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空白の世紀と倭の五王の謎?(その3)

2024-07-13 20:47:19 | 古代史
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#2022-12-05 01:38:33に記事にしましたが、安康天皇の崩御年を絞ることができましたので、本文の説明文②、③、⑦およびを変更します。合わせて図「応神天皇から倭の五王までの系図(推定)」と「初代天皇から倭の五王までの天皇(推定)」を改訂し、(注2)に加筆します。大きな変更ではありません。よろしければ、またお付き合いください。お気づきのことがありましたら遠慮なく、ご一報ください。よろしくお願いいたします(;^ω^)

さて、前回、倭の五王の最初の讃とした履中天皇(去来穂別)の話の中で、その前の仁徳天皇崩御後に実は後の皇后で和邇氏の八田皇女が生んだ住吉仲皇子が履中よりも26歳年上なので先に即位した可能性を示しました。そして去来穂別(履中天皇)が弟の瑞歯別(反正天皇)と組んで住吉仲皇子を暗殺し、去来穂別が皇位を奪ったと推理しました。今回は、その続きです。例によって煩雑な計算を数多くしなければならないので、あらかじめ応神天皇から雄略天皇までの推理した結果を図示します。本文の説明とこの図を参照・確認しながらお付き合いください。疑問点や誤りを見つけられたらコメントをお願いします。読者参加型ブログですので遠慮なくお願いいたします(#^.^#)

(左クリックで拡大)

 
ということで、図中に示した緑色の番号に沿って説明します。

履中天皇の崩御年432年に反正天皇が即位しました。

反正天皇は丁丑年437年7月に60歳で崩御したとあります。だとすれば生まれ年は378年となります。父仁徳天皇が377年83歳で崩御と推理しましたから、反正天皇の生れ年はあり得ない話とまでは言えないですが、このような高齢の父ですから、とても信じられない話です。
wiki「反正天皇」によれば、「淡路宮(不詳、淡路島?)で生まれ容姿美麗であった。生まれながらにして綺麗な歯並びであったので「瑞歯別」の名があるという。『古事記』によれば身長は9尺2寸半(約3.04m)、水歯別命の名は歯の長さが1寸広さ(厚さ)は2分(4ミリ)で上下等しく整っており、歯を褒め称えて「水歯」と名付けられたことによる。」とあり、古事記では、いかにも架空の人物のような印象を与えています。

しかし、履中天皇が崩御した後の438年に南宋に朝貢した倭王珍が反正天皇だと考えられますので、実在人物だと考えています。ですから、古事記と水鏡は丁丑年(437年)七月60歳で崩御とあります。崩御前に使者を派遣したとすれば、たとえ現地に到着した使者が崩御の知らせを聞いたとしても、シナ側に伝えることは考えにくいので矛盾はしないので、とりあえず履中崩御の記事は正しいと見ます。(2024.7.13 赤字修正)

允恭天皇は日本書紀では反正天皇崩御から1年後に即位したとありますので、438年になります。(2024.7.13 赤字修正)

古事記によれば允恭天皇は甲午年454年に78歳で崩御ですから、生まれ年は377年という計算になります。反正天皇よりも1歳年上ということになりますから、日本書紀では弟のはずですのでおかしな話です。仁徳天皇の死因は日本書紀でも古事記でも述べておらず、直前の様子も平穏で、何か起こったということはないようですので、仁徳天皇は自然死でいいのだと思います。

しかし、反正天皇の場合と同様に、仁徳天皇がこのような高齢で子を作るのは常識外れですので、允恭天皇の場合、上述のとおり反正天皇(倭王珍)よりも後の443年と451年に朝貢した倭王済と考えていますので、仁徳天皇が允恭天皇の父親でない可能性が高いです。

そうすると、宇治天皇は372年で崩御したと考えていますので、残るは住吉仲皇子です。343年生まれで420年に暗殺されたと推理していますから、35歳の時に允恭天皇が生まれたというのは妥当です。允恭天皇の父親は住吉仲皇子天皇である可能性が高いと思います。

もしもそうだとすると、日本書紀では履中天皇と反正天皇と兄弟とされていますが、この二人が允恭天皇の父住吉仲皇子天皇を暗殺した犯人たちですので恨みがあります。すでに履中天皇は三女神や皇祖神の祟りで亡くなったとありますが、少し不自然な病死のようですから允恭天皇によって毒殺されたのかも知れません。また、理由も書かれず突然崩御した反正天皇も允恭天皇に仇討ちされた可能性があります。このような事件を隠すために日本書紀は履中天皇を長男とし、住吉仲皇子、反正天皇、允恭天皇を兄弟としたのでしょう。

