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「黄幢がなぜ難升米に?」全ての謎を解くヒントでした!(^_-)-☆

2024-09-06 20:50:13 | 古代史
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#2021-11-22 00:35:50に記事にしましたが、その後分かったことを入れて改訂しました。よろしければまた、お付き合いください(;^ω^)


とても分かりやすい動画をアップしていただき感謝します。
何故、大夫難升米に詔書と黄幢が渡されたかという疑問が、魏志倭人伝の謎だけでなく、日本の建国の謎を解く鍵ですよ。

黄幢は魏の正規軍の軍旗ですから、難升米は倭国の軍事を掌握する人物、つまり卑弥呼の政治を輔佐する男弟という設定の伊都国男王だと分かります。恐らく刺史のような一大率というのは、その役職を説明したもので、実質上の倭国王だったと考えていいと思います。

卑弥呼は247年に帯方郡に使いを送っているわけですから、それを受けて二人目の魏使張政が到着する前に卑弥呼が死んでいたとあります。卑弥呼が死んだので難升米に授けたのではなく、その二年前にすでに魏の朝廷が難升米に与える詔書と黄幢を帯方郡に仮授させています。ですから、最初から魏は大夫難升米を倭国の本当の王と見ていたと考えられます。これは非常に重要です。

ここから芋ズル式に謎が解けました。勿論卑弥呼の墓も発見できました。詳しくはブログにしましたので「刮目天のブログ」にお越しください。単なる推測の話ではなく論理学の第三の推論法と言われるアブダクションを採用して蓋然性の高い仮説を導き検証しています。「古代史を推理する」に解説していますので、これも是非お読みください。よろしくお願いします。


推理のつづきです。

卑弥呼が人前に出ない王ということにしていますが、そのような女王はシナ人にとってとても不思議な存在と感じるはずです。卑弥呼の名前の音から、日の巫女、太陽神に仕えて、神託を倭国の男王にもたらす役目と分かりますから、魏志倭人伝では倭国を鬼道で統治する女王としていますが、これは明らかに潤色と考えられます。

つまり、前編の動画でご指摘のとおり、魏志倭人伝は西晋宣帝司馬懿の倭国に朝貢させた功績を曹真の功績を上回るものとして伝えていますが、それは西晋の史官陳寿が勝手に創作したものではありませんから、女王の件も陳寿の潤色ではありません。陳寿は宮廷の書庫にある魏使の報告書、その他の先行文献に基づき、邪馬台国への行程記事や倭の国々の情報を記述しています。

ですから、司馬懿は238年8月に公孫氏を滅ぼして、自分の功績を曹真を上回ることにしたいと考えて、先帝が配置した帯方郡太守に代えて部下の劉夏を派遣し、倭国王難升米を懐柔して都合のよいように作らせた話と考えると、謎は全て解けます。

過大な水行1月・陸行1月や邪馬台国の戸数七万戸など合計約十五万戸というデタラメな戸数や郡から万二千里、洛陽から万七千里などというべらぼうな里数などをどう解釈しても邪馬台国にはたどり着けないと分かります。卑弥呼が千人の侍女に囲まれて大都市で生活する女王というのも、魏の朝廷の人々の注目を集めるための誇大宣伝です。倭国のことを魏のライバルの呉を挟み撃ちにする戦略上重要な位置に在るエキゾチックな東夷の大国と思わせて、そのような国に朝貢させた司馬懿の功績は曹魏第一等のものだと理解させるのが司馬懿の狙いです。難升米王はそれに協力し、倭国の国名や人名、里程などの情報を書いて教え、魏を後ろ盾にして狗奴国を抑える狙いがあったと思われます(注)(2024.9.6 赤字追加)

従来、国名や人物名に当てられた文字は漢字を書けない倭人から発音を聞いて、魏の役人が書いたというものというのが通説になっていましたが、最近、伊都国などで硯が使われていたことや、すでに奴国の雀居遺跡で木製の組み机が出土しており、倭国の中枢では漢字を読み書きする人物が居たと分かってきました。

これによって、従来倭人は漢字が分からないとして無視されていた、漢字で延光4年(125年)と書かれた室見川銘板が、伊都国を王都とした倭国王師升が作らせたものだったと分かりました。日本で作られた最古の金石文となります(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ」参照)。

ここから、難升米が師升王の子孫であることも分かるのです。

難升米が書いて教えた伊都国は、他の卑字で書かれた国名や人名から考えると素晴らしい意味があります。殷(商)王朝初期の政治家伊尹(いいん)に因む名前です。伊尹は放蕩だった主君太甲を追放した人物だったことが孟子・尽心上篇司馬遷「史記 殷本紀」に書かれています。(2024.9.6 赤字追加)

実は師升王は奴国の宮廷楽師だった人物だと師姓から分かります(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。クーデターで奴国王を殺し倭国を乗っ取った人物だと推理できます。107年に後漢安帝に160人もの生口を献上したのは「漢委奴国王」の金印が手に入らず、倭国王と認められるために奴国王の部下を安帝に献上したものだと分かります。金印はクーデターを逃れた奴国王の部下安曇族が志賀島に隠したのです。そして、そのような事件があったことは奴国を奈良時代に儺県(なのあがた)としたことから分かります。儺は「鬼やらい」を意味します。難升米の姓は金印で、倭のにんべんを略して委と書いた減筆の流儀から考えると儺升で、奴国王を追放した師升の子孫を意味します。米は頭目の意味ですから師升の倭国を継承した王という職名だったのです。(2024.9.6 赤字追加)

