刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本人はもともと「和の精神」だった!(その3)

2023-02-11 00:00:22 | 古代史
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この良渚古城の遺跡から土木技術や組織された軍隊まで持っていたと考えられますので、伝説の禹王が黄河中流域に進出し、夏王朝を建てたと推理できます。倭人や同系統の、後に殷(商)王朝を建てた人々を統率していたと考えています。禹王の子孫が周王朝や春秋の呉を建てました。紀元前473年に呉が滅んで、王族の一部が倭人に助けられて半島南部に逃亡しました。さらに紀元前四世紀初頭に、南下して福岡市早良平野の吉武高木遺跡に移り住んだ初代奴国王の天御中主です。中はナーガ(奴)=龍蛇神を意味し、龍蛇神を信奉する海人族の王という名前なのです。

第十七代王伊弉諾尊が縄文海人ムナカタ族の伊弉冉尊と結婚し、二人の子スサノヲが王位を継ぎますが、宮廷楽師師升らの反乱で殺され約500年間続いた奴国が滅びます。しかし、クーデターを逃れたスサノヲの弟ニギハヤヒが吉備を平定し、奴国を再興し、その子孫が纏向遺跡でヤマト政権を建てました(「纏向遺跡は卑弥呼に敵対する狗奴国だった」参照)。ニギハヤヒと同時に逃れたスサノヲの子イタケルは、北部九州の倭国を除く九州、山陰から北陸などを根拠地とするムナカタ族の王となり、スサノヲ大王の縁故で半島南部の鉄の交易ネットワークを築いて旧奴国勢力を隆盛にしました。その子孫が三輪山の大物主大神(大国主久々遅彦)の神託により祭祀王としてニギハヤヒの子孫(記紀の崇神天皇)によって纏向遺跡に呼ばれて、初代ヤマトの大王応神天皇に即位しました(詳細は文末の図参照)。

日向三代の神話では初代神武天皇の母玉依姫や祖母豊玉姫がワニの一族の姉妹だったとして貶めていますが、本当の初代応神天皇はムナカタ族のイザナミを母系とする女王台与(近江・北陸を根拠地とする息長宿禰王の姫巫女、神功皇后のモデル)が母ということを示唆しているのです。応神天皇の本当の父は仲哀天皇ではなく、神功皇后の傍らで常に助けた三百歳の老人武内宿禰とされたムナカタ海人族を束ねる大国主久々遅彦だったのです。狗奴国(旧奴国)王族と縄文海人ムナカタ族との婚姻関係で生まれた高貴な方々が現在のご皇室の先祖だと考えています(注)。

「倭(やまと)」の文字は八世紀ころ「大和」と変えたと伝わっています。国号の「日本」は八世紀初頭の遣唐使が国号変更を伝えたのですが、建国時代を不比等が作った日本神話にしたので、シナ人から信用されず、旧唐書では日本は倭の別種の国とされました。上で述べたとおり、十世紀の宋の太宗に王年代紀を献上して、ようやく、「日本は古の倭の奴国」と認識されて、その後の中国の歴史書で倭国から日本という国号に変更されました。ですから何度でも言いますが、日本神話の神代が奴国の時代で、高天原は北部九州のことだったと朝廷が告白したことを意味する王年代紀を留学僧に持たせたと推理しています。

それでは日本に神話がないかというと、ちゃんとあったのです。上で述べたように日本人の祖先は禹王の一族です。禹王は下の図のような蛇の化身と考えられています。そして禹王の祖先が中国の三皇神話に登場する、天皇伏羲・泰(人)皇女媧です。地皇神農は伏羲が没してから治めた農業や医薬の神で、交易を人々に教えました。諸説あるようですが、シナ人の祖先と考えています(「中国神話は日本人の神話だった?」参照)。人類の始祖神である伏羲・女媧は洪水神話の後に現れる人面蛇体の夫婦の神ですから、原始夏人と呼ぶ良渚文化の担い手だった最初の龍蛇神(ナーガ)なのです。



ですから、アマテラス女神も高天原神話も不比等の創作ですが、

日本人の本当の神話は中つ国(龍蛇神国)神話だったのです。

伏羲・女媧の末裔である天皇陛下を戴く倭人と混血した縄文人も、古代日本に帰化した人々もみんな同じ中つ国神話を持つ日本民族なのです。半島から帰化して日本人になった百済人・新羅人・高麗人はたぶん正体は倭人ですよ!シュメール人もユダヤ人も「和の精神」は持たないでしょう(*´Д`)

日本人はもともと「和の精神」を持つ民族なのですよ(^_-)-☆。




最後に、昨年令和4年11月15日に永眠された著名な外交評論家加瀬英明先生の記事をご紹介します。
「和」と「心」という言葉は世界中で日本にしかない。
それが意味するところとは

いま誇るべき日本人の精神 第8回 加瀬 英明 2016.10.11

「日中友好」が熱心に唱えられていたあいだ、私はよく「中国人も同じ人間だから、心が通じ合うはずだ」と聞かされて、辟易したものだった。「心を通じる」とか、「心を分かち合う」という表現が、外国語にないことを知らないのだ。

 日本以外の国に、「和」は存在していない。日本では、心を分かち合っているからだ。
 世界は二十一世紀に入ったというのに、戦乱や、虐政が絶えることがない。
 世界平和は、日本の心と和の文化が、世界にひろまることによってのみ、もたらされることになろう。


お願いですから、平和ボケの日本で平和活動してないでください!
核ミサイルで日本を狙っている反日独裁者や戦争好きのディープステートに
日本人の心と和の精神をしっかり理解させてください!

日本建国は武力だけではできなかったのです!
仕上げはトビ(龍蛇神・大国主大神)の呪力なのですから!

