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天の岩(裏豪渓)の謎とき(;^ω^)

2024-09-02 10:19:27 | 古代史
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#いつも勉強させていただいている人気ブロガsazanamijiro様の「神秘と感動の絶景を捜し歩いて」に関する前回の記事「吉備の豪渓に日神と書かれた岩があった?(@_@)」と関連した以下の記事にまたコメントしましたら、早速お返事を頂きました。よろしければ、まず以下の記事をご覧の上、お付き合いください(#^.^#)

天の岩(裏豪渓)・絶壁の奇観
2024/08/31 06:00




天の岩?(クリックするとGoogle Mapの写真にジャンプします)

いつも貴重な情報をありがとうございます。何のためにこの大きな岩を置いたのかですが、以下のように考えています(;^ω^)

天柱と日神は以前にも申し上げた皇祖神の伊弉諾尊と日神(天照大神尊)ニギハヤヒ大王のことです。女神アマテラスは日本書紀の編纂者が建国時代の史実を隠ぺいするために、ニギハヤヒ大王の神名から連想して創作した神様です(^^♪

九世紀半ばの天元年間に始まり貞観にかけて火山活動など地殻変動が活発になり噴火や地震・津波やそれに伴い治安が乱れたので朝廷はこの二柱に特別な神階を贈って祈祷を行っています。

この二柱の前に品位を贈られた神様は八世紀半ばの八幡大神と八幡比売神だけです。つまり大国主と卑弥呼です。朝廷がその祟りを最も畏れる二柱です。

丁重にお祀りしても自然現象ですから天変地異は起こりますが、皇祖神に二柱の鎮魂を祈願したのだと考えています。

天の岩に掘られた金毘羅さんの石仏は大物主大神(大国主)のことです。当時の人々の考えははっきりとは分かりませんが、天の岩は大国主の祟りを鎮めるための重しとする岩ではないかと思います。弥生時代に盛行した支石墓では大きな岩を石棺の蓋として、霊魂を鎮める考え方だと思いますが、それと同じ発想ではないでしょうか?

katumoku10様

古代史の推論はあまりしていないのですが、天照大神という女性太陽神を作り出したのは、不比等と持統天皇だと思っています。天照大神の原像は、持統天皇自身であり、あるいは男性太陽神を祭る巫女の姿なのでしょう。卑弥呼のような古いシャーマンもダブります。しかし決定的な証拠を見つけるのはなかなか難しいですね。
(簡単なお返事だけになってすみません。)


早速お返事ありがとうございます。さらにコメントしようとしたのですが、長すぎるので拙ブログに掲載いたしました。よろしければ、またご意見など頂けると幸いです(#^.^#)

おっしゃるとおり不比等と持統天皇(実は即位していない天武天皇妃鵜野讃良)が組んで孫の文武天皇即位を正統化するために天孫降臨神話を創作したと突き止めました。女神アマテラスとその孫ニニギノミコトの関係です。

残念ながら鵜野は巫女ではないと思いますが、自分のしでかした悪事を償う意味なのか、天武天皇のゆかりの吉野や伊勢へ出かけています。しかし、伊勢神宮の創建前なので参拝などしていません(筑紫申真「アマテラスの誕生」講談社学術文庫2002参照)。

卑弥呼は247年3月24日日没直前の日蝕のために本当の倭国王難升米によって暗殺されたと突き止めていますが、その史実からアマテラスの岩戸隠れを創作しています。卑弥呼の墓であると推理した宇佐市安心院町「三柱山古墳」の頓宮(遥拝所)にヒカケという地名が残っており、関係する天岩戸を模した横穴がありました。ですから卑弥呼と天照大御神はその他の部分では一致するものはないようです。



卑弥呼の正体は、記紀神話でアマテラスとスサノヲの誓約で生まれた宗像三女神とされていますが、その主神である市杵島姫命です。あとの二女神はカモフラージュです。宇佐神宮の比売大神、厳島神社や神仏習合して弁財天として全国で祀られています。応神天皇の4世紀から6世紀まで天皇の后妃を出した和邇氏が力を持ったので祖神卑弥呼を全国で祀ったのです。沖ノ島祭祀も和邇氏(正体がムナカタ海人族であることは天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神から判明)が行ったのです。

