蝶人物見遊山記第305回&鎌倉ちょっと不思議な物語第409回
毎年恒例の文学散歩は円覚寺前に10時に集合して、円覚寺境内の塔頭をめぐりました。その中の帰源院は、夏目漱石が止宿してその参禅体験を「門」に書いたことで有名ですが、その同じ塔頭に青春漂泊時代の島崎藤村も滞在して、「春」を書いたとは知りませんでした。
さて漱石の小説「門」の主人公、宗助は、円覚寺の老師から「父母未生以前の本来の面目如何」という公案を出されて呻吟し、それでも懸命に考えた1句を老師の前で述べると
「もつと、ぎろりとした所を持って来なければ駄目だ。其の位な事は少し学問をしたものなら誰でも云へる」
と切って捨てられ、「喪家の犬の如く」室中を退いたのでしたが、そんなら老師を瞠目させるような、「ぎろり」とした見解とは、どのようなものなのであようか?
思えらく、我々が六道十界を経巡り、終わりなき輪廻転生を繰り返す間にも、断ち切られずに宇宙と 厳然とつながっている黒い紐のようなものかしら。
よく分からないのでネットで検索すると、「人間はもともと神である。よってあなたも神なのである」というまさに「ぎろり」とした回答もありましたが、たまたま円覚寺のHPに老師のイエール大学の学生への見解が出ていて、それによると「父母未生以前」から個々の人間を内包しつつ延々と続く「いのち」であるということでした。
ふーむ、「いのち」ねえ。宇宙開闢以来烈々と燃えたぎる生命の大海!
もしもそんな鮮烈なヴィジョンが、宗助の陰鬱な生の胸の裡に一灯を点じたならば、漱石の「門」の世界、そして人生観は大きく変わったかもしれませんね。
文学館の山田さんの導きでいくたびも巡る文学名所 蝶人