神々に護られた、こんなすごい国どこにありますか?(;^ω^)
ある意味、核ミサイルより怖いぞ!
中つ国神話を持つ「和の精神」の日本人の心が世界のリーダーをとりこにすれば、
地球は平和な星になりますね!
そう考えると、世界をリードした安倍元首相を失ったのは人類の大きな損失ですよ!(*´Д`)
地球が消滅する前に、安倍さんに代わる確かな人物を日本国民が担いで、世界平和を実現しましょう!
それまでは、とにかく日本が滅亡しないように、日本国民がしっかりするしかないですよ(^_-)-☆


(注)三世紀の魏略逸文に、倭人は呉の太伯の後裔とあるのですが、陳寿は西晋建国の基礎を作った司馬懿の功績を称揚するのが目的で三国志・魏志倭人伝を編纂したと分かっていますので、倭国は呉の王族が建てたという伝承は編纂目的に合わないために意図的に隠したと考えています。しかし、最後の呉王夫差の子が日本に来て松野連(まつののむらじ)の祖とする松野連系図が残っています(「松野連系図は正しいのか?」参照)。その中で奴国を滅ぼした師升の一族の伊都国男王難升米や履中天皇から雄略天皇までの倭の五王などが書き入れられていますので(「空白の世紀と倭の五王の謎(その3)」参照)、後世の人が、松野氏が由緒あるものと見せるために作った偽の系図と判定できます。もしも松野連が倭の五王などの末裔ならば何らかの物証があるはずですので、それが出てくれば事実かどうかまた判定します。物証のない、このような系図は歴史書の知識がある人物によって簡単に作れますので、後世の造作という結論になります。

なお、wiki「松野氏」によれば『諸系譜』(国立国会図書館と静嘉堂文庫所蔵)に松野連の祖が呉王夫差とあり、おそらく、松野連に何らかの伝承があったのか、あるいは藤原氏が意図的に、天皇家の祖先が呉王族であることを隠すために、松野連を呉王夫差の末裔としたのだと推理しています。

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20年以上やっている緊縮財政政策(消費税など)による国民貧困化・少子化に加えてコロナ禍で苦しんでいる多くの国民を救済するために国民経済を正常化しなくてはダメな状況ですよ。コロナ対策で大量に国債発行したので、今現在は、少しましな状況なのですから、ネットの資金需要を対GDP比マイナス5%になるように国債発行すれば増税する必要は全くないのです。それよりも消費税を一時的にゼロに減税して国民の消費マインドを刺激する正しい景気対策すら考えられないような、景気を冷やす内閣は貧乏神です。渋谷東急百貨店も閉店のおしらせ?地方都市の駅前はすでにほとんどがシャッター街のようなので、このまま行くと、もう国民生活も終わりますよ。今ならば国民経済が分かる、しっかりしたリーダーにカジ取りしてもらえば、まだ間に合うかも!

刮目天はチャンネル桜三橋貴明さんのマクロ経済学を勉強させていただきました。チャンネル桜が立ち上げた「新党くにもり」が一番信頼できる政党です。その代表の前自民党衆議院議員で、積極財政派の党内若手のリーダーだった、「政府の赤字はみんなの黒字」を提唱した安藤裕さんの大ファンです。経済のカジ取りをやって欲しい素晴らしい人物です。是非、番組をご覧ください!国民のために罪務症緊縮派勢力と戦っている自民党の高市早苗さん・西田昌司さんもファンです。この方たちが日本を引っ張っていって欲しいと思います。

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オジキは元日銀担当記者だったのか!とても分かり易く解説されていますので、まだの方は是非ご覧ください。会田先生の提唱されている「ネットの資金需要」の考え方は世界経済にも貢献できるマクロ経済政策の正しい運営基準です。日本がインチキな財政健全化(PB黒字化目標)ということで20年以上経済成長しなかったのは、結果として、ネットの資金需要の目標を財務省がゼロにしたからだったと分かります。家計にお金が回らないということなのです。ノーベル経済学賞を取っていただければ、ボ〇ナス罪務症政権&インチキ御用経済学者らも認めざる得なくなります。コンセンサスを疑うという話は刮目天の古代史と共通でしたよ(^_-)-☆


発散しかけましたが、最後までお付き合い、どうも有難うございました。(^◇^)
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日本人はもともと「和の精神」だった!(その2)

2023-02-10 00:00:01 | 古代史
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それでは、「和の精神」はどこから来たのかという話ですが、日本人の思想の基層は、すでに一万六千年前に始まり、約三千年までの圧倒的に長い縄文時代であったことはよく知られており、「和の精神」を記紀に求める必要はないのです。日本書紀に基づく神道の祝詞には、神代に八百万の神々が居て、山川草木に神が宿るとされ、アニミズムによる多神教だったように考えられていますが、縄文時代の人々はこのようなアニミズムでは説明できない宗教観を持っていたことが分かってきました。佐藤弘夫「日本人と神」(講談社現代新書)の中で、「人類がカミと感じるのは人々に畏怖の念を抱かせる自然現象(イナズマ・台風・太陽・月の天体運行など)や超人的な能力の動物(クマ・鳥・マムシなど)や、巨木・巨石などの奇観のスポットという具体的なモノであり、これらが始原的なカミの姿だった」と説明されています。日本人の信仰がアニミズムというのは記紀の創作なのです。

七千三百年前の鬼界カルデラの超巨大噴火の影響で、それまでの九州南部の縄文人は絶滅し、その他の場所も壊滅的な被害を受けた模様です。その後の縄文時代中期ころから蛇を象った土器などが見られるようになっています。蛇の文化はそれまで列島に見られなかったので、列島にやって来た人々がもたらした文化ではないかと考えられます。



すでに縄文時代前期中頃(約5900年前)の青森県三内丸山遺跡遼河人によって造られてたと考えられています。龍を発明したといわれる遼河人の影響を受けた日本人の先祖の縄文人は蛇神を信仰するようになったと考えられます。ヘビ信仰の内容は吉野裕子「蛇」(講談社学術文庫 1999年)に詳細に述べられています。

wiki「縄文時代」によれば、縄文人と一口に言ってもその生活は列島の地域ごとに異なり、9つの文化圏に分かれていたとあります。これら全ての文化圏のいずれもが共通の、しかし細部が若干異なる文化要素のセットを保持していたのではなく、それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持しており、ある文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素も当然ながら見られるのである。

縄文後期に入ると、これら9つの文化圏のうち、「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の5つがまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成するようになり、また「北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における照葉樹林文化)を構成するようになる。その結果、縄文後期・晩期には文化圏の数は4つに減少する。


三内丸山遺跡では栗やクルミなどを育てて、マメやエゴマなどを栽培して、ウサギなどの小動物を食料にしていました。他の縄文人が好むシカやイノシシは食べていなかったようです。大型建物がありましたので、かなりの大人数が共同生活していたと考えられます。

出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われる。土器、石器が中心であるが、日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土している。この他にも日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土している。翡翠は糸魚川が主産地であるため、翡翠の出土は上越地域との交易が証明される。また平底の円筒土器や玦(けつ)状耳飾りなどは、中国大陸の遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されている[9]。

