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【邪馬台国問題】景初二年か景初三年か?( `ー´)ノ

2024-03-03 23:52:19 | 古代史
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邪馬台国問題が中々収束しない原因のひとつは現代に伝わっている魏志倭人伝の十二世紀ころの版本に、倭大夫難升米が魏への朝貢のために帯方郡太守劉夏を訪れた時期が景初二年六月とあるからです。しかし、この時期はまだ司馬懿が公孫氏と戦っている最中で、難升米が面会したのは魏の役人なのですから、前後のことから原本が景初三年だったのを二年と誤写した説が定説となっていたのです。

しかし、すでに原本は分からないので版本の原文通り読むべきだという声が最近大きくなっているのです。というのも東夷伝の韓伝などに景初年間に明帝は楽浪郡と帯方郡に兵を送ったとあるからなのです。この問題については、すでに「景初三年問題が謎を解く鍵でした!(^_-)-☆」で景初三年が正しいとして景初二年説の方と詳しく議論しました。

実はこの問題は重要で、景初三年説であれば、魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事が司馬懿を持ち上げるためにデタラメな記述となっていると考えられることから、魏志倭人伝だけでは邪馬台国の位置が確定しないことが分かるのです。すなわち、日本の歴史書も動員して、考古学や民俗学などの成果から日本の建国過程を解明する必要があるのです。刮目天はこれによって邪馬台国問題も解明しています。

ところが、景初二年説の方は、行程記事は正しく解釈すれば邪馬台国の場所は九州の中で特定できるという主張だと思います。しかし、特定できる場所と言ってもいくつか候補があるようです。しかも、その候補地は魏志倭人伝の中の「自女王国東度海千余里、復有国、皆倭種(女王国から東に千余里海を渡ると、また倭種の国がある)」という一文を無視する必要があるので全く賛成できないのです(注)。

恐らく、陳寿自身も邪馬台国の位置を正確には分からないので想像で文章を残し、後の歴史家に間違った場所を示唆したことから起こっていると推察しています。

つまり、陳寿の文章を正しく読んでも本当の邪馬台国へはたどり着けないというのが真相なのです。

YouTubeで以下のとても丁寧に解説された動画が出てきましたので、早速コメントしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)



景初三年説の根拠を整理して頂き感謝します。更に、付け加えると、明帝は司馬懿への遼東攻略命令とは別に自ら半島ニ郡攻略を密かに計画して実行していますが、何の目的か?司馬懿を助ける為なら密かに準備することはありません!司馬懿が襄平を落としてから、その勢いによってニ郡を落とす目的は明らかです。孫子の兵法で城攻めは最終手段です。敵の守備の軍勢より十分多い軍勢を必要とするのでまず計略が必要だからです。皇帝が自らの策を失敗させることは出来ません。そして策士の司馬懿に大きな功を全て取らせるのもよろしくないと考えたからですよ!景初ニ年八月に公孫淵を斬った報告を受けて二郡攻略を命じてあっさりとニ郡を落としたと言うこと以外に考えられませんね^_^

なるほどです。参考になります。私もその戦略が正しいと思います。

【関連記事】
景初三年問題が謎を解く鍵でした!(^_-)-☆2021-07-31 12:00:10
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【邪馬台国問題】魏志倭人伝は信用できるのか?(;´Д`)
邪馬台国への行程記事は司馬懿の功績を曹魏第一とするために、司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と倭国王難升米が談合して作られたものだと推理しました。帯方郡より東南万二千里の海上から魏のライバルの呉を挟み撃ちする位置に邪馬台国があるとして、邪馬台国への行程を以下の図のように改ざんしました。卑弥呼を倭国の支配者ということにして、自ら女王卑弥呼の男弟という設定にしたのも魏の朝廷の人々の注目を集めるためですよ(^_-)-☆ 



投馬国へ水行してみませんか?( ^)o(^ )倭国王難升米はパートナー赤坂比古の居城(宮ノ原遺跡)を邪馬台国(女王が住むヤマ国という意味)としました。そこへの実際の行程を基にして、戦略上重要な位置(呉の都の建業の東方海上)に持って行くために東を南に方角変更し、水行・陸行の日数を実際の10倍などにした行程だったと分かるのですよ(^_-)-☆


(注)たとえば中島信文「陳寿『三国志』が語る知られざる驚異の古代日本」(本の研究社)2020、pp.144-172)。九州の中で上述の文に該当するのは周防灘に面した地域しかないので、富来隆先生が宇佐説を最初に学説にしています。刮目天も大いに参考にしましたし、中島氏が全否定する范曄後漢書で、上の倭種の国を狗奴国と書き換えているのが正解だと分かりました。狗奴国は旧奴国の蔑称です。書いたのは本当の倭国王難升米だったのです。狗奴国は纏向遺跡だったのです(^_-)-☆。



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