goo blog サービス終了のお知らせ 

そぞろ神の物につきて―日本列島徒歩の旅の記録

  (2008年 日本海側)
  (2011年 四国八十八ヶ所)
  (2014・15年 太平洋側)

徒歩の旅 第48日 砺波市  上和田緑地キャンプ場へ

2009年04月16日 | 2008年日本海側の旅
5月28日(水) 晴 (「金沢ユース」~富山県・砺波市 「上和田緑地キャンプ場」)



5時05分、出発。
卯辰山の坂を下って、浅野川にかかる天神橋を渡る。
梅の橋で浅野川を渡り返して東山の茶屋街方面へ。
木造の梅の橋。


梅の橋の上から見た浅野大橋。


浅野川河岸のひがし茶屋街は国の重要伝統的建造物群保存地区。


夜はさぞかし風情のあるところだろうと想像しつつ、早朝の古い町並みを後にする。


昨日義母に送ったきんつばの中田屋前を通過。


道路は『ツーリングマップル』の地図では国道159号線となっているが、実際の道路表示は359号線になっている。やや不安を抱きつつも、とりあえず行ってみることにする。
5時50分、山の上交差点で確認し、どうやら地図の方が間違っているようだと気づく。最近、新表示に変わったのだろうか。
6時45分、森本からはJR北陸本線と並行して行く。
7時05分、分かりづらい梅田の交差点を通過した時点で、やはり新道路表示になったと確信。道はそのまま国道8号線の金沢バイパスに合流する。
7時40分、コンビニにて買い物と食事。牛乳、おにぎり2個、揚げ餅、北国新聞。新聞は情報収集とテントの結露対策なり。
8時20分、津幡(つばた)の検問所前を通ってしばらく行くと、通学生徒が多くなり、
8時40分、国立石川工業高専前を通過。女子生徒がかなり多く目立つ。
9時15分、「道の駅倶利伽羅(くりから)源平の郷」に着き、30分ほど休憩。
この道の駅は、国土交通省と地元の津幡町とが提携して開設、宿泊施設も併設されている。


情報休憩棟には、源平倶利伽羅の合戦にちなんで鎧兜や屏風絵などが展示されている。
源平倶利伽羅の合戦は、1183年、加賀国・越中国の国境である倶利伽羅峠において源義仲軍と平教盛・平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。義仲軍は平家10万の大軍を打ち破った。
この合戦屏風の複製も展示してある。




「火牛の計」の場面。『源平盛衰記』等に、義仲軍が牛の角に火のついた松明をくくりつけて敵陣に放ち、平家軍を倶利伽羅谷に追い落とした、という記述がある。


倶利伽羅峠では、その後も、上杉謙信軍と一向一揆との戦いや、前田利家と佐々成政との攻防があった。


「歴史国道事業」というものがあることを知る。地域づくりに歴史的意義のある主要な街道を、歴史遺産・文化遺産として生かそうという事業。


10時05分、倶利伽羅バイパスへ。木曾義仲と平維盛とが戦った古戦場跡はこのやや南側にある。


10時50分、957メートルの倶利伽羅トンネルを抜けて、富山県小矢部市へ入る。これで12県目なり。


つづく源平トンネルは避けて、安楽寺西交差点から16号線の北陸道へ入る。
南谷から国道471号線に移り、坂を下って行く。
11時50分、石動(いするぎ)駅にて小休止。売店でガム買う。
12時10分、駅の少し先にあるドラッグスーパーで買い物。食パン、菓子パン、カロリーメイト、飴、テーピング、耳栓、ボールペン。買い物のうちで、テーピングは足裏の緩衝用、耳栓は道の駅における安眠用、ボールペンは記録用に使ってきたものがついにインク切れになったため(こんなことにも旅路の長さを感じる。歩き始めて、今日でもう48日である)。
小矢部川にかかる石動橋を渡り、右折。進路がちょっと定かではなかったが、砺波市方面と狙いをつけ、地図上の地方道72号線を行く。
13時、水牧(みずまき)交差点で、三協立山アルミの建物を確認して一安心。しかし空模様は怪しくなり、いつ雨が降り出すかと案じつつ水田の中を行く。
13時15分、能美自動車道の下をくぐって、
13時20分、砺波市に入る。


14時25分、JR城端(じょうはな)線油田(あぶらでん)駅手前のスーパーで、今夜・明朝の食事を多少なりとも豊かにしようと買い物。ミニトマト、唐揚げ、煮豆、マヨネーズ、ココア、レジ袋(5円)。
14時35分、油田駅の踏切を通過。


砺波東部小学校横で、学童の下校時交通安全の男性に「上和田緑地キャンプ場」への道を聞くと、とても親切に教えてくれる。説明ではだいぶアップダウンがあるようだ。
15時、北陸自動車道をくぐり、
15時25分、庄川にかかる砺波大橋をわたり、小さな坂を二つ越えて行く。
キャンプ場近くの用水の写真を撮る。水面は静まり返り、そこに濃淡さまざまな緑色の枝葉が覆いかぶさっている。
そろそろ梅雨入りだろうか。そんなことを予感させるような雰囲気である。


キャンプ場方面に向け左折したところの水田。ここの苗は随分長くなっている。


14時15分、なんとか雨にはつかまらずに「上和田緑地キャンプ場」に到着。
宿泊届を出しに行くと、管理のおばあさんが、「必ず無事に家に帰って親を安心させなければいけないよ」と何度も何度も言う。心して承る。
テントサイトは刈ったばかりの草の上で、ここも一人きりのキャンプである。幕営は無料。

経費  3,617円      累計  179,262円
歩数  59,234歩     累計  2,253,269歩
距離  44km        累計  1,472km

(本日の到達地点――富山県に入る)


にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「★はじまり★/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、最上段の「次の記事へ」から順に、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第47日 金沢 連泊(その2)

2009年04月14日 | 2008年日本海側の旅
5月27日 (火) 晴 (「金沢ユースホステル」連泊)  
その2

10時50分まで「兼六園」を見学。
その後、石川県観光物産館で、義母のお土産に中田屋のきんつばを買う。
11時15分、兼六郵便局にてお土産をエクスパックで発送。ついでにATMで2万円おろす。
12時、金沢市の台所と言われる「近江町市場」へ。


市場内の「こてつ」という店で、奮発して海鮮丼を食べる。美味しいし量も適当である。


午後は、先ず「泉鏡花記念館」に行く。




鏡花は、ずっとむかしに『高野聖』を読んだだけなので、旅から帰ったら、その他の作品も読んでみようと思った。「深川もの」といわれている若い頃の作品などにも興味をそそられた。
13時05分、コンビニで飲むヨーグルトを買う。
古い造りの店がある。


「尾山神社」。加賀藩初代藩主前田利家をまつる神社。異国風の三層楼門は和洋折衷の造り。


金沢中心街の街並み。




香林坊を越えて


犀川大橋方面に「室生犀星記念館」目指して歩いていると、
13時40分、前方からBさんがやって来る。ずいぶん早いと思ったら、今朝早く宿を出発して来たとのこと。ユースへの道を案内し、自分は記念館に行く。
犀川大橋のほとりの犀星の碑。


13時50分、「室生犀星記念館」へ。






こちらも充実している。とりわけ、高校で習った「いづことしなく しいいとせみの啼きけり はや蝉頃となりしか ……」という「蝉頃」の詩や、人口に膾炙している「小景異情」の詩などを、犀星の肉声による朗読で聞くことができ興味深かった。また、詩に限らず、小説、随筆、俳句と犀星の多作ぶりに驚いた。




犀川の流れ。上流方面。


下流方面。


帰り道の途中で見かけたレトロな看板。


再び「近江町市場」に立ち寄り買い物。トマト、バナナ。
15時30分、コンビニで、牛乳、食パンを買う。
浅野川ほとりの「滝の白糸像」を見る。「滝の白糸」は、泉鏡花の戯曲の女主人公。


浅野川を渡り卯辰山の坂を上って帰る。
卯辰山公園で鶴彬(つるあきら)の句碑を探すが、今日もなかなか見つからない。
「石川県大衆運動活動家顕彰碑」を見つける。


16時10分、やっと王兎ヶ丘で発見。「暁を抱いて 闇にゐる 蕾 鶴彬」と刻まれている。


(鶴彬は、29歳で壮絶な獄死をした川柳作家。
 万歳と 挙げた手を大陸に置いてきた
 手と足を もいだ丸太にしてかへし  
 胎内の動き知るころ 骨がつき
などの句を残す。前の2句は、「歓呼の声に送られて」出征した兵士のその後。最後の句は、出産の喜びを予感する頃に、その子供の父親つまり夫の戦死した遺骨が届くというもの。2009年は生誕100年。)

その後、金沢市街地を展望して写真を撮り、


16時20分、ユースに戻る。
夕食後、Bさんとお喋りしたりしてくつろぐ。彼は大隈半島の佐多岬から歩いているので旅程もちょうど半ば。薩摩半島の長崎鼻から歩いてきた僕の方もそろそろ半ばに近づく。これからも宗谷岬までお互いに元気で頑張りましょうと誓い合う。

経費  5,229円     累計  175,645円
歩数  25,484歩    累計に加えず
距離  ?km        累計に加えず


にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「★はじまり★/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、最上段の「次の記事へ」から順に、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第47日 金沢 連泊(その1)

2009年04月12日 | 2008年日本海側の旅
5月27日 (火) 晴 (「金沢ユースホステル」連泊)  
その1


今日は休養日で金沢市内の見物。
宿でゆっくり朝食をとり、
8時30分、出発。
8時40分、卯辰山にて「徳田秋聲文学碑」を見る。




卯辰山の急坂を下り、浅野川を渡る。浅野川沿いに「徳田秋聲記念館」もあるが、今回は素通り。機会があればまた。


9時10分、「兼六園」へ。入場料300円。
桂坂。


「兼六園」は、加賀前田藩の大名庭園。水戸の偕楽園、岡山の後楽園とならび日本三名園の一つ。


園内案内図。面積11.4ヘクタールは、東京ドームの2.5倍。




「霞ヶ池」。
「徽軫(ことじ)灯籠」。足が二股になっており、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に
似ているのでその名が付いたと言われている。


