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武内宿禰はユダヤ人なのか?(@_@)

2023-02-02 10:46:25 | 古代史
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2020-09-13 01:07:54に「武内宿禰の正体は大国主狗古智卑狗だよ!」というタイトルで記事にしました。最近、しきりとネットで田中英道先生の武内宿禰ユダヤ人説に基づく日本の歴史を国史として宣伝しています。日本人(縄文人)の祖先が2700年前にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つとする日ユ同祖論は前からYouTubeなどでタイトルを目にしていましたが、学者でない方が発信していたので、ネットだけの話のような感じだったと思います。

しかし「東北大学 名誉教授・国際教養大学 前特任教授・ボローニャ大学・ローマ大学客員教授・国際美術史学会 前副会長」(wiki「田中英道」より)とあり、立派な学者として知られているので、田中先生の国史が学説となるように活発に活動されており、特に保守層に支持者が多いようです。

「日本人にリベラリズムは必要ない 」(ベストセラーズ、2017)で戦後のサヨク思想がフランクフルト学派から来ている「リベラル」という破壊思想だと教えてくださったので、保守思想の方々に人気があるのだと思います。今朝も、愛読している宮崎正弘先生のメルマガに以下のようなタイトルで田中英道『聖徳太子は暗殺された』(育鵬社)の書評を書かれていました(【付録】参照)。

しかし、「日本はこのままでいいのか?」で述べましたが、保守であろうとサヨクであろうと特定のイデオロギーに基づく歴史観では歴史の真相に近づくことができません。考古学・民俗学などの成果に基づく実証主義で文献の信ぴょう性を調べて仮説を検証しなければ歴史の真相には近づけないと思います(「【刮目天の古代史】古代史を推理する」参照)。武内宿禰は、聖徳太子と同様に、藤原不比等が政治的な理由で日本書紀の中で作った偶像なのです。そのことをご理解していただくためにタイトルを変更して再度、この記事を掲載します。もしも疑問点や分かりにくい点などございましたらコメントください。よろしくお願いいたします(#^.^#)

武内宿禰の考察②(武内宿禰の誕生と終焉)
2020年09月11日 | 古代日本国成立の物語(第三部)
■武内宿禰の誕生と終焉

武内宿禰の誕生については記紀の記事で見たとおりであるが、両者には少し違いがある。日本書紀では、孝元天皇と妃である伊香色謎命との間に生まれた彦太忍信命が武内宿禰の祖父とあり、また、景行天皇の時に紀伊国に派遣された屋主忍男武雄心命が紀直の先祖である菟道彦の娘、影媛を娶って生まれたのが武内宿禰である。つまり、系譜としては「孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心命→武内宿禰」となる。

一方の古事記では、孝元天皇と伊迦賀色許売命(伊香色謎命)の子である比古布都押信命(彦太忍信命)が木國造の祖先である宇豆比古(菟道彦)の妹、山下影日売(影媛)を娶ってできた子が建内宿禰である。系譜は「孝元天皇→比古布都押信命→建内宿禰」となる。要するに、古事記は屋主忍男武雄心命を飛ばして一世代少なく書かれているのだ。現時点でその理由はよくわからない。



とありましたので不躾ながら以下のコメントをさせてもらいました。

古事記の筆法です(*^▽^*) (刮目天 一(はじめ))
武内宿禰の詳しいはなし、とても参考になります。

「日本書紀」と「古事記」の記述が微妙に違うのは、古事記が作られた理由を考えると分かります。「古事記」は基本的に「日本書紀」に倣いながら微妙に違えることによって真相を暴露しようということなのです。九世紀の学者多人長が原古事記をもとに書き変えた模様です。日本建国の主役であった大国主の神話を登場させていることからも分かります。

また、高天原の最初の神も天御中主神として「日本書紀」の曖昧な記述を正したということです(中は那珂、那賀などと同じナーガ=龍蛇神です。半島から福岡市早良平野吉武高木遺跡にやって来た春秋の呉の王族だと突き止めました。初代奴国王で皇祖神なのです)。多氏は大国主の流れを汲む秦氏と共同作業で編纂したという説もあります。

武内宿禰のことですが、神功皇后に常に寄り添い、生まれたばかりの応神天皇を抱いている三百歳を超える白髪・白髭の老人として描かれていますが、武内宿禰は大国主狗古智卑狗の分身として「日本書紀」が創作した人物です。住吉大社の伝承が示唆する通り応神天皇は神功皇后と住吉大神の子で、真相は十三歳で卑弥呼の後の女王とされた台与と住吉大神・武内宿禰こと大国主狗古智卑狗の子なのです。


