刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

発想の転換は「ちゃぶ台返し」ではないですヨ!(その1)

2024-09-29 14:37:39 | 古代史

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#いつも文献史学の立場から貴重なご意見を頂戴しているTOYOurDAy先生から拙ブログ「邪馬台国への道?( ^)o(^ )」にまたご意見いただきましたので、お返事いたします。ちょっと長いですが、よろしければお付き合いください(#^.^#)

 

新・私の本棚 刮目天ブログ 邪馬台国への道?( ^)o(^ )  1/2

*揺れる依拠史料

 「西晋の創業者司馬懿の功績を称揚するのが目的で書かれた」とは、当時の出来事を知らないでのことと思います。既に叮嚀に「教育的指導」を出しているので、ここでは「ズル」させていただきます。

折角の「教育的指導」も理解できないことは直ぐに忘れてしまいがちですが、先生も拙論がご理解いただけなかったようで普通の「落第生」という訳の分からない感想を述べておられるようで、お気の毒です。だから、もう一度簡単に概略を述べますので、今度はしっかりと覚えておいてくださいネ!( ^)o(^ )

倭人伝の「行程記事をそのまま解釈して、誰もが邪馬台国と納得する場所にはたどり着けない」と勿体ない早とちりの結果、べたべたの「倭人伝」不信論、改竄主義では、史学の正道を外れるので、そっぽを向かれ痛々しいのです。

それはおっしゃるとおりでしょう。史学は文献が正しく書かれていることが前提ですから、改ざんされているなどと言われても困る気持ちはよく分かります。しかし、史実が改ざんされることはよくある話なのですよ。特に権力者が書かせた正史は、普通、その権力の正統性を主張するのが目的なので、都合の悪い話は隠すか、日本書紀のように神話まで創作して隠した上で、人代の歴史も改ざんしていることが、考古学や民俗学などの成果から分かったのです。シナの古代史の場合、三国志も同時代史なので史実が改ざんされている可能性があるのです(詳細は「文献内容は真実とは限らない?( ^)o(^ )!」参照)。

ちゃぶ台返し」に聞こえて不愉快な気持ちは分かりますが、こじれた邪馬台国問題の解決には根底から発想の転換が必要なのですよ。

いかなる文書も目的があって執筆・編纂されるというのはご理解できますよね(#^.^#)

西晋の史官陳寿は立派な学者なので、後世の史学者のために真実を書き残したという性善説に立ったご理解は、恐らく世界でも日本くらいではないでしょうか?マッカーサーが日本人は12歳の少年のようなものと言ったことと、ある意味通じるのかも知れませんね。

ここまで丁寧にご説明差し上げても「魏志倭人伝の中の邪馬台国への行程記事を正しく解釈すれば、万人が納得する邪馬台国に到達できる」と頑固に考えておられるようでとても残念です(;´Д`)。

しかし、「早とちり」とおっしゃられても、江戸時代の新井白石から三百年以上経過した現代でもどこにあったのか、九州説と畿内説に分かれて論争は続いていて決着していませんよ。もうそろそろ、頑迷固陋の史学者から脱して、魏志倭人伝の真の目的について気づいて科学的な解決法を考えないといけませんね。生意気なことを申し上げて恐縮ではありますが(;^ω^)

釈迦に説法ですが、三国志編纂当時の状況について一応ご説明させてください。

陳寿は元は蜀の官吏だったのですが、蜀が滅ぼされて、当時の西晋の朝廷の実力者張華が陳寿の才能を認め、その引き立てで陳寿は著作郎という役職に就いたのです。それ故陳寿は、張華の顔を立てるために三国志を編纂し、創業者司馬懿の功績を上品に持ち上げるのが任務だったと推測できます。特に魏のライバルの呉が健在だったその当時の戦略上最重要だった東夷の大国の倭国を魏に朝貢させた司馬懿は、その功績によって西晋の成立の基礎を作るための大きな権力を手に入れた訳ですから、西晋の宮廷人たちは三国志の中の特に倭人を手なずけた司馬懿の英雄譚に拍手喝采したことは容易に想像できます。陳寿の死後に張華が三国志を公認するように働きかけて勅令を持って正史の資格が与えられたとあります(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社1994,P.70)。

勿論、すでに宮廷書庫にある公文書を抜き出して、その目的に合うように編さんするのが著作郎の仕事なので、陳寿がその公文書を書き換えることなどはしないと思われます。しかし、陳寿が必要と思われる内容だけ取捨選択しているのは確かです(例えば、先行史料「魏略」にあった「倭人は太伯の後」は目的に合わないので割愛している)。司馬懿のライバルだった曹真の功績である親魏大月氏王の朝貢のことを記すべき西域伝を三国志に載せるのは政治的に憚れたからだと推理できます。洛陽から万六千三百七十里にある大月氏国よりも遠いとして書かれた倭国について、もしも真実が書かれていたら司馬懿よりも曹真の功績の方が上だったことが魏の宮廷の人々にバレるからです。洛陽から楽浪郡まで五千余里なので邪馬台国まで万七千余里とした理由なのです。より遠く離れた東夷の大国が皇帝の徳を慕って朝貢させたのは司馬懿の最大の功績ということになるのです。史書を解釈するには、文書に書かれていない背景を理解しないとダメな好い例ですね(^_-)-☆

 