枝振りが見事な「唐崎松」。琵琶湖にある松の名所「唐崎」から種子を取り寄せて植えた。冬の風物詩「雪吊」で有名。




「蓬莱(ほうらい)島」。


池に映る茶室、「内橋亭」。








「霞ヶ池」は、面積5800平方メートル、深いところで水深1.5メートル、「兼六園」で一番大きな池。






噴水。池の水面から3.5メートルの高さまで吹き上がっている。19世紀中頃に作られ、現存するものとしては日本最古といわれている。ポンプなどは使用せず、霞ヶ池との水位の高低差だけを利用して、水を噴き上げさせている。


「瓢(ひさご)池」。右手に「海石塔」、左にやや暗くて見づらいが「翠滝」。池はやや水が濁っている。「海石塔」は加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰ったという説がある塔。「翠滝」は、「霞が池」から「瓢池」に注ぎ落ちる滝。




「時雨亭」という茶室。


「時雨亭」の庭。






庭園の手入れ。皆さん菅笠をかぶっている。


曲水のカキツバタ。


花見橋。辰巳用水の曲水にかかる橋。




「根上松」。高く盛った盛土に植え、松の成長にあわせて土を取り除いて40本の根を露出させ、地上2メートルまで競りあがらせた。


「日本武尊の像」。明治13年10月に、明治政府開府の折に立てられた銅像。




「雁行橋」。11個の戸室石で構成され、石の配置が雁が空を飛ぶ逆V字隊形のように見える。




陽気もよく、緑と青空を映した池の水の美しさは比類ない。いくら見ていても飽きないほどだ。
ただ、途中から入ってきた台湾人旅行者のグループが、無秩序で、騒々しく、無礼であった。園内の囲いに足をかけたり、囲いの中に入って写真を撮ったりしているので注意すると、わざと笑って手を振ったりする女までいたのには呆れてしまった。そこまでするか。日本の歴史や伝統文化を見て理解するために来たのではないのか。
まぁ、日本人も外国の景勝地で狼藉を働いたりする者がいるのだから、ことさらに台湾人だからというわけではないが、兎に角恥知らずな振る舞いなり。
10時50分、最後にもう一度霞ヶ池を見て、「兼六園」を後にする。次回は雪の季節に来てみたいもの。


(その2へ続く)


にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「★はじまり★/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、最上段の「次の記事へ」から順に、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第46日 金沢市  金沢ユースへ

2009年04月10日 | 2008年日本海側の旅
5月26日(月) 晴 (「翠ヶ丘いこいの広場キャンプ場」~石川県・金沢市 「金沢ユースホステル」)



4時頃に目が覚めテントの外を見ると、下弦の月と明けの明星がきれいに輝いている。
5時40分、出発。
非常に快適な一晩を過ごした「翠ヶ丘キャンプ場」のテントサイト。


キャンプ場のそばに「松井秀喜ベースボールミュージアム」がありちょっと興味が引かれたが、早朝ゆえ通過。
6時05分、道林寺跡地の弁慶謝罪の地を見ていく。


安宅関の後日談。「主を金剛杖で打った罪」を謝罪する弁慶に、「機知の働きは天の加護」と忠誠心をねぎらう義経の像、とある。ただ、歌舞伎の団十郎などから考えられる弁慶像からすると、ちょっと貧弱な弁慶に見えてしまう。  


6時55分、白山市に入る。


その後再び左右に工業団地が続く中を行く。
7時10分、北陸本線小舞子駅の先に、キャンプ場の表示があり、左折。200メートルほど行くと広々とした「小舞子キャンプ場」があり、さらに海岸左側にもテントサイトがある。
7時15分~35分、浜辺のキャンプ場で、結露で濡れたテントを干したり、
ハマナスの写真を撮ったり、


白砂青松100選の小舞子海水浴場の海岸を眺めたりして過ごす。


7時45分~55分、美川大橋から、手取川にかかる鉄橋を行くJR北陸本線の写真を撮る。






8時、美川駅を通過。
8時25分、水田地帯を行く北陸本線。




8時55分、水澄(みすみ)町交差点にて金沢西バイパスの国道8号線に合流。
9時10分、コンビニにて食事。牛乳、おにぎり2個。
一気に交通量の増えた広い通りを行く。
9時55分に宮丸交差点、
10時25分に徳丸南交差点と、所々に水田を見ながら金沢の郊外を通過。
11時00分、三日市交差点で右折し、「兼六園」方面に向かって国道157号線へ。
11時55分、金沢市に入る。


12時35分、荷を沢山つけた自転車に乗った男性と出会い、40分ほど話をする。大阪に帰る途中という79歳の人で、元大阪大学の山岳部にいたとかで小柄ながらとにかく元気な人。とても年相応には見えない。今でも執筆したり、特許申請したりいろいろと忙しそうに生きている。お互いに写真を撮りあって、頑張ろうで別れる。
13時15分、犀川にかかる犀川大橋を渡り金沢市街地に。


13時20分、コンビニで買い物。牛乳、菓子パン、大福。
13時30分、香林坊を右折したところの「中央公園」で、ユースの時間調整を兼ねて休憩。ベンチで先ほど買ってきたものを食べる。
爽やかな風が吹き渡り、太陽の光を浴びて、若葉を繁らせた大きな木々の枝が揺れている。夏近しという風情である。


14時10分、「金沢城公園」の方に回ると、花壇には色とりどりの花が咲いている。


加賀前田藩14代の居城であった金沢城は、大きな石垣が積まれているが、本丸などは度重なる火災で焼失。


14時10分、広坂周辺の図。


昔を偲ばせる石垣。


今では石川門などが現存しているのみ。


「金沢城公園」の一角にある、加賀百万石の祖、前田利家像。


休憩後、ユースを目指して、「金沢城公園」と「兼六園」との間の道を、浅野川方面に行く。
途中のコンビニで今晩の食料を買う。弁当、おにぎり、トマトジュース。
天神橋で浅野川を渡ると、卯辰山上り口の案内図。


卯辰山をくねくねとゆるく登って行く。「卯辰山公園」で反戦川柳作家鶴彬(つるあきら)の川柳碑を探したが見つからず、明日の課題。
16時少し前に「金沢ユースホステル」に到着する。


小浜ロッジ以来、6日ぶりの風呂でさっぱりする。この間、暑い日が続き、また雨にも降られた。キャンプ場などで体を拭いたり、毎日着替えたりはしたものの、やはりなんと言っても風呂はうれしい。
ユースでおかしかったのは、自宅にメールをしようとしたが「圏外」でつながらないこと。NТТの携帯電話はユースの玄関先に出ないとつながらない。でもauは部屋からでもつながるそうだ。
同室の男性は、若い頃からSLの写真を撮るのが趣味とかで、沢山のSLが写ったアルバムを見せてくれる。今は、各地の公園などに展示されているSLの写真を撮って回っており。、明日も車で撮りに行くとのこと。
こちらは明日は休養日の予定なり。

経費  8,285円     累計  170,416円
歩数  47,312歩    累計  2,194,035歩
距離  32km       累計  1,428km

にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「★はじまり★/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、最上段の「次の記事へ」から順に、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第45日 能美市  翠ヶ丘いこいの広場キャンプ場へ

2009年04月08日 | 2008年日本海側の旅
5月25日(日) 雨のち曇 (「瀬越キャンプ場」~石川県・能美市 「翠ヶ丘いこいの広場キャンプ場」)



昨日からの雨は夜通しテントを叩き続け、4時頃に一時止むも、食事をしていると再び降り出す。昨日余計に歩いたので、今日の距離は30キロ足らずの予定。テントの中で出発準備を終え、もう一度寝直しをする。
8時20分、いくらか小降りになったので出発。テントを撤収しているとき、ボーイスカウトのリーダーに、熱いコーヒーをご馳走になり、激励される。
8時25分、キャンプ場を管理している「竹の浦館」を通過。


8時40分、上木を通ると、確かにキャンプ場は廃止されており看板だけが残されている。


通りがかった散歩中の男性から「上木キャンプ場」廃止の事情を聞く。指定地外でキャンプしたり、失火によって周囲の防風林が焼けたりと、無法状態になり危険なのでついに廃止されてしまったとのこと。「瀬越キャンプ場」の宣伝をしてくれ、と言われる。

(以下、たのまれた「瀬越キャンプ場」の宣伝をします。
 所在地     石川県加賀市大聖寺瀬越町東浜上木境1番地1
 交通アクセス 北陸自動車道 加賀IC から 車 で 10 分
 申込み    竹の浦館へ
 竹の浦館   〒922-0671石川県加賀市大聖寺瀬越町イ19番地1
          TEL 0761-73-8812
 幕営料      300円)

その後、北陸自動車道をくぐるころから霧が濃くなる。やがて雨が本降りになり雨具を着用。
9時15分、畑町で雨宿りがてら15分ほど小休止。
小野坂トンネルを抜けたところでさらに雨が強くなって来、
10時、開発神社で再び10分ほど雨宿り。
10時40分、ようやく雨が上がるが、いつ降り出すかも知れずと考え、雨具は着たままで行く。
10時50分、小塩辻を通過。広々とした田園地帯には、コスモスに似た黄色い花(オオキンケイギクか?)が路傍に沢山咲いている。