(kurouの鎌倉メモ より)

本文
次に終焉の地を考えてみたい。記紀ともに武内宿禰の薨去については触れていないが、「因幡国風土記(逸文)」に次のような記述がある。

仁徳天皇55年3月に大臣の武内宿禰は360余歳にして因幡国に下向し、亀金に双履を残してどこかに隠れてしまった。またこのようにも聞いている。因幡国法美郡の宇倍山の麓に神社があり、宇倍神社といい、武内宿禰を祀っている。昔、武内宿禰が東夷を平定して宇倍山に入った後は、その終焉の地を知らない。

日本書紀の仁徳55年の条には残念ながらこれに対応する記事はない。また、原文を確認できていないが、「公卿補任」では薨年未詳で295歳で薨去(一説として仁徳55年に年齢未詳で薨去)、「水鏡」では仁徳55年に280歳で薨去、「帝王編年記」では仁徳78年に年齢未詳(一説として312歳)で薨去、とあるようだ。いずれも仁徳天皇の治世に薨去しており、そのときの年齢は280歳から360余歳の間ということが言える。

さて、先の因幡国風土記(逸文)に登場する宇倍神社は因幡国一之宮で鳥取市国府町に鎮座する。本殿左手の階段を登って裏に回ると武内宿禰が双履を残して姿を隠した霊跡と伝わる双履石があって、文字通りふたつの石が並んでいる。この双履石の下から竪穴式石室が発見され、古墳時代前期末から中期の円墳であることが判明したという。なぜ、縁もゆかりもないはずの因幡の地に武内宿禰が祀られることになったのだろうか。


刮目天
終焉の地ですが、八十歳前後の武内宿禰でしたが、久留米市高良山でヤマト勢と戦って戦死し祇園山古墳に葬られています。280年頃に応神天皇が即位してから桜井市外山(トビ)の茶臼山古墳で父を改葬した模様です。

母親台与も伊都国で奮戦して戦死し、平原王墓に葬られましたが、後に纏向箸中山古墳で改葬されました。被葬者は大国主の妻で、ヤマトとトビ(大国主)を百回唱える姫という名前ヤマトトトビモモソヒメの伝承からも分かります(^_-)-☆
どうも突然失礼しました(*^▽^*)


大事なことを書き忘れましたが、神功皇后は卑弥呼の宗女台与をモデルにして「日本書紀」が創作した人物でした。神功皇后は武内宿禰の琴によってトランス状態に入り、住吉大神の神託を仲哀天皇に伝えたとされていますから、姫巫女・祝女(はふりめ)なのです。

「日本書紀」で、仲哀天皇は住吉大神の神託を疑ったために突然死んだとしていますが、仲哀天皇のモデルとされた人物は狗奴国ヤマトの卑弥弓呼大王の一族で、「宋史 王年代紀」第十九代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ(宮廷楽師師升らのクーデターで殺された先代スサノヲ大王の弟、倭王帥升(すいしょう)は何者だ?)を祖とする狗奴国ヤマトの有力者の尾張王と推理しました。

ヤマトを裏切って倭国王に立とうとしたので、副将として参戦していた狗古智卑狗の軍勢と内戦となって千人ほど死んで尾張王も殺されたと推理しました。戦場は筑紫平野で、鳥栖市の九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に埋葬されたと考えています。

内戦に勝利した狗古智卑狗は、丁度魏使として倭国に滞在していた帯方郡の役人張政の進言で、死んだ卑弥呼の後継者としてまだ十三歳だったのですが、姫巫女として台与を迎え、対外的には卑弥呼と同様に女王に立てて魏を後ろ盾にしてヤマトと対立したということです。九州・四国・中国西部の卑弥呼の倭国に、山陰・北陸まで版図に加えたので、後世、大国主と呼ばれることになったのが狗古智卑狗(スサノヲの子イタケルの直系で代々襲名した模様)で、武内宿禰のモデルなのです。



