場では3組ほどの宿泊客が食事をしていた。ブッフェスタイルで、壁際のテーブルには、食パン、クロワッサン、プロシュート、スクランブルエッグ、ブラッドオレンジジュース等が並んでいる。昨夜、リストランテ(フォンタナ)にいる時はあまり感じなかったが、ホテルで寝ていると、深夜に冷え込み、かなり寒かった。カプチーノを飲みながら朝食を頂くと身体が暖かくなった。。
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食後、ホテルを出て、少し散歩してみる。サンタガーサ通りは狭い西への一方通行で、ホテル先の交差点が、エンナへの麓から延びるペルグーサ通りになる。ホテルから東に50メートルほどのヴィットーリオ・エマヌエーレ広場に建つサン・フランチェスコ教会を見学した後、リストランテ(フォンタナ)向かい側にある公園まで散策してみた。昨夜何も見えなかった展望台の先は、目線より下に雲海が流れる絶景が広がっていた。エンナが標高931メートルに位置する天空都市であることを実感できる。
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エンナの街並みは、右(東側)方向に続き、旗がたなびく2連アーチがある塔「エンナ県庁舎」付近が街の中心になる。その先には「ロンバルディア城(castello di Lombardia)」 があり、更に外れに「ロッカ ディ ケレス(Rocca di Cerere)」の遺跡を望むことができる。そして遠くには、雪を頂くヨーロッパ最大の活火山「エトナ山(Etna)」(標高3,326メートル)が聳えている。

再びホテルに戻り、チェックアウトして、石畳のローマ通りを東に向かう(東への一方通行)。途中、エンナ県庁舎前の広場を過ぎ、ホテルから500メートルで、左側に「大聖堂」が現れる。

大聖堂は、アラゴン時代の1307年に、シチリア王フェデリーコ2世(在位:1296~1337)の王妃エレオノーラ・ダンジョ(1289~1341)の要請で、長男ピエトロ(1304~1342)の誕生を祝って工事が始まった(1311年完了)。1446年には、深刻な火災で焼失後、再建され、スペイン統治時代の16世紀には身廊が大きく改修されている。なお上部の鐘楼は2度の崩壊を経て18世紀に建てられた。
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バシリカを思わせる聖堂内部は、黒い玄武岩の列柱を持つ3つの身廊で構成されており、シチリアで活躍した彫刻家ジャンドメニコ・ガジーニ(Giandomenico Gagini、1503~1560)による浮彫装飾が施されている。そして上部には、”この地域で最も美しい木製の格間天井の一つ”と言われる天井装飾で覆われている。
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後陣には、左右に小祭壇を持つ主祭壇がある。主アプスには、被昇天した聖母が三位一体の神から冠を授けられる「聖母戴冠」の細かい彫刻が施され、手前にはイタリアの画家ピエトロ・ルッツォローネ(Pietro Ruzzolone、15~16世紀)の手による「受難のキリスト」(クリストゥス・パティエンス)が掲げられている。祭壇中央には、フィリッポ・パラディーニ(Filippo Paladini、1544~1614)による5枚の聖母マリアの祭壇画があるが、この日はカーテンで覆われていた。
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向かって左側の礼拝堂は、シチリア島ではゴシック様式の貴重な例の一つで、漆喰の天井リブには、精緻な浮彫が施されている。そして、右側は聖母礼拝堂で、多色大理石のねじり柱で飾られた「聖母の訪問」の祭壇画がある。こちらの祭壇画は、観音扉で、内扉には「聖母の降誕」が描かれ、内部には守護聖人の像が納められている。

ローマ通りを更に東に500メートル行くと、広い駐車場となり、すぐ先に「ロンバルディア城」の威容が現れる。1130年、チェファル大聖堂を建設したルッジェーロ2世が、古代の要塞の跡地に建築した城の遺構である。名前の由来は、ロンバルディアの駐屯地として、衛兵を配置されていたことによる。