11時10分、宮地廃寺塔心礎石跡を通過。


解説によると、7世紀後半、白鳳時代のものと推定されるとか。


11時30分、篠原古戦場跡を通過。源平合戦において、木曽義仲と戦った平家軍武将の斉藤実盛が劇的な最期をとげた所。
『奥の細道』の「むざんなや 甲(かぶと)の下の きりぎりす」の句は、この戦いに題材をとったもの。
すっかり雨が上がり、篠原古戦場跡にあるトイレ横で雨具を脱いでいると、清掃員が来てしばらく話をする。75歳で、この地域のトイレを数箇所廻って清掃するのが仕事という元気なお爺さん。道路状況とコンビニの場所を教えてもらい、激励される。
12時10分、コンビニにて、今夜と明朝の食料などを購入。牛乳、野菜ジュース、食パン、ミルクフランスパン、ハム、ピーナッツ。野菜ジュースを飲み、ミルクフランスパンを食べて出発。
北陸自動車道を左に見つつ田園地帯を行く。


12時30分、海岸沿いの「小松加賀自転車道路」を行くべく、高速道路をまたぐ歩道橋の上。前方と、


後方を望む。


しかしながら、「小松加賀自転車道路」は途中で崩壊していて通行止め。元の道に戻って、再び北陸自動車道と並行し、両側が水田の一直線の地方道20号線を行く。


13時、小松市に入り、一時青空が広がるが、ふたたび雲に覆われる。


しばらく歩くと、左右の景観は田園地帯から工業団地に変わる。
14時10分、安宅関跡。ちょっと遠回りになるので素通りしようかとも思ったが、やはり見ていくことにする。


公園入口。


義経一行が平泉へ落ち延びる途中、安宅関守富樫左衛門泰家に見とがめられ、白紙の勧進帳を読む弁慶像。


歌舞伎十八番『勧進帳』で有名。




一行の中に変装した義経がいると言われ、主人の義経を打ち据える弁慶。弁慶の忠誠心に心打たれ、義経一行と知りながら関所を通す関守富樫。
義経の勇気、弁慶の智略、富樫の仁義をたたえ、「勇仁智」と掲げられた像が立てられている。


安宅の関を通り抜けた弁慶が、無事を喜んで松を逆さまに植えたという「弁慶逆植之松」。


安宅関址。


15時、再びもとの道路に戻り、城南橋を渡る。
小島交差点のコンビニで、ジュースを買いがてら、店員に「小舞子キャンプ場」への行き方を教えてもらう。
言われたとおりに行くと、
15時30分、能美市に入る。


15時45分、さらに行くと、「翠ヶ丘いこいの広場キャンプ場」がある。
この先の「小舞子キャンプ場」へ行くよりも、明るいうちに濡れたテント類を乾燥させたいと考え、こちらに泊まることに決定。テント場代500円。
テントサイトは松林の中で、風が吹き抜けて快適である。砂地に木の土台があり、その上にテントを設営する。他に利用者は誰も居らず、濡れたテント・雨具を干したり、着替えを洗ったり、食事を作ったり。
夜、Bさんに電話をすると、今あわら市に居り、明日は小松、明後日は金沢の予定とのこと。僕の方は金沢ユースで連泊するつもりなので再会できるといいが。

経費  1523円     累計  162131円
歩数  42785歩    累計  2146723歩
距離  26km      累計  1396km

にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「★はじまり★/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、最上段の「次の記事へ」から順に、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第44日 加賀市  瀬越キャンプ場へ

2009年04月06日 | 2008年日本海側の旅
5月24日(土) 曇のち雨 (「鮎川園地キャンプ場」~石川県・加賀市 「瀬越キャンプ場」)



4時35分、予報によれば雨が接近しているとのことで早出を心がけ、薄暗い中を出発。キャンプ場では左手の炊事棟の向こう側の草地で幕営。


昨日に続き国道305号を北上する。風はなく、ややむし暑い。
4時45分、大小の岩が浮かぶ海を見つつ行く。


沖にはもう漁船が。


このあたりは、砂岩や礫岩ではなく、柱状節理をなす安山岩。


5時15分、海辺の水田の向こうに亀島が見えてくる。


亀島も柱状節理の安山岩の島。


5時35分、海岸線から離れ野菜畑の目立つ道を行く。二枚田川を渡り松陰町を通過。
6時25分、柳原交差点のコンビニで買い物と食事。牛乳、おにぎり2個、草大福、チョコスティック。土曜日なので、レジャー客で早朝のコンビニもかなり混雑している。牛乳と草大福のみ食べる。
7時頃から、広いラッキョウ畑を右手に見ながら行く。スプリンクラーで水を撒いている。三国地方の「花らっきょう」は全国生産量の9割を占めているそうである。


道路の左側は「三里浜緩衝緑地」の樹林地帯が続いている。道路は広々として、車も少なく歩きやすい。
7時15分、坂井市に入る。


7時50分、「道の駅みくに」を通過。まだ店は開いておらず、忙しそうに立ち働く従業員のみ。駐車場の車もまだ少ない。


8時20分、九頭竜川にかかる新保橋を渡る。


九頭竜川は、福井県を代表する大河である。


8時25分、橋を渡り汐見公園にて小休止。
東尋坊を見に行くか、それとも雨の予報も出ているし行程も長いことだからこのまま先を急ぐか、としばし思案。結局、どこかで雨には降られることになるのだからと考え、東尋坊を廻っていくことにする。
九頭竜川に沿って河口方面へ。
堤防のフェンスの向こう側には、電球を沢山吊るしたイカ釣り船などが多数停泊している。


8時50分、えちぜん鉄道三国芦原線の三国港駅を通過。


9時05分、彼方に東尋坊タワーが見える。
9時10分、海に沿った松並木の道をたどる。


9時15分、荒磯遊歩道。


「文学碑の小径」を行くことにする。


東尋坊周辺案内図。


左手が断崖になっている遊歩道の途中には、三国ゆかりの著名な文学者の碑などがいくつも立っている。
高見順の碑。
「おれは荒磯の生まれなのだ  
 おれの生まれた冬の朝
 黒い日本海ははげしく荒れてゐたのだ
 怒涛に雪が横なぐりに吹きつけてゐたのだ
 おれが死ぬときもきっと
 どんどどんととどろく波音が
 おれの誕生のときと同じように
 おれの枕もとを訪れてくるのだ」


石原八束の句碑。
「彼の世より 光をひいて 天の河」


三好達治の碑。
「春の岬 旅のをはりの鴎とり うきつゝとほく なりにけるかも」


高浜虚子らの句碑。
「日本海 秋潮となる 頃淋し」(右・伊藤柏翠)
「野菊むら 東尋坊に 咲きみだれ」(中・高浜虚子)
「ゆきぐにの深き庇や 寝待月」(左・森田愛子)


9時30分、柱状節理の岩を見下ろすと、まさに吸い込まれるかの気分である。








さすがに「名所」で、近くには慰霊碑や救いの電話もある。
東尋坊タワーの周辺には、お土産屋や食堂が並んでいる。
10時05分、松並木を行き、雄島を眺めつつ食事休憩。おにぎりと草大福。
その後、さらに松林の道を通り、越前松島や水族館を経て、
11時25分、加戸にてもとの305号線に合流。
交差点にあった「ワンダーランド遊びの駅」は、土曜日の昼間だというのにガラガラで、遊具がしょんぼり。


11時35分、隣の「大堤」は睡蓮の盛り。


真っ白い清楚な花がいくつも水面に浮いている。


11時40分、あわら市に入る。


11時45分、コンビニで買い物。飲むヨーグルト、泊まり用の食パン。
買い物をしている最中に小雨が降り出して来、軒下で雨宿りをするも、止みそうにないので、雨具を着けて歩き出す。
12時30分、「きららの丘」というファーマーズ・マーケットでトマトを買いながら雨宿り。
13時20分、雨の中、北潟湖対岸の「芦原青年の家」でキャンプを願い出るが、職員にここは教育施設だから部外者は駄目だとけんもほろろに断られる。一人用の小さいテントなので端の方のスペースにでも一晩だけ張らせてもらえないか、との願いも聞いてもらえず。あげくに、泊まりたければあわら市内にいくらでも温泉があるなどと言われる。
諦めて、さらに強くなってきた雨の中をまた歩き始める。確かにこちらの事前調べの甘さが原因であり、教育施設かもしれないが、それにしてもなぁ。ここは蓮如上人が布教活動をした土地ではないか。慈悲の心は無いのかなぁ。一昨日通った阿曽の「区民の指標」では「○ 未知の人に対しても、広く美しい人情を示しましょう。」とあったが、ここはそうじゃないのかなぁ。「勧進帳」の安宅関だってこの近くなのになぁ……などと未練がましくあれこれと考えながら、広い北潟湖のほとりの水田が続く道を雨に打たれながら歩く。
代替案として、「上木(うわぎ)キャンプ場」まであと10km、2時間半の歩行を覚悟。致し方ない。
浜坂の開田橋で北潟湖を渡る。
14時40分、蓮如上人の布教拠点であった吉崎寺で10分間の雨宿り休憩。
やや小降りになったので出発。
14時55分、悪路の福井県に別れを告げて、石川県に入る。11県目。
すぐに塩屋大橋で、大聖寺川を渡る。
石川県に入ったとたんに、歩道の先が読めるようになり歩きやすくなったと感じる。
15時05分、「瀬越(せごし)キャンプ場」という看板があり、一応念のため偵察すると、入口に松くい虫の駆除のため4月から6月までは立ち入り禁止、との立て札がある。
これでは無理と先を急ぐと、小雨の中をおじいさんが一人傘もささずに歩いている。「上木キャンプ場」を尋ねると、キャンプ場は去年で廃止、今は壊してしまったから水も出ないとのこと。困ったなと思っていると、先ほどのキャンプ場を管理している人に相談してみるとよいと教えてくれる。再び戻って管理をしている「竹の浦館」で尋ねると、駆除は来週からでまだ宿泊可能とのこと。有難い。キャンプ代300円。
15時40分、親切な奥さんに言われたとおりにキャンプ場の奥に行くと、訓練中だったボーイスカウトの少年たちと一緒になる。彼らの活動の邪魔にならないようにと考え、リーダーに挨拶をして、
15時50分、雨の中、テント設営完了。
本日は12時間行動なり。
それにしても、雨の中を歩いていたあのおじいさんがいなかったら、ちょっと厄介なことになっていただろうと考えると、なんとも不思議で幸運なことだったと思う。「捨てる神あれば拾う神あり」である。

