鳥の鳴き声で目が覚めた。日は上ったばかり。東の空が燃え始めている。窓を開けるとバウヒニア(洋紫荊)の香りが滑り込む。香港の花になっている南国種だ。コーヒーをいれながら携帯をみると、「新年快楽」のメッセージがたくさん入っている。中国ではこれからやってくる春節と合わせ、計二回、新年のあいさつをすることになるのだ。
昨日は「人生を悲観している」という女子学生と一緒にお茶をし、そのまま彼女の「たった一人の友だち」を呼んで一緒に夕食をとった。彼女が書いた課題論文を読んで、救いを求めているように感じ、私が誘ったのだ。2016年の最後の1日に、先生の時間をとってしまって申し訳ない、と彼女は申し訳なさそうだった。悩みや苦しみを共有することほど大事なことはない、むしろ年の最後の1日を共有できてうれしい、と私は言った。
彼女の話を聞きながら感じたのは、観念に縛られ、その殻に閉じこもり、人との接触を拒み、そしてなによりも、傷つくことを恐れている心だった。「いっそうのこと機械になったほうが気が楽だ」とまでいう。彼女は私に尋ねた。
「先生はなぜ立ち遅れている中国に来たのですか?」
自分の学生時代の話をした。就職を断念し、1人で中国に来て、不安と焦り、そして期待を胸に将来を模索したこと。多くの温かい心に迎えられたこと。困難なときに救われたこと。人との出会いが今の自分を作っていること。彼女が声を低めて言った。
「中国と日本の間には戦争という敏感な問題があるけど、個人としては大した問題じゃないと思っている」
心の垣根に少し隙間ができたように感じた。友だちと合流したあとの彼女は明るい表情に戻っていた。
彼女の友だちは数少ないジャーナリスト志望だ。彼女はそもそもその友だちに強引に誘われて私の授業をとったという。友だちの方は、記者の仕事に情熱と理想を感じている。だが、写真や映像の撮影、文章作成など、記者養成のための技術に偏る授業に疑問を持っていた。私は中国語の原稿作成テクニックを教えることはできないので、ニュースの価値はどこにあるか、社会や世界をどうみるか、インターネット時代のニュース、メディアをどうとらえるか、といった原則論を主柱に据えている。彼女はむしろ、そうした原則論を聞きたかったと言ってくれた。
私は気付かなかったのだが、学内のサイトには学生が教師を論評し、ランク付けするシステムがある。授業の感想を自由に書き込む欄もある。その友だちは私の授業を評して、「記者の長い経験を生かしてメディアの課題を論じ、技術的でない、人文をテーマにした議論を行った」と書き込んだという。
今の学生は功利的だというのがもっぱらの評価だ。単位をとって、就職に役立つ公益活動に参加し、教師に近づいてコネもしっかり利用する。そういう学生も確かにいるが、もがき苦しみながら自分を探そうとし、人生において価値あるものを学びたいと願う学生もいる。若者が本当に求めているのは、自分を支える価値観、信仰なのだ。教師は技術ではなく、思想を語る必要がある。「なぜなのか」「どうしてか」と問いかけ続けることに意味がある。答えそのものではなく、答えを求めようとする営みにこそ価値がある。
食事が終わって、彼女たち2人はダムの方へ行ってもう少し話をすると言って別れた。南国の冬は、夜風もほどよく気持ちよい。
朝、彼女からも携帯に新年のあいさつが届いていた。「今度は私たちが先生を映画に誘ったり、牛鍋をごちそうしたりしますね」。異国で迎える年の初め、「大吉」を引いた気分を味わった。
昨日は「人生を悲観している」という女子学生と一緒にお茶をし、そのまま彼女の「たった一人の友だち」を呼んで一緒に夕食をとった。彼女が書いた課題論文を読んで、救いを求めているように感じ、私が誘ったのだ。2016年の最後の1日に、先生の時間をとってしまって申し訳ない、と彼女は申し訳なさそうだった。悩みや苦しみを共有することほど大事なことはない、むしろ年の最後の1日を共有できてうれしい、と私は言った。
彼女の話を聞きながら感じたのは、観念に縛られ、その殻に閉じこもり、人との接触を拒み、そしてなによりも、傷つくことを恐れている心だった。「いっそうのこと機械になったほうが気が楽だ」とまでいう。彼女は私に尋ねた。
「先生はなぜ立ち遅れている中国に来たのですか?」
自分の学生時代の話をした。就職を断念し、1人で中国に来て、不安と焦り、そして期待を胸に将来を模索したこと。多くの温かい心に迎えられたこと。困難なときに救われたこと。人との出会いが今の自分を作っていること。彼女が声を低めて言った。
「中国と日本の間には戦争という敏感な問題があるけど、個人としては大した問題じゃないと思っている」
心の垣根に少し隙間ができたように感じた。友だちと合流したあとの彼女は明るい表情に戻っていた。
彼女の友だちは数少ないジャーナリスト志望だ。彼女はそもそもその友だちに強引に誘われて私の授業をとったという。友だちの方は、記者の仕事に情熱と理想を感じている。だが、写真や映像の撮影、文章作成など、記者養成のための技術に偏る授業に疑問を持っていた。私は中国語の原稿作成テクニックを教えることはできないので、ニュースの価値はどこにあるか、社会や世界をどうみるか、インターネット時代のニュース、メディアをどうとらえるか、といった原則論を主柱に据えている。彼女はむしろ、そうした原則論を聞きたかったと言ってくれた。
私は気付かなかったのだが、学内のサイトには学生が教師を論評し、ランク付けするシステムがある。授業の感想を自由に書き込む欄もある。その友だちは私の授業を評して、「記者の長い経験を生かしてメディアの課題を論じ、技術的でない、人文をテーマにした議論を行った」と書き込んだという。
今の学生は功利的だというのがもっぱらの評価だ。単位をとって、就職に役立つ公益活動に参加し、教師に近づいてコネもしっかり利用する。そういう学生も確かにいるが、もがき苦しみながら自分を探そうとし、人生において価値あるものを学びたいと願う学生もいる。若者が本当に求めているのは、自分を支える価値観、信仰なのだ。教師は技術ではなく、思想を語る必要がある。「なぜなのか」「どうしてか」と問いかけ続けることに意味がある。答えそのものではなく、答えを求めようとする営みにこそ価値がある。
食事が終わって、彼女たち2人はダムの方へ行ってもう少し話をすると言って別れた。南国の冬は、夜風もほどよく気持ちよい。
朝、彼女からも携帯に新年のあいさつが届いていた。「今度は私たちが先生を映画に誘ったり、牛鍋をごちそうしたりしますね」。異国で迎える年の初め、「大吉」を引いた気分を味わった。
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