行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「変わり身の早い日本」を説明する難しさ

2016-12-30 13:59:08 | 日記
日本はあと二日で新年を迎える。各地で師走の慌ただしい光景が繰り広げられていることだろう。中国の大学は期末テストの真っ最中で、学生たちの表情からも疲労の色がうかがえる。学生たちはこれを乗り切り、晴れて一か月半ほどの春節休み(寒暇)に入る。ほとんどの学生が宿舎を離れ、自宅で年越しを過ごす。学内でクリスマスのデコレーションはほとんど目にしなかった。春節の飾りも見かけない。商売っ気の漂う町中とは全く違った世界がここにある。

試しに日本の正月風景を中国の学生と共有してみた。









一番多かった反応は「かわいい!」だった。これもまた日本文化の影響なのだろうか。


以前、上海や北京で暮らしていて感じたことがある。クリスマスのデコレーションがずっと片付けられず残されて、春節近くなってようやく模様替えされる。だがだれもそんなことは気にしない。クリスマスが終わるとたちどころに年越しの色に塗りつぶされる日本とは大違いだ。変わり身の早さは、日本人の几帳面さ、潔癖さを物語るのか。あるいは激烈な商戦の結果なのか。ひな人形も正月のしめ縄も、1週間を過ぎたらしまうのが習わしだ。吉凶と結びついた時間概念の表れなのか。


授業で何度か「日本人はなんでそんな1日で変わってしまうのか」と質問を受けた。

終戦の玉音放送で日本人が一転して降伏を受け入れ、平和国家、民主国家への道に舵を切ったこと。安保改定に強く反対し、内閣退陣を求めていたメディアが、デモ参加の女子大生が死亡した事件で、政局安定の主張に転じたこと。読売新聞が突然、社説で首相の靖国神社参拝に反対したこと。メディアにかかわる事象を教えるなかで、しばしば「どうして?」と問われた。

変わり身の早さについてはベネディクト『菊と刀』が、「日本人は、考えを変えることを道徳の問題とは思っていない」と指摘している。主義主張のために命まで犠牲にする革命の歴史を教え込まれた中国の学生たちにとって、時流になびく人間はいつの時代にもいるとはいいながら、国民全体が一斉に、いとも簡単に変わる現象はなかなか理解できない。

戦時中、すでに厭戦気分が広がっていたこと。沈黙がらせん状に広がるように、群衆にはそもそも大勢になびきやすい性格があること。権威に付き従いたいという欲求は、人間が本来備えている本性であること・・・わかりにくい日本文化の特殊性ではなく、人間の問題として論じようと試みるが、これでも容易には納得を得られない。中国は文化大革命が終了しても、一気に身をひるがえすことはしなかった。否定すべきものは否定したが、根っこを抜き去ることはしなかった。習近平が訴える「中国の夢」にしてもそうだ。仮想の「中華民族」は数千年にわたる伝統文化を一貫して担い、一つの目標に収れんしていく存在として描かれているのだ。

ある時間と空間を共有し、同じ言語を通じて特定のコミュニケーション様式を共有する人間の集団が、特定の文化的性向を持つことは間違いない。それが集団の行動、あるいは集団構成メンバーの言動に一定の影響力を及ぼすことも想像できる。だがそれが決定的な要因であるかどうかについては、懐疑的だ。全体主義国家といい社会主義国家というが、主義や国家のレベル超えた共通項は発見できる。むしろその共通項に目を配らなければ、われわれは価値あるものを学びえないのではないかと思う。そんなことを考えながら、日々異なる文化の中で暮らしている。気が付けばもう四か月近くになる。





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