経費  1,305円     累計  160,608円
歩数  64,075歩    累計  2,103,938歩
距離  43km       累計  1,370km

(本日の到達地点――石川県に入る)


にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「★はじまり★/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、最上段の「次の記事へ」から順に、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第43日 福井市  鮎川園地キャンプ場へ

2009年04月04日 | 2008年日本海側の旅
5月23日(金)  晴のち曇 (「道の駅河野」~福井市 「鮎川園地キャンプ場」)



5時、出発。一晩お世話になった道の駅の休憩所を後に。


時折長距離トラックが往来する、広い国道8号線の敦賀街道を下っていく。
5時30分、桜橋南交差点にて、武生方面に行く8号線と別れ、305号線に入る。
今日は若狭湾に沿って越前海岸を行く予定。まずは静かな朝の田園地帯を、河野川に沿ってさらに下っていく。8号線に別れたとたんに、大型トラックからの解放感。
5時35分、河野町に入る。


途中、いくつか満州開拓の記念碑を見る。


碑面には、「福井県と河野村の要請を受け入れ、満州開拓団となり、満州に河野村分村を実現せんとして勇躍渡満し……が、敗戦となり……幾多の犠牲者を出して、九死に一生を得て涙乍に引揚げて来た……」とある。戦後生まれのわれわれの想像を絶する苦しみがあったのだろう。


だが同時に、事態を中国農民の側から見たらどうなのだろうか、とも考えざるをえない。
6時15分、塩見トンネルを抜けて、八幡橋で海に出る。


ここは越前加賀海岸国定公園。今日はこの後ずっと、「漁火街道」と名づけられた305線を北上していく。


6時25分、河野漁港。


さらに北前舟主の館・右近家の前を通っていく。
北前船は、おもに蝦夷地と大坂を結ぶ西廻航路を往復し、各地の特産物を輸送した。


真っ青な日本海がはるか彼方まで見渡せる。


小船に乗った漁師が、岩の間の澄んだ海中を覗きながら魚介を採っている。


おだやかな海を眺めつつ歩く。


6時55分、甲楽城(かぶらき)漁港通過。


7時、下長谷洞窟史跡。


南北朝時代に、後醍醐天皇の王子恒良親王が一時身を隠した所と書かれてある。


7時30分、長島を通過。海岸通りに食事処の店や民宿などがずらっと並んでいる。


海上遠く彼方には定置網の仕掛けが太陽に輝いて見える。


小岩が点在する澄んだ海を眺めながら行く。


8時、越前町に入る。


9時15分~35分、スーパーで買い物と食事休憩。牛乳、食パン、のり巻き、おはぎ、トマト、きゅうり、バタピー。
スーパー前のベンチで、牛乳、のり巻き、おはぎで腹ごしらえ。
9時45分、長須浜海水浴場通過。


10時、厨郵便局で昨日の「難関突破お守り」を家に送る。
10時45分、国道365号線との交差点先の恵比寿宮で、越前・若狭海岸全景の説明写真などを見ながら休憩。


越前海岸の岩は、おもに砂岩や礫岩で構成されている。


深く澄んだ淵の色が神秘的なり。


岩の先に操業中の漁船を見つつ、


複雑な岩場の海岸線を辿る。


玉川トンネル(952メートル)、その他の短いトンネルをいくつか抜けて行く。


12時05分、越前海岸が「く」の字に折れ曲がった地点の越前岬に到着。
左右海水浴場を通過。


断崖の先端の白い岩は、「鳥糞岩」という実に即物的な名前がつけられている。海鳥の糞で白くなっているとのこと。「鳥糞岩」も礫岩から成っている。


さらにトンネルをくぐって「呼鳥門(こちょうもん)」方面へ行くと歌碑があり、そばには「このボタンを押してください。五木ひろしの『越前有情』の歌が流れます。」というプレート。何気なく押してみると、あたり一面に響き渡る大音量で歌が流れ出す。びっくりしたが止めようもなく、とうとう4番の歌詞までたっぷり轟き渡ってようやく歌は終わった。ふぅ~。


ハマナスの花壇を見、


「呼鳥門」や


海と岩場の写真を撮ったりして、


暫時休憩。


12時30分、福井市に入る。


13時10分、「越前水仙の里公園」で小休止。
14時、越廼(こしの)海岸。海産物を吊るして干物を作っている店が何軒もある。


14時20分、大味漁港。今日の行程もおおよそ目鼻がつき気が楽になったが、足も痛い。
14時50分、「弁慶の洗濯岩」で休憩、食事。コロッケ、きゅうりなどを食べる。


「弁慶の洗濯岩」は砂岩や泥岩でできており、源頼朝からの追討の身になった義経・弁慶一行が、ここで衣類を洗い長旅の疲れを癒して安宅方面に向かったとの説明がある。午後の太陽が照りつけ非常にまぶしい。


15時15分、「神の足跡」という岸壁を見たりしつつ、
16時10分、鮎川園地のキャンプ場到着。キャンプ場を管理しているレストランで届けを出す時に、暑さに耐えかねてついにアイスクリームを買ってしまう。
テント場は快適な草むらで、他には誰もいない。設営後、衣類の洗濯をして、のんびり食事。幕営料600円。

経費  2,443円     累計  159,303円
歩数  68,650歩    累計  2,039,863歩(二百万歩を越える)
距離  46km       累計  1,327km

にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「★はじまり★/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、最上段の「次の記事へ」から順に、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第42日 敦賀市  道の駅河野へ

2009年04月02日 | 2008年日本海側の旅
5月22日(木) 快晴のち曇 (「野坂いこいの森キャンプ場」~南越前町 「道の駅河野」)



キャンプ場は、夜は暖く適度に風もあって、左側のベンチ横の草の上に張ったがテントの結露なし。


6時、出発。
朝日がさす中を、昨日の坂を下り、粟野駅を通過して水田地帯を敦賀市街方面へ向かう。


7時10分、コンビニで買い物と食事。牛乳、おにぎり。
7時25分、西野神交差点で左折、日本海さかな街の角を右折、「松原公園」方面へ。途中で、大勢の敦賀高校生徒の登校に遭遇。
8時05分、「松原公園」に着く。


静岡の「三保の松原」、秋田の「風の松原」と並ぶ、日本三大松原の一つ「気比の松原」。


ここには17000本の松がある。


海も空も青く、砂白く、松は緑。


今日の行程も30キロほどの予定なので、ゆとりの気分である。砂浜のベンチに腰掛けて景色を堪能。
今日は、右手方面へ敦賀湾を回り込んでいく。


9時、公園を出て市街地へ。松原公園の文字は、初代満鉄総裁の後藤新平のもの。


9時05分、敦賀松栄局のATMで2万円を下ろし、
敦賀港を眺めつつ氣比神宮に向かう。


9時30分、「氣比神宮」へ。


「氣比神宮」は、「北陸道総鎮守 越前国一之宮」で、702年に建立されたといわれている。


高さ11メートルの大鳥居は重要文化財。


境内には芭蕉の像があり、台座には『奥の細道』にある「月清し遊行のもてる砂の上」の句が刻まれてある。


さらに、「芭蕉翁月五句」の句碑がある。境内の様子が反射して見づらいが、右から、
国々の八景更に気比の月
月清し遊行のもてる砂の上
ふるき名の角鹿や恋し秋の月   
月いつく鐘は沈る海の底
名月や北国日和定なき(この句も『奥の細道』にある。


こちらは中鳥居と拝殿。


境内で、長命水を教えてもらった地元の老婦人に少し話を伺う。


彼女は、子供の頃この近くに住んでおり、境内は遊び場だったと。空襲で家が焼かれ引っ越したが、近くの病院に来る折には、なつかしくて必ず寄っていくのだ、とのこと。
長命水をペットボトルにつめて出発。
10時15分、金崎宮へ。


このあたりは、南北朝時代や戦国時代の古戦場である。「金ヶ崎城址」についての案内板。


「金ヶ崎の退き口」から、


金崎宮へ。


帰りに、7月の息子の就職試験のため、小豆袋の両端を縛った形になぞらえた、お市の方に由来する「難関突破お守り」を買う。
戻る途中にも芭蕉の句碑があり、「月いつこ鐘は沈るうみのそこ」と刻まれている。


10時35分、曙交差点から、敦賀街道と名を変えた国道8号線に入りゆるく上っていく。
金ヶ崎トンネル(291メートル)を抜け、鞠山トンネル(623メートル)の中で、東京から来たという徒歩の旅人に会うが、場所柄ゆっくり話もできず、エール交換で別れる。
11時、新港口のバイパス合流点。以後敦賀湾に沿って北上する。
11時35分、赤崎海水浴場付近。晴れた空の下、おだやかな海である。


暑くなってきたので、自販機でジュースを買う。
12時、江良海水浴場で食事休憩。シーズン中は賑わうのだろうが、今は誰もいない。気温は25℃になっている。
12時45分、短い黒崎トンネル(97メートル)を抜ける。
13時、阿曽(あぞ)の町を通過。「区民の指標」という看板がある。読んでみると、今ではだいぶ失われてしまった、情緒豊かな美しい伝統のようなものを感じさせられる。もちろん上から押し付けられるのはゴメンだが。


13時30分~14時20分、大比田のコンビニのそばで、国道を南下してきた小柄なホームレスの男性と出会い話。この先の福井県と石川県の道の駅の情報などを教えてもらい、お礼にコンビニで、菓子パン2個とあんずジュースをプレゼントする。かわりに「今こそ出発点」という京都大仙院の尾関宗園師の言葉のコピーをいただく。孔子のような髭をはやしているので理由を尋ねると、街で若い連中に馬鹿にされないため、と。少し話でもしていこうということになり、コンビニの車止めに座って彼の話を聞く。59歳で、バブル崩壊時に東京で自己破産、離婚して、自殺しようと思ったが死に切れなかった、と言う。主にバス停で寝て、歩き旅をしながら自販機の下の硬貨を拾って生活している、とか。先の曲がった針金を見せてくれ、1日400箇所を目途に、これで拾うのだと言う。いつか娘に会うのが夢だということなど、彼の人生についての話を聞く。どこまで本当かなぁ、という気もしたが、そういう人生もあるのかとも思う。