そして何と、最後の奴国王が高天原を追放された乱暴者の神スサノヲだったと分かり日本の誕生の謎が解けます。第64代円融天皇が、984年東大寺の僧奝然(ちょうねん)に「王年代紀」などを持たせて宋に遣使しました。その「王年代紀」に奴国初代王が天御中主、それから二十三代王彦瀲尊(ひこなぎさ)まで筑紫日向宮を都とし、彦瀲尊の四男神武天皇が大和の橿原宮に遷したと書かれています。

第十七代王伊弉諾尊、第十八代王素戔嗚尊、第十九代王天照大神尊と書かれています。記紀神話で高天原を追放されたとされたのは、奴国大王スサノヲだったのです。ですから、次の天照大神尊はクーデターを逃れたスサノヲの弟で、吉備を平定し奴国を再興してヤマト王権の基礎を築いた饒速日尊(ニギハヤヒ)のことだと分かります。

記紀神話のアマテラスは、天武天皇の皇后ということにされた鵜野讃良(持統天皇)が皇位を簒奪し、その子草壁皇子の子軽王を即位させたことを正当化するために創作した女神だと分かりました。藤原不比等は、文武天皇の妃に不比等の娘宮子をつけ、外戚として朝廷の実権を握ったのです。しかも、天武天皇の後に皇位を継承したと推理した高市皇子(仮称、宗形天皇)を暗殺して、皇后でもなかった鵜野を女帝にしたので、皇后が即位する二人の女帝の前例まで創作したことが分かりました。つまり推古天皇も皇極・斉明天皇も持統天皇も、その他のすべての女帝は存在しないことまで判明しました(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」参照)。(2024.9.6 赤字追加)

ほとんどの日本人は日本の正史の正体に気付いていないようです(;^ω^)

この後は、以下の記事をお楽しみください!

【学校で習わなかった真実】正史とは何か?

(注)曹操の甥の曹真は西域の大国の大月氏国のヴァースデーバ王を朝貢させました。魏のライバルを挟み撃ちにする戦略的に重要な位置にありますので親魏大月氏国王の金印を与えました。十万戸の大国の大月氏国の首都カーピーシー(現在アフガニスタンのバグラーム)まで洛陽から万六千三百七十里と分かっています。曹真はその大手柄によって明帝曹叡から軍を任せられます。ところがすぐに病死してしまったので、子の曹爽に後を継がせましたので、公孫氏を滅ぼした司馬懿にとってライバルでした。

そこで、上で述べたとおり、司馬懿は自分の手柄を、曹真の功績を上回るものにするために、帯方郡太守に部下の劉夏を派遣し、新たに朝貢させる倭国を合計十五万戸以上の大国ということにして、呉を東海上から抑え込む戦略上最重要な位置に倭国の都を置きたかったのです。劉夏に朝貢を促された倭国王難升米は、それまで朝貢していた公孫氏が滅ぼされたので、次は倭国が滅ぼされるかもしれないマズイ状況でした。渡りに船ということで倭国王自らが朝貢の交渉に出かけたのです。景初三年六月のことです。



二世紀末の倭国大乱では難升米の倭国は滅亡寸前まで追い詰められましたが、油断していた旧奴国の遠征軍の大将久々遅彦(狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久比神社祭神でスサノヲの子孫でムナカタ海人族を束ねる王)の根拠地を襲い、討ちとりました。王を喪って途方に暮れていた玄界灘を支配するナンバーツーのムナカタ族赤坂比古(和邇氏の祖、卑弥呼の父)を懐柔に成功し、狗奴国と対立しました。、狗奴国(旧奴国)の都はニギハヤヒ大王の子孫ヒコミコ(記紀の崇神天皇)の居た纏向遺跡です。

難升米は司馬懿に協力し、その功績を粉飾するために、卑弥呼を倭国女王ということにして、卑弥呼の都の邪馬台国を帯方郡から万二千余里にすると、洛陽から楽浪郡まで五千余里と知られていたので、曹真よりも遠い万七千余里の邪馬台国に居る女王が統治するエキゾチックな東夷の大国ということにしたのです。これによって魏の朝廷の人々の耳目を集め実力ナンバーワンと認めさせて、西晋の基礎を作ったのです。

このような事情ですから、卑弥呼の男弟とした本当の倭国王難升米は、卑弥呼が居た宇佐市安心院町宮ノ原遺跡への行程を基に、デタラメな行程を太守劉夏と談合して作ったのです(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)。西晋の史官陳寿は恐らく邪馬台国の粉飾に気付いたと思われますが、西晋の創業者の功績がインチキであることなど口が裂けても言えませんので、帯方郡の報告書の行程記事をそのまま記載したのです。ですから、このようなデタラメな行程記事をいくら天才的な発明解釈をしても誰もが納得する邪馬台国にたどり着けないことは三百年の研究で判明しているのです(;^ω^)

倭亦異国の場所が分かれば、逆に、行程記事のトリックが分かりますよ(詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照)-☆



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日本書紀は藤原氏のための歴史書でした!

伊都国の意味がヒントだった?
全ての悲劇の原因は、乱暴者の神とされた奴国十八代スサノヲ大王が倭国王帥升に殺された事件に行き着きます。スサノヲは疫病神ということでその祟りがとても怖いのですよ(;´Д`)

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)






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