行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

母の記憶と「ポスト真実」の時代

2018-02-08 11:07:55 | 日記
今日8日は旧暦の「小年」に当たる。16日の春節を前に、みなが年越しの準備を始める。いくら伝統行事が廃れ、花火や爆竹の禁止まで徹底されてきたとはいっても、中国人が一年で最もワクワクする時だ。気の早い人たちは早速、微信(ウィー・チャット)で新年の繰り上げあいさつを送ってくる。

大学はすでに春節をはさんだ冬休みに入り、1月末に一時帰国をした。帰宅をした数日後、末期がんを患い、自宅で終末ケアを受けていた父親が他界した。私を待っていたかのような最期だった。余命がそう長くないことを医師から告げられ、昨年十二月に急きょ帰国したが、その際は家族と居間で鍋を囲む元気があった。



亡くなる前夜、皆既月食の赤い月を見た。中国にいれば吉祥の色だと思えただろうが、胸騒ぎを起こさせる赤だった。と、感じたのは、その時の感覚だと思い込んでいたが、よくよく考えれば後付けの解釈だったかも知れない。人間の回想に、自分の想像が加わることは珍しくない。記憶が事実の再現ではなく、エピソードとして刻まれ、蓄えられ、再構成を経て思い出されることは、心理学の成果としてよく知られている。

通夜を前に葬儀場で、体を清め、白装束に着替える湯灌の儀を行った。映画『おくりびと』で有名になった儀式だ。13年前、母の葬儀も同じ場所だった。父の身体を洗い、ひげをそる場面を見ながら、ふと思い浮かんだ光景がある。

白装束の母が小舟のような容器に乗せられ、気持ちよく湯あみをしている。周囲の照明は暗く、遺体の周囲にろうそくに似せたライトが並んでいる。船出に備えた静かな時間が流れる。はっきりそう記憶していた。だから、煌々とした明かりの下に父の遺体がさらされているのに違和感を覚えた。

「あの、母の時は、確か照明が……」

作業が終わってから、白衣を着た専門業者の男性に尋ねた。以前からやり方は変わっていないと、逆にいぶかしい目で見られ、居合わせた家族も男性と同意見だという視線を送った。私だけが、記憶を勝手に創作していたことになる。

「母を聖化しようという潜在意識が独自の物語を記憶させたに違いない」

少なくとも私の記憶には、今でもその光景がはっきりと刻まれている。私にとって、事実がどうであったかは、もはや重要ではない。母は、柔らかな、暖かい寂光に包まれ、極楽浄土に旅立った。私の心に残っているその物語こそに意味がある。

だが、意識とは何か。意識は存在するのか。存在するとすれば、私のどこで、どのように生まれるのか。いくら脳神経科学や心理学、認知科学が発達し、心のはたらきを解明しようとしてもなお、「意識のハード・プロブレム」と呼ばれる難題が残る。私はとてつもなく壮大な錯覚をしている可能性もあるのだ。こんなことを考えていたら、理性を備えた個人が理想的な社会を築くことを下敷きにしたメディア論が陳腐なものに思えてきた。
 
「ポスト真実(post truth)」の時代と言われる。インターネットに広がるニュースの海の中で、内容の真偽よりも、みなが感覚の刺激を求め、信じたいものを信じるようになる。情報の共有がグローバル化を招くのではなく、差異の強調によって社会が分断化される。2016年、英国で行われたEU離脱国民投票やトランプ大統領を生んだ米大統領選挙で、世論形成の問題点としてしばしば使われるようになった。

この社会心理現象を技術の側面から述べたのがイーライ・パリサーの『フィルター・バブル(The Filter Bubble)』である。インターネットの検索アルゴリズムは、ユーザーの個人情報を分析し(パーソナライゼーション)、欲望を先取りして提供することで、サービスの付加価値を高めると同時に、広範な広告ビジネスを開拓する。

だが、ユーザーはこのフィルターを通じて好みの情報だけを受け取り、特化した価値観の皮膜(バブル)に包まれる。そして本人が意識しないまま、バーチャル空間の中で孤立した状態に置かれる。インターネットは、当初期待されたコミュニケーションの多様性や関連性につながるのではなく、逆に固定化、画一化を生む。そんな悲観論が蔓延している。だが、その議論もまたフィルター・バブルの中で行われているのではないか。ポスト真実が現実ならば、それをめぐる論争も、事実軽視の風潮から完全に自由であることはあり得ない。

芯のない玉ねぎの皮をむき続けるような迷路だ。永遠に答えの見つからない谷底に落ちていくような感覚に呆然となる。

社会心理でも技術論でもない。人の脳と心はもともと、かくも不確かなものなのだ。米国の政治評論家、ウォルター・リップマンは古典的名著『世論(Public Opinion)』の中で、メディアが作る疑似環境の中で、「我々はたいていの場合,見てから定義しないで,定義してから見る」と述べ、ステレオタイプ思考の弊害を指摘した。

だが、メディアや技術に責任をなすりつけたところで、教科書に書いてある通りの答えしか返ってこない。建前論で役に立たない。個別の事案が起きるたび、お決まりの結論を繰り返すだけだ。
リップマンの世論に関する指摘もまた、根源的なのはメディアの影響ではなく、人がもともと備えた脳と心の働きによるものだと考えるべきである。自分と向き合わない限り、永遠に堂々巡りをするしかない。すぐに答えが出るとは思えないが、少なくとも、答えを見つける方向性の正しさは実感できるのではないか。(続)