コンビニで自分用にも、牛乳、食パンを買う。
14時50分、手前の敦賀半島と奥の丹後半島に挟まれた若狭湾をを見ながら行く。


15時25分、敦賀トンネルの中でちょっと困難な状況に陥る。歩道のないトンネルの右側を通行中に、対向車の大型トラックが来、すれちがおうと思ったところへ、今度は後方からも大型トラックが来て、三者が狭いトンネル内で横一線に並ぶような形になって立ち往生してしまう。壁面に張り付くも効果なく、結局、後方から来たトラックがバックして回避するが、こちらとしては気が気でなかった。
15時25分、敦賀トンネル(735メートル)を抜けると、南越前町へ入る。


その後、第5から第2まで4つの危険な大谷トンネルをヒヤヒヤしながら抜けて、
16時10分、「道の駅河野」に到着。今日はここで泊まらせてもらう。
休憩所で、大阪から来たドライバーの男性が話しかけてくる。徒歩日本縦断の計画について興味を持ったらしく、あれこれと質問され、いろいろと講釈される。
夕方は雲が出てきてしまい、せっかくの夕陽の名所なのに残念。
ウォーキングシューズの底を見ると、右足の外側が大分磨り減ってきている。やはり歩き方の問題だな、きっと。


夜間、遅くまで点いていたテレビの音が騒々しくて眠りづらく、どこかで耳栓を買おうと思いつついつしか寝入ってしまう。

経費  1,246円     累計  156,860円
歩数  47,798歩    累計  1,971,213歩
距離  32km       累計  1,281km

にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「★はじまり★/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、最上段の「次の記事へ」から順に、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第41日 敦賀市  野坂いこいの森キャンプ場へ

2009年03月31日 | 2008年日本海側の旅
5月21日(水) 晴 (「国民宿舎小浜ロッジ」~敦賀市 「野坂いこいの森キャンプ場」)



7時50分、出発。晴れて、無風、快適なり。


予定では田烏を経て三方五湖方面にいくことにしていたのだが、宿と歩行距離などを考え、JR小浜線に沿って行くことに変更する。
「小浜ロッジ」から国道27号線に向かって歩いていると、なんと先の方にBさんがいる。聞くところでは、昨晩は小浜の民宿に泊まったとのこと。お互いすぐそばで泊まっていたわけだ。まだ少し足が痛そうである。5月4日以来の再会をよろこび、ケータイのデジカメでお互いの写真を撮りあい、住所を交換しあう。その後は、Bさんはゆっくりだが連日歩く計画、こちらは少し速いが時々連泊したりするという具合に、それぞれのペースが違うので、またどこかでお会いしましょうと挨拶し、とりあえず僕が先行する。
8時45分、前方から傘をザックにさしたいかにも歩き旅らしき男性が来る。挨拶を交わし、少し話す。彼は29歳で、東京から歩いて来て、屋久島に向かっているとのこと。小さなザックなので泊まりはどうしているのかと聞くと、主にバス停で寝ている、富山で無人駅で寝ていたら通報されてパトカーに乗せられてしまった、などの説明。大まかな県地図しか持っていないので、それでは不便だろうと、途中の道の駅や旅館で手に入れた小浜と舞鶴の観光パンフレット付き地図をあげる。大変に喜んで、お互い目的達成まで頑張ろうと握手をして別れる。
気温19℃の表示があるが、それ以上に暑く感じる。
9時、遠敷川を渡る。左手。


右手、上流側。


9時30分、新平野駅を通過。
9時35分、相変わらず歩道がすっきりしないか、もしくは全くない道路を、トラックがすれ違っていくなか、若狭町に入る。


10時20分、上中のスーパーで買い物。牛乳、トマト、バナナ、メンチカツ、あじフライ、サラダ、バターピーナツ、飴。牛乳はその場で飲む。
10時40分、線路の向こう側には、麦畑と緑の稲。麦は黄金色に熟れ、まさに季語の「麦秋」なり。


その後は、小浜線から離れ、整備されて広い歩道もあるバイパス風の坂を上っていく。
11時50分、倉見峠に着く。
暑いので自動販売機を探し食事休憩。メンチカツ、サラダ、トマト、バナナを食べる。
12時50分、道路は続くよ どこまでも。


麦と稲。コントラストが面白い。


13時05分、依然として暑くてたまらず、バス停にて小休止。
13時50分、三方駅前を通過。
14時40分、美浜町に入る。


15時20分、美浜駅で休憩。手持ちのツーリング用地図では、今日の宿泊予定地である「野坂いこいの森キャンプ場」の位置などが詳しくは分からず。わかりやすい地図が欲しいと思ったが、残念ながら駅のパンフレット類の中にはない。
15時50分、駅の先のコンビニで買い物。飲むヨーグルト、バターロール。
16時05分、美浜東バイパスは入口が工事中で通れず。
16時25分、山上交差点を右折し、途中からバイパスに入る。車の量が一気に減って、気持ちがよい。


16時50分、道路の脇で草刈をしていた男性から、どこまで行くのかと尋ねられる。北海道までと答えると、感激して「素晴らしい」「素晴らしい」を連発し、握手を求められる。彼の話では、キャンプ場は間近なこと、また道も標識も明瞭であるから迷うことはないだろうということ。まずは一安心。
17時15分、佐田トンネル(460メートル)を抜け、その先を右折して、関峠に向かって坂を上っていく。
17時30分、関峠にて敦賀市に入る。


17時45分、キャンプ場の表示のある分岐に、あと2kmとある。
18時15分、粟野駅を左に見送り、坂道を随分上った先に快適そうなキャンプ場がある。宿泊者は他に誰もおらず、管理事務所が閉まっていたので無断だが、今夜はここに泊まらせてもらう。幕営0円。

経費  8,768円     累計  155,614円
歩数  63,238歩    累計  1,923,415歩
距離   45km      累計  1,249km

にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「★はじまり★/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、最上段の「次の記事へ」から順に、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第40日 小浜市  小浜ロッジへ

2009年03月29日 | 2008年日本海側の旅
5月20日(火) 雨のち晴 (松尾寺駅~小浜市 「国民宿舎小浜ロッジ」)



今日で徒歩の旅も40日目。
5時25分、夜来の雨が上がったと判断して、出発。
丹後街道の国道27号線を行く。
5時35分~6時05分、急に再び降り出し、バス停にて暫時雨宿り。
6時20分、吉坂峠の青葉トンネル(343メートル)を抜けると、福井県高浜町である。10県目なり。


降ったり止んだりする雨の中で田植えをする人。


水田に映るJR小浜線。


7時05分、青郷駅に着き休憩。ウッドハウスのとても立派な駅舎。


雨が上がり、目の前に青葉山が堂々として見える。
その後、駅の待合室で食事。
7時30分、出発。
このころから徐々に青空が広がってくる。
道路標識に「原電」という文字が出て来、その後も頻出してくる。ここ高浜から、大飯(おおい)、美浜、そして「もんじゅ」と「ふげん」の敦賀と、原子力発電所のある街々を通っていくことになる。
7時50分、日置交差点は、高浜原電方面に行く車でひどく渋滞している。ここは歩道もなく、歩行者は大変危険である。
ダンプカーの多い田園地帯を行き、こちらもまたきれいな三松駅を通過する。
8時30分、若狭湾に面した若宮海水浴場で一旦海岸に出る。


8時50分、若狭高浜駅通過。この付近は高浜町の中心街だろうか、商店が集中している。
9時10分、JR小浜線。


9時15分、水田の中に白鷺が数羽。


9時40分、おとぎの国のような若狭和田駅。ここは大飯原発方面への交差点である。


10時05分~45分、今日の行程は30キロ弱のため、「シーサイド高浜道の駅」の広々とした休憩室で食事と大休止。


道の駅の隣には、「湯っぷる」という温浴施設が併設されている。今日は国民宿舎に泊まりゆっくり風呂につかる予定なので、素通り。
道の駅の後ろ側の青戸入江。


青戸入江の向こうの丘に原発からの鉄塔が並ぶ。


おおい町に入ると、大きくて実にきれいなグランドや体育館がある。高浜町もおおい町も、「立派な」ハコモノ施設をいくつか持っているが、これらは原発誘致の恩恵だろうか。
しかし、道路事情はこれまで歩いて来た中で最悪である。こちらへは補助金は回らないのか、それとも管轄外だから回さないのか。「立派な」ハコモノと貧弱な道路とのなんたる落差。一般に道幅は狭く、歩道がないところも多い。また、あっても右へ左へと切れ切れで脈絡がなく、頻繁に道路を横断しなければならない。そして、ここが福井県の日本海側のメインストリートであり、大型の長距離トラックが大量に通行しているのだ。見かけたものだけでも、近くは京都、滋賀、神戸のナンバー、さらに久留米、北九州、大分、佐賀、福岡などの九州方面のもの、新潟、長岡、栃木、八王子等々、そして青森、八戸、岩手、庄内、福島など東北のものと、さまざまなナンバーをつけたトラックが次々と通って行く。まったく歩きづらいこと甚だしく、非常に緊張した歩行を強いられる。


11時20分、若狭本郷駅の前にある「ほたる」という情報資料館で、伝統工芸品の若狭塗り箸などを見物。
11時45分、青戸大橋を見る。


12時10分、おおい町を抜けて、


小浜市に入る。


13時15分、加斗トンネル(510メートル)を抜ける。
次の勢浜トンネル(516メートル)手前に海岸に沿って「若狭自転車道」がある。トンネル内をトラックにおびえつつ歩くのも気が進まないし、幸い時間的な余裕もあるので、こちらを行くことにする。


