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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

喪中の正月

2017年01月02日 00時00分01秒 | 紹介

 宗教に詳しくないので、失礼があってもいけないと思いながら、持論を申し上げることにしたい。正直言って、今更ながら根拠の乏しい話であり、深く考える必要はないのかもしれない。多分、世間体というか、死者への弔いか、歌舞音曲を慎むことを通して、死者への哀悼を示すのかよくわからないが、仏教や神道でもその解釈は異なっているようである。

 

一種の因習であり、だからといって、物理的に正月を迎えないわけにはいかないし、死者と新たな年を祝うか祝わないかの関係は全く異なる次元であり、新年を祝うことの意味は決して死者への冒涜でも何でもないのである。新年を引き合いに出す喪中とはなんであるのか自分には無意味と思えるのだが。

 

 昨年の11月に新年のご祝辞は遠慮する旨の喪中の葉書を出したのであるが、これとても、親族は承知しているし、会社関係や、あまり親しくない友人には通知する必要はないと思うし、かえって相手が戸惑うこともあるので、最近では年賀状を出しても喪中の通知は出さないという人が多くなっているようである。

 

 では実際の喪中期間はどれくらいなのであろうか。仏教では死後四十九日の中陰明けまでとし、神道では40日とのことである。それがいつのころから正月を挟む期間が喪中としたのかは死亡した月によって異なるのであろうか。つまり1月に亡くなれば、翌年が喪中正月となるし、12月に亡くなれば1か月で喪中正月を迎えることになる。ここに最大1年間の差が生まれてしまう。公家の殿上人の時代にはそれもよかったかもしれないが、喪中だからといってサラリーマンが宴会にも出られないなどはナンセンスであるし、世の中では通用しないことである。

 

 国によっては、主人が亡くなれば、奥方は一生涯喪服を着用するなどの国もあるし、未亡人という呼称についても不合理な言葉であることは間違いない。古い因習は、いずれは廃れる運命にあるといえるし、いつまでも継続するメリットはないであろう。特に合理的であれば因習も良いのであるが、根拠となるものがない以上、かえって生活に支障となり、混乱をきたす。

 

 自分には喪中が社会的に定着していることが不自然に思え、どちらかといえば個人的に関係する死者への哀悼の意を他人にも強要しているかのような一種のパフォーマンスに近いと思えてならない。