現在の姿は、13世紀に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)が、宮廷建築家リッカルド・ダ・レンティーニに指示し改築したもので、当時は20もの塔が建てられていたという。ちなみに、エンナには、フリードリヒ2世の遺構として、宮廷建築家リッカルド・ダ・レンティーニにより建てられた八角形の「フリードリヒ2世の塔」がある。昨夜宿泊したホテルからローマ通りを西に700メートル行った場所にある。

エントランス付近にある案内図を確認すると、城の様子が良くわかる。城全体はややいびつな矩形の敷地で、「聖ニコラス広場」、「マッダレーナ広場」、「サン・マルティーノ広場」の3区画で構成されている。エントランスは、駐車場からは近く、城壁の北西角の北壁沿いにある階段を上った先「A」になる。
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入場する前に、城壁(北壁)を見ながら車道を北東方面に歩いてみた。北壁は「ピサの塔10」を過ぎ、北東角の「ゼッカの塔12」まで150メートルほど続いている。ゼッカの塔付近からは、ロッカ ディ ケレスの遺構が一望できる。こちらはローマ神話に登場する豊穣神ケーレス(ケレス)の聖域で、祭壇跡とされる。ケーレスとは、本来、ギリシャ神話におけるオリュンポス十二神の一柱である女神デーメーテール(デメテル)であるとされている。
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共和政ローマ末期の政治家で、弁護士、哲学者のマルクス・トゥッリウス・キケロ(前106~前43)によると、ローマにはケレスに捧げられた神殿があるが、ローマ人の一部の司祭たちはエンナのケレスの聖域を目指して巡礼に出発したと述懐している。

振り返った城壁の北東角から、東壁を眺めると「東塔14」が建ち、手前に、城内のサン・マルティーノ広場からの出口階段が続いている。
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再び城壁(北壁)に沿って戻り、城壁沿いの階段を上ったエントランス「A」から入場する。そして、西外壁と西内壁との間に設置された手摺付スロープを進み、西内壁のアーチ門をくぐると、城内の聖ニコラス広場に到着する。遺跡保護のため、柵で仕切られた砂地の見学通路があるが、城壁、地下室への入口、濠があるだけで周囲は雑草で覆われているだけだった。右側の塔が「ハーレムの塔8」で、左側の胸壁を持つ高い塔が「ピサの塔10」になる。
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ピサの塔は、6つ現存する塔の中のメインタワーで、ロンバルディア城における主要な見どころの一つになる。名前の由来は、ノルマン人がピサ共和国(11世紀~1406)の同盟国で構成された守備隊に防御を委託したことによる。その後のアラブ人支配の時代は、周囲を飛び交っていた猛禽類から「鷲の塔」と呼ばれていた。

ピサの塔内には階段があり上ることができる。胸壁のある屋上テラスからはパノラマビューが楽しめる。真下のサン・マルティーノ広場の右端が「東塔14」で、左端の狭間窓のある開口部が「ゼッカの塔12」になる。そして、エンナの最東端となるロッカ ディ ケレスと赤い屋根の神話博物館(Museo del mito)の先には、麓から広がる大地や、遠方のエトナ山まで望むことができる。この日は、風が強く、雲が勢いよく流れる美しい景観を堪能できた。
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以上で、エンナを後にする。帰りは、市内に戻らず、ロンバルディア城の南側から続くジグザグ道を通り、麓まで降りてきた。振り返ると、右側のお椀状の山の上にロンバルディア城の姿がはっきりと確認できる。左側のエンナ市内にかけて建物が立ち並んでいるのが見えるが、街の中心部付近には雲がかかっている。このように標高の高いエンナは、雲に隠れることがしばしばあるが、今日は眺めが良い方だったかもしれない。次にエンナ県南にあるピアッツァ アルメリーナに向かう。
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(2012.12.24~25)

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