新緑の木々の向こうに小浜の街。


途中で猿の親子に出合う。
振り返ると白い波が寄せる海岸線。


14時30分、小浜ロッジに到着。
時間的に早すぎたので、ロビーで休ませてもらう。
「髪ながき 少女とうまれ しろ百合に 額は伏せつつ 君をこそ思へ」という短歌が書かれている、薄幸の歌人山川登美子の記念館のパンフレット等をロビーで見る。


15時少し前に部屋に入れてもらえる。
部屋について調べてみると、靴下に穴。2足目の穴あきで、今回も右足である。歩き方に問題があるのかな。


部屋からは、小浜の街の夜景がきれいだった。


夜、A君からメール。新潟県内通過時に陣中見舞いに行くかもしれない、とのこと。
今日は行動中に何も買わなかったので支出なし。

経費  0円         累計  146,864円
歩数  44,017歩     累計  1,860,177歩
距離  29km       累計  1,204km

(本日の到達地点――福井県に入る)



にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「★はじまり★/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、最上段の「次の記事へ」から順に、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第39日 舞鶴市  JR松尾寺駅へ

2009年03月27日 | 2008年日本海側の旅
5月19日(月 ) 曇のち雨 (「天橋立ユース」~舞鶴市 JR松尾寺駅)



7時50分、出発。
雨の予報が出ており、朝から湿気を含んだ風がやや強い。ユースホステルで朝食をとったため出発時間が遅くなったが、今日の行程は45キロを越える長丁場の予定。気合を入れていく。
8時、天橋立に入る。


内部の遊歩道は車両通行止。
右側に阿蘇海を、


左側に宮津湾のさざ波を見ながら松並木の中を行く。


時々、通学生の自転車が通るだけの静かな道を一人占めして歩く。


いろいろと名前がつけられた松が次々と出てくる。
見返りの松、


羽衣の松、


夫婦松、いずれも言いえて妙なり。


8時25分、天橋立神社


また、剣豪石見重太郎が父の仇討ちをした場所というのもある。


与謝野鉄幹、晶子夫妻の歌碑
「小雨はれ みどりとあけの虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波 寛」
「人おして 回旋橋のひらく時 くろ雲うごく 天橋立 晶子」


夫妻は1930年(昭和5年)5月に吟遊の旅で当地を訪れた、と案内にある。
78年前の同じ5月に、与謝野晶子がここに立ったことを思うと感慨深い。
こちらは天橋立大天橋から


ここの案内板には、
「よさの海の 海士のしわざと みしものを さもわがやくと 汐たるるかな 和泉式部」
「船をいで 十町が程 踏みたりし 白き真砂子の 橋立の道 与謝野晶子」。


天橋立南側の案内図。


天橋立公園概要(おさらい)


知恩寺山門。天橋立は、この知恩寺文殊堂の境内なのだそうである。


8時40分、天橋立を抜ける。実際に中を通って見て、まぁ率直に言えば、天橋立は遠くから眺める方が良いような気がするが。
お土産店街を通り抜け、国道176号線を宮津湾に沿って回り込んでいく。


9時10分、北近畿タンゴ鉄道宮津線の宮津駅を通過。
9時15分、宮津漁港を通ると、京都府が日本海に面した漁業の地でもあることに思い至らせられる。


9時50分、宮津湾を半周して、栗田トンネル(588メートル)を抜ける。
10時、宮津線がやってくる。


さらに曲がりくねった道を今度は栗田湾沿いに行く。岩壁が迫り、狭く見通しの悪い海沿いの道を、自動車が次から次へとやって来る。
1045分、「安寿ロマン海道」と書かれた大きな観光看板があり、
「春の夜はしずかに更けぬ はゆま路の並木のけぶり 箱馬車は轍をどりて 宮津より由良へ急ぎぬ 月落ちて闇の夜ぶかに 箱馬車は由良へとどきぬ 客人は車をおりて 西東みちに別れぬ 大正浪漫詩人 薄田泣菫」と、彼の詩「おもひで」からの抜粋が書かれている。


11時10分、コンビニで買い物と食事。牛乳、おにぎり2個、ガム2個。
11時25分、丹後由良駅を通過。
11時45分、北近畿タンゴ鉄道宮津線のガードをくぐり、由良川左岸を遡行して行く。道端に花菖蒲。


11時50分、安寿と厨子王の像がある。ここ丹後由良は、姉弟が長者である山椒太夫に売り渡され酷使された地である。


12時05分、舞鶴市に入る。


12時45分、赤く塗られた八雲橋を渡り、念仏峠に向かう。


坂を上っている途中でパラパラと来たが、しばらくすると雨は止んでしまう。
13時15分、峠のT字路で国道175号線に合流。そのままゆるやかに西舞鶴の市街へ下っていく。
13時55分、「道の駅舞鶴港とれとれセンター」に出る。道の駅では大陶器市を開催していたが、天候を考え立ち寄っていられず。


隣のコンビニで買い物をして先を急ぐ。牛乳、チョコチップスティック。
西舞鶴にて国道27号線の丹後街道に合流し、JR舞鶴線を見たりしつつ坂を上る。
15時、五老トンネル(180メートル)を抜ける。
15時20分、西舞鶴市街に出て、右折する歩道橋の道路標識は福井県が間近いことを示している。


舞鶴港の東港には海上自衛隊の艦船が停泊中。舞鶴は水産業とともに軍港の町でもある。


曳船(タグボート)3隻。


PGー825ミサイル艇「わかたか」。


15時45分、その先の赤レンガ倉庫群も観光スポット。






倉庫の写真を撮っていると再び雨が降り出し、大急ぎで雨具を着るが、しばらくすると止む。
16時15分、ドラッグスーパーで買い物。テーピング、カロリーメイト3個。
その後は、雨につかまらないうちに何とか松尾寺(まつのおでら)駅まで行こうとやみくもに歩く。
16時50分、スーパーがあり、安売りしていたので、明日以降のことも考えて食料を仕入れていくことにする。バナナ、ミニトマト、焼き鳥。
途中にあった「西国三十三箇所観音霊場二十九番松尾寺」の案内石標。



17時15分、またもや雨が降り出す中を歩き、JR小浜線の無人駅の松尾寺駅に着く。


その後また雨は止んでしまった。今夜はここで泊まらせてもらうことにする。
駅でJR小浜線を待っていた舞鶴工業高専の生徒3人と話。どんなことを勉強しているのか、卒業生の就職先はどこが多いのか、等々。ここも就職先は地元ではなく、大阪・神戸が多いという。こちらの旅の話になり、驚かれるとともに激励される。
いよいよあと2キロ足らずで福井県。京都ともお別れである。京都といえば、修学旅行等から観光の県というイメージばかりが強かったが、丹後半島の農業や、舞鶴湾の漁業など、京都府の第一次産業についても知ることができた。

経費  2,585円     累計  146,846円
歩数  62,578歩    累計  1,816,160歩
距離  45km       累計  1,175km


にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「◎はじまり◎/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、「次の記事」へと進みつつ、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第38日 宮津市  天橋立ユースへ

2009年03月25日 | 2008年日本海側の旅
5月18日(日) 晴 (「YURAPIA丹後あじわいの郷」~ 宮津市 「天橋立ユースホステル」)



5時05分、約束どおり出発。
「YURAPIA丹後あじわいの郷」の入場門。テントは、左側の白い案内板の陰に設営。


昨日に続き、丹後半島の根元を横断していく。 
6時10分、小さな池に黄や紫の花菖蒲や水草。


近寄って見る。黄色の花はアサザだろうか。
「ほととぎす 鳴くや五月のあやめぐさ あやめも知らぬ 恋もするかな」(詠み人知らず)


果樹園から市街地へと順調に下っていく。
6時15分、丹波公民館前で小休止。
6時25分、国道482号線に合流。北近畿タンゴ鉄道宮津線の峰山駅の手前で特急車両の写真。


6時40分~55分、コンビニで買い物と食事。弁当、牛乳、バナナ。ここにもコンビニ内に食事ができるコーナーがあり、早朝の街が少しずつ動き出す姿を窓越しに眺めながらの食事休憩。
朝日を浴びながら歩き出す。
7時15分、左折して国道312号線に入り、真直ぐな商店街を行く。
8時05分、大宮交差点。このまま312号線を行ってもいいのだが、やや遠回りになるので、大内峠を越えて天橋立方面に行くことにする。
8時40分、ゆるやかな坂を上って、一旦下り、竹野川をわたる。
8時50分、村役場と小学校の旧跡。


二宮金次郎の像が立っているが、なにやら寂しげなり。


道は再び上りになり、さらに行くと、
9時20分、大内峠にある「一字観公園」に着く。


ここまで来れば、今日の行程は半ば終わったようなもの、あとはのんびりだ。
「一字観公園」は、天橋立を足もとに一望する最高の立地条件で、ここからの天橋立は、宮津湾と阿蘇海を一直線でわける姿が「横一文字」と呼ばれるそうだ。故に「一字観」公園と名づけられている。
百人一首の小式部内侍の歌、「大江山 いく野の道の遠ければ まだふみもみず 天橋立」の歌で名高い天橋立は、野田川からの砂と沿岸からの砂が堆積することにより、細長い陸地が形成され現在の形になった、とのこと。宮城県の松島と広島県の宮島と並び、「日本三景」の一つ。長さ3.2キロにおよび、約7000本の松並木がある。


まさに絶景。写真を何枚か撮る。




その後、公園の管理人さんに、公園の概要や彼の仕事内容などの話を聞いたりし、また、こちらの旅の話をしたりする。


さらに、13時25分くらいまで、洗濯した衣類やテントを干したり、天橋立見物の老夫婦と話をしたり、木陰で昼寝をしたり、昼食をとったり等々、ユースの時間調整を兼ねて十分に休養をとりつつ過ごす。
13時30分、公園を後に新緑のジグザグ道路を写真を撮りながら下る。


