照る日曇る日第1217回
第1章が「東京1972」、第2章が「パリ1980」、第3章が「東京1984」、第4章が「アンタナリヴィオ2001」という具合に、瀬能明生という主人公の波乱万丈の半生を、拠点を変えながら時系列で辿っているが、その叙述はおそらく著者の人生行路の総活でもあり、同時代に生きた我々の社会の歩みの対象化と捉え直しでもあるのだろう。
全編を通じて抜群の記憶力と精密極まりない叙述に感銘を受けたが、殊に本書の第3章を読んでいるうちに、あの奇妙な熱に浮かされるようだったバブリーな1980年代の狂躁と妄想が、突然ありありと立ちあがってくるようで興奮を覚えた。
恐らくのちょうどこの頃のような変態的な全能感を、安倍蚤糞を先頭とする日本会議の連中は体感しているに違いない。
本作に登場する「四方田」なる人物は、著者本人とは何の関係もないが、このような韜晦とユーモアも読書の楽しみのひとつだろう。
小説の中でおよそ30年を閲した主人公は、人世と世の中に疲れ果て、さながら世捨て人のようになって第4章で世界の果てに漂着する。
しかし私はこのような道行に共感することはできず、最後に同じ主人公が、2012年の東京に帰還するという、とってつけたようなあわただしいエピローグにも、なおさら納得できなかった。
ついでながら、主人公と瓜二つの人物がどこかで生きていて、2人でひとりのような態様を示すとか、「あらゆる双子は鳥である」とかの呪文は、この小説の中核にとっては、どうでもいい小手先の仕掛けではないだろうか。
「眞子様」と生まれながらに呼ばれる人と「眞眞」と呼び捨てられし我 蝶人