三内丸山遺跡の遼河人系縄文人は園耕民で、舟の民でもあったので、男性は交易のために集落から列島各地へ出稼ぎして、集落では他の縄文人と同様の母系社会を作っていたと考えられます。三内丸山の人たちが他の地域の縄文人と交流し、舟の技術や考え方を伝えたと考えています。女性社会の人々は、暴力や争いごとを好まず、穏やかな気持ちで仲間意識を持って共同作業を得意とする人々と考えられますから、「和の精神」は縄文時代に始まったと考えていいのではないかと思います。

また長江河口・下流域(江南)で水田稲作を行い、舟で移動する技術を持つ人々が、紀元前十一世紀ころの周の成王に海南島の北の広西チワン地区で採れる薬草(ウコン)を献じたという記事が「論衡」(一世紀の王充による)に見られ、「倭人」と書かれています。この頃には半島南部でも生活するようになり、前九世紀後半には北部九州玄界灘沿岸へ水田稲作技術を伝えました。すでに半島南部では列島から来ていた縄文人と交流していたと考えられます。西暦五七年後漢光武帝から倭の奴国王に金印が与えられていますので、倭の奴国は倭人が建てた国という意味で使われるようになっていたと考えられます。一〇七年後漢安帝に朝貢した倭の回土国(ウィトコク、伊都国)王師升の回土国も倭人の国ということですので、そういう国の集合体が倭国ということです。(2023.3.18 赤字訂正)

日本列島に住む人々が「倭人」と呼ばれる由来は、様々な説がありますが、「倭」という漢字が「従順な」という意味があるからだと考えられます。つまり、争いごとを好まない、リーダーや為政者に素直に従う人々という意味です。

また、長江河口の良渚文化の担い手だった人々がインド洋やマダガスカル島まで移動する舟の民だったと分かっています(「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)。紀元前二千年頃に長江が氾濫し、一夜にしてこの遺跡が壊滅したと分かっており、この人々の多くは台湾やフィリピンやインドネシアなどに移住しています。


【関連記事】
日本列島に集まった人々とは?


ここまでお付き合い、どうも有難うございました。つづきもあります。(^◇^)
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日本人はもともと「和の精神」だった!(その1)

2023-02-09 09:34:26 | 古代史
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建国記念の日に向けて書きだしましたが、長くなったので分割して公開します。
記紀神話では日本の建国は初代神武天皇とされていますが、残念ながらほとんどの日本人は藤原不比等に騙されています。でも、日本の建国は天皇によって大和(ヤマト)の地で建国されたのは間違いありません。日付がはっきりすれば建国記念日も変わると思いますが、今のところこの日を建国記念日として、日本の建国を祝うことは日本民族の務めだと思います。ルーツを理解しないと自分が何者か、その正体が分かりませんから、倫理的な行動規範も生まれません。「和の精神」の日本という国に生まれ育ったことを、日本を建国してくれた祖先に感謝するのは良いことです。ちょっと長いですが、ルーツを探す旅にお付き合いください。あやふやな部分もありますので、納得できない箇所は、遠慮なく教えてください。(#^.^#)


日本書紀と古事記…2種類の歴史書が“同時に”生まれた理由
2022年12月07日 更新 吉木誉絵(外交政策センター研究員)

日本は本当に「和の国」か(PHP研究所刊)』は「日本人の本来のアイデンティティは、日本の神話である『古事記』が示す「和の国」の姿ではないか」をテーマに日本人の本質を問い直す論考であり、解剖学者の養老孟司氏からも「日本がどのような国か、本気で考えた一冊」と評された。本稿では同書より、「日本書紀」が存在する一方でなぜ「古事記」が必要だったのかを考察した一節を紹介する。#途中省略して要点だけ紹介します。
「正史」は『日本書紀』、では『古事記』とは?
中国の大帝国に対し、日本も自立した国であることを表明したのだった。『日本書紀』は、東アジアの中の独立国としての正当性を示そうとしているという意味で、対外意識のもと編纂されたものである。
『古事記』は変体漢文、『日本書紀』は純漢文
『古事記』が初めて引用されたのは『万葉集』で「古い歌謡や物語の原点」として参考にされているものの、「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」という平安時代前期に宮中行事として何度か行われた『日本書紀』の講読会において、『日本書紀』だけではわからない古い言葉の訓読みを『古事記』から参照していたことからも、あくまで『日本書紀』の補完的存在だったことがわかっている(岡部隆志氏の指摘による)。
『日本書紀』は、当時の「近代化」の産物だった
日本人の情感を伝えるための『古事記』
そもそも『日本書紀』の編纂が先立って構想され、『日本書紀』のような古代中国思想の影響を強く受けた編纂方法では、日本人の「感情」――これは日本人のこころとも言い換えられるものである――が除外されてしまうので、むしろ日本人の情感を大切にするという編纂の構想が『古事記』(そして『万葉集』)の基盤にあったというのだ。
「日本文化は両極端の間を揺れ動く」
私は、この相反する方針を取る『古事記』と『日本書紀』が同時に存在し、それを日本人が自然に受け入れているということ自体が、日本人の「和の精神」のひとつの様態だと思う。相異なる存在の同時性は、日本人が好むものである。日本人は、それが相反するものだと気づかないほど、それらを無意識的に共存させる。<中略>これは元を辿れば、万物全てに魂が宿り、人間と動植物、物質と生命などを結びつける神道の世界像にその深淵があるという考察は、日本人の感性の源について大変示唆的である。

とても興味深い論考です。日本人のアイデンティティのひとつの「和の精神」を記紀から読み解こうとしています。聖徳太子の十七条憲法の一条に「和を以て貴しと為し」とあります。しかし、これは儒教や仏教の影響を受けていることが知られています。なぜこれを最初に持ってこなければならないのかを考えると、その時代には和があまり大切にされていなかった実情があるからだと気づきます。現に、記紀で書かれた神代から七世紀の聖徳太子やその後の持統天皇の時代までの全編ほとんどが争いの連続だったようですから。だから聖徳太子が提唱したのは、「和の精神」を取り戻してほしいという願望からなのでしょう(^_-)-☆

しかし、記紀がどういう素性のものなのかについては、すでにここで何度も述べています(「古代史の盲点はここだ(その1)(その2)」「日本書紀とは何だったのか?」参照)。日本書紀で神代を描いた目的は、日本建国の時代に活躍した豪族の歴史を隠し、神話の形で藤原氏の遠い祖先が神代から活躍していたことにするためなのです。それによって宮中の神祇祭祀を独占し、藤原氏の政治の正統性を人々に押し付けるためなのです。現代人にまで押し付けている不比等という人物は確かにすごい!

