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卑弥呼は纏向遺跡には居なかった!( ^)o(^ )

2024-09-12 09:43:05 | 古代史
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#ちょっといろいろと調べていたので、ブログは久しぶりだったので手が滑ってしまいすいませんでした。
今朝の読売テレビニュース@YouTubeに下の動画が出ていたので、コメントしました。消されるかもしれませんので、記事にしました。よろしければお付き合いください(;^ω^)


およそ1800年前、争いに明けくれていた国々を神秘的な力でひとつにまとめたという、女王・卑弥呼。その卑弥呼がいた国「邪馬台国」の所在地を巡っては、いまだ決着がつかず、古代史最大の謎となっています。有力候補地として注目される、奈良・桜井市の「纒向遺跡」。4つの特徴から、その実態に迫りました。
(かんさい情報ネットten. 2024年 9月 4日放送)


纏向遺跡には残念ながら卑弥呼は居ませんでした、来たこともないと断言できます。
魏志倭人伝の記述に合致していません。纏向遺跡には女王を厳重に警護する城柵のある環濠のようなような防御施設もありません。墓も畿内では木郭があるのが普通ですから、魏志倭人伝の「棺あって郭なし」という記述にも合致しません。その他にも、冬は温暖でなく生野菜を食べられないと思います。

何よりも決定的な証拠は、倭国の玄関口の伊都国などの北部九州の人々の往来がないのです。それは三世紀前半の北部九州の外来土器が纏向では全くと言っていいほど無いから分かります。そして、纏向遺跡の前方後円墳で行われた重要な祭祀に、九州を除く畿内や山陰、東国などのほとんどの人々、しかも位の高い人々がやってきているにもかかわらず、九州の倭国の人々が参加していないのです。つまり、纏向遺跡は倭国と敵対していた狗奴国だったのです。



陳寿は政治的な配慮で、西晋の創業者の司馬懿が書かせた邪馬台国への行程記事をそのまま使っていますから、この記事を頼りにどのような天才的な解釈をしても誰もが納得できる邪馬台国へは到達できないのです。

ですから、魏志倭人伝以外の史料を参考にすれば、五世紀に完成した范曄後漢書の記述を信じると解決します。つまり、陳寿は女王国から東に渡海千余里に倭種の国があるという記述を残していますが、范曄は狗奴国があると書き換えているのです。千里は約450kmですので、九州の東側が海に面してこの記述に一致する場所は周防灘沿岸部しかありません。歴史的に宇佐の地に朝廷が最も尊崇した宇佐八幡神宮があります。ここが邪馬台国と考えると、東側の瀬戸内海を超えて当時の最大級の大集落纏向遺跡に到着します。范曄は倭の五王の使者による情報を得ていたのだと分かります。



そして、宇佐市安心院町下毛に魏志倭人伝に描かれた径百余歩(約150m)の日本最大の円墳「三柱山古墳」がありました。弥生後期の宮ノ原遺跡は宗像三女神の降臨伝承地の三女神社があります。宇佐八幡神宮の一番立派な二之御殿に宗像女神とされる比売大神が祀られています。元宮は安心院町妻垣神社の奥宮の一柱謄宮があり、卑弥呼の墓と言う伝承があります。三柱山からここに遷され、最終的に宇佐神宮本殿下の亀山に葬られているという伝承もあります。



また、三柱山古墳の横の地名が血野(現在、知野)とあり、戦国時代に安心院氏の若殿が殺された場所という伝承がありますが、卑弥呼の奴婢百余人がこの地で惨殺されて殉葬されたことを隠す伝承だと推理しています。

また、三柱山古墳から約400m南にヒカケという日食を連想する地名があり、その地にヒカケ三女神社があり、卑弥呼の墓の遥拝所だったようです。卑弥呼の墓に向って三女神の石塔が置かれており、西側に八束神社と金毘羅宮があります。ムナカタ海人族を束ねた王たちが卑弥呼の鎮魂のために祀られています。

そして、そこから目視して墓を遥拝できないように土盛りがされています。そこに横穴が掘られて馬頭観音像が置かれています。女神アマテラスの岩戸隠れを示唆するものです。

さらに、東側の河原には温泉が湧き出ておりすっぽんが養殖されていますが、その先に乳不動という石仏群が彫られています。国東半島で六郷満山を開基した仁聞菩薩の教団が造ったものだと考えられます。

仁聞菩薩は実在人物ではなく、宇佐神宮創建に関わる同じ教団の指導者のひとり法蓮上人と見られています。このように、宇佐市周辺には卑弥呼に関する伝承や遺物が数多くあります(詳細は「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。

日本建国時代の不都合な史実を隠ぺいしたい藤原政権は三女神として卑弥呼を隠していますが、三女神社の一の鳥居の神額には「二女」神社と彫られており、地元では「さんみょうじんじゃ」と呼んでいます。「三は妙だ、女は少ない」とう謎かけだと分かりました。

卑弥呼は、宗像女神市杵島姫のことだと推理しています。卑弥呼の父は魏志倭人伝の正始四年に魏に朝貢した伊聲耆(イセギ)と推理しました。伊は聖職者を意味し、耆は老人ですから、姫巫女に神が憑依して発する神の神託を解釈して人々に伝えて政治を行うムナカタ海人族の高齢のシャーマン王という意味です。伊勢はムナカタ海人族のシャーマンという意味だったのです。

この伊聲耆を除き副使の掖邪狗(ヤヤコ)他六名が魏の朝廷から印綬を賜っていますので、伊聲耆は高齢のために死亡したと推理できます。宮ノ原遺跡のすぐ北に三柱山古墳よりも少しだけ小さい円墳「奥城古墳」に葬られたと推理しています。現在ブドウ園の展望台になっています。

掖邪狗(ヤヤコ)は若殿という意味に取れば伊聲耆の後継者で卑弥呼の弟赤坂比古だと推理しています。天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が市杵島姫命なのですから、赤坂比古が和邇氏の祖のムナカタ海人族のシャーマン王なのです。

そして和邇氏の祖に日触使主(ひふれのおみ)がいますが、日蝕を連想させる名前です。247年3月24日日没直前に北九州で皆既日食がありました。糸島市や宇佐市では深い食ですが、本当の倭国王の伊都国男王は太陽が欠けながら海に沈んでゆく珍しい日没帯食を目撃したので、太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎のために起こった不吉な予兆と考えて、刺客を送ったと推理しています。卑弥呼に仕える一人の男性が伊都国男王の命令で、暗殺団を引き入れて、河原の露天風呂で入浴中の卑弥呼を引き出して殺したと推理しています。乳不動は卑弥呼を弔うために彫られたと推理しています。

纏向遺跡は二世紀初頭に奴国大王スサノヲを討って倭国を乗っ取った宮廷楽師の師升(倭国王帥升)の孫難升米に対立する旧奴国(狗奴国)の王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)の国なのです。三世紀末に倭国を討って日本を統一してヤマト王権が成立しました。この話も長くなるので「刮目天の古代史」をご参照ください。長々とどうもお邪魔しました。

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最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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