しかし、允恭天皇は439年に即位して、454年に崩御ということですから、何度も書きますが、443年と451年に宋に朝貢した倭王済と考えています。513年ごろ完成したと言われる宋書では反正天皇とした倭王珍と、允恭天皇とした倭王済との関係が切れています。619年に成立した梁書では「晉安帝時有倭王賛 賛死立弟彌 彌死立子濟 濟死立子興 興死立弟武(「晋、安帝の時、倭王賛あり。賛死し弟の弥立つ。弥死し子の済立つ。済死し子の興立つ。興死し弟の武立つ。)」(塚田敬章 梁書倭伝より引用)とあり、済を彌(珍)の子としています。wiki「遣隋使」によると「600年(推古8年) - 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されている。」とあり、梁書では遣隋使による倭国の情報に基づき宋書の系図を書き換えたことは明らかです。しかし、古事記から推定すれば反正(珍・禰)と允恭(済)は親子ではないことは明らかですので、当時の倭国が何らかの政治的理由からそのように間違った情報を伝えたのだと考えられます。その理由は今は分かりませんが、飛鳥時代まで検討していけば分かるかも知れません。上で考察したように、履中・反正に允恭の父住吉が暗殺されたとみているので、ここでは宋書の系図で考えた方がよいと思います。



なお、允恭天皇23年に皇太子にした木梨軽皇子に近親相姦のスキャンダルがありますが、日本書紀が住吉天皇(すみのえてんのう、住吉仲皇子)の即位をカモフラージュするために面白い週刊誌ネタを創作したのだと考えています(注1)。

次の安康天皇は、允恭天皇崩御の454年に即位したと考えられます。この天皇も以下のようなトンデモないスキャンダルがあります。

『日本書紀』巻十三によると、推定454年、安康天皇は大泊瀬皇子(おおはつせ の みこ、のちの雄略天皇)のために大草香皇子(おおくさか の みこ)の妹、草香幡梭姫皇女(『古事記』では若日下王)を妃としようとして、坂本臣の祖先である根使主を派遣し、当時病がちであった大草香皇子は、妹の今後を考え(『古事記』ではこのような勅命もあろうかと思って大切に育てていた、となっている)、「押木玉縵」(おしきのたまかずら)をつけて結納品とした。根使主は玉縵の見事さに魅了され、天皇に差し出さずに着服し、嘘を言って、大草香皇子を死に追いやった[1][2]。『古事記』では、ここまでで話が終わっている。wiki「安康天皇」より)

そして、安康天皇は大草香皇子を暗殺し、その妃の中磯皇女(なかしのひめみこ、生没年不詳)を皇后にしています。そして、大草香皇子との間の子眉輪王に殺されてしまいます。上の話の登場人物の名前がよく似ていて、こんがらがりますから、史実を誤魔化すための作り話だと思います(注2)。つまり、父である允恭天皇がその父住吉仲皇子天皇の仇討ちをした履中・反正天皇の関係者に、安康天皇も暗殺された事件を隠すためのものだと推理しています。

古事記には安康天皇の享年56歳とだけで、崩御年が書かれていないのは不自然ですので、読者に注目してもらうためでしょう。生まれ年を計算できませんので、次の雄略天皇を先に見てからにします。

古事記では雄略天皇は乙巳年489年で享年124歳としていますが、崩御年はそのままで60年戻して64歳が本当の享年だと考えて、出生年を計算すると426年となります。安康天皇の崩御年が書かれていないため雄略天皇の即位年も分からないのですが、安康天皇は462年に倭王「興」として南宋に朝貢したと考えていますので、その年以降に崩御し、雄略天皇が即位したはずです。

兄の安康天皇が462年、56歳で崩御し、その年に雄略天皇が即位したとします。(2024.7.13 赤字修正)

そうすると、安康天皇の生まれ年は407年となります。弟の雄略天皇とは19歳違いということになります。

なお、行田市稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)に辛亥年(471年)7月「獲加多支鹵大王(雄略天皇)が斯鬼(シキ)の宮にある時に作らせたものだと金象嵌されているので、471年7月には即位していたと考えられます。雄略天皇46歳です。その後、478年に倭王「武」が南宋に送った上表文には国内外を征服して高句麗と対立していることを述べて、南宋から倭・新羅・百済など6か国の軍事権(支配権)が認められていますので、471年より前である可能性が高いです。もしも471年に安康天皇が崩御したとすると安康天皇は416年生まれとなり、允恭天皇39歳の子となります。462年崩御ならば、407年生まれとなり、允恭天皇が31歳の時に生まれたことになり、どちらも可能性があります。上表文の内容を考えると、とりあえず、462年頃に安康天皇が崩御して、雄略天皇が即位したと考えておきましょう。(2024.7.13 赤字追加修正)