先代狗古智卑狗は二世紀末に熊本県菊池川沿いなどに作った軍事基地から倭国の穀倉地帯の筑紫平野を度々襲っていたのですが、公孫氏によって半島情勢が落ち着き、204年帯方郡が成立したので、倭国側は力を取り戻して、菊池の軍事基地を攻略したと考えています(【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)。その時、先代が戦死したので、沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を旧奴国王族に供給していたムナカタ海人族は王を失って動揺しました。倭国王の懐柔に応じて、「魏志倭人伝」では卑弥呼を女王に共立したとしていますが、ムナカタ海人族の姫巫女が伝える太陽神の神託を受けて政治を行うことを条件で倭国側についたと考えています。それによって、倭国で盛行していた甕棺が姿を消すことになったと思います。つまり倭国もかなり譲歩した模様です。旧奴国王族に半島南部の鉄素材を渡さないで衰退させる倭国王難升米の戦略だったと考えています。難升米は、107年に後漢に朝貢した師升王の一族で、孟子も読みシナ語も話せた教養人の模様です(【わかった!】室見川銘板のなぞ)。

狗古智卑狗は、先代が戦死した三世紀初頭に十歳前後だったとすると、247年3月24日の日食で卑弥呼が殺され、大国主として倭国を支配するのは六十歳前後になります。孫のような年代の若い台与と結婚して国造りをしましたが、約二十年後(270年頃)には第三次倭国大乱でヤマト勢に殺されます。八十歳前後ということです。台与は三十歳前後で神功皇后のように武器を取って奮戦して亡くなったと考えています。平原王墓の木棺の上に置かれた素環頭大刀がそれを示しています。二人の年の差が五十歳もあったので、世間では台与を可哀想な女性として、羽衣を奪われた天女の伝承や、籠(カゴ)の中に閉じ込められた鳥(鳥の格好をした羽振り・祝女)は一体いつになったら出られるのやらと嘆くカゴメ歌となって現代まで伝えられているのだと思いますよ(#^.^#)。

【参考記事】
狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆
大国主はトビヘビだった(^◇^)(閲覧注意(*^▽^*)
箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?(*^^)v
悲劇の女王台与のはなし(その1)(その2)(その3)(その4)




【付録】
「宮崎正弘の国際情勢解題」令和五年(2023)2月2日(木曜日)通算第7616号
  
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 古代日本で暗殺は日常茶飯の政治だった
  天皇を暗殺しても平然としていた蘇我氏の言動はまさにユダヤ的なのである

   ♪
田中英道『聖徳太子は暗殺された』(育鵬社)
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 衝撃のタイトル、しかも副題は「ユダヤ系蘇我氏の挫折」である。
 著者の田中氏はこれまでにも『ユダヤ人埴輪があった』『京都はユダヤ人秦氏がつくった』のシリーズがあり、本書は第三弾。 
 聖徳太子とは、そもそも後世に冠せられた聖名であり、初出は『懐風藻』だ。この本邦初の漢詩集の序文に曰く。
 「逮呼聖徳太子。設爵分官。肇制礼儀。然而専崇仏教。末煌篇章」。
 『懐風藻』は天平勝宝3年(751)に編纂され、撰者は淡海三船などの名前が挙がっている。三船はそれまでの歴代天皇のなまえを、たとえばカムヤマトイワレビコを神武天皇に、ハツクニシラスミマキイリビコイニエを崇神天皇と諱したように、すべて唐風の名前にして国風文化を軽んじた学者である。
聖徳太子の死から129年後の命名である。現代から129年前といえば、1894年(明治27年)、ちょうど日清戦争が開始された時代を振り返るような、歴史が濾過され、往時の出来事はやや美化され、追憶的な回想風になったときである。
したがって聖者を意味する聖徳太子の名付け方には、それまで日本に入っていたキリスト教ネトリウス派「景教」の影響が見られるという。ネトリウス派は東シリア教会ともいわれ、唐代に中国へ伝わったが、唐末に弾圧され消滅した。日本に、この景教がどのように侵入したかは詳細が不明である。田中氏は、蘇我氏がネトリウス派の信者ではなかったのかと言うのである。しかも聖徳太子の子孫たちをネトリウス派信者にしようとし、その陰謀が発覚したため山背大兄王は自殺に追い込まれ一族25名が殺されたのだとする。
 聖徳太子の本名は厩戸皇子でもない。
厩戸皇子なるはフランクフルト学派が戦後、それも1950年代になって命名した適当な解釈であり、イエス・キリストが馬小屋で産まれたことと関連づける作為がある。
 『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」とされ、『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされている。ほかに用明天皇紀では「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」という表記がある。つまり通称は「上宮」だった。
聖徳太子が一度に十人の言い分を聞き分けたという伝説は「豊耳」でわかるが、多くの方言や漢語発音を聞き分ける能力があったという意味だろう。 