例えば、国譲り神話で大国主から力ずくで豊葦原の中つ国を奪ったのは、高天原の指令を受けたタケミカズチとフツヌシという二柱の神ですが、実はちゃっかりと藤原氏の氏神として春日大社で祀っています。しかし史実は、狗奴国と呼ばれた旧奴国のニギハヤヒ大王の一族の尾張王建稲種命と物部氏が、狗奴国を裏切った大国主と女王台与の倭国を倒して、列島内の倭国の勢力を鎮撫して日本を統一したのです。この二人の話を神話として史実を隠したのです。記紀の人代では崇神天皇の四道将軍と景行天皇の九州遠征やヤマトタケルの東国遠征など、そして仲哀天皇の熊襲征伐などという約400年間の物語を創作していますが、史実は三世紀後半の約50年くらいの出来事だったということが考古学の成果から判明しています(「日本建国のための戦いだ!」参照)。

日本書紀よりも前に完成したとされる古事記も、9世紀の学者多人長(おおのひとなが)が日本書紀で隠された史実を、日本書紀に沿いながら遠回しに正す目的で創作したものなのです。だから、記紀の内容を鵜呑みにすると、不比等の狙った間違った方向に行ってしまいます。例えば、多くの日本人は騙されていますが、女性天皇は歴史上存在していないのです。皇祖神と霊的に一体化した天皇の最も大切な役割は日本と日本国民のために行う宮中祭祀です。未婚の皇女は神の妻として、神が憑依して神託を天皇に伝える役目の巫女なのです。女性差別ではなくそれぞれに与えられた役割として理解すべきものなのです。

日本書紀は天武天皇の妃だった鵜野讃良(うののさらら、天智天皇の皇女)が、天皇の崩御後に優秀な皇子たちを退けて、鵜野の孫であった文武天皇を即位させたことの正統性のために、高天原神話で最高神のアマテラス女神を創作し、孫のニニギノミコトの天孫降臨という話にしたのです。鵜野自身も持統天皇に即位したように書いていますが、実は天武天皇の長男高市皇子が即位したことを隠すために神武天皇や応神天皇の崩御後の争いを創作して、史実を誤魔化していることも判明しました(「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?!」参照)。

天孫降臨神話も第二代奴国王天村雲尊が孫の天爾聞尊(あめのににぎのみこと、第四代王)に三種の神器を与えて吉武高木遺跡の王宮から須玖岡本遺跡に王宮を作らせて、比恵・那珂遺跡に交易センターを作って奴国隆盛の基礎を築かせた史実の伝承があったと推理しています。これは10世紀に宋に留学した東大寺の僧が太宗に献上した日本の王年代紀によって分かりました。神話は、初代王天御中主から第18代王スサノヲまでの史実に基づき、藤原不比等が創作したものだったのです(「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)。




(その2)に続きます。内容をチェックして、夜中の12時過ぎに公開予定です。
また、おつきあいください(#^.^#)

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆

2023-02-03 00:00:02 | 古代史
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2021-02-01 10:42:46に記事にしましたが、この話は刮目天オリジナルなので眉に唾つけてお読みください( ^)o(^ )。また、本文の末尾に書き洩らした重要なことを付け加えて再掲します(紫字の部分)。お付き合いください(#^.^#)


節分とは?2023年は2月3日|豆まきや恵方巻の意味と由来
2023/01/18 旅の+one


鬼払いですが、宮中では大みそかにやるそうです。民間では節分に行われる、この鬼を払う行事のことを追儺(ついな)とか鬼儺(おにやらい)とか言うそうです。にんべんに「難」という字は「はらう」という意味だそうです。



ここから古代史の話です。「難」の字が「魏志倭人伝」に出てきます。景初三年(239年)六月に女王卑弥呼が魏に朝貢するために帯方郡に送った大夫難升米(なしょうめ)です。「難」の意味はいくつかありますが、人名でこの字を使うのは考えられません。魏志倭人伝の中には良くない字「卑字」が多用されているので、注意を払われないかも知れません。しかし、「難」は「にんべん」を省略した可能性があります。そうすると、儺升が姓で米が名と考えられます。W?「漢委奴国王」の金印でも倭の「にんべん」が省略される例が見られますので、当時の流行なのかも知れません。

そうだとすると、「難升」は鬼を追い払った倭王師升の故事を指すことになります。

そうなんですよ!

卑弥呼が登場するまで倭国大乱が起こっていますが、その前の七・八〇年間は男王が倭国を支配していたと「魏志倭人伝」にあります。つまり七・八〇年前の男王は、永初元年(107年)に160名もの生口(奴隷・戦争捕虜)を洛陽まで連れて後漢安帝に朝貢した倭国王帥升です(范曄「後漢書」)。「帥」という姓の元祖は「師」だったそうです。司馬懿の長男司馬師の諱(いみな)を避けて帥に変えたというのが始まりだと「廣韻」という文献から分かります(注)。「師」姓は宮廷の楽師のもので、帥升は本当は奴国の宮廷楽師「師升」で、宮廷祭祀を担当していた人物だったと分かります。その楽師たちがクーデターを起こし、第十八代王素戔嗚尊(スサノヲ、【付録】「王年代紀」参照)を殺して奴国を乗っ取る事件があったと推理しています。

スサノヲ大王は父が伊弉諾尊(イザナギ)で、春秋の呉の太伯の後裔になりますが、母は縄文海人ムナカタ族の姫伊弉冉尊(イザナミ)です。記紀神話で国生みを行った夫婦の神ですので知らない日本人はいないと思います(*^。^*)

スサノヲは母方のムナカタ族とともに半島南部の鉄を求めて海を渡る等、宮殿を留守にすることが多く、祭祀を楽師たちに任せていた模様です。たまに戻ってくると、呉から伝わる奴国の伝統祭祀に、恐らく縄文風の祭祀を導入しようとしたのではないかと推理しています。そこで困った師升らは、スサノヲの留守中にクーデターを計画して、帰還したところを捕らえた模様です。記紀神話では、姉のアマテラス女神に逆らって高天原の神々に乱暴を働いたので、罰として髪の毛をむしられて、爪も剥がされて追放されたことになっています。しかし実際は、師升が奴国王に収まるために金印の在りかを白状させようと拷問したことを表しているようです。結局は殺されたと推理しています。

