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刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

尾張氏は日本建国のキーパーソン!( ^)o(^ )

2024-07-29 21:23:11 | 古代史
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とてもいい解説の動画が出ましたので、早速コメントしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)



また、いいところに目をつけましたね!尾張氏の乎止与命と建稲種命は日本建国のキーパーソンです(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)」参照)。

日本書紀が天皇の歴史書だと思わされてきましたが、これは8世紀に日本神話を含めて、藤原氏にとって不都合な史実を隠すために作られた勝者の歴史書だと分かれば、何を隠したかったのかは、日本書紀の中にヒントもあります。
先に完成したとされる古事記は実は9世紀に突然表に出てきたものです。日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露するための暗号書だったのです。詳しくは「刮目天の古代史 卑弥呼と天照大御神が同一人物?」をご参照ください。

記紀をヒントにして、事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって解明できます。事実と食い違うものは捏造なのです。神社伝承はほとんど藤原氏に改ざんされていますので、記紀のストーリーや神社伝承に基づく仮説は事実と一致しません。

謎の古代史を解明するには、「日本が古(いにしえの)の倭の奴国」という事実から出発する必要があります。すべて事実と考えられる物証と裏付ける伝承から仮説を作り、さらに事実で検証し続けるアブダクションという科学的な推論法に従う必要があります。考え方の詳細はまず「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。どうも、お邪魔しました(;^ω^)


日本の建国において果たした尾張王の役割について推理した仮説の概略を以下に述べます(;^ω^)

玄界灘を活動域とするムナカタ海人族の赤坂比古(卑弥呼の父、和邇氏)が狗奴国を裏切って倭国王難升米側についたために、狗奴国勢に半島の鉄が供給されなくなりました。吉備のニギハヤヒ大王の子孫の狗奴国卑弥弓呼大王(記紀の開化・崇神天皇)は各地の旧奴国(狗奴国)勢を纏向遺跡に呼び寄せ、連日祈祷を行い、倭国追討の作戦を練りました。

纏向遺跡に集まった中で一番の有力者は、東海を支配する尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)と推理しました。纏向遺跡の外来土器のほぼ半数が東海のものなのです。尾張王は狗奴国大王と同じニギハヤヒの子孫ですので記紀では仲哀天皇とされ、ヤマト王権に背いた熊襲を征伐するために九州征伐する話にされました。

史実は、下の図に示す尾張王乎止与命が倭国を掃討する狗奴国軍の大将として出陣しました。副将は倭国大乱で難升米に急襲されて戦死した英雄の狗古智卑狗(久々遅彦は豊岡市久久比神社祭神、木霊イタケルの子孫の出雲・丹波王で、代々ニギハヤヒの子孫の狗奴国大王の臣下(官)として仕えたので、記紀で武内宿禰とされた日高彦)の子大国主久々遅彦(日高彦の子高野御子)が副将として倭国掃討軍に参加しました。尾張王と近江・越を根拠地とするムナカタ海人族(息長氏の祖)は深い親交があったので、息長宿禰王の姫巫女台与が仲哀天皇の皇后とされています。初期の前方後方墳の祭祀様式を両者が共有しているので強いつながりがあったと分かります(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その2)」参照)。

【卑弥呼の死の直前の状況】


247年3月24日の日没直前に北部九州で日食がありました。狗奴国軍の動きを知った伊都国に居た倭国王難升米は、太陽が欠けながら海に沈む珍しい現象を目撃し(日没帯食)、不吉な予兆と考えたようです。太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎だったために日食が起こったと考え、卑弥呼を暗殺しました。

その直後に狗奴国軍が到着すると、卑弥呼の死を知った弟赤坂比古(父は234年に洛陽への朝貢の直前に死亡した大夫伊聲耆と推理した、安心院町宮ノ原遺跡奥城古墳に葬られた、記紀の日触使主)はかつての仲間だった狗奴国勢への戦意を喪失しましたので、倭国王は金印を持って半島に逃亡したと考えられます。

無傷で倭国を手に入れた尾張王乎止与命は、丁度、魏少帝の詔勅と黄憧を難升米に渡すために倭国に到着していた張政の進言に従って、狗奴国王を裏切り、倭国王に立ちます。それに不服な副将の久々遅彦と内戦になり、赤坂比古が久々遅彦に加勢して尾張王を討ちました。九州最古級の前方後方墳赤坂古墳(鳥栖市)に埋葬されたと推理しました。記紀では仲哀天皇が大神の神託を信じなかったので突然崩御したということになっています。

千人が死ぬ戦いに勝利した久々遅彦は、狗奴国の有力者を討ってしまったので狗奴国大王の処分を怖れました。久々遅彦は張政の進言を受け入れて、卑弥呼の宗女台与を13歳で外交上女王に立て、魏を後ろ盾にして狗奴国を裏切り対立しました。日本海沿岸や関東などの勢力も久々遅彦の傘下に加わり、久々遅彦は列島の大半を手に入れたので、記紀神話で大国主命と呼ばれます。



大国主の倭国の成立によって狗奴国は滅亡寸前となります。尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、記紀の景行天皇)は父の敵討ちで九州遠征を行い、苦戦の末に油断していた大国主らを討ち取ることに成功しました。記紀の景行天皇の九州遠征の話として詳しく語られています(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」参照)。

建稲種命は九州遠征からヤマトに凱旋すると、崇神天皇から直ぐに大国主傘下の地方を討つ命令を受け、東海道遠征の途中で戦死しました(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。子の尾綱根命が父の跡を継ぎ、物部氏の祖先と共に各地を遠征し日本を統一したと推理しています。記紀の崇神天皇の四道将軍の話になっています(詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。また神代の大国主の国譲り神話にもなっています。タケミカズチが建稲種命で、フツヌシは物部氏の祖神です。タケイカズチの父がイザナミの生んだ火の神カグツチです。そのためにイザナミが死んだので怒ったイザナギに斬られます。つまり十七代奴国王伊弉諾尊の子孫の大国主久々遅彦に討たれた尾張王乎止与命がカグツチということです。愛知県で最も多く見られる秋葉神社の祭神ですから尾張王乎止与命を祀っていたのですよ(^_-)-☆

その後、280年に狗奴国の後ろ盾だったと推理した呉が西晋に滅ぼされたので、倭国を討った仕返しで西晋に追討されることを怖れた卑弥弓呼大王(崇神天皇)が大国主久々遅彦と台与(記紀の神功皇后のモデル)の子を探し出してヤマトの祭祀王にします。纏向遺跡の狗奴国を邪馬台国の後継国ということにしてヤマトと呼んだと推理しました。記紀の崇神天皇紀の大田田根子の話です(^_-)-☆

このように、尾張王建稲種命の活躍が無ければ、その後の日本の歴史は大きく違ったものになったことでしょう。折角の日本建国の父の活躍もその史実が不都合だった藤原不比等によって抹殺されてしまいましたが、考古学や民俗学などの成果から推理して、再び史実が表に出てきたわけです。そして建国時代の大国主系の氏族とニギハヤヒ系の氏族の確執が尾を引いて悲劇が七世紀まで繰り返されます。その歴史を考えると、やはり、尾張王乎止与命が魏使張政の甘い言葉に乗ってしまったのが大失敗だったと思いますね(;´Д`)




【関連記事】
邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆
卑弥呼がなぜ宇佐に居たのかを考古学や民俗学などの成果から推理しました(^_-)-☆


最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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