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卑弥呼の墓はどこ?(続報)

2024-07-16 00:08:29 | 古代史
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昨日の私のコメントにまたUp主様から返事をいただきました。とても良い議論になりましたので、記事にしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

用例:
三國志卷三/魏書三/明帝紀第三
詔青兗幽冀四州大作海船。
詔して青・兗・幽・冀の四州に大いに海船を作らす。

勅命で青・兗・幽・冀の四州に沢山の海船を作らせた。


@user-jh1or4lj1x あなたのその訳は、前後の状況から間違っていないと思います。しかし「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」と冢の大きさを示しているのですから、卑弥呼はすでに死んでいて、径百余歩の大きな塚を作った」という訳が上で述べた理由から、正解だと思います。この訳が正しいことは魏志倭人伝の卑弥呼の墓と一致する「三柱山古墳」が見つかっていることから分かります。訓詁学はいい面もありますが、固定的に考えると誤ることもありますね(;^ω^)

訓詁学???
用例を無視して勝手な解釈をするから、邪馬壱国が日本中に何処にでも存在することになる。


だから常に間違いとは言っていませんよ(@_@)。

書かれたものの真偽は、物証で検証するのが科学的ということなのです(#^.^#)。

卑弥呼の墓の場合、何故「塚をたくさん作った」が間違いなのかをもう少し捕捉します。この場合、奴婢の墓まで言及する理由がないからです。倭女王卑弥呼の墓の説明なのです。もしも墓域に奴婢が葬られていても、墓域の大きさまで説明する必要はないので、「径百余歩」は女王卑弥呼の塚の大きさだと分かるのです。つまり直径約150mの円墳が卑弥呼の墓ということになります。その中に奴婢が入っていようがいまいがです。径には「さしわたし」という意味があっても、冢(ちょう)は土で覆った塚のことで、径百余歩とあれば円形の塚のサイズですから直径のことですね。もしも長方形の墓ならば、縦・横のサイズを書くか、正方形ならば方百歩と書くはずでしょう(^_-)-☆

そして、重要なのは、何度も言いますが、魏志倭人伝の卑弥呼の墓にピッタリの三柱山古墳があり、その周囲に様々な卑弥呼の関連物や伝承があるからなのですよ。(^_-)-☆

だから、他に卑弥呼の墓の有望な候補はあるのですかと最初にお聞きしたのですよ。あれば、比較検討すれば、どちらが有望か分かりますから(;^ω^)

それから、書かれたものと事実(考古学や民俗学などの成果)に違いが存在する場合は事実に従うべきです。文書は政治的な目的で真実が書かれていない場合もありますから。

こういう科学的なセンスがないと、問題は解決できませんよ(;^ω^)

【関連記事】
古代史解明の科学的方法とは?

漢字の用例を無視するどころか、北部九州の倭国の人々が行き来した痕跡のないにもかかわらず、事実(考古学や民俗学などの成果)も無視する説(纏向遺跡や阿波など)には魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓はありませんよ!日本書紀が創作した箸墓の伝承の大国主の妻「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)」は女王台与がモデルですし、日本書紀が創作した女神アマテラスも実在人物の卑弥呼ではないのですよ。すべて日本書紀の作り話なのですから(^_-)-☆

また、訓詁学が間違うのは、陳寿が直接自分の目で見て書いていない部分があるからでしょう(^_-)-☆

つまり卑弥呼の墓の記事は魏使張政の報告書に基づいて書いているのです。張政は中々切れ者です。卑弥呼の死後の二度の命の危機を上手に立ち回っており、二十年ほど大国主の倭国の外交顧問として活躍し、女王台与の266年の西晋への朝貢の際に帯方郡へ帰還して、最後は下級役人から帯方郡太守にまで出世した人物だと推理しています(詳細は「【検証23】魏使張政って?」参照)。

多分、張政は卑弥呼の墓を見ていたと思います。張政の進言によって、13歳の台与を外交上女王に立てた、卑弥呼の死後の内戦に勝利した人物(大国主久々遅彦)が卑弥呼の弔問に訪れ、張政も同行したと推理しています。でも、行程記事はすでに逃亡した倭国王難升米が、景初三年(239年)六月に司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と面会した際に談合して作ったものです。だから、張政が真の行程を知っていても、政治的なセンスがあるので司馬懿の顔を潰すような真実を公式の報告書に載せるはずありません。だから出世したと考えられます。

「水」という漢字は史記・漢書・三国志の用例から河川(リバー)であるので、魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事の「水行」は河川を航行するとされています(中島信文「古代中国漢字が解く 日本古代史の虚偽と真実」(本の研究社 2019、pp.29-32)。

四書五経などに通じた西晋の史官陳寿はその用例に従って厳密に漢字を使用していたのは確かだと思われますが、行程記事を書いたのは陳寿ではないのです。倭国王難升米が司馬懿の功績を魏第一等のものにするために、卑弥呼が居た宇佐市安心院町三女神社への実際の行程から創作したのが分かりました(詳細は「「魏志倭人伝」の真相とは?」参照)。

つまり、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への行程記事が真実でないことが、考古学や民俗学などの成果から邪馬台国の場所を推理して分かったのです。

具体的に言うと、不弥国(うみこく)の新宮町から「南至投馬國水行二十日(南に水行二十日で投馬国に至る)」とあるのですが、福間までは海岸を航行しています。そして投馬国の西端の遠賀川中流にある中間で一泊して、翌日船越で金山川に乗り換えて一気に下ると海(洞海湾)に出ます。そこから投馬国の拠点集落のあるみやこ町遺跡群へは関門海峡を通過すれば海岸線を航行します。潮流によっては紫川を少し遡り、城野遺跡から竹馬川を下って周防灘に出て海岸線を行くことになります。二日の行程を10倍に膨らませて水行二十日にしています。さらに邪馬台国へは海岸線を航行して中津を経由して宇佐市に入りますので、そこまで1日の行程ですが、水行十日としています。つまり邪馬台国まで河川を航行したことにしているのは政治的な理由からですので真実ではないのです。つまり、九州に上陸してから河川航行だけでは実際の邪馬台国へは到達できないのです。

魏志倭人伝に記載された内容がすべて真実ではないのです。

このことを認めない多くの研究者は水行三十日・陸行一月の解釈をいろいろと発明しますが、邪馬台国にはたどり着けないのです(#^.^#)

投馬国へ水行してみませんか?



【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆
初めての方はここに基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!


最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

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