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天智天皇とは何者だ?( その1 )

2024-07-07 00:00:56 | 古代史
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そもそも古代の有力氏族「蘇我氏」というはものは存在しなかった!?
歴史人2024年7月号『敗者の日本史』 歴史人編集部 2024.6/28(金)


■馬子や蝦夷の時代には、まだ氏族は存在しなかった?
 そもそも「氏」はすべての人々が持つものではなかった。大王家が後々まで氏を持たないのはその名残であり、尊敬の意味ではない。もし無姓が尊敬されているのならば、庶民は無姓だから、同じく尊敬されていたといえるであろうか。
■馬子や蝦夷が使用した〝蘇我〟以外の名称
『日本書紀』が「蘇我+名前」や「物部+名前」の表記をしているのは、氏族が一般化してからの知識による潤色と考えるべきではないであろうか。

正しい見方だと思います。日本書紀は藤原不比等による勝者の歴史書ですから、藤原氏が権力を維持するのに都合の好い話を、正史(=天皇の歴史書)という形を借りて主張しています。しかし、そういう目で見れば、どこにウソがあるのか直ぐに想像できます(^_-)-☆

つまり蘇我氏とされた大王家に近い権力者の一族を舒明天皇の皇子とされた中大兄皇子と藤原氏の祖の中臣鎌足らが討った蘇我入鹿暗殺事件(645年乙巳の変)の大義名分を言いたいために創った、ほとんどデタラメな話だったのですよ。



ですから関裕二氏が「聖徳太子は蘇我入鹿である」(ワニ文庫、1999)で主張したとおり、聖徳太子の子山背大兄王一族を死に追いやった蘇我氏を大悪人とするために、聖徳太子を大聖人にしたのです。ということは聖徳太子の事績とした官位十二階や十七条憲法などは、実は朝廷の権力を握っていた蘇我氏の事績だったと容易に推理できます。

目の前で起こった乙巳の変のショックで皇極天皇が退位して、新たに即位した孝徳天皇がヤマトの大王(天皇)中心の律令国家とすることを詔した大化の改新は、実は逆で、むしろ蘇我氏がこれを進めていたと関氏は見抜きました。テロの実行犯グループの中大兄皇子らはその後すぐに孝徳天皇から離れたので、気を落とした天皇が病気になり崩御されたとしています。皇極天皇が史上初の重祚で斉明天皇に即位し、実権を握った中大兄皇子が活躍します。このようなことは常識的に考えてあり得ないはずですので、これらも創作と考えていいと思います。はっきりしていることは、聖徳太子のモデルとなる実在人物が存在したかもしれないですが、中大兄皇子らがヤマト朝廷の実力者を殺害して朝廷の権力が衰退したというのが、史実だったようです。

では、なぜそのような事件が起こったのかは、このテロによってその後、何が起こったのかを考えると推理できます。

660年(斉明5年)に百済が唐と新羅の連合軍によって滅ぼされましたので、斉明天皇は661年に飛鳥板葺宮から朝倉橘広庭宮に遷り、ふた月後には崩御してしまいました。中大兄皇子は翌年662年に、百済を復興させるために日本に人質として来ていた百済王子余豊璋(ほうしょう)に軍勢を与え、唐・新羅の連合軍に対抗したのですが、663年白村江で惨敗しました。その後、予想される唐・新羅軍の侵攻から日本を防御する目的で太宰府市・大野城市・春日市にまたがる水城(みずき)を構築し、さらに西日本各地に百済式山城を築いています。そして、667年に都を近江大津宮に遷し、正式に即位したとされています(天智6年)。

このような流れで事態が推移しますので、関氏は、権力者の蘇我氏の外交方針が唐や新羅とも仲良くする全方位外交で、百済に不利だったのでクーデターを起こしたとされています。そしてこの時期に中大兄皇子のブレインの中臣鎌足の記事が消え、敗戦後に鎌足の記事が現れるので、豊璋と鎌足は同一人物だったと推理しています。賛成です。つまり、藤原氏は百済王武寧王の家系だったと考えられます(詳細は「藤原鎌足は日本人じゃない?ブッブー!」参照)。

万葉集研究家の渡辺康則氏は、「聖徳太子は天皇だった」(大空出版 2014)の中で、蘇我氏は大王家で、蘇我馬子は用明天皇、聖徳太子は蘇我入鹿の父蝦夷とされた用明天皇の皇太子で、即位した豊浦天皇、そして入鹿は架空の存在だったと推理しています。橿原市に入鹿神社がありますが、もしも実在人物であれば朝廷が極悪人を祀ることなど許すはずありません。入鹿神社の存在は、むしろ実在人物と見せかけたいためだとすぐ分かりますから、この推理に賛成です。

さらに「万葉集が暴く捏造された天皇・天智(上・下)」(大空出版 2013)では、中大兄皇子は日本書紀の中で一度も皇子と書かれていないことに着目し、天智天皇として即位してはいないことを論証されました。また、父舒明天皇・母皇極(斉明)天皇も架空の天皇だと推理しています。