その故事から、儺升を姓とする難升米は、本当は大夫ではなく、師升王の一族の倭王だと推理できます。魏から正規軍の軍旗「黄幢」を女王にではなく難升米に授けられています。軍事を掌握している人物なのです。「魏志倭人伝」では倭国には伊都国だけ男王が居たとあります。さらに、女王卑弥呼の政治を補佐する男弟で、刺史のような役の一大率のことです。帯方郡を訪れて司馬懿の部下の太守劉夏と談合し、倭国を女王が支配するエキゾチックな東夷の大国という設定にして魏の朝廷の人々の注目を引くために作った話でしょう。「卑弥呼の最初の遣使は景初二年六月なのか?」で述べたように倭国を懐柔して魏のライバルの呉を東海上から挟み撃ちにする戦略を成功させた司馬懿の功績を魏の第一のものとしたいからなのです。ですから実際は、倭王難升米が姫巫女卑弥呼によって太陽神の神託を受けて政治を行っていたと推理できます。

しかも、王の居城の在った伊都国だけが良い意味の字が使われ、他のほとんどの国々や人名には卑字が充てられています。当時すでに漢字が使われていたこともその時代の遺物から分かっています。難升米はシナ語も話せた教養人で間違いないです。伊都国の「伊」は殷(商)の初期の宰相伊尹(いいん)を連想する字です。伊尹が定めた都という意味ですが、Wikiによれば、伊尹は以下のような評価の人物です。

後世、伊尹は名臣として評価されているが、太甲の追放の一事に関しては、臣下でありながら主君を押し込めたこと、簒奪ではないかということが議論されることになる(孟子・尽心上篇)。有力な臣下が仲の悪い主君を追放したとする見方もある。実際、太甲の追放は、前漢の霍光とともに後世、自分に都合の悪い君主を追放したい有力者が、追放の口実とすることがままあった。

まさに、師升が奴国大王から王位を簒奪した故事と重なります。伊都国は難升米の先代が名付けた国名かも知れませんが、伊尹と師升の故事の一致を表しているのです。

日本の鬼儺(おにやらい)の始まりは伊都国の師升でしょう(^_-)-☆

表題の話はここまでですが、大事な話を追加させてください。

日本書紀 仲哀天皇紀に博多を儺県(なのあがた)としていますので、日本書紀の編纂者は王年代紀(宋史)第18代奴国大王スサノヲがクーデターで殺されて奴国が滅んだ史実を知っていながら、高天原の乱暴者の神として神話を創作した重要な証拠のひとつなのです。高天原は奴国だったのです。だから、大和と北部九州の地名が、その配置もよく一致しているのですよ(^_-)-☆。


(2020.3.1 朝倉卑弥呼伝説@YouTube より)

そして天照大御神を女神にしたのも第19代王天照大神尊つまり、吉備で奴国を再興し、ヤマト政権の基礎を築づいたニギハヤヒ大王(先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)から名前を取ったものなのです。持統天皇とされる鵜野讃良が孫の文武天皇を即位させたので、その正当化のために女神のモデルにして天孫降臨神話を創ったのです。

ニギハヤヒはスサノヲ大王の弟でクーデターを逃れたと推理しました。ですから、伊勢神宮内宮の御祭神の天照大御神という神の名も天照大神尊から取ったものです。しかし、別名天照皇太神となっているのでニギハヤヒが祭神の正体ではなく、初代祭祀王応神天皇の本当の父である大国主久々遅彦なのです。外宮に呼び寄せた豊受大神が妃の台与(トヨ)なのですから分かります。

皇祖神であるはずの天照大神を崇神天皇がなぜ宮中で祀ることができなかったのかを考えると、祟りがあるからなのです。国譲りさせられた大国主(大物主)が祟ると日本書紀の編纂者はそれとなく告白しているのですから面白いです。朝廷は神々にランクを付けていますが、四柱だけ特別な神階を贈っています。淡路島の伊弉諾尊と八幡大神・八幡比売神、そして吉備津彦なのです。八幡大神は応神天皇となっていますが、本当はその父の大国主久々遅彦ですし、八幡比売神は宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼で、最後の人物がニギハヤヒなのです。天変地異などがあると朝廷は勅使を送って捧げものをしますから、これらの神が実在人物だったと分かりますね(^_-)-☆

伊勢神宮では本殿床下に心御柱(しんのみはしら)という男性のシンボルとみられる木の柱が存在し、遷宮の時に見ることができるそうです(注)。江戸時代まで伊勢の神と三輪の神大物主は同じだと知られていましたので、神職の方はどなたを祀っているか分かっておられるとは思いますが、決して言挙げしないことになっているようですので、このことを尋ねないようにしましょう(^_-)-☆

(注)リンク先のURLが不正になるので、「伊勢神宮に地下宮殿があった!!」で検索してください。「心御柱」について詳しく説明されていますよ(@_@)

【関連記事】
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)

(注)Wikiwnd「帥姓」
帥姓是中國姓氏之一。西晉武帝司馬炎追伯父司馬師為晉景帝,並令天下避「師」字名諱,故部分師姓者改為帥姓[1]。也是帥姓的源頭之一[2]。
帥姓は中国の氏姓のひとつ。西晋の武帝司馬炎が伯父司馬師を晋景帝として、諱(いみな)の「師」の文字を避けさせたので、師姓の者は帥に変更している[1]。これが帥姓の始まりのひとつ[2]。
[1] 《廣韻》:帥本姓師,避晉宣帝諱改帥氏。(宣帝は景帝の誤りでしょう)
[2] 《姓苑》:本姓師,避晉諱改帥,帥與率同,望出南陽、河南、范陽。
もとの姓は師。晋景帝の諱を避けて帥とした。帥は率と同じ意味で、南陽、河南、范陽の方に見られる。


天照大神は、本当は「男神」だった?
…天皇家の最高神をすり替えた『日本書記』

関裕二(歴史作家)Web「歴史街道」2022年06月23日 更新
プロの文章ですから分かり易く書かれていますので、是非、お読みください。


伊都国の意味がヒントだった?
邪馬台国問題や日本建国はこれに気づけば解決に向かいます(^_-)-☆

【付録】王年代紀(宋史 日本)
藤堂明保ら「倭国伝」(講談社学術文庫2010,pp.278-279)