ということで、一応、このように考えると倭の五王と天皇との関係が図のように矛盾のないものになりました。記紀にない二人の天皇が即位したと分かりました。かなり大胆で強引なやり方とご批判はあるかも知れませんが、何せ、隠された真実を見つけ出すのは簡単ではないということでご理解していただけると有難いです。そしてこのような推理によって、当時の天皇家の内紛の概略が判明しました。



つまり、応神天皇に跡継ぎを作ってもらうために、物部氏や尾張氏の祖とするニギハヤヒ大王系豪族と大国主・台与・卑弥呼を祖とする豪族らの権力争いが根底にあり、それぞれの勢力が立てた大王(天皇)が相手の勢力から力で排除される激しい抗争が繰り広げられたということです。それは、ヤマト建国の過程で起こった裏切りの繰り返しによる確執が原因だったのです。

応神天皇が即位して最初は大きな和で収まったのですが、やはりそれぞれ恨みつらみのある相手ですから、大王を自陣営から出すことによりお互いの派閥の憎しみが拡大して行き、暗殺の悲劇が繰り返されたのだと思います。

倭の五王最後の雄略天皇(武)の時代には厳しい対外環境を乗り切るために内部抗争が頂点にまでエスカレートしてしまったようです。履中天皇の子孫やその取り巻きの豪族や自陣営のライバルまで徹底的に痛めつけたので、ヤマト王権は跡継ぎで苦しむことになったようです。列島内で鉄の精錬ができるようになった6世紀までは、半島の鉄資源を確保することがヤマト政権の最重要の課題だったようです。そのために、シナの王朝の後ろ盾を得て対外的な地位を高めようと朝貢したわけです。

特にこの時代は、外戚の和邇氏が、半島の鉄鋌を供給する海運技術もあり、王権内で有力となって権力を握ったので、列島各地に展開したようです。北部九州のゆかりの地にも展開し、宗像の沖ノ島祭祀も宇治天皇が始めたと考えられます。尾張にも進出して尾張氏を衰退させたようです。これについては以前に述べましたので、「抹殺された尾張氏の謎(その1)から(その3)をご参照ください。

今回の検討で今後の見通しが見えてきましたので、また調査して記事にしていきたいと思います。読みにくい文章を最後までお付き合い有難うございました。また、何か情報やご意見がございましたらお教えください。よろしくお願いいたします。

(注1)wiki「木梨軽皇子」によれば以下のとおりです。
『古事記』によれば、允恭23年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したといわれる(衣通姫伝説)。また『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとある。

衣通姫伝説(そとおりひめでんせつ)に以下のような説が紹介されていました。
この物語についての解釈として、木梨軽皇子が罪に問われた理由は、近親相姦の罪ではなく衣通姫の公的な巫女としての要件である処女性を喪失させた事に対するものだ、とする説や、本来であれば皇位継承権を持っていた木梨軽皇子が、権力争いの末に穴穂皇子に敗れ、皇位継承から排除された事件を語ったストーリーに尾鰭がついたものである、とする説などがある。

神の妻である巫女を犯すのはより重大な罪というのは納得できます。しかし、前回も見ましたが、どうも藤原不比等やその子孫は天皇家を貶めたいようなので様々なスキャンダルを天皇の正史に盛り込んでいます。ですから 権力争いの話を隠して、話を面白くするために創作されて、伝説となったという説は説得力がありますね。

(注2)この話も、とても不自然です。しかも、大草香皇子の母日向髪長媛(日向諸県君牛諸井の女)は応神天皇が美人ということで呼び寄せたのですが、仁徳天皇が希望したので差し出したとあります。妹の名前が草香幡梭 姫皇女(くさかのはたびひめ の ひめみこ、生没年不詳)ですが、安康天皇が奪った大草香皇子の妃の中磯皇女(なかしのひめみこ、生没年不詳)の母の名が草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ、生没年不詳)ですからなんかおかしいと思ったら、その母が応神天皇の妃で日向泉長媛ということで日向髪長媛と一字違いです。それぞれの娘も姫の一字が入るか入らないかですから、最初勘違いしてこんがらがりました。日向泉長媛の父の名も分かりませんから、これらも作り話でしょう。安康天皇が眉輪王か誰か、履中・反正天皇の関係者に暗殺されたことを示唆していますよ(^_-)-☆。
さらにおかしな点は、日本書紀では眉輪王が允恭天皇39年に生まれたことになっていますが、允恭天皇は438年に即位し、454年に崩御したはずですので、允恭天皇16年に崩御となり、矛盾します。(2024.7.13 赤字追加)


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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