14時25分、178号線に出て、板列神社にて休憩。
15時10分、阿蘇湾沿岸の水田で働く人々。


15時10分、宮津市に入る。


阿蘇海に沿って天橋立の松並木を眺めつつ行く。


16時、ちょっと分かりにくかったが、ケーブル下を過ぎ、籠(この)神社のやや上にある天橋立ユースホステルに到着。今日は行程距離も短く、半日休養のような一日なり。


経費  5,032円     累計  144,261円
歩数  40,686歩    累計  1,753,582歩
距離  24km       累計  1,130km

にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「◎はじまり◎/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、「次の記事」へと進みつつ、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第37日 京丹後市 あじわいの郷道の駅へ

2009年03月23日 | 2008年日本海側の旅
5月17(土) 快晴 (「城崎大会議館」~京丹後市     「 YURAPIA丹後あじわいの郷道の駅」 )



6時45分、宿の窓から見納めの山陰本線。いつの日にかまた。


8時35分、出発。温泉街の裏の木屋町通りを小さな流れに沿って下っていく。


「まんだら湯」は、わが愛誦する歌人、吉井勇の定宿だったそうである。
「夏はきぬ 相模の海の南風に わが瞳燃ゆ わがこころ燃ゆ」
「わが胸の 鼓のひびきたうたらり たうたうたらり 酔へば楽しき」等々。


また、「芭門十哲」の一人である向井去来の、「湯の山やあけゆく松乃花くもり」の句碑もある。


木漏れ日がさわやか。


むかし懐かし。


温泉客の姿も長閑。


川岸の柳も青々と陽を浴びて、今日も「歩き旅日和」なり。


9時10分、城崎駅の手前を左折し、円山川に沿って下る。そよ風が肌に心地よい。


9時45分、河口に架かる港大橋を渡り、絹巻神社。初詣に五社を巡ると縁起がよいとされている「但馬五社」の一社、とか。


気比方面へ行くと、初夏の日差しを浴びて夫婦で農作業をしている畑もある。老夫婦が働いている姿を眺めていると、こちらが自由気儘に歩いているのがいささか申し訳ないような気にもなってくる。
気比トンネルの先は、両側が水田の中を一直線に道路が走っている。苗が微風にそよぎ、カエルの声が賑やかである。よく聞いていると、カエルの鳴き声も様々で、「銀の笛」と形容されるような高く澄んだピッコロのような声もあれば、チューバのような低い音色もある。


このあたりは畑や田圃を鉄線のようなもので仕切ってあるところも多いが、動物対策だろうか。
10時35分、左折し久美浜方面に向かう。
11時20分、三原峠。ここで兵庫県に別れを告げ、


京都府、京丹後市に入る。9県目なり。


ウツギ(卯の花)が満開で、新緑の林の中では、ホトトギスがしきりに「テッペンカケタカ」「テッペンカケタカ」と啼いている。
「卯の花の におう垣根に、ほととぎす はやも来鳴きて、忍び音 もらす、夏は 来ぬ」
と歌いながら歩く。


京都とはいえ、丹後は山深く緑濃きところである。
車の往来もほとんどなく、九十九折れの道をひとりのんびりと久美浜方面に下っていく。


12時ちょうど、波がおだやかに打ち寄せる久美浜湾に着く。


モーターボートも停泊中。


12時05分、湾岸にある如意寺。


吽形の仁王様。


仁王様の下駄と比較。


歩いているうちに、ふと今日が土曜日であることを思い出す。確認してみると、手持ちの現金の残高は5000円程度。予約した明晩のユースホステル代を差し引くと、今日明日の食事代も心もとない。明日は日曜日、これはぜひとも引き出しておかねば。戻って久美浜郵便局を探しATMで貯金を下ろすが、その間20分ほどのロスタイム。
12時45分~13時、下ろしたお金で、早速コンビニで買い物。菓子パン3個、牛乳。コンビニの前の椅子に座って食事。
となりの椅子に座った女高生二人組と話す。彼女たちは3年生で、来年からは看護士になって大阪と神戸で働く予定なのだそうだ。地元では就職口が少ないので、ほとんどの生徒がそうする、とか。修学旅行で沖縄に行ったこと等々を実に楽しげに語る。鹿児島から北海道に向けて歩いていると言ったら驚いていた。彼女らに激励されて出発。国道178号線を行く。
13時10分、久美浜湾の東にある兜山。


13時15分、北近畿タンゴ鉄道宮津線のディーゼル列車が来たので写真を撮る。


13時55分、遠くに久美浜湾を眺めながら田園地帯を行く。


14時20分、佐濃谷川をわたる。


当初の計画では、この近くにある「葛野浜キャンプ場」泊の予定であったが、陽もまだ高く、天気も上々。「YURAPIA丹後あじわいの郷の道の駅」泊に変更し、さらに進むことにする。
14時45分、「はまなすの招き」という休憩所にて小休止。


鮮やかなピンクの花が咲いている。


15時20分、夕日ヶ浦温泉。案内板に映る我が姿。


そろそろ時間が気になりだすが、先はまだ長い。
15時35分、田植機を運転している女性。


16時35分、傾きつつある日差しに浮かび上がる新緑の木々。


夕日が反射して輝いている水田。


16時50分、山裾を宮津線が迂回していく。


16時55分、網野駅を通過。


網野は、源義経の愛妾である静御前の出生の地。
「 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」


17時、田圃の中を行く宮津線。


17時05分、今夜と明日に備えて、食料を買う。牛乳、おにぎり2個、食パン、パンの耳揚げ。
東の空に満月間近の大きな月が出、日陰は肌寒くなってくる。
18時10分、「YURAPIA丹後あじわいの郷道の駅」の場所を教えてもらった二人の男性と少し話す。一人が、四国巡礼をしたいが具体的にはどのように準備したらいいのかと尋ねてくる。長期にわたるだろうから、まず第一に家族の理解を得ること、次に本やインターネットなどで情報を入手し調査すること、そして何よりも決意を持続させること、など今回の自分の旅の経験をアドバイスした。
18時45分、道の駅到着。職員と交渉して、明朝早く出発するからということで、門前にある案内板の陰の芝生にテントを張らせてもらう。初めのうちこそ迷惑そうに見えた職員だったが、こちらの日焼けした姿とザックを見て、本気だと思ってくれたのだろう、最後には「頑張ってください」と激励される。
テントを設営していると、先ほどの男性がオートバイでやって来て、中に入れなくて困っているのではないかと思い、職員に話しをつけてやろうと思って来た、と言ってくれる。テントがあるから外でかまわないので、ここで泊まることで話がついたことを述べ、お礼を言い帰っていただく。土地の人の親切を本当に有難く思った。

経費  9,000円     累計  139,229円
歩数  58,353歩    累計  1,712,896歩
距離  39km       累計  1,106km

(本日の到達地点――京都府に入る)


にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「◎はじまり◎/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、「次の記事」へと進みつつ、徒歩の旅をお楽しみください。--管理人より)

徒歩の旅 第36日 豊岡市  城崎大会議館へ

2009年03月21日 | 2008年日本海側の旅
5月16日(金) 晴 (鎧駅~豊岡市・ 「城崎大会議館」)



目を覚ますと、夜空に明けの明星が煌々と輝いている。今日もよい天気になりそうだと思いながら、4時に起床し、朝食、出発準備。
5時20分、一晩お世話になったホームの小さな待合室に別れを告げ、鎧駅を出発。


5時40分、だらだらとした坂を上り返して、バス停の分岐にて小休止。
178号線を行き、三田トンネル(275メートル)、虫尾トンネル(230メートル)と抜け、
6時10分、香住下浜へ。今日も海は穏やかだ。


6時35分、矢田川にかかる橋の手前で、ちょうど山陰本線の上り通過時刻と重なり、橋梁を行くディーゼル列車の写真を撮る。


香住駅に続く道を越え、
6時50分、今子浦キャンプ場方面への分岐を左折。
7時25分、「城崎 30km」の道標がある。今日の宿泊予定地なり。


道路は一般道のため歩きやすいのだが、昨日同様の羊腸の如し。そしてアップダウンである。
7時35分、今子浦ファミリーキャンプ場という、広くて立派なオートキャンプ場で小休止。
かえる島。本当にかえるが向こうむきになっている姿にそっくりだ。


8時05分、沖浦の港。一仕事終えて停泊中のイカ釣り船。


8時15分、柴山駅を通過。
8時50分、佐津駅通過。田園風景の中、佐津川の橋梁を渡り中山トンネルに消えていく山陰本線の写真を撮る。


柴山トンネル(245メートル)を抜け、
9時10分~20分、佐津海水浴場を見下ろす展望台で食事休憩。
木々の間から見える海水浴場の水は、深く澄みわたって、例えようもない美しさだ。砂浜も白く輝くばかり。何と形容したらよいか、自分の語彙の貧困さを痛感する。旅から帰ってこの景色のすばらしさ、海の色の美しさを、自分の口から説明するのは困難だろう。デジカメを持ってきてよかった。






さらに目を転じると、入り江の右側はリアス式海岸の景色。




小さな上りの後、海に向かい緩やかに下って行くと、
10時40分、再び展望のよい場所に出る。


向こう側の入り江は切浜海水浴場。


10時50分、香美町から、


豊岡市に入る。


浜須井海水浴場を通過。暑さに喉が渇きペットボトル買う。
11時、天然記念物の「ハサカリ岩」を通過する。この珍しい形は、ロッククライミングでいうところの「チョックストーン」である。


「ハサカリ岩」の解説。


11時15分、竹野海岸を通って、眼下に水田や集落を眺めつつ下る。


海岸線から分かれ内陸部に入っていく。分岐を右に竹野川に沿って行くと、道はジグザグの上りになり、
12時20分、鋳物師戻(いもじもどし)峠という珍しい名前の峠につく。


そのいわれは、「その昔、京の鋳物師がこの峠で大地震に出合い頭上の大岩が揺れるのを見て恐ろしくなり、後戻りに逃げ帰ったという話によるとつたえられている」とのこと。
峠の先の鋳物師戻トンネル(280メートル)を過ぎる頃、気温20℃の表示あり。