 其の年代紀に記す所に云う。
 初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。
 次は天村雲尊(あめのむらくものみこと)と曰い、其の後は皆な尊を以って号と爲す。
 次は天八重雲尊(あめのやえくものみこと)。
 次は天彌聞尊(あめのににぎのみこと)。
 次は天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)。
 次は贍波尊(みなみのみこと)。
 次は萬魂尊(よろずむすひのみこと)。
 次は利利魂尊(ととむすひのみこと)。
 次は國狭槌尊(くにさづちのみこと)。
 次は角龔魂尊(つのそむすひのみこと)。
 次は汲津丹尊(くみつにのみこと)。
 次は面垂見尊(おもだるみのみこと)。
 次は國常立尊(くにとこたちのみこと)。
 次は天鑑尊(あめのかがみのみこと)。
 次は天萬尊(あめのよろずのみこと)。
 次は沫名杵尊(あわなぎのみこと)。
 次は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。
 次は素戔烏尊(すさのおのみこと)。
 次は天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)。
 次は正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)。
 次は天彦尊(あまつひこのみこと)。
 次は炎尊(ほむらのみこと)。
 次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
 彦瀲の第四子を神武天皇と号す。 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。 即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。 次は綏靖天皇。・・・・・
(王の読みは『日本書紀が伝える「筑豊百余国の王たち」【連載 新説・日本書紀②】2018年02月07日』による)



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武内宿禰はユダヤ人なのか?(@_@)

2023-02-02 10:46:25 | 古代史
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2020-09-13 01:07:54に「武内宿禰の正体は大国主狗古智卑狗だよ!」というタイトルで記事にしました。最近、しきりとネットで田中英道先生の武内宿禰ユダヤ人説に基づく日本の歴史を国史として宣伝しています。日本人(縄文人)の祖先が2700年前にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つとする日ユ同祖論は前からYouTubeなどでタイトルを目にしていましたが、学者でない方が発信していたので、ネットだけの話のような感じだったと思います。

しかし「東北大学 名誉教授・国際教養大学 前特任教授・ボローニャ大学・ローマ大学客員教授・国際美術史学会 前副会長」(wiki「田中英道」より)とあり、立派な学者として知られているので、田中先生の国史が学説となるように活発に活動されており、特に保守層に支持者が多いようです。

「日本人にリベラリズムは必要ない 」(ベストセラーズ、2017)で戦後のサヨク思想がフランクフルト学派から来ている「リベラル」という破壊思想だと教えてくださったので、保守思想の方々に人気があるのだと思います。今朝も、愛読している宮崎正弘先生のメルマガに以下のようなタイトルで田中英道『聖徳太子は暗殺された』(育鵬社)の書評を書かれていました(【付録】参照)。

しかし、「日本はこのままでいいのか?」で述べましたが、保守であろうとサヨクであろうと特定のイデオロギーに基づく歴史観では歴史の真相に近づくことができません。考古学・民俗学などの成果に基づく実証主義で文献の信ぴょう性を調べて仮説を検証しなければ歴史の真相には近づけないと思います(「【刮目天の古代史】古代史を推理する」参照)。武内宿禰は、聖徳太子と同様に、藤原不比等が政治的な理由で日本書紀の中で作った偶像なのです。そのことをご理解していただくためにタイトルを変更して再度、この記事を掲載します。もしも疑問点や分かりにくい点などございましたらコメントください。よろしくお願いいたします(#^.^#)

武内宿禰の考察②(武内宿禰の誕生と終焉)
2020年09月11日 | 古代日本国成立の物語(第三部)
■武内宿禰の誕生と終焉

武内宿禰の誕生については記紀の記事で見たとおりであるが、両者には少し違いがある。日本書紀では、孝元天皇と妃である伊香色謎命との間に生まれた彦太忍信命が武内宿禰の祖父とあり、また、景行天皇の時に紀伊国に派遣された屋主忍男武雄心命が紀直の先祖である菟道彦の娘、影媛を娶って生まれたのが武内宿禰である。つまり、系譜としては「孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心命→武内宿禰」となる。

一方の古事記では、孝元天皇と伊迦賀色許売命(伊香色謎命)の子である比古布都押信命(彦太忍信命)が木國造の祖先である宇豆比古(菟道彦)の妹、山下影日売(影媛)を娶ってできた子が建内宿禰である。系譜は「孝元天皇→比古布都押信命→建内宿禰」となる。要するに、古事記は屋主忍男武雄心命を飛ばして一世代少なく書かれているのだ。現時点でその理由はよくわからない。



とありましたので不躾ながら以下のコメントをさせてもらいました。

古事記の筆法です(*^▽^*) (刮目天 一(はじめ))
武内宿禰の詳しいはなし、とても参考になります。

「日本書紀」と「古事記」の記述が微妙に違うのは、古事記が作られた理由を考えると分かります。「古事記」は基本的に「日本書紀」に倣いながら微妙に違えることによって真相を暴露しようということなのです。九世紀の学者多人長が原古事記をもとに書き変えた模様です。日本建国の主役であった大国主の神話を登場させていることからも分かります。

また、高天原の最初の神も天御中主神として「日本書紀」の曖昧な記述を正したということです(中は那珂、那賀などと同じナーガ=龍蛇神です。半島から福岡市早良平野吉武高木遺跡にやって来た春秋の呉の王族だと突き止めました。初代奴国王で皇祖神なのです)。多氏は大国主の流れを汲む秦氏と共同作業で編纂したという説もあります。

武内宿禰のことですが、神功皇后に常に寄り添い、生まれたばかりの応神天皇を抱いている三百歳を超える白髪・白髭の老人として描かれていますが、武内宿禰は大国主狗古智卑狗の分身として「日本書紀」が創作した人物です。住吉大社の伝承が示唆する通り応神天皇は神功皇后と住吉大神の子で、真相は十三歳で卑弥呼の後の女王とされた台与と住吉大神・武内宿禰こと大国主狗古智卑狗の子なのです。


(kurouの鎌倉メモ より)

