週末、北京で開かれた『インターネット・ガバナンスにおける国際協力フォーラム』に参加した。会議のタイトルは中国語で『中外互聯網治理論壇』、英語で『First International Collaborative Forum on Internet Governance』。中国社会科学院ジャーナリズム・コミュニケーション研究所と北京師範大学ジャーナリズム・コミュニケーション学院が主催し、海外からの参加をカナダ・トロント大学マクルーハンセンターと米ペンシルバニア大学インターネット政策観察センターが協力するという枠組みだった。
習近平は米国主導のインターネット言論空間に対して各国の平等な主権を主張し、「平和・安全・開放・協力」の原則を打ち出している。参加したわかったのは、その国家戦略を受け、中国の進むべき道を各国との意見交換から探っていくのが主催サイドの意図だったことだ。とは言え、30人の専門家がそれぞれ15-20分、入れ代わり立ち代わりスピーチをするという慌ただしい内容で、十分な交流の場とは言えなかった。まずはこうした場を設けるという初回の試みだったのだろう。以下、感想をいくつか書いてみる。
まず学術研究の場で、政治的利害や経済的利益に直接かかわる「ガバナンス」を議論することの限界があると感じた。中国側の発言は、どうしても習近平構想の延長線上に置かれ、国家主権、安全保障がにじみ出た内容が目立った。一方、海外のスピーカーからは、基本的なインターネトの枠組み作りから監視社会、人民主権など個人に視点を置いたもの、さらには途上国ではネットが反民主的な手段と化している実態などが紹介され、中外の差異が際立った。国家利益を中心に据えた研究と、独立性の高い研究との違いである。
私は、日本メディアで長年記者の経験を積み、現在は中国の大学でジャーナリズムを教える日本人教授というユニークな立場で、「ニュースの信用性と取材行為正当性」のタイトルを選んだ。、国家機密と知る権利の衝突が問題化した事例としては、沖縄返還密約をめぐる日本の西山事件やベトナム戦争時、アメリカで起きたペンタゴンペーパー事件などがある。それぞれの国の文化が色濃く反映されたものであるが、インターネット社会の出現で、スノーデン事件やウィキリークス事件が生まれ、様々な価値概念について国家の壁が取り払われてしまった。
地球規模のルールができないうちに法や道徳を一気に飛び越えるような取材方法が出現した。取材目的の正当性と取材手段の合法性が探すべき限界点が揺らぎ、ニュースの受益者と被害者が時に逆転し、ニュース、メディアそのものの概念があいまいとなった。すでに存在している国家や地域の文化と、仮想社会のインターネットで想定される地球村のルールが衝突している。主権を語り合う以前に、われわれ一人一人が原点に戻って問い直すべきではないか、というのが大意だった。
インターネットは生活の重要な一部分ではあるがすべてではない。人々はむしろ吸い込まれてしまうしかない仮想空間にのみ依存することを回避し、グループのチャット交流や小さなサロン、討論の集会、そうした本来人間がもっていたメディアの原点に回帰しているのではないか。それは私が学生たちと日々接しながら感じていることでもある。都市の高層ビルを横目で見ながら、土地を耕すことに理想を求める若者もいる。彼ら、彼女らはインターネットを活用しながら、その奴隷となることなく、自分の主体性、独立性を保っている。そんな実感を率直に語った。
実は発言の冒頭、こんななぞかけをした。マクルーハンが言ったような地球村(global village)がインターネットで実現されたという議論があるが、ではなぜ我々はインターネット・ガバナンスを語り合うのに、その地球村であるインターネット空間を選ばず、わざわざスモッグの深刻な北京までやってきたのだろう。多額の航空チケット代、ホテル代をかけ、多くのスタッフが手間暇をかけ。それは、お互いが面と向かい、同じ時間と空間を共有しながら語り合うことに意味を見出しているからではないのか。仮想ではないリアルな接触を求めているからではないのか。だとすれば、われわれが語ろうとしているのは「ガバナンス」ではなく、「参与、参画(participation,involvement )」と言うのがふさわしい。
そして、次のように発言を締めくくった。