なるほど路上にはいくつも落石が転がっている。頭上に注意しながら慎重に下っていく。
12時50分、路傍に志賀直哉の小説『城崎にて』のゆかりの桑の木。


13時~20分、山陰本線を跨ぐ橋の上。今日の行程もおおよそ目鼻がつき、時間に余裕がありそうなので、下を通過するディーゼル列車上下線の写真を撮る。
上り普通豊岡行き。




下り普通浜坂行き。




今日は随分と山陰本線の写真を撮ったが、下関から付き合ってきた山陰本線とももうすぐお別れである。
13時50分、今夜の宿泊地の「城崎大会議館」に到着。


まだチェックインの時間には早いので、受付に荷を預かってもらい、「城崎文芸館」に向かう。入場料は宿から貰った50円割引券を使い、350円。






志賀直哉や有島武郎を中心にした白樺派の作家や、島崎藤村、柳田国男、斉藤茂吉ら城崎を訪れた文人墨客の展示を見る。とりわけ与謝野晶子の自筆原稿が、男性的ではっきりとした筆跡であったのが印象的であった。
その後温泉街をまわる。城崎温泉の起源は平安時代だそうだ。
桂小五郎(木戸孝允)が潜伏していた宿などもあり、たしかに歴史を感じさせる。「木戸松菊」とは桂小五郎の変名。


時間調整も兼ねて、温泉街をのんびり眺めながら、写真を撮りつつ散策。


もう柳の葉がこんなに茂っていたのか、と思う。


季節の移り変わりは早い。


温泉街の真ん中にある「一の湯」。


昔風の造りの温泉宿。


路地の奥にもまた温泉宿。


15時30分、再び城崎大会議館に戻る。
宿の夕食は、当然ながら前の晩の粗食とは雲泥の差。紫黒米のちらし、吸い物、刺身、天ぷら、すき焼き、焼き魚、白あえ、えびと貝のサラダ、そば巻き、漬物、茶碗蒸し、デザートにチーズケーキ、と実に豪勢である。全て平らげたのはもちろんのこと。
食前、食後と、かけ流し温泉にゆったりと浸かって床についた。今日は、佐津の海、山陰本線の写真、城崎散策と、とても充実した一日だった。

経費  470円       累計  130,229円
歩数  50,346歩     累計  1,654,543歩
距離  32km       累計  1,067km

(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「◎はじまり◎/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、「次の記事」へと進みつつ、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。――管理人より)

にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ





徒歩の旅 第35日 香美町  鎧駅へ

2009年03月19日 | 2008年日本海側の旅
5月15日(木) 晴 (「諸寄荘ユースホステル」~香美町・JR鎧駅)



8時30分、出発。昨日自動車に乗せてもらった地点まで行き、そこから歩数をカウントする。
諸寄海水浴場にある近畿自然歩道の案内板。


8時55分、昨年貫通したばかりの、新しくて広い歩道のある塩谷トンネル(219メートル)と、城山トンネル(549メートル)を続けて抜け、旧浜坂町に入る。合併により、今は新温泉町というなんとも無粋な名前になってしまっている。
9時10分~9時50分、マリンポーチという施設の横にある公園へ。昨夜洗ったものの半乾きだったタオル、靴下などを日光に当てて干しながら、スーパー開店までの時間調整を兼ねて休憩。
すぐそばの浜坂漁港にはイカ釣り船が停泊している。ホタルイカといえば富山県が有名だが、浜坂港はホタルイカの水揚量が日本一の漁港である。また、松葉ガニの水揚量も日本一。


近畿自然歩道の兵庫日本海側は、「但馬コースタルロード」とも呼ばれている。


遠浅の海水浴場のサンビーチもシーズンオフのため静か。


10時、新田次郎の文学碑には、加藤文太郎の伝記である『孤高の人』からの一節が刻まれてある。浜坂は、単独行で有名な登山家加藤文太郎の出身地。
「……
 観音山のいただきには寺があった。
そこから彼は、彼の故郷浜坂をしみじみと眺めおろした。
 眼下に岸田川が流れていた。
……」、と。


10時20分、大きな旗のような暖簾がかかったJR浜坂駅前を通過。


ここでちょっとした錯覚におそわれる。トンネルを抜けた後、山陰本線の線路を渡ったわけではないのに、この先が北口商店街という表示がある。今いる賑やかなところが南口の商店街として、この先で線路をわたるわけでもなさそうだし、本当に北口商店街があるのだろうか。おかしいなと思いながらも指示に従って歩いていて、ふと気づいた。自分が今いるこの賑やかなところが北口商店街の側なのだと。というのも、太平洋に面した街に住んでいると、自然と繁華な方が南側だと思い込んでしまうが、日本海側の街では概ね北側に漁港があり、当然北側が商店街などのある繁華街になるわけである。自分が今、日本海側を旅しているのだということを再確認した一場面であった。
10時20分~10時50分、スーパーにて今日の駅寝用食料その他の買い物。食パン、牛乳、オールレーズン、ミニトマト、から揚げ、煮豆、チキンラーメン、柿ピー、レトルトカレー、ビタミンC飴、コーヒー飴、バンドエイド、テーピング。牛乳だけ店頭で飲んで、すぐに出発。
11時05分、岸田川をわたる。


11時25分~50分、川の先の公園で食事休憩。ミニトマトをほおばりつつ、買ってきた食パンにから揚げや煮豆をはさんで、景色を眺めつつのんびりと食べる。
空は晴れわたり、水田に向こう側の小高い山が映って長閑である。あの山が観音山だろうか。ユキヤナギの花も満開だ。


食後は田植えをしている人の写真を撮りつつ178号線を進む。


12時05分、久斗橋先の交差点でしばし思案。今日は時間の余裕があるはずだと考え、海沿いの道を行くことに方針を転換。左折して山陰本線を越え、日本海を目指して行く。
50分ほど上り気味に行き、
12時55分、三尾(みお)トンネル(281メートル)をくぐって行くと、真っ青な海に緑の大島が浮かんでいるのが見える。


眼下に三尾漁港。なんとも夢のような海の色である。


13時10分、急な坂を下って三尾漁港に着く。バスの終点であり、車道はここまで。この先は「御火浦(みかのうら)漁火のみち」の遊歩道にかわる。今日もまた羊腸の小径のアップダウンを繰り返していくことになる。


13時分15、御火之浦の展望台へ。




大島をズーミング。


後鳥羽上皇の、「想いやれ憂き身を御火の浦風に泣く泣く絞る袖のしずくを」という歌碑がある。承久の変に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流される途中にここで詠んだ歌。


13時25分、遊歩道をしばらく行ったところで、「方面崩壊のため通行止め」の表示に出くわす。
これでは戻るしかないかと考えていると、ちょうど民家から出てきたおじいさんがおり、尋ねると行かれると言う。
判然とはしないものの、一応行って様子を見ることにする。
しばらく坂道を上っていくと大きな岩が半分ほど道をふさいでいる。これのことを指していたのだと了解。注意深く脇を通過する。
13時50分、「不老の水」という湧き水があり飲む。実に美味し。海側を見れば、嘴のような鋸岬。


14時10分、リアス式海岸を洗う白い波。


14時15分、新温泉町から香美(かみ)町に入る。
14時50分、最高地点を通過。伊笹岬が海に突き出ている。木々の間から、遠くに白亜の余部崎(あまるべざき)灯台、通称「御崎の灯台」が見える。


15時、灯台着。余部崎灯台は、「日本一高い場所にある灯台」という説明板があり、海面から光点まで284メートルもある。


灯台の下で、海を見ながら、鳥取砂丘の近くに住んでいるという老夫婦と話す。時々ここへ来るが、最近は黄砂がひどいので、春に海がこんなにきれいに見えるのは久しぶり、とのこと。歩き旅をしていると言うと、激励され、冷たい缶コーヒーをいただく。


その先の道はやや下り気味になり、さらにどんどん下っていく。
15時30分、平家伝承の里である御崎を通過。石垣に、「ミサキ ヘイケノサト」と花で書いてある。壇の浦の戦いで破れた平家残党が、命からがら流れ着き住み着いたと伝えられている。


16時、展望がきく地点で香住海岸線を振り返る。


右手がこれから向かう餘部(あまるべ)鉄橋方面。


16時20分、遠くに赤い餘部鉄橋が見えてくる。山陰本線が通る時刻かなと思って時刻表を見ていると、ちょうどやって来た。


鉄橋上を通過していくところを写真に撮る。


餘部鉄橋は高さ41メール、長さ309メールで、天空に聳え立っている。現在架け替え工事中で、残念ながら2011年にコンクリート橋に引き継がれることになっている。


香住地区の観光案内図。


鉄橋の真下を通り、「さようなら余部鉄橋 ありがとう余部鉄橋 香美町」というゲートをくぐっていく。


16時50分、日が傾きつつある。夕刻の水田を見ながら行く。


17時10分、バス停の分岐。左折して無人駅の鎧(よろい)駅方面に向かう。
坂道を大きく蛇行して下っていき、
17時40分、鎧駅着。1番線ホームの待合室が小さいながらもきれいで、しかも今年の3月15日からすべての列車が2番線ホームで発着するとの張り紙もある。どうやら今は使用しされていないようだ。今夜はここで寝かせてもらうことにする。駅は鎧港を見下ろす高台にある。


19時30分頃、すべての支度を終えて寝る体制が整った頃、漁港方面を見下ろすと、暮れゆく海上に漁火が灯りとてもきれいであった。


経費  2,188円     累計  129,759円
歩数  44,418歩    累計  1,604,197歩
距離  27km       累計  1,035km


(途中から当ブログにこられた方は、右バー「最新コメント」欄の「◎はじまり◎/ブログを始めました」をクリックして旅のはじめのページに飛び、「次の記事」へと進みつつ、日本縦断徒歩の旅をお楽しみください。――管理人より)

にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