*二つの異議「径百余歩」との確認

 折角なので、足を止めて、叮嚀に説き起こすことにします。「径百余歩の急造りの冢(直径約150mの日本最大の円墳)」「東側が海に面している」などの条件との提言ですが、氏の「大日本邪馬臺国」観で、解釈がズレているので、異議を唱えなければならないのです。

「大日本邪馬臺国」観って何ですか?意味不明です(;^ω^)

*「径百余歩」の確認 「平方里」、「平方歩」の正解
 「径百余歩の冢」自体は「倭人伝」記事のとおりですが、直径150メートルとする「思い込み」は、残念ながら誠実な研究者が陥りがちな陥穽です。
 原因は、中国史書を、歴史的な「常識」に立って科学的に解釈するのを怠り、現代東夷の「常識」で解釈する誤謬です。いえいえ、それは、世上に溢れる「邪馬臺国」論者が、ほぼ例外なしに墜ちる/既に墜ちて井蛙になっている「泥沼」であり、氏を個人攻撃しているのではないのです。

*中国の常識「九章算術」 古代の「必読書」
 「九章算術」なる幾何「教科書」に従うと、これは、円形用地の表現であり、数に強い陳寿の「方百歩内接円」書法と見れば、「方百歩」面積は百「平方歩」十歩(15㍍程度)角であり、内接円は直径十歩です。

 専門書「九章算術」は、「歩」、「里」を土地寸法や道里の単位と土地の「面積」単位とに共用しても読者は判別しますが、史書では「方百歩」、「方四千里」等と表記を変え、合計計算に巻きこまれるのを避けています。

いろいろとお教えくださり有難うございます。しかし卑弥呼の墓には「方百歩」とは書かれておらず、「径百餘歩」、つまり直径が百余歩とあるのですから、おっしゃるとおり、1歩=約1・5mですから、直径約150mの円形墳墓で間違いないと思います。そして、何より、それに相当する卑弥呼のものと思われる円墳「三柱山古墳」を発見したのです。直径10m程度の円形墳墓ではなく、15倍ものサイズの円形墳墓はやたらあるわけではないですよ。(#^.^#)。

*大いに冢を作る
 女王埋葬で採用されている「冢」は、「倭人伝」既出の在来工法で、近隣の通い程度の軽微さです。ただし、「大いに」としたのは、「大人」葬礼と格違いと示したのであり、参列者(徇葬者)百人です。

 準備のない急拵えなのは当然ですが、「盛大に封土した上で葺き石を延々と野越え山越え手渡しで大動員搬送する大墳丘墓」と無縁です。

急造の円墳と考えたのは、魏志倭人伝に正始八年(247年)帯方郡の新任の太守に卑弥呼が使者を送ったとあり、その年の記事に二人目の魏使張政が来た時には卑弥呼はすでに死んでいたとあるからです。何年もかかる古墳時代の段築工法ではなく、単に土を盛り上げただけのものなのです。

円墳と呼ぶか、円形墳丘墓と呼ぶかは丁度、弥生時代終末期と古墳時代初頭の境の時期なのでどちらでも構わないと思います。弥生墳丘墓は普通、自然地形を利用するもので、平地に土を運んだものが古墳と呼ばれているようです。

卑弥呼の墓の有力な候補と考える直径約150mの「三柱山古墳」は急作りで葺石もない、周囲の土を運んで20mほど盛り上げて、墳頂部に箱式石棺を埋めたものだと思われます。周囲の地形図を見ると自然地形を利用していた可能性は高いですから円形墳丘墓というのが正しい表現かも知れませんね。

このサイズの円形墳丘墓あるいは円墳は今のところ日本最大です。卑弥呼の父の赤坂比古の墓が宮ノ原遺跡の北側の「奥城古墳」ですが直径120m高さ約13mの円墳です。卑弥呼より先に亡くなった正始四年の正使伊聲耆(イセギ)と推理しています。現在ブドウ園の展望台になっています(詳細は「卑弥呼の巨大円墳が日本最大だよ!」参照)。

「奥城古墳」も「三柱山古墳」も安心院家族旅行村建設の工事中に偶然発見されたようで、副葬品などはよく分かりませんが、「三柱山古墳」の墳頂部近くに石棺の蓋のような石板がありました。石棺の石材は古墳の南側に第8石棺として置かれているようです(詳細は「卑弥呼の墓は今?」参照)。

「三柱山古墳」が卑弥呼の墓の有力な候補であることは、倭国大乱の痕跡や卑弥呼に関わる遺構、遺物や地名が残っていたから推理しているのです(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆」・「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。

先生は伊都国の近傍に邪馬台国があったと主張されているようですが、墓はどこですか?

もしも大型の鏡など多数の副葬品が見られた平原王墓が卑弥呼の墓だとお考えでしたら、大きな間違いです。

あの墓は卑弥呼の後の女王台与のものだと推理しています。底に水銀朱が敷き詰められている割竹形木棺ですから、古墳時代初頭の卑弥呼の死の少し後(270年頃)の墓です。被葬者の股に日向峠から夏至の朝日が当たることを原田大六氏が発見し、女神アマテラスの墓と主張されましたが、女神アマテラスは日本書紀で創作された神ですし、股に太陽の光が差すということは太陽神の妻の意味なのです。応神天皇を産んだ神功皇后とされた大国主の妻の台与なのです。箸墓古墳で改葬されていますが、大国主の妻ヤマトトビモモソヒメという伝承です(詳細は「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆」参照)。

(つづく)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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