行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

汕頭に刻まれた日本人の足跡・・・歴史探求は始まったばかり

2016-10-27 20:29:16 | 日記
日本軍が汕頭(スワトウ)を攻略し、占領したのは1939年6月21日だ。現地の人々にとって6月21日は忘れがたい恥辱の日である。日本人は、台湾人を含めすでに600人近くが住んでいたが、汕頭神社ができるのは占領後である。このことは明治以来の軍と国家神道の関係を物語っている。汕頭神社には台湾や福建の神社と同様、台湾に出征し現地で命を落とした皇族の近衛師団長、北白川宮能久(きたしらかわのみや・よしひさ)親王(1847-1895)が祭神として祀られていた。

同神社を紹介した『汕頭経済特区晩報』の記事には、「神社は日本軍が守り、日本人は神社の前を通るたびに立ち止まって拝礼をし、その他の者も強制的に神社に向かってお辞儀をさせられた」との記述がみられる。似たようなことは当時、中国各地で報告されている。

日本人が多かったことを示す写真はほかにもある。


日本尋常高等小学校


日本小学校


日本帝国郵便局


日本人クラブ

これからそれぞれの来歴を調べようと思う。戦争の傷跡をなぞる気の重い作業になるだろう。





だが、歴史を刻み、真実を探求するジャーナリズムを教える以上、避けて通ることのできないテーマである。熱心に地元の資料を集めてくれる学生もいる。年配者からまだ話を聞けるうちに記録しなければならない必要もある。方言を理解するには若い彼ら、彼女たちの助けが必要だ。

不思議なめぐり合わせだが、クラスの学生2人が靖国神社について調べて研究発表したいと申し出てきた。中国の政府見解や官製メディアの報道で、首相や政治家の参拝のたびに取り上げられるものの、実のところ何もわかっていない靖国神社について興味が沸いたのだという。宗教や国籍の違いによる戦死者遺族の異なる感情、公人参拝に対する違憲判決、外交問題、世論調査の変化、さらには死生観を含む文化の違いなどを幅広く説明した。汕頭神社の祭神だった北白川宮能久親王が終戦後、靖国神社に一般人とは別格に祀られている奇縁も紹介した。

目を輝かせて聞く学生に引き付けられるように話し続け、気が付くと2時間以上が経過していた。学生のノートが何ページにもわたってびっしり埋まっていた。いろいろな日本人からも意見を聞きたいということなので、それも手を貸してあげたい。学内にいる唯一の日本人としてできることは何でもしようと思う。こう書いているそばから明日の早朝、もう一度講義をしてほしいと携帯にメッセージが届いた。今晩は早めに休むことにしよう。

汕頭(スワトウ)神社の〝棟上げ記念銅貨〟がオークションに!

2016-10-27 15:01:20 | 日記
かつての絵葉書で日本の在汕頭領事館の写真を見つけた。



国立公文書館アーカイブには、明治37(1905)年6月8日、厦門(アモイ)領事館の分館として設置することを閣議決定した公文書が残されている。4か月前に日露戦争が勃発し、旅順攻略の準備を進めているさなかのことである。その前の日清戦争で台湾を得た日本は、アロー号事件で開港した対岸の汕頭を拠点に日中貿易を拡大させ、現地での鉄道建設に参画するなど、中国南部への経済進出を強めていた。

外務省の「中華民国主要都市在留本邦人人口概計表」によると1937年7月1日現在、汕頭には「内地人123人、朝鮮人1人、台湾人455人」の記載がある。アモイは「内地人203人、朝鮮人41人、台湾人7,408人」、上海は「内地人23,770人、朝鮮人2,227人、台湾人615人」だ。

国立公文書アジア歴史資料センターのサイトには、「汕頭日本居留民会」の項目に以下の解説をつけている。
https://www.jacar.go.jp/glossary/term/0100-0030-0020-0020-0010.html

「汕頭は中国広東省東部の都市で、福州、厦門、広東と並ぶ開港場として、貿易・交通の要であった。日本からも1904年以降、台湾方面からの渡来が増加。汕頭日本居留民会は、汕頭在留の日本人全体の公共事業処理のために設けられた団体で、領事館令により在留邦人全体を組織し、居留民からの課金を諸事業の財源としていた。主要事業は、学校経営、墓地や火葬場の管理等。日中戦争中1938年10月に広東が攻略されて、香港から広東を経由する援蒋ルートが遮断されると、汕頭は国民政府にとって香港に代わる対外補給路なった。また、華僑の主出身地として、汕頭への送金は莫大なものとなり、国民政府の重要な資金源となっていた。そのため1939年6月6日大本営は第21軍と第5艦隊に協同して汕頭を攻略することを命じ、6月21日には陸上部隊は汕頭要衝を占領した」

外務省通商局作成の『汕頭事情』、台湾総督官房調査課発行の『汕頭帝国領事館管内事情』もある。日本にかかわる様々な話が発掘できそうだ。その前に、中国のネットでびっくりするニュースを見つけた。2012年4月26~27日、上海の建国賓館で開かれたオークションで、汕頭神社の上棟記念銅貨が出品されたというのだ。







「汕頭神社 上棟 昭和十七年」の文字が見える。だがこの一件を報じた地元紙「汕頭経済特区晩報」によると、同神社は1941年11月3日、汕頭市政府と外馬路を挟んではす向かいに、旧ドイツ領事館を壊した跡地に建てられた。落成と上棟の時間が前後しているのは不自然だ。銅貨は偽物の可能性もある。この点はさらに検証が必要である。広東にはこのほか広州にも神社があったという。

汕頭神社は戦後、参議会の事務所だったが、共産党政権成立後の1956年から65年まで図書館として使われた。



文化大革命期は紅衛兵の連絡所となり、1977年、図書館が元の場所に戻って来る際、解体され、額や石灯籠などは地下に埋められたという。だが狛犬だけは今でも跡地に残されている。



私がこの地に来た奇縁を感じ始めている。(続)