さて暗殺されたという証拠は何か?
前提として蘇我氏の粗暴な振る舞いが例証される。蘇我馬子は自分の言うことを聞かなくなった崇峻天皇が邪魔となって、帰化人をそそのかして暗殺させ、その下手人も殺した。仏教に反対した物部守屋一族を葬った。
この「帰化人」なるは常識的には朝鮮半島かシナ大陸から渡来した外国人と認識されるが、田中氏は「蘇我氏はユダヤ系だった」と推定する。しかも蘇我馬子はネトリウス派の信者で聖母マリアは信じない、磔刑のキリストの蘇生があると考える人物だったとする。
歴史家でここまで断定的に言った人はいない。 
明治時代の歴史家・久米邦武が「記紀編纂時、すでに中国に伝来していた福音書の内容などが日本に伝わり、そのなかからイエスキリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」云々とした。久米は岩倉使節団に加わり旅行記をまとめ、晩年は早稲田大学教授を務めた人物。
聖徳太子の入滅後二十年間に山背大兄王子らが殺害され、秦河勝は奈良を脱出して明石へ逃げた。『日本書紀』は、秦河勝の先祖は4世紀頃に百済を経由して日本へ帰化した有力氏族の長、弓月君の直系子孫としている。秦河勝は聖徳太子に協力して国造りに貢献し、朝廷の財政に関わって四天王寺の建立や運営を賄った。
その後、秦氏は蘇我と敵対した。
蘇我氏の崇仏は政治手段であり、純粋な信仰でなく偽善である。
日本の史書は蘇我を伝説上の武内宿祢の末裔としてきたが、おそらく襲名したユダヤ系ではなかったのかとするのが本書だ。
武内宿祢は一節に360歳(『因幡国風土記』)、或いは295歳(『公卿輔任』)、或いは280歳(『水鏡』)とノアの850歳には及ばないまでも信じられない長寿だった。『古事記』は竹内宿祢が巨勢、蘇我、平群、紀など27氏の祖としており、忠臣の代名詞を襲名していたのかもしれない。
神功皇后の三韓征伐に武内宿祢が主要な役を果たした。たぶん応神天皇の父親だろうと田中氏は推測している(34p)が、この点は評者も同意見だ。そして遠征中に戦陣で急死した仲哀天皇は「謀殺と考えられます」という。
聖徳太子は飛鳥を離れ斑鳩に法隆寺を建立する。これは何を意味するかと考えると、聖徳太子は保護を受けた蘇我氏から離れようとしていたのである。
聖徳太子は「和の精神」を説いた。仏教を崇拝するが、古来からの日本の神道を敬えとしており、神仏混合の基礎を培った。しかし神道派の物部氏を殲滅するなどの暴力路線の蘇我氏としては『和の精神』など屁とも思わない覇権主義丸出しだった。蘇我氏は日本人ではない、まさにユダヤ人的なのである。
こういう危険人物をのさばらせては国が滅びるという危機意識から中大兄皇子は立ち上がった。乙巳の変で蘇我氏は誅せられた。
田中氏はこの乙巳の変という軍事クーデターが成功していなければ、日本にキリスト教が這入り込んで「日本は独自の文化が育まれず、西洋のような国」とされ、「ユダヤ人たちに支配され、ユダヤ人と同じ神を拝むようになっていた」かもしれないとして乙巳の変を評価する。
その後の壬申の乱に勝利した天武天皇の国風政治が始まる。
天武天皇は遣唐使を中断し、古事記と日本書紀の編纂を命じ、日本統一を前進させた。だが中臣鎌足を祖とする藤原一族の興隆があり、藤原南家は蘇我氏と変わらない陰謀と暗殺で政治を壟断し、陰謀と殺戮に明け暮れ、藤原仲麻呂がうたれてようやく政権が藤原北家の摂関政治に移行した。
ようやくにして日本に泰平の世が訪れ、恋の歌にうつつを抜かし風流を愛でるゆとりが産まれた。藤原北家の摂関政治時代、殺戮劇もなければ、驚く勿れ死刑のない平和国家を実現させていた。
さて本書の主題は「聖徳太子が暗殺された」とする謎の組み立てにあるが、それは松本清張なんぞの推理小説よりはるかに面白いので、本書を読むお楽しみ。

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