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真の応神天皇陵を推理する!(^_-)-☆

2023-02-18 20:51:28 | 古代史
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以前から思っていますが、歴代天皇などの陵墓は日本書紀などを基に治定されて宮内庁が管理しているので、本当はどなたの墓か、ほとんどよく分かりません。初代応神天皇は、奈良盆地の外の大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)とされており、5世紀初頭築造のようです。しかし応神天皇は、4世紀前半に崩御されているので応神天皇陵ではありません。初期ヤマトの大王墓を見つけようと調査していますが、纏向遺跡を中心とする「おおやまと古墳群」の景行天皇陵とされている渋谷向山古墳を分かり易く紹介していただいている動画を見つけて、景行天皇は日本書紀で創作された天皇ですので、思わず不躾な長いコメントさせていただきました。それにもかかわらずUp主様からいいお返事までいただき、心から感謝いたします。皆さんも、まだでしたら是非ご覧ください。どうぞ、お付き合いください(#^.^#)


『世界の墳丘から』gotas1975@YouTube


刮目天
良い動画をありがとうございます。大変参考になります。
実は、景行天皇は藤原不比等が建国時代に活躍した豪族の史実を隠すために日本書紀で創作したフェイクの天皇だと突き止めています。景行天皇の九州遠征のルートが、古墳初頭(三世紀後半)の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べてほとんど記述通りだったことを発見しました。つまり、247年の卑弥呼の死後に、纏向の狗奴国王卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)が派遣した倭国討伐軍が到着し、倭国王(倭国王帥升の子孫の伊都国の男王難升米)が逃亡したので、討伐軍の大将の尾張王ヲトヨノミコト(記紀の仲哀天皇)が狗奴国を裏切って倭国王に立ったと推理しました。それに不服だったムナカタ海人族を率いる人物が尾張王を討って、魏使張政の進言で卑弥呼の宗女として13歳の台与を女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗奴国を裏切ったと推理しました。ヲトヨ王は九州最古級の前方後方墳の鳥栖市赤坂古墳に葬られたと推理しています。このムナカタ族の王は卑弥呼の倭国(九州・中国西部・四国など)に加えて山陰・北陸・関東など列島主要部をほとんど版図にしたので、記紀で大国主命と呼ばれた狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦)です(襲名、記紀の武内宿禰、奴国宮廷楽師師升らに殺された最後の奴国王スサノヲの子孫です)。父の仇討ちで大国主たちを討つために九州遠征したのが尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)で、記紀では仲哀天皇の祖父景行天皇としています。


なぜ尾張王と分かるのかですが、纏向遺跡の外来土器の半数が東海のものです。そして尾張王はニギハヤヒ大王の子孫で鏡造を得意とする部民を抱えて、御所市高尾張から尾張に移住したので、元々半島南部の鉄の元締めだった狗古智卑狗(久々遅彦)の鉄交易ネットワークから外れていた模様で、鉄鏃ではなくもっぱら銅鏃を使っていたもようです。尾張軍が遠征したルートから銅鏃が出土し、景行天皇のルートと一致したこと分かりました。尾張のS字甕の出土からも分かります。青谷上寺地遺跡でも、無防備の住民を虐殺した武器も銅鏃なので父の恨みを晴らすために、憎い大国主側の集落を襲ったと推理しています。詳しくは拙ブログ「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」に述べました。弥生後期後半から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて整理していますので、よろしければ以下の記事をご参照ください。
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有

建稲種命の尾張勢は九州遠征を成功させ、北部九州の占領を物部勢に任せて、直ぐに纏向に戻り、さらにヤマトタケルの東国遠征ルートや崇神天皇の四道将軍の4つのルートを遠征したことも分かりました。記紀は崇神天皇から景行・仲哀天皇・神功皇后の約400年の話に引き延ばしていますが、史実は日本建国の三世紀末の建稲種命の尾張・物部勢の遠征だと突き止めました。建稲種命は帰路に水死したという伝承がありますので、尾張で葬られたと思いますが、大和でも改葬して尾張王継承の儀式を行っていると思います。地元の長久手市には景行天皇社がありますし、ヲトヨノミコトは記紀神話のカグツチとされて秋葉神社の祭神となっていますが、愛知県に特に多いです。渋谷向山古墳は4世紀後半築造とありますので景行天皇陵ではないと思います。狗奴国王崇神天皇の墓は行燈山古墳でいいのかも知れません。どうもお邪魔しました。

すでに、「空白の世紀と倭の五王(その1)から(その3)」で推理した隠された天皇を含めた初期天皇の系譜は下図のとおりです。


下の図は、岡山市埋蔵文化財センター特別講演会の豊岡卓之「大和の初期前方後円墳 -おおやまと古墳群の 70 年間の研究成果の紹介-」講演要旨(2019.1) から引用した「おおやまと古墳群」の図に上の推理した結果やこれまでの検証結果に基づいて赤字で加筆した図です。


応神天皇崩御年を334年と推定しましたので、景行天皇陵とされてきた古墳群の中で最大の全長300mの前方後円墳である渋谷向山古墳が応神天皇陵になると考えられます。大国主と台与を討ったので南九州に逃れたと思われるホムダワケ(応神天皇、記紀崇神紀の大田田根子)を探し出してヤマトの祭祀王にした狗奴国王卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)の陵墓は、恐らくその前に築造された巨大前方後円墳の行燈山古墳ではないかと考えています。もしかして、次に大きな西殿塚古墳であるかもしれませんが、その場合行燈山古墳の被葬者が分かりません。西殿塚古墳は記紀で景行天皇とされた建国の最大の功労者の尾張王建稲種命かも知れません。年代的には三世紀後半から末築造とあります。しかし、伝承から東国遠征の帰路で水死したと考えられますので、葬儀は尾張で行われたと思いますが、後継者の尾張王のお披露目のために纏向で巨大前方後円墳を築造して改葬したのかも知れません。その場合には遺骸はないと思われますので、陵墓を調べればわかるかも知れません。しかし、宮内庁治定では五世紀後半の継体天皇皇后で、仁賢天皇皇女の手白香皇女(武烈天皇の姉)とあり、明らかに時代が合いません。調査して欲しいと思います。

応神天皇の後に即位した宇治天皇(ウジノワキノイラツコ)は372年に崩御し、ヤマトの大王として前方後円墳に葬られておらず、和邇氏によって富雄丸山古墳(巨大円墳)に葬られたと推理しています(詳細は「富雄丸山古墳の被葬者は?」参照)。仁徳天皇に殺されたのかも知れません。仁徳天皇はその5年後に崩御しましたが、おおやまと古墳群には葬られていないようなので、仁徳天皇の子である和邇氏腹の住吉(すみのえ)天皇は父をヤマトの中で葬儀を行わなかったのかも知れません。奈良盆地の外かも知れません。堺市大仙陵古墳は五世紀築造ですから仁徳陵ではありません。今後、仁徳天皇から倭の五王までの陵墓を探して行きたいと思います。

なお、wiki「纏向編年」に歴年代が記されていたので、参考にして土器編年と歴年代を見直して、おおやまと古墳群の刮目天の仮説による歴年代に修正しました。wikiと歴年代が異なるのは基準年の取り方の相違からだと思います。ご意見など頂ければ幸甚です。(2023.2.21 紫字で修正)

【関連記事】
空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)から(その3)
【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`)


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