刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】証拠は何だ?

2023-02-16 15:49:03 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

多くの方は決定的な物証が見つかれば事件や問題が解決すると何となく考えているかと思います。しかし、例えば卑弥呼がもらった親魏倭王の金印がある場所で見つかった場合に、たとえそれが本物であったとしても、その場所が卑弥呼が居た邪馬台国である物証にはならないことは直ぐに分かります。金印は人間が簡単に持ち運びできるものなので、その場所に卑弥呼の宮室らしいものが見つかって、卑弥呼の巨大な円墳も近くに見つかれば、推論のひとつとして邪馬台国である可能性が極めて高いと言えるわけです。ですが、邪馬台国と決めつけるには、なぜそこにあるのかなど背景となることも調べる必要があります。

つまり証拠となるもの、物証というものは問題に関する仮説に依存しています。なぜそこにあるか?何を意味するものなのか?などを誰が見ても一様に明確に教えてくれることはほとんど期待できないからです。つまりその物証と呼ぶものは人によって様々な解釈ができるわけですから、一概に物証と決めつけるわけにはいきません。ですから、仮説が事実であることを説明できる数多くの物証を探し出す作業が必要です。そして事件や問題を矛盾なく説明できる仮説の裏付けとなる個々の物証の全体が証拠となります。

謎に満ちた日本の古代史の解明に取り組もうと思ったきっかけをお話しします。歴史学者や考古学者の方たちが三世紀の倭国のことを書いた「魏志倭人伝」に描かれた大規模集落を割と簡単に邪馬台国だと自信ありげにテレビで主張して、こちらも引き込まれてしまいます。大きくは大和説(纏向遺跡が有力)と九州説(筑紫平野説や山門説などが有力とされる)で分かれて論争しています。しかし、これらの有力候補地は考古学の成果などの事実で少し検証すれば直ぐに「魏志倭人伝」の記述と合致しないことがあると気づきます。であれば、なぜ合致しないかについて徹底的に理由を追求する必要があるのですが、納得できる説明がありません。

なぜ、合致しないのかは、「魏志倭人伝」そのものに問題があるからかも知れないと思うはずですが、多くの方はそうは考えず、「魏志倭人伝」には正しく書かれているはずだから、正しく文章を解釈すれば解決するという思い込みがあるからだと気づきました。

このような思い込みは712年に完成したといわれる現存する日本最古の歴史書「古事記」や720年に完成した正史「日本書紀」についても、天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書という学校での刷り込みがあり、おかしな記述も変な理屈をつけて好意的に解釈しているので、考古学の成果と合致していない謎をしっかりと解明しない状態で放置され続けてきた感じでした。人によっては考古学の成果の方を否定して、伊都国や奴国は通説と違う場所だから文章は正しかったという方もいますので、それじゃあほぼ定説となっている糸島市伊都国の遺跡や福岡市の奴国の遺跡は何だったのかについて、納得のいく説明はありません。

このような例を見て、本当に疑うべきは考古学の成果から得られる結果ではなく歴史書の方だと東洋史家岡田英弘「日本史の誕生」(弓立舎)と人気古代史作家関裕二氏の多数の著作にはまって、気づかされたこともあり、そのような視点でより科学的に謎の古代史解明に取り組もうと思ったわけです。

そこで、考古学の成果のひとつひとつは「こうだ!」とは明確に語りません。ですから、最初は思い付きでも夢に卑弥呼が現れた!でも何でもいいですから取り合えず、その時代を跨ぐ一連の事実と思われる既知の事象群を説明することができる可能性のある仮説を真っ先に考える必要があるのです。

そして、自分が組み立てた仮説には誤りがあるかも知れないという謙虚な姿勢で、はっきりとした誤りを探すまじめな一連の検証作業が必要です。

もしもこの仮説が正しければこういう結果が得られるはずだと想定して、関連する考古学の成果などの物証を調べることで、これらが想定どおりか否か分かります。この仮説検証の過程で、仮説を変更・修正などする必要も出てきます。仮説は個々の物証から妥当な演繹的推論によって成り立つものです。そういう一連の科学的な手法で構築された仮説は万人が認めることができる定説になると期待できるのです。

ということで、前置きが長くなりましたが、このような発想で検証を重ねてヤマト王権の成立過程の可能性が高いと思われる仮説が得られましたが、今回その仮説の根拠となる証拠について時代ごとに整理してみましたので、ご確認ください。

一つ一つの物証は、この仮説が思い浮かばないと別の仮説が生まれるかもしれないものです。でも、刮目天が提案する仮説であれば全体が矛盾なく説明できるということなのです。もしも、重大な事実誤認や見落としなどがあれば、別の結果となることも否定できません。あるいはこれらの物証をすべて矛盾なく説明できる仮説が別に存在するとしたら、それは別の解です。いくつかそういう別の仮説があれば、どの仮説が優れているかは、その仮説によって従来謎とされた事柄がどれだけ解明できるかによって評価できます。いろいろと考えていただけると歴史の真相に近づくことができます。

非常に煩雑な話ですので、もっとご理解いただけるように参考記事などをこれから追加するなどして完成させようと考えている未完成品ですので、適宜追加して更新していきたいと思います。まことに恐縮ですが、その中でよく分からないと思われる個所があれば遠慮なく教えてください。私が失念している個所もあるかも知れません。よろしければお付き合いください。どうぞよろしくお願い致します(#^.^#)

