カワウの飛翔です。
「ねぎごと」と読む。祈り願うこと、願い事、願かけの意味である。祈ぐは祈願することをいう。労う(ねぎらう)は神の心を慰め、加護を願うことで、慰労する意味がある。禰宜(ねぎ)は労ぐ(ねぐ)の名詞化で、神社に奉仕する者で、神主の下位の神官を指す。又は神官の総称のことである。
働くことの意味があり、それが神官であることに意外な使い方があったとは新たな発見である。願うに通じ願望や望み、その結果が成就することになるわけで、労うことが古くから日本語に使われた事実は何を語っているのであろうか。労働そのものを他者が評価するときに自然と労う気持ちが生まれてきたからか、さもなければ、労働の結果をご苦労様という感謝することで捉えられたのか不明であるが、労働は自分のこととしてではなく、他者から見た世界を感じざるを得ない。
最近耳にする女性が使う言葉に、「自分のために自分にプレゼントした」「自分へのご褒美}など、大変違和感を感じていたところであり、そのような表現がしっくりしなかった。自分を第三者的に表現することは、他にもある。自分の性格や行動等を自分自身が「~が好きな人」「~は嫌いな性格である」などもそうで、臨死体験で、ベッドに横たわる瀕死の自分を高所から俯瞰的に見て表現しているようで、現実離れしていると感じていた。気に掛かることは忘れないもので、その理由を探していたところである。
祈ぎ事がその意味に通じるかも知れないと思った。つまり、労働を自らが評価することで、真の労働を俯瞰的に見ることである。このことは日本人の判断の一部をなす、二面性である。自分の中に理想とするもう一人の自分がいて、もう一人の自分との瞬間的な対話を通じて、判断の正否、行動の方向性や取り組む姿勢、等を決めるという考え方である。
人によっては、神様が宿っていて、自らが自らにお伺いを立てることによって、自己が納得するなどと表現することもある。
本来人間の脳が持っている様々な情報回路がなせるわざといっても良いのかも知れない。その意味では自己を自己が評価することは不思議なことではないし、心の内側での取捨選択の一つに過ぎないともいえるであろう。若干ナルシズムに通じる面もあるが、自己陶酔性とは異なる意味で、俯瞰的な自己回帰を行うことで、実態を正しく理解し、現状を掴むことは必要なことであろう。とはいえ、第三者の意見が重要であることはその通りで、信頼できる方からの助言を聞く努力は惜しまずに行うべきであろう。