本文
次に終焉の地を考えてみたい。記紀ともに武内宿禰の薨去については触れていないが、「因幡国風土記(逸文)」に次のような記述がある。

仁徳天皇55年3月に大臣の武内宿禰は360余歳にして因幡国に下向し、亀金に双履を残してどこかに隠れてしまった。またこのようにも聞いている。因幡国法美郡の宇倍山の麓に神社があり、宇倍神社といい、武内宿禰を祀っている。昔、武内宿禰が東夷を平定して宇倍山に入った後は、その終焉の地を知らない。

日本書紀の仁徳55年の条には残念ながらこれに対応する記事はない。また、原文を確認できていないが、「公卿補任」では薨年未詳で295歳で薨去(一説として仁徳55年に年齢未詳で薨去)、「水鏡」では仁徳55年に280歳で薨去、「帝王編年記」では仁徳78年に年齢未詳(一説として312歳)で薨去、とあるようだ。いずれも仁徳天皇の治世に薨去しており、そのときの年齢は280歳から360余歳の間ということが言える。

さて、先の因幡国風土記(逸文)に登場する宇倍神社は因幡国一之宮で鳥取市国府町に鎮座する。本殿左手の階段を登って裏に回ると武内宿禰が双履を残して姿を隠した霊跡と伝わる双履石があって、文字通りふたつの石が並んでいる。この双履石の下から竪穴式石室が発見され、古墳時代前期末から中期の円墳であることが判明したという。なぜ、縁もゆかりもないはずの因幡の地に武内宿禰が祀られることになったのだろうか。


刮目天
終焉の地ですが、八十歳前後の武内宿禰でしたが、久留米市高良山でヤマト勢と戦って戦死し祇園山古墳に葬られています。280年頃に応神天皇が即位してから桜井市外山(トビ)の茶臼山古墳で父を改葬した模様です。

母親台与も伊都国で奮戦して戦死し、平原王墓に葬られましたが、後に纏向箸中山古墳で改葬されました。被葬者は大国主の妻で、ヤマトとトビ(大国主)を百回唱える姫という名前ヤマトトトビモモソヒメの伝承からも分かります(^_-)-☆
どうも突然失礼しました(*^▽^*)


大事なことを書き忘れましたが、神功皇后は卑弥呼の宗女台与をモデルにして「日本書紀」が創作した人物でした。神功皇后は武内宿禰の琴によってトランス状態に入り、住吉大神の神託を仲哀天皇に伝えたとされていますから、姫巫女・祝女(はふりめ)なのです。

「日本書紀」で、仲哀天皇は住吉大神の神託を疑ったために突然死んだとしていますが、仲哀天皇のモデルとされた人物は狗奴国ヤマトの卑弥弓呼大王の一族で、「宋史 王年代紀」第十九代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ(宮廷楽師師升らのクーデターで殺された先代スサノヲ大王の弟、倭王帥升(すいしょう)は何者だ?)を祖とする狗奴国ヤマトの有力者の尾張王と推理しました。

ヤマトを裏切って倭国王に立とうとしたので、副将として参戦していた狗古智卑狗の軍勢と内戦となって千人ほど死んで尾張王も殺されたと推理しました。戦場は筑紫平野で、鳥栖市の九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に埋葬されたと考えています。

内戦に勝利した狗古智卑狗は、丁度魏使として倭国に滞在していた帯方郡の役人張政の進言で、死んだ卑弥呼の後継者としてまだ十三歳だったのですが、姫巫女として台与を迎え、対外的には卑弥呼と同様に女王に立てて魏を後ろ盾にしてヤマトと対立したということです。九州・四国・中国西部の卑弥呼の倭国に、山陰・北陸まで版図に加えたので、後世、大国主と呼ばれることになったのが狗古智卑狗(スサノヲの子イタケルの直系で代々襲名した模様)で、武内宿禰のモデルなのです。



先代狗古智卑狗は二世紀末に熊本県菊池川沿いなどに作った軍事基地から倭国の穀倉地帯の筑紫平野を度々襲っていたのですが、公孫氏によって半島情勢が落ち着き、204年帯方郡が成立したので、倭国側は力を取り戻して、菊池の軍事基地を攻略したと考えています(【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)。その時、先代が戦死したので、沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を旧奴国王族に供給していたムナカタ海人族は王を失って動揺しました。倭国王の懐柔に応じて、「魏志倭人伝」では卑弥呼を女王に共立したとしていますが、ムナカタ海人族の姫巫女が伝える太陽神の神託を受けて政治を行うことを条件で倭国側についたと考えています。それによって、倭国で盛行していた甕棺が姿を消すことになったと思います。つまり倭国もかなり譲歩した模様です。旧奴国王族に半島南部の鉄素材を渡さないで衰退させる倭国王難升米の戦略だったと考えています。難升米は、107年に後漢に朝貢した師升王の一族で、孟子も読みシナ語も話せた教養人の模様です(【わかった!】室見川銘板のなぞ)。

狗古智卑狗は、先代が戦死した三世紀初頭に十歳前後だったとすると、247年3月24日の日食で卑弥呼が殺され、大国主として倭国を支配するのは六十歳前後になります。孫のような年代の若い台与と結婚して国造りをしましたが、約二十年後(270年頃)には第三次倭国大乱でヤマト勢に殺されます。八十歳前後ということです。台与は三十歳前後で神功皇后のように武器を取って奮戦して亡くなったと考えています。平原王墓の木棺の上に置かれた素環頭大刀がそれを示しています。二人の年の差が五十歳もあったので、世間では台与を可哀想な女性として、羽衣を奪われた天女の伝承や、籠(カゴ)の中に閉じ込められた鳥(鳥の格好をした羽振り・祝女)は一体いつになったら出られるのやらと嘆くカゴメ歌となって現代まで伝えられているのだと思いますよ(#^.^#)。

【参考記事】
狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆
大国主はトビヘビだった(^◇^)(閲覧注意(*^▽^*)
箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?(*^^)v
悲劇の女王台与のはなし(その1)(その2)(その3)(その4)




【付録】
「宮崎正弘の国際情勢解題」令和五年(2023)2月2日(木曜日)通算第7616号
  
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  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 古代日本で暗殺は日常茶飯の政治だった
  天皇を暗殺しても平然としていた蘇我氏の言動はまさにユダヤ的なのである