【ヤマト王権の成立過程に関する証拠】

A. 奴国時代(紀元前四世紀初頭から二世紀初頭まで)
A-1 初代王が存在した証拠は?
・日本最初の王墓(吉武高木遺跡)

【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?参照
A-2 奴国王が呉王の末裔だという証拠は?
・呉王(子爵)の玉璧の破片出土(奴国王墓・伊都国王墓・朝倉郡夜須町峯遺跡に見られ、奴国王が王族に与えたと推理している)
(図は串間市、王の山古墳出土の玉璧ですが、奴国王のものが、様々な混乱で結局被葬者が入手した可能性が高いと思います)
A-3 奴国王が倭国王だという証拠は?
・須玖岡本遺跡王墓「巨石下甕棺墓」

・官営工場須玖タカウタ遺跡での青銅器製造と各地へ武器型青銅器の配布

・弥生時代最大の大規模な交易センター(比恵那珂遺跡群、最盛期の規模は吉野ヶ里遺跡の4倍といわれ、列島各地から交易のために人々が集まっている。十進法が使われている。)

・57年後漢光武帝より国宝金印「漢委奴国王印」を授けられた(華僑の倭人との取引を保証させるため)

【検証9】奴国時代の話(その2)参照
A-4 奴国王スサノヲが宮廷楽師らに殺された証拠は?
・107年の倭王帥升(倭イト国王師升)の朝貢
・国宝金印の志賀島での発見
A-5 「日本は古の倭の奴国」の証拠は?
・王年代紀の存在

・北部九州と大和の地名の対応

・比恵・那珂遺跡への畿内系土器の流入


B.伊都国時代(二世紀初頭から)
B-1 師升が宮廷楽師だった証拠は?
・125年銘の室見川銘板の出土

B-2 難升米が師升一族の王という証拠は?
・難(儺)升が鬼払い(奴国王を殺)した宮廷楽師師升を意味する文字
B-3 ニギハヤヒが楯築王墓の被葬者である証拠は?
・楯築神社御神体(人面蛇体の亀石)

B-4 倭国大乱の証拠は?
・首長墓の盛行(古墳時代への歩み)

・弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況


B-5 狗奴国の官狗古智卑狗がムナカタ海人族の王だという証拠は?
・豊岡市竹野町(鷹野神社、五社大明神、誕生之浦の碑など)

B-6 狗古智卑狗が菊池川上流で戦死した証拠は?
・山鹿市茶臼塚古墳(墳丁の大日如来の石祠)

・御宇田神宮様式の猿田彦大神碑


C.邪馬台国時代(247年まで)
C-1 卑弥呼がムナカタ海人族和邇氏の祖だった証拠
・和邇坐赤阪比古神社

・東大寺山古墳の中平銘鉄刀(倭王が公孫氏から貰ったものを赤坂比古に下賜した)


卑弥呼の宮室が宇佐市安心院町三女神社の証拠は?
・宮ノ原遺跡と三女神社西側V字溝から銅鏃出土

・三柱山古墳(径百余歩の巨大円墳)と奥城古墳(父赤坂比古伊聲耆の大円墳)

C-2 狗奴国王が纏向遺跡に居た証拠は?
・最古の前方後円墳纏向石塚古墳(円筒型特殊器台・弧帯文などの吉備のニギハヤヒ大王ゆかりの副葬品)

・唐古・鍵遺跡と纏向遺跡の変遷


C-3 難升米が帯方郡太守に倭国の地名・人名などを書いて教えた証拠は?
・弥生時代に文字が一部使われていた証拠(弥生後期の福岡市雀居遺跡出土の木製組机一式、出土した硯の欠片など)

・イト国を伊尹に因む伊都国と書いて教えた人物は師升の子孫の難升米以外に居ない!
・魏少帝より難升米に詔勅と黄憧が渡されたので、倭国の軍事を握る王(卑弥呼の政治を補佐する男弟とした)

C-3 卑弥呼が日食のために暗殺された証拠は?
・247年3月24日日没前の日食

・墓の遥拝所の地名「ヒカケ」

・和邇氏の祖が日触使主(卑弥呼の弟の赤坂比古)

C-4 卑弥呼の死後に立った男王が尾張王だった証拠は?
・纏向遺跡の外来土器の約半数が東海のもの

・鳥栖市赤坂古墳(九州最古級の前方後方墳は美濃平野で盛行した)


D.大国主・台与時代(247年ー270年頃)
D-1 大国主が倭国王になったという証拠は?
・一柱謄宮・妻垣神社の伝承は大国主と台与の話と推理


D-2 大国主が宇佐市安心院町に居た証拠は?
・佐田京石、米神山月の神谷の石柱群など大国主が最初に国造りした豊葦原の瑞穂の国


D-3 大国主が列島の大部分を倭国にした証拠は?
・博多遺跡と同種の高温鍛冶の遺跡群は大国主が傘下に羽口の技術を伝えた

D-4 大国主が高良山で戦死した証拠は?
・高良大社と神御石、ピラミッド型祇園山古墳

D-5 台与が伊都国で戦死した証拠は?
・平原王墓の副葬品(女王の棺桶の上に鉄大刀)


E.ヤマト時代(270年頃から)
E-1 狗奴国が青谷上寺地遺跡の住民を虐殺した証拠は?
・銅鏃による民間人殺害
E-2 尾張王建稲種命が大国主・台与を討った証拠は?
・景行天皇の九州遠征のルート上で尾張勢が使う銅鏃が出土

・青谷上寺地遺跡

E-3 狗奴国が列島を統一した証拠は?
・弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況


E-4 ヤマトの初代祭祀王が応神天皇だという証拠は?
・箸墓(母の神功皇后台与を纏向遺跡で改葬)

・桜井茶臼山古墳(父大国主を外山=トビで改葬)






最後までお付き合い、どうも有難うございました。(^◇^)
分かりにくい箇所がありましたらご指摘ください!
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング