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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

ハレとケの根源

2017年01月07日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 実態を目視できない物事を二元論として対比させる考え方は、ある面、説得力というのか納得性を明らかにする手段である。この場合は、二極に分かれるため、上下か左右という平面的な表現となり、そこには中間(中庸)や、段階的な増減(グラデーション)の考え方はあまり見られないようである。この考えを導入すると、何らかの理屈の付け方が必要となり、概念上では説明困難となりやすい。

 

 今回、取り上げた喪中と正月との関係は、突き詰めれば、ハレとケとの違いであろう。ケの中に忌中と喪中が入るし、それが終われば、つまり忌中明け、喪中明けとなれば、ハレとなるのである。忌中と喪中の違いは伴う儀式の制限事項の厳しさによるわけで、上位の身分と一般人との違いが生じるし、死者と家族との関係性、例えば、父母、祖父、子供、祖母、兄弟姉妹、叔父叔母等の血族、姻族では異なる。現在、職場や学校等所属していても、法事への参加は優先され、法事出席のための旅行日が発生した場合にも当てはめられているのはご承知のとおりである。

 

 地域や職業によっては忌や喪の期間を短縮する工夫がみられる。生活の場がある以上、いつまでもケの状態では稼ぎができなくなるし、不合理であるからだ。そのためにはケの状態の生ものは食さないという制限を変えて、通常と同じような食事に切り替える。それを長老等の介添えが確認し、公表するのである。そうこうしているうちに、世間ではそのことに対する揶揄は少なくなり、制限自体の緩和につながってきたと考えられる。また、死者が埋葬することについても、一定期間荼毘に付さないこととしていて、仮に死体を安置し、寝食を共にする風習もあったようである「モガリ」。墓地に仮小屋を建て、死者と一緒に生活する地域もあったようである。

 

 ハレとケの違いは、晴れがましいことと忌み嫌うことの感情論である。正月はめでたいので、ハレの日であり、そこには喪に服した、つまり死者を出した家族はケであるので参加できない区分けがなされる。神事には、禊ぎ(みそぎ)を行い、神聖な年神様を迎えるため、俗世間における多くの災いや穢れ(けがれ)を身にまとった人間を清水の力で洗い清めるというものである。類似の儀式は目に見えない世界であるから確認できないのであるが、証明できない世界がまことしやかに儀式として世界中に存在することは、良し、悪しではなく、恐れ、むしろ尊いもの等、実体のない空想世界にあこがれる心理を映しているのかもしれない。