伊勢神宮内宮の祭神天照皇大神は江戸時代までは男神でした。奈良時代から南北朝時代まで未婚の皇女が斎王(神の妻・巫女)として伊勢神宮と加茂神社に奉仕する制度がありましたが、位の高い内親王はもっぱら近場の賀茂神社で奉仕しています。どちらも同じ男の神様大国主命を祀っていたのです。初代応神天皇の父です。神武天皇は応神天皇の史実を隠すために日本書紀の中で創作された虚像です。伊勢の外宮は応神天皇の母の神功皇后とされた、大国主の妃の女王台与が豊受大神として祀られています。



伊勢神宮には明治になるまで天皇はどなたも参拝していません。明治になってから記紀神話に合わせて女神として祀られるようになっています。江戸時代まで日本書紀が創作した神話が、神仏習合や修験道などの影響を受けて、記紀神話とは全く異なる、龍蛇神(ナーガ)信仰の中世日本紀と呼ばれる神話に変貌していたのです。

明治新政府が神仏分離令を出したので廃仏毀釈運動が全国で起こり、寺院でも神様を祀っていたのですが、それらが打ちこわしに遭って、僧侶も強制的に還俗させられたそうです。あまりに酷いので、寺院は後に復活させてもらったようです。しかし記紀神話に基づく国家神道が創設されて、学校で国史が教育されたので、戦後のほとんどの日本人は記紀神話が日本人のアイデンティティであって、人代も天皇の歴史だと洗脳されています。

しかし上のとおり、江戸時代までの多くの日本人は全く違う神様を祀っていたのです。藤原不比等は、藤原氏に都合の好い律令制度を作り、神祇祭祀を仕切ったので、各地の神社の祭神・由緒や社名まで記紀神話に合わせて作らせています。地元の人たちは藤原氏に遠慮して末社や祠で本当の祭神を祀っています。例えば、スサノヲのゆかりの丹後半島の奈具社(ナーガ龍蛇神の社)では主祭神は豊受大神とされていますが、末社でスサノヲを新羅明神として祀っています。スサノヲは三国史記にある倭国東北一千里のタバナ国で生まれた新羅第四代脱解王のモデルだったのです(詳細は「【葦嶽山の秘密】多婆那国は丹波の奴国!の巻」参照)。



これはほんの一例ですが、藤原氏は建国時代の史実が不都合だったので、神話を創って徹底して隠ぺいし、歴史を改ざんしています。だから記紀や神社伝承で歴史(仮説)を組み立てても謎だらけなのです。つまり、記紀の内容や伝承が史実と一致していないから起こる現象なのですね(^_-)-☆

記紀神話と史実の関係を改めて整理していますので、記事にできたらご案内させていただきます。日本書紀が創った神話はデタラメなので、江戸時代までの多くの人々は先ほどの中世日本紀として、できるだけ史実に近づけるように読み替えて祀っていたのです。

日神は先に、豪渓の記事にコメントさせていただきましたが、史実を隠すために吉備津彦とされています。でも、その正体はスサノヲの弟の奴国十九代王天照大神尊ニギハヤヒだと突き止めています。今上陛下はニギハヤヒ大王の血統だと突き止めています。

初代応神天皇から天武天皇、そして聖武天皇とその後の廃帝までスサノヲの子孫の大国主大神の血統と推理しています。

すべての女性天皇は創作されたもので、実際には存在していないということが、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺の祭祀から判明しています。つまり、天智天皇と、飛んでその孫光仁天皇から歴代天皇を仏式でお祀りしていますが江戸時代の二人の女性天皇は明治になって祀られるようになったと分かりました。

天智天皇は中大兄(ナーガ・龍蛇神国王ニギハヤヒの嫡孫)と呼ばれていましたが、舒明天皇と皇極・斉明天皇の子ではなく、敏達天皇の孫だったと突き止めています。天武天皇は用明天皇の孫にあたりますので、天智天皇とは兄弟ではありません(詳細は「天智天皇は何者だ?(その4)」参照)。



藤原不比等が隠さねばならない歴史の真相はだいたい解明できたと考えています。よろしければ拙ブログにコメントなど頂けると幸いです。どうも有難うございました(;^ω^)。

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)






最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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