成人式の今日は本当に良い天気
少しお散歩に出かけてきました。
京阪交野市駅
父親が務める炭鉱の閉山で大阪に出て来た49年前は単線で1時間に2本でしたが
今は複線で通常1時間に6本、ラッシュ時には1時間8本も電車が走るようになりました。
当時は北河内郡交野町で人口3万、今は交野市で人口約8万と人も増えました。
豪栄道関、勢関が稽古を積んだ相撲道場が立派な建物になってました。
小学校の時によく買いに来た駄菓子屋(今は商売はやってません)
小学6年の時に、その駄菓子屋で始めてカツアゲにあいました。
4人くらいのグループに「久しぶり、俺やん」と言われ
鳥「知りませんけど?」
4人グループ「XX君やろ?」
鳥「違います。 ○○です。」
4人グループ「そうや、そうや○○君や、久しぶりやな。 少しお金貸してや!!」
私から20円を巻き上げて走り去る彼らの自転車には寝屋川市の某中学校のステッカーが
貼ってありましたわ。
近くには当時からヘンテコな植木がありましたが成長した、その木は今も健在です。
交野山、手前は第2京阪道
私が卒業した小学校、ちなみに長男、長女も卒業生、次男だけ入学はしましたが
自宅を購入した影響で引っ越しをしたんで卒業は交野市の別の小学校です。
私が熊本で通っていた小学校は鉄筋3階建てでトイレはすべて水洗式
それに比べて転校した小学校は木造平屋建てと2階建ての鉄筋の建物がありトイレはポッチャン式でした。
一番驚いたのは熊本の時は教室にストーブなどはなかったのに、こちらはストーブがあったことです。
それも石炭ストーブ、持ち回りで回ってくるストーブ当番の日はいつもより早く学校に行って
石炭倉庫からバケツに一杯石炭と薪を持ってきて新聞紙を使ってクラスメートが登校してくるまで
ストーブに石炭を熾す事が仕事でした。
この道路は私が中学1年の時に開通して小6の時は工事中だったのでよく遊びまわりました。
当時交野市は住宅の建築ラッシュで造成地が多く草野球をするには場所に困る事もなく
造成地には建築資材を保管する作業小屋がどこでも建っていたので暖を取るために
保管してあるガソリンをよく拝借しました。
当時はテレビのニュースは学生デモ隊と機動隊の紛争がよく流れており
学生デモ隊の武器の火炎瓶を作っては工事中の道路の下に開いた農業用水を流すトンネルで
「仮面の忍者・赤影」ごっこと称して楽しく遊びました。
スプレー缶でロケット遊びもよくしてました。
ファミコンなどもなく、遊び仲間も皆、両親は共稼ぎ、夜勤の時は父親が寝ているので
雨が降らない限り、外で遊ばないといけない時代でしたね
交野小学校に転校したのが4年生、翌年の5年生時には児童数が増えた為に交野小学校が分裂して2校に
分かれて、小学校を卒業した時は私の住む地区は新しい新設の中学校に行く事になったので
仲の良い友達、何人かとは離れ離れになりました。
数年前に交野市にも警察署が出来ました。
それまでは枚方警察署の管轄でした。
集落に残る昔の洗い場
旧役場後は文化財です。
小学校卒業時に新設された通っていた中学校
入学当時は校舎は工事中だったんで雨の中の入学式はビニールハウスで行われ
生徒は1年生と2年生で池のほとりに建てられたプレハブ校舎で一学期中は過ごしまた。
最初の図画の授業は校章のデザインでしたわ。
以前からこの木立が気になっていたんで寄ってみました。
何か良いものが有るのかと思って登ったら祠がありました。
自宅に帰ってくると程よい運動になってました。