北京のスモッグは北京だけでは解決できない。河北や山西、内モンゴルの工場やトラックまで視野に入れなければ答えが見つからない。同じようにインターネット社会の問題を解く鍵も、インターネットの仮想空間にはなく、我々が日々生活しているリアルな真実の中にあるのではないか。
20分弱で収めるにはこれが精いっぱいだった。
習近平は米国主導のインターネット言論空間に対して各国の平等な主権を主張し、「平和・安全・開放・協力」の原則を打ち出している。参加したわかったのは、その国家戦略を受け、中国の進むべき道を各国との意見交換から探っていくのが主催サイドの意図だったことだ。とは言え、30人の専門家がそれぞれ15-20分、入れ代わり立ち代わりスピーチをするという慌ただしい内容で、十分な交流の場とは言えなかった。まずはこうした場を設けるという初回の試みだったのだろう。以下、感想をいくつか書いてみる。
まず学術研究の場で、政治的利害や経済的利益に直接かかわる「ガバナンス」を議論することの限界があると感じた。中国側の発言は、どうしても習近平構想の延長線上に置かれ、国家主権、安全保障がにじみ出た内容が目立った。一方、海外のスピーカーからは、基本的なインターネトの枠組み作りから監視社会、人民主権など個人に視点を置いたもの、さらには途上国ではネットが反民主的な手段と化している実態などが紹介され、中外の差異が際立った。国家利益を中心に据えた研究と、独立性の高い研究との違いである。
私は、日本メディアで長年記者の経験を積み、現在は中国の大学でジャーナリズムを教える日本人教授というユニークな立場で、「ニュースの信用性と取材行為正当性」のタイトルを選んだ。、国家機密と知る権利の衝突が問題化した事例としては、沖縄返還密約をめぐる日本の西山事件やベトナム戦争時、アメリカで起きたペンタゴンペーパー事件などがある。それぞれの国の文化が色濃く反映されたものであるが、インターネット社会の出現で、スノーデン事件やウィキリークス事件が生まれ、様々な価値概念について国家の壁が取り払われてしまった。
地球規模のルールができないうちに法や道徳を一気に飛び越えるような取材方法が出現した。取材目的の正当性と取材手段の合法性が探すべき限界点が揺らぎ、ニュースの受益者と被害者が時に逆転し、ニュース、メディアそのものの概念があいまいとなった。すでに存在している国家や地域の文化と、仮想社会のインターネットで想定される地球村のルールが衝突している。主権を語り合う以前に、われわれ一人一人が原点に戻って問い直すべきではないか、というのが大意だった。
インターネットは生活の重要な一部分ではあるがすべてではない。人々はむしろ吸い込まれてしまうしかない仮想空間にのみ依存することを回避し、グループのチャット交流や小さなサロン、討論の集会、そうした本来人間がもっていたメディアの原点に回帰しているのではないか。それは私が学生たちと日々接しながら感じていることでもある。都市の高層ビルを横目で見ながら、土地を耕すことに理想を求める若者もいる。彼ら、彼女らはインターネットを活用しながら、その奴隷となることなく、自分の主体性、独立性を保っている。そんな実感を率直に語った。
実は発言の冒頭、こんななぞかけをした。マクルーハンが言ったような地球村(global village)がインターネットで実現されたという議論があるが、ではなぜ我々はインターネット・ガバナンスを語り合うのに、その地球村であるインターネット空間を選ばず、わざわざスモッグの深刻な北京までやってきたのだろう。多額の航空チケット代、ホテル代をかけ、多くのスタッフが手間暇をかけ。それは、お互いが面と向かい、同じ時間と空間を共有しながら語り合うことに意味を見出しているからではないのか。仮想ではないリアルな接触を求めているからではないのか。だとすれば、われわれが語ろうとしているのは「ガバナンス」ではなく、「参与、参画(participation,involvement )」と言うのがふさわしい。
そして、次のように発言を締めくくった。
北京のスモッグは北京だけでは解決できない。河北や山西、内モンゴルの工場やトラックまで視野に入れなければ答えが見つからない。同じようにインターネット社会の問題を解く鍵も、インターネットの仮想空間にはなく、我々が日々生活しているリアルな真実の中にあるのではないか。
20分弱で収めるにはこれが精いっぱいだった。