実際、蘇我氏は聖徳太子の子山背大兄王を排除して、一族全員を自死に追いやり、蘇我派でもない田村皇子を舒明天皇としましたが、現実にはとても考えられないない作り話です。治定された山背大兄王の墓も五世紀築造だそうですので否定されています。また舒明天皇の陵墓も、初葬地とされる「滑谷岡」の所在は明らかでなく、皇極二年に押坂内陵に改葬されたとされていますが、これも所在不明で、江戸時代の元禄探陵で「段ノ塚」古墳を陵墓と決定したようです。また、斉明天皇が崩御されたとする朝倉宮も朝倉市で発見されていません。二人の天皇は架空の人物だったと見ていいと思います。

皇極(斉明)天皇とされた宝皇女(たからのひめみこ)ですが、万葉集の中で歌のやり取りの相手が豊浦天皇(聖徳太子)だったと推理されていますので、中大兄の母ではないのです。中大兄と兄弟とされた大海人皇子(天武天皇)の母だとすると、大海人皇子は豊浦天皇の子の可能性があります。そして乙巳の変で「韓人(からひと)が入鹿を殺した!」と言って、出家して吉野に消えた古人大兄皇子は舒明天皇の第一皇子とされています。韓人は百済王子=鎌足のことですね(^_-)-☆

大兄というのは嫡男の意味ですから古人大兄皇子が本当は皇太子だったはずです。大兄が中大兄と二人いるのは不自然です。通説では真ん中の皇子と解釈していますが、後で述べますが間違いです。古人大兄皇子は日本書紀で天智天皇崩御の直前に吉野に隠れた大海人皇子(天武天皇)と重なります(^_-)-☆

そして、日本書紀で田村皇子(舒明天皇)の先代が敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)推古天皇です。日本で最初の女帝とされています。しかし、すでに「血塗られた女帝の秘密」で推理したように、本当は天武天皇の崩御後に高市皇子が宗形天皇として即位していました。藤原不比等が宗形天皇を暗殺して、文武天皇の即位を正統化するために、天武天皇妃の鵜野讃良(うののさらら、天智天皇皇女)を皇后に持ち上げ、おしどり夫婦に仕立て上げて、天武天皇崩御後に持統天皇としました。そして、高天原神話で持統天皇をモデルとする女神アマテラスを創作したと推理しています。

藤原氏にとって知られたくない不都合な天皇暗殺の史実を隠すために、敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫と舒明天皇の皇后宝皇女がそれぞれ天皇崩御後に即位する前例を創作して持統天皇即位を正統化したと推理しました。つまり、推古天皇から持統天皇までの三代の女帝は捏造なのです。当然、その後の三人の元明・元正・孝謙(称徳)天皇も架空の女帝だと推理できますがこれは、平安時代に編纂された「続日本紀」の範囲です。藤原政権は当然、不比等の戦略を踏襲したのです。

そして京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺では天智天皇から飛んで孫の光仁天皇、そしてその子桓武天皇より歴代天皇を仏式で祀っていますが、明治になるまで女性天皇を誰一人として祀ってはいなかったのです。明治になって江戸時代の二人の女性天皇(明正天皇、後桜町天皇)の肖像画を作って仏事に掲げたとのことです。

女帝というのは日本書紀の捏造で、女性天皇は歴史上誰一人存在しなかったことが分かりました。

天皇(すめらみこと)の称号は七世紀末からと言われますが、もともと三世紀末に15代目応神天皇が父大国主大神の神託により、大神の鎮魂・慰霊のために祭祀王としてヤマトに呼ばれたのが最初です(10代崇神天皇紀の大田田根子の話)。日本書紀ではそれまでに14代の天皇が居たことにしています。実在人物をモデルにした天皇も居ますし、架空の人物もいますが、本当の天皇(ヤマトの祭祀王)ではありません。

天皇即位の年の最初の新嘗祭(にいなめさい、毎年11月に行われる宮中祭祀)である大嘗祭の中心的な儀式は皇祖神と共に食事をして、その強大な霊力を新天皇が身に纏い、天皇(ヤマトの大王)として偉業を行う能力を身に着けるための儀式「真床追衾(まとこおうふすま)」だと考えています。皇祖神の男系男子にその資格があり、それ以外の人間が天皇に即位することを大国主大神(本当の天照皇太神)は許さないのです。大神の意思に反して天皇に即位したとしても、国家の安泰と国民の安寧を実現できないという信仰なのです。

未婚の皇女は大神の妻として奉仕する役割です。奈良時代から南北朝時代まで加茂神社と伊勢神宮に巫女として奉仕する斎王がいました。都に近い賀茂神社の方に位の高い内親王が多く奉仕していました。つまりどちらの神社も本当のご祭神は一緒、大国主大神高野御子なのですから(詳細は「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)」参照)。

これらは日本が建国される二世紀から三世紀にかけてムナカタ海人族の中で行われた古い政治形態なのです。姫巫女(卑弥呼)に太陽神が憑依して神託を発すると(口寄せ)、男性の祭祀王(シャーマン王)が神の意思を人々に伝えた政治形態がご皇室に引き継がれているのです(詳細は「卑弥呼の鬼道とは?」参照)。これらは全く男女差別ではなく、日本の伝統なのです。現在も斎王の名残として伊勢神宮の祭主をもと皇族の女性が勤めることになっています(「伊勢神宮の新祭主に黒田清子さん」伊勢志摩経済新聞2017.09.14)。

(つづく)


ここまで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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