   ♪
田中英道『聖徳太子は暗殺された』(育鵬社)
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 衝撃のタイトル、しかも副題は「ユダヤ系蘇我氏の挫折」である。
 著者の田中氏はこれまでにも『ユダヤ人埴輪があった』『京都はユダヤ人秦氏がつくった』のシリーズがあり、本書は第三弾。 
 聖徳太子とは、そもそも後世に冠せられた聖名であり、初出は『懐風藻』だ。この本邦初の漢詩集の序文に曰く。
 「逮呼聖徳太子。設爵分官。肇制礼儀。然而専崇仏教。末煌篇章」。
 『懐風藻』は天平勝宝3年(751)に編纂され、撰者は淡海三船などの名前が挙がっている。三船はそれまでの歴代天皇のなまえを、たとえばカムヤマトイワレビコを神武天皇に、ハツクニシラスミマキイリビコイニエを崇神天皇と諱したように、すべて唐風の名前にして国風文化を軽んじた学者である。
聖徳太子の死から129年後の命名である。現代から129年前といえば、1894年(明治27年)、ちょうど日清戦争が開始された時代を振り返るような、歴史が濾過され、往時の出来事はやや美化され、追憶的な回想風になったときである。
したがって聖者を意味する聖徳太子の名付け方には、それまで日本に入っていたキリスト教ネトリウス派「景教」の影響が見られるという。ネトリウス派は東シリア教会ともいわれ、唐代に中国へ伝わったが、唐末に弾圧され消滅した。日本に、この景教がどのように侵入したかは詳細が不明である。田中氏は、蘇我氏がネトリウス派の信者ではなかったのかと言うのである。しかも聖徳太子の子孫たちをネトリウス派信者にしようとし、その陰謀が発覚したため山背大兄王は自殺に追い込まれ一族25名が殺されたのだとする。
 聖徳太子の本名は厩戸皇子でもない。
厩戸皇子なるはフランクフルト学派が戦後、それも1950年代になって命名した適当な解釈であり、イエス・キリストが馬小屋で産まれたことと関連づける作為がある。
 『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」とされ、『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされている。ほかに用明天皇紀では「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」という表記がある。つまり通称は「上宮」だった。
聖徳太子が一度に十人の言い分を聞き分けたという伝説は「豊耳」でわかるが、多くの方言や漢語発音を聞き分ける能力があったという意味だろう。 

さて暗殺されたという証拠は何か?
前提として蘇我氏の粗暴な振る舞いが例証される。蘇我馬子は自分の言うことを聞かなくなった崇峻天皇が邪魔となって、帰化人をそそのかして暗殺させ、その下手人も殺した。仏教に反対した物部守屋一族を葬った。
この「帰化人」なるは常識的には朝鮮半島かシナ大陸から渡来した外国人と認識されるが、田中氏は「蘇我氏はユダヤ系だった」と推定する。しかも蘇我馬子はネトリウス派の信者で聖母マリアは信じない、磔刑のキリストの蘇生があると考える人物だったとする。
歴史家でここまで断定的に言った人はいない。 
明治時代の歴史家・久米邦武が「記紀編纂時、すでに中国に伝来していた福音書の内容などが日本に伝わり、そのなかからイエスキリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」云々とした。久米は岩倉使節団に加わり旅行記をまとめ、晩年は早稲田大学教授を務めた人物。
聖徳太子の入滅後二十年間に山背大兄王子らが殺害され、秦河勝は奈良を脱出して明石へ逃げた。『日本書紀』は、秦河勝の先祖は4世紀頃に百済を経由して日本へ帰化した有力氏族の長、弓月君の直系子孫としている。秦河勝は聖徳太子に協力して国造りに貢献し、朝廷の財政に関わって四天王寺の建立や運営を賄った。
その後、秦氏は蘇我と敵対した。
蘇我氏の崇仏は政治手段であり、純粋な信仰でなく偽善である。
日本の史書は蘇我を伝説上の武内宿祢の末裔としてきたが、おそらく襲名したユダヤ系ではなかったのかとするのが本書だ。
武内宿祢は一節に360歳(『因幡国風土記』)、或いは295歳(『公卿輔任』)、或いは280歳(『水鏡』)とノアの850歳には及ばないまでも信じられない長寿だった。『古事記』は竹内宿祢が巨勢、蘇我、平群、紀など27氏の祖としており、忠臣の代名詞を襲名していたのかもしれない。
神功皇后の三韓征伐に武内宿祢が主要な役を果たした。たぶん応神天皇の父親だろうと田中氏は推測している(34p)が、この点は評者も同意見だ。そして遠征中に戦陣で急死した仲哀天皇は「謀殺と考えられます」という。
聖徳太子は飛鳥を離れ斑鳩に法隆寺を建立する。これは何を意味するかと考えると、聖徳太子は保護を受けた蘇我氏から離れようとしていたのである。
聖徳太子は「和の精神」を説いた。仏教を崇拝するが、古来からの日本の神道を敬えとしており、神仏混合の基礎を培った。しかし神道派の物部氏を殲滅するなどの暴力路線の蘇我氏としては『和の精神』など屁とも思わない覇権主義丸出しだった。蘇我氏は日本人ではない、まさにユダヤ人的なのである。
こういう危険人物をのさばらせては国が滅びるという危機意識から中大兄皇子は立ち上がった。乙巳の変で蘇我氏は誅せられた。
田中氏はこの乙巳の変という軍事クーデターが成功していなければ、日本にキリスト教が這入り込んで「日本は独自の文化が育まれず、西洋のような国」とされ、「ユダヤ人たちに支配され、ユダヤ人と同じ神を拝むようになっていた」かもしれないとして乙巳の変を評価する。
その後の壬申の乱に勝利した天武天皇の国風政治が始まる。
天武天皇は遣唐使を中断し、古事記と日本書紀の編纂を命じ、日本統一を前進させた。だが中臣鎌足を祖とする藤原一族の興隆があり、藤原南家は蘇我氏と変わらない陰謀と暗殺で政治を壟断し、陰謀と殺戮に明け暮れ、藤原仲麻呂がうたれてようやく政権が藤原北家の摂関政治に移行した。
ようやくにして日本に泰平の世が訪れ、恋の歌にうつつを抜かし風流を愛でるゆとりが産まれた。藤原北家の摂関政治時代、殺戮劇もなければ、驚く勿れ死刑のない平和国家を実現させていた。
さて本書の主題は「聖徳太子が暗殺された」とする謎の組み立てにあるが、それは松本清張なんぞの推理小説よりはるかに面白いので、本書を読むお楽しみ。

        ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


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