行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論㉖】ジャーナリズムと「監獄の誕生」

2016-07-01 00:15:19 | 独立記者論
言論を捨てた新聞が「国民」を代弁した論をなすことの厚顔無恥を指摘したが、実際、多用されるのは「読者」という言葉である。「読者の求めていること」「読者の立場に立って」、編集の現場はとらえずそうした考え方に立っている。だから社会を騒がせる誤報をした時も、「読者のみなさまにご迷惑をおかけしました」というお詫びの表現となる。

清水幾太郎のジャーナリズム論では、ニュースの作り手だけでなく、読者側からの関与を加え、「新聞と読者の腹の探り合い」と呼ぶ。読者もまた「それこそ印刷された言葉の非人間的な権威によって、あらためてこの方向に自分の気持ちを統一するに違いない。彼の内部に沈んでいた一つの観念が新聞の力を媒介として彼の外部へ躍り出で、彼に向って来る訳である」(『ジャーナリズム』)というのだ。

一つ一つの記事を丹念に調べる時間も余裕もない人々、物事を批判的に見る独立した視点を持っていない人々、記者はしばしば「一般読者」と呼ぶのであるが、彼らは右手に新聞を、左手に先入見を持って社会に向き合う。あらかじめ抱いているイメージに合致する事象をなぞるように記事を読む。所与のイメージもしばしば新聞によって作り上げられたものである場合が多い。こうした「腹の探り合い」によって一つの空気が生まれる。

「それは完全に新聞の責任によるものでもなく、また完全に読者の責任によるものでもない。いわば責任の所在の明らかでない思想や観念が生まれて、新聞と読者とを支配するにいたるのである」と清水幾太郎は言う。

思い浮かべたのは、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生―監視と処罰』(田村俶訳、新潮社)の中で取り上げた。ベンサムによって考案された「パノプティコン(一望監視装置)」だ。中央の監視塔を囲む円環状に独房が並び、囚人の動作を絶えず見張ることができる監獄のシステムだ。







独房には外側に窓が設けられ、光が差し込むことによってその中にいる囚人の小さな影がはっきりと見える。逆に囚人たちからは、監視塔内の動きが全くわからないよう窓によろい戸を取り付け、内部は仕切り壁を設け光や音が漏れるのを防ぐ仕掛けがされている。監視は囚人を見ることができるが、囚人は監視を見ることができない。しかも独房は左右を壁で区切られており、他者とも断絶されている。囚人は孤独の中で絶えず見られている受け身の立場に置かれる。フーコーはその効果をこう表現している。

「つまり、権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉じ込められる者に植え付けること」
「この建築装置が、権力の行使者とは独立したある権力関係を創出し維持する機械仕掛になるように、要するに、閉じ込められる者が自らがその維持者たるある権力的状況のなかに組み込まれる」

こうした規律・訓練の申し分ないシステムは、人間と権力との諸関係を規定する一般化可能なモデルとして把握されている。監獄だけでなく、病院や学校においても同様の自覚的な規律・訓練システムが存在している。「新聞と読者の腹の探り合い」に同じ構造を感じ取ったのはそのためだ。

新聞は、いくら記事に匿名を用い、表現をぼかしても、すべてを知っているという「可視性」をもって読者に迫る。読者は記事作成の不透明なプロセスを盲信し、見る立場を放棄して見られるだけの存在に甘んじる。自分の中にある作られたイメージに縛られ、無意識のうちに規律と訓練を受けている。いつの間にか自覚的に新聞の用語や論調を学び、伝えるようになる。

この上に今はインターネット社会が重なっている。状況はさらに複雑だろう。少なくとも可視性、連帯性に大きな変革を加えていることは間違いない。この